アートプラス京めぐり

京都の探索、記事数4200 ミニ・テーマで京都をめぐります 随時記事更新中

人物014  畠山勇子

2017年08月30日 15時05分20秒 | 人物数々

 

国憂いはかなく京に散る

時は文明開化。東京・鹿鳴館に上流階級が華麗に集い、欧風文化に酔いしれていた時、京都で一人の名もない女性が一瞬、閃光のようにきらめいて、消えた。

1891年(明治24)5月20日夕。京都府庁前の路上で一人の女性が自害して果てた。所持品、遺書などから東京の27歳のお針子・畠山勇子と判明した。警察の検視の後、上京区役所からの連絡で松原大宮の末慶寺に引き取られ、境内の墓地に手厚く葬られた。当時の住職和田準然師は、行き倒れなどの人たちを自坊に埋葬していて、当寺の過去帳には「上京区役所」の記載が多い。

日本政府やロシア帝国や家族などにあてた遺書10通をしたため、自らの剃刀でのどや腹、心臓を突き刺して自害した女性に何があったのか。事件は9日前にさかのぼる。

大津事件で入洛

5月11日午後。ロマノフ王朝が栄華を極めた時の大国、帝政ロシアのニコライ皇太子が来日、京都や琵琶湖などを見学した後、大津市内で警官津田三郎に切りつけられ負傷した。

この「大津事件」を知った勇子は居ても立ってもおられず、衣類を質に入れて旅費をつくり、京都に滞在中の皇太子一行を追って東京・新橋から単身夜行列車で入洛したのだった。

国を憂い、日露両国の国交悪化を心配したの烈女の自害は、世間に大反響を巻き起こした。当時の日出新聞も連日一面で報じ「美人自殺一見の詳報」として自害の様子を生々しく伝え、ロシア宛の遺書まで紹介している。山陰の松江では市民が同地で教師をしていた小泉八雲に、ロシアに英文で詫びの電報を打つよう依頼するなど、勇子は一躍時代のヒロインになった。勇子は、千葉県・鴨川の資産家に生れたが、父が維新の志士たちを支援して財を無くし早死にする。が、幼少のころ、神職に漢学を習い、歴史や政治に興味を示し新聞を読みあさったという。17歳で結婚するが身持ちの悪い夫に説教して離縁された。その後東京に出て商家に勤め、針子などで生計を立てていた。京都市下京区・松原通大宮を西へ二筋目を下った寺の並ぶ通りの一角に末慶寺がある。「当時、このあたりは一面芹田だった。松原通をはさんで北が京都市、南は葛野郡大内村。市内は火葬、村は土葬だった。運ばれてきた遺体をきれいにふき、血に染まったきものは死体とともに埋葬されましたが、遺品はすべて残されました。」と当寺27代目住職鬼頭誠英さんが遺品を見せてくれた。戦い避けるため 黄楊櫛、かんざし、自刃に使った剃刀、財布、自分のへその緒、写真、帯、そして遺書を書いた残りの鶯色の和紙・・・。「いまの女性以上に女らしく国を思う心に感動する。やっと新しい国のかたちができあつつあった時代。何としても大国との戦争は避けたかったのだろう」と鬼頭さんは話す。同寺には勇子自害の後、小泉八雲やポルトガル領事で日本に滞在したモラエスも足を運び、海外向けエッセーの中で勇敢な日本女性として勇子を取り上げ、日本人の死生観にも触れている。

勇子の故郷・鴨川市の観音寺には「烈女畠山勇子墓」の石碑が建ち、初節句に叔父から贈られたひな人形も保管されている。3年前には百回忌法要と遺品展も開催された。住職の森義賢さんは「先代の父が勇子を研究していたので、子供の頃から知っていたが、京都に出向き遺品に触れ、当時あそこまでやった彼女の行動に、あらためて新鮮なときめきを感じた」と話す。

葬式代まで残し。

早朝、京都駅に着いた勇子は本願寺や清水寺などを回り、知恩院で辞世の歌を詠んだ。夕暮れを待って府庁前に白布を敷き、髪を整え、膝が割れないようにひもで膝をくくっていた。「色白く眉濃く人品よき婦人なり」と当時の新聞は報じている。財布には葬儀代五円も入っていたとも。身を清め、わずか一日の京を見て散った短く、はかない女の命。自らの死で平和を願った勇子の思いをよそに、1904年(明治37)、日露戦争が勃発する。

清楚に掃き清められた末慶寺の墓地に眠る畠山勇子の墓は、ひときわ大きい自然石である。時折訪れる若い旅人に、深い緑色の墓石は何を語りかけているのだろうか。

勇子の生まれ故郷は房総半島太平洋岸に面した千葉県鴨川市。畠山家はすでに絶え、戦時中にJR鴨川駅に近い観音寺境内に勇子の石碑が建てられ「軍国の鏡」としてあがめられたという。百回忌を機に、鴨川市や郷土史研究会など市民の手で「畠山勇子」の検証が行われている。十余の寺が密集する中堂寺西寺町の末慶寺境内墓地の奥にある「烈女畠山勇子墓」は高さ3m、幅1mの緑色の立派な自然石で、当時のヒロインぶりがうかがえる。きれいに保管されているくし、かんざし、帯などの遺品やモラエスの書簡を求めて国内外の研究者がやって来るという。

関連記事 ➡   寺院下0277 末慶寺  浄土宗西山禅林寺派

人物まとめ  ➡  各人物の記事まとめ

 


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人物008  北垣国道

2017年06月21日 08時31分20秒 | 人物数々

 

1  石碑左0073  田辺朔郎紀功碑

2  まち歩き左0246  琵琶湖疏水 公園一帯  

3  まち歩き山0224  諸羽トンネル  船溜まり

4  まち歩き東0194  蹴上インクライン  三十石船

5  まち歩き東0193  ねじりまんぽ  

6  琵琶湖疏水の功労者  北垣国道

7  黒谷 金戒光明寺

8  石碑右0119  治水碑  御室川

 


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人物013  菅原道真 ゆかりの地

2017年06月17日 08時41分10秒 | 人物数々

 

1  寺院東0358  清閑寺 2

2  神社伏0076-2 御香宮神社2  伏見義民  桃山天満宮

3  寺院左0206 満願寺  洛陽12支めぐり・辰 溝口健二碑

4  神社東0072  ゑびす神社

5  神社上0030 菅原院天満宮 道真公が使った産湯の井戸、愛用の燈籠 内容追加

6  神社下0035  火除天満宮

7  錦天満宮

8  曼殊院

9  石鳥居・火尊天   火尊天満宮  小さな祠

10 御室仁和寺の水掛不動は一条戻橋から持ってこられ菅公腰掛石の上に祀られています

11 醍醐天皇 後山科陵

12 紅梅殿・・「東風吹かば ・・・・」 菅原道真です

13 道祖神社  末社に 洛陽25社 書聖天満宮 の遺蹟

14 北野会の石碑  大鳥居建立の石碑

15 西蓮寺  浄土宗

16 安楽寺天満宮

17 神社上0036  大将軍八神社 都を守る 西の要所

18 神社下0027  文子天満宮 天神信仰発祥の神社

19 神社下0023 菅大臣神社

  .......

 まだまだあるようです


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人物011  坂本 龍馬

2017年02月01日 20時10分58秒 | 人物数々

 

坂本龍馬             天保6年(1935)11月15日 生まれ

1  坂本龍馬・中岡慎太郎 遭難之地(近江屋跡)   慶応3年(1867)11月15日

2  石碑 坂本龍馬妻お龍の実家 楢崎家跡

3   石碑  幕末史蹟・土佐藩士寓居跡 龍馬・お龍も暮したところ、

4  坂本龍馬とお龍が結婚式を挙げた場所

5  武信稲荷神社 坂本龍馬も登場

6  佐藤継・忠信塚碑,佐藤嗣信・忠信墓,佐藤文褒翁碑

7  石碑中0019-12 日本近代医学発祥の地 かつ 平野國臣外数十名終焉の地(六角獄舎跡)

8  まち歩き東0372  龍馬展

9  史跡伏019  寺田屋 坂本龍馬ゆかりの宿

10 石碑伏0097   坂本龍馬 避難の材木小屋跡

 


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人物010 角倉了以

2017年01月03日 06時29分49秒 | 人物数々

 

ゆかりの地 

1  まち歩き伏0331  伏見 京橋 鳥羽伏見の戦 激戦地

2  まち歩き下0144  高瀬川  塩小路通

3  寺院中0018  瑞泉寺  関白秀次を弔う

4  高瀬川 船廻し場  高瀬川を静かに味わうなら このあたりです

5  町名看板  1枚 仁丹です  直接は関連ないのだが、トピックスで関連

6  洛西用水竣工記念碑

7  角倉了以邸跡

8  高瀬川一之船入り

9  神社右0019 角倉稲荷神社  ・・この地域にふさわしい名だ 角倉

10  石碑伏0096  角倉了以翁水利紀功碑 

11

 

 

川柳                                        

自己新を出し続けているこの寿命 /おさだ

 

ことわざ

阿吽の呼吸(あうんのこきゅう)                        

協力して物事にあたるときの、お互いの微妙な呼吸や調子。また、それがぴたりと合うこと。


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人物009  荷田春満

2016年12月15日 09時46分59秒 | 人物数々

 

 

1  史跡伏見018

2   道標

3  道標

 

旧宅・この建物は国の史蹟に指定(大正11年3月8日)された荷田春満の旧宅である。春満は、寛文9年(1669)に稲荷神社(現伏見稲荷大社)祀官荷田姓御殿預(ごてんあずかり)羽倉信詮(はくらのぶあき)の次男として生を受け、広く国学の発展に奔走した。江戸時代中期の国学者「国学四大人」の一人であり、始祖と仰がれている。この旧宅は春満生家の一部で、書院・神事舎・門・塀など旧態を留めている。

 

寛文9年(1669)伏見稲荷社社家の二男として出生。新井白石、荻生徂徠はほぼ同時代の人。29歳から2年間妙法院宮にめしかかえられる。歌道師範としてだともいう。32歳、第1回の江戸行き。14年間いた。45歳でいったん帰郷後、同年再び江戸へ。このころようやく名声四方に及び、各地からの入門者があったほか、越後長岡藩主が招こうとしたが、彼はことわった。54歳。幕府から和学について質問を受け、以後一種の和学顧問となる。またこの年、江戸と京の往来の途次、浜松で賀茂真淵を知る。これより後58歳で病に倒れるまでに「万葉僻案抄」「伊勢物語童子問」などほとんどの主著を著す。65歳、真淵入門する。68歳死去。

 

伏見稲荷大社を訪れると、大きな朱塗りの楼門の脇に堂々たる門構えの、閑静そうな家がある。公家か武家の門かと見まがうほどどっしりした門は、年月が加えた渋い落ち着いた色合いをたたえ、参詣客や鳩の泣き声でにぎわう境内でそこだけがひっそり静まりかえっている。これが国学者荷田春満の旧邸である。江戸遊学後の晩年に建てて住んだものだ。賀茂真淵もここへきて春満から「日本書紀」や「万葉集」のあれこれの伝授を受けたはずである。春満から真淵へとたどれば、いわば伏見稲荷のこの地こそ国学思想の発祥の地ということになる。

荷田春満はおそらく生涯、師というものを持たなかった。ほとんど独立独歩で、当時およそ誰かえりみるものもなかった国学という学問を築き、単身江戸へ乗り込んで、ついには常軍家にもとりたてられるまでに至った。たんなる学者ではなかったというべきであろう。後年、弟子真淵が江戸へ出て盛大な門弟に囲まれ、国学を儒学に対抗する一大学問までに仕上げることができたのは春満とその養子在満の地ならしがあってのことだ。ちなみに彼の肖像は、茫洋とした真淵とは対照的に、武張った気迫にみちた顔つきである。武将の顔といってもよい。新しい学問思想の創始者としてこの顔のとおりに彼は師をも頼まず、独力で生涯を邁進したものに相違ない。

春満は荷田家の悲願が生んだ人物ということができる。彼の家は奈良時代以来、代々伏見稲荷に仕えてきた、といういい伝えをもつ由緒ある神職家である。学問的雰囲気の濃厚な家系で、家には荷田家だけで守り伝えてきた万葉学、日本紀学、国語学とでもいうべきものがあり、加えて歌には特別な誇りがあった。というのは春満から数えて5代前の荷田信次という者が、歌人天皇として著名だった時の後陽成帝、自作の歌百首を添削してもらったことがあった。これが帝じきじきの歌作の指導というわけで、以後荷田家は後陽成帝の弟子を自認して、春満も春満の父も、当時の歌の道を行くなら公家歌人につくのが習いだったものを共に無視して、がんとして弟子入りしなかったほどだ。弟子入りどころか、後陽成院流荷田派とでもいうべき歌風を興す意気でさえあった。

いずれにしても荷田一門の人々は、先祖代々に語り伝えた自家独特の学問、歌を大変誇りにし、これが長い間家伝のみにとどまって世に広く行われないのを実に残念なこととしてきたのである。時に世をあげて儒学と仏教の時代だった。日本の古典はかえりみられず、神官家といえども幕府政策による寺請制度に組み込まれて、もうひとつさえない存在においやられていた。春満を始めとする誇り高い荷田家の人々の間には、彼ら一門の家名がパッとしないのは、こういう時代風潮のせいだという思いは秘かに抑え難いものがあったであろう。春満がのちに儒教に対抗して国学を押し立てる土壌はここに用意されていたのである。

一家の期待は早くから彼の上に集まった。久し振りに現れた荷田家再興のチャンピオンとしう感じがあったようだ。春満全半生の資料はまことに乏しいのだが9歳のとき、ちょっとした歌を詠み、これが家の自慢となって今に伝わっているのをみても、およそのことは知れるのである。「われこそは・・・」

し自負と使命感に燃えていたことは確かである。

かくて32歳で江戸へ出る。稲荷神道と後陽成帝直伝を看板に弟子をとり、出張講義や歌会を精力的に開き、盛んに荷田学を売り出した。無名に加えて、なんのつてもなかっただけに、初め数年は随分苦しい生活を余儀なくされたが、気概はそれをはるかに上回り、のちにはついに名声幕府にも聞こえて、将軍家から国学についての質問を受けたり、国書の鑑定を依頼されるまでになっている。

この間の春満に、市井宣伝家の風貌を見る人もいる。儒学一辺倒の世の中で、人々に国学への関心を呼び覚ますだけでも必要以上の活動を要したのだろう。創始者の余儀ない宿命である。ともあれ、ついに将軍家と接触するに至ったとき、荷田家の喜びたるや大変なもので「実に信盛(春満)秀才之功、一家之面目大慶之至極」「古今未曾有之手柄」で親族一同の歓喜これに過ぎたるものなく、感涙しばしやみ難く、と実弟の日記にみえる調子である。彼に寄せられていた期待のいかに大きかったか、目に浮かぶようだ。

通常、国学の流れは契沖、春満、真淵、宣長とたどられる。契沖は厳密な文献学的方法を古典研究に導入して、むしろ国語学的、歌学的な面における国学の創始者といってよいのに対して、春満はイデオロギー的側面における創始者の役目をはたした。即ち儒教、仏教も結構だが、日本には日本古来の道というものがあるではないか、と強くいい出したのである。

彼の考えを最もよく示すものとして「創学校啓」というのがあるが、この中で彼は「今や儒仏の教えのみ普及して、日本古来の道の教えは忘れさられている。神道和歌を講じる者でさえ考えを儒仏の教えに犯され、古人の真意を伝えていない。このままでは日本古来の道は消えてしまうだろう。」という意味のことを述べている。

ただ彼自身は、ではなにが日本古来の道かということについて、突っ込んだところまで考えなかったようだ。多くの彼の学問は未完で終わったといわれるが、それは力の充実した壮年期に多分に宣伝に力をいれなければならなかったのと、50代半ばになって最終的に稲荷に落ち着き、雑用から解放されていよいよ学の大成を、いうときに病に犯され、68歳で亡くなるまで病がちだったせいでもある。志半ばで倒れる思いはやはりやみ難かったであろう。「見る者はのこり多くも年くれて我よふけゆく窓のともし火」の歌を詠んでいる。しかし彼のまいた種は、真淵に至って見事に実を結ぶのである。

伏見稲荷社に頼んで春満遺邸を上らせてもらった。床の高い清々しいほど簡素な素木造りの書院式住居である。フスマを取り払えば、そのまま家全体が講義室になる。東隣が東丸神社である。春満は学問の神として明治になってまつられた。荷田家の子孫が今も神社を守り、合格祈願の受験生たちが一代の学者春満にあやかって学力向上を一心に祈る姿が見られる。

参考・「京の思想家散歩」

荷田を魅了したのは万葉集であり、日本書紀や伊勢物語であった。こうした古典のなかに民族の血をかいだ荷田は、幕府の朱子学に激しい抵抗を感じたと史家はみる。

荷田の仕事で特筆するのは、古学普及のための倭学校設置運動。これを東山に建設することを訴え陳情書「請創造倭学校啓」を享保13年に幕府を提出している。実を結ばぬまま元文元年(1736)、68歳で亡くなっている。

墓は、自然石の墓石の表面に「荷田羽倉大人之墓」としるされている。在ノ山墓地


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人物008  伊藤若冲 ゆかりの地

2016年12月14日 05時57分20秒 | 人物数々

 

1  ポスター0042  伊藤若冲  京都市美術館  10月4日~12月4日

2  海宝寺  伊藤若冲・伊達政宗・大丸百貨店のゆかりの寺 

3  信行寺  浄土宗  伊藤若冲の天井画 

4  宝蔵寺  浄土宗西山深草派  伊藤若冲の菩提寺 

5  錦市場 西の入口 画家・伊藤若冲の生家

6  石峰寺  まだ

7  相国寺  まだ

 

京都の生んだ江戸中期の画家伊藤若冲の墓は、現在2ケ所ある。1つは若冲が明和3年(1766)11月、51歳のとき相国寺に建てた寿塔で、位牌型の墓石の表面に「斗米庵若冲居士墓」、背面に相国寺の硯学大典禅師の撰文になる銘文が細かくしるされていて、若冲伝の根本資料となっている。

 

若冲は享保元年(1716)中京区錦小路高倉の青物問屋「桝源」こと伊藤源左衛門の長男として生まれた。幼少の頃から画を好み、23歳のとき、父の死によって家業を継いだが、商売は苦手であった。墓碑銘に「ただ画をかくのを好むのみで、他は何もできなかった」とある。それで狩野派の画を学んだが、いくら上達してみても、狩野派の画法を模倣するだけだと考え、宋・元の中国画の模写を試みた。しかし、これも到底手本におよぶべくもなく、昔の人物や遠境の山水もみることができないので、「物」に即して描くのが一番よいと悟った。そこで窓下に数羽の鶏を飼い、その形状を刻明に写生し、のちには草木・鳥獣・魚介の真実を描いた。世人はその妙筆に感服し、作品一点につき米一斗に替えて謝礼としたので、斗米庵と号するに至った。

 

宝暦5年(1755)40歳のとき、家督を次弟白蔵にゆずり、相国寺の大典禅師に帰依し、画業にも専念した。相国寺に若冲の画が多く所蔵されているのは、かかる関係によるもの。

 

中でも「動物綵絵」30幅(国宝)は、報恩のために寺を寄進した若冲傑作の作である。が明治になって寺が疲弊したとき、その再興資金のためにと宮内庁に買い上げられた。天明8年の大火によって家を焼かれ、晩年は深草の石峰寺のそばに隠棲し、寛政12年(1800)9月10日、85歳で没した。遺骸は石峰寺に埋葬され、10月27日相国寺にて法要が営まれた。石峰寺にある墓は、相国寺の墓とほぼ同じであるが、傍らに筆形の石碑があって、江戸末期の儒者貫名海屋撰文の「筆塚」があるのが異なっている。高さ約1.5m、周り87cm、砂岩製。その銘文によれば、石峰寺境内にある石造五百羅漢像は、若冲が下絵を描き、石工に彫らせたが、天保元年(1830)の地震に破損したので、同4年(1833)妻子のなかった若冲の養嗣子の孫清房によって修復されたいきさつをしるしている。

 

 

 人物 ゆかりの地  ➡  各人物の記事まとめ

 


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人物007  山脇東洋

2016年12月07日 21時21分10秒 | 人物数々

 

1  墓がある 寺院中0067  誓願寺  浄土宗西山深草派 

2  山脇東洋解剖碑所在墓地 

3  寺院伏0238  真宗院 浄土宗西山深草派  山脇東洋の墓所

4  日本近代医学発祥の地 かつ 平野國臣外数十名終焉の地(六角獄舎跡)

5  弟子  石碑 名医 吉益東洞 宅蹟

 

山脇東洋

 

東洋が人体解剖を実行したのは宝暦4年(1754)だから「解体新書」の杉田玄白らの解剖に先立つこと17年。もちろん日本最初である。コロンブスの卵を持ち出すまでもなく、何事にしろ世に初めて手がけるということは大変なことだ。しかも東洋がやったのはただの冒険ではない。自分の体でさえ傷つけてはならない。゛身体髪膚これを父母に受く゛の時代に、あえてその精神的タブーに挑戦したのである。解剖報告書「蔵志」(ぞうし)は「刀をすすめ肋間の白膜を決し・・・直骨にあつまるのを截つ」と屍を切り刻む刀の動きを克明に追っている。しかし刀が切ったのは実は屍でなく、医術を暗黒に閉じ込めていた妖怪ではなかったか。そうでなければこのおそろしい大業に挑んだ東洋の勇気は納得しがたい。

 

解剖への意欲のきざしを、東洋は「蔵志」で「少小より力圭(医術)の業を修め・・・講究熟読の間、大疑ひそかにきざす」と書いている。大疑とは、人体の内臓はどうなっているのかという疑問であり、結局は五臓六腑とそれを盲信してきた医学への疑問である。当時の医学は、人体は肝、心、脾、肺、腎の五臓と胃、小腸、大腸、胆、膀胱、三焦の六腑からできていると考えていた。また体の表層には12本の経路(道)があり、病はこの道から侵入いるとされた。さらに木、火、土、金、水の五行や十二支などを組み合わせて診断の手段とする中国の金・元時代の瞑想的な医学も幅をきかせていた。東洋の大疑は、この訳のわからぬ医学への切り込みの第一歩であった。一方、儒学の世界では、既成の権威に対し新機軸を打ち出す思想がすでに橋頭保を確保していた。孔子よりも朱子を尊敬する朱子学者を批判し、失われた孔子を求める古文辞学を説いた徂来学の台頭である。近代合理主義のさきがけといわれる徂来学が瞑想的な医学に大疑を抱く東洋を魅了したことは当然である。徂来の門人・山県周南やその弟子・滝鶴台とも親交を結び、徂来の実証精神を着実に学び取ったのである。

 

実行の第一歩は医学の師・後藤艮山に教えられたカワウソの解剖だった。カワウソの内臓は人体のとそっくりだということで、それまで幾多の医者を満足させたはずだった。しかし東洋だけは満足しなかった。「独り怪しむ、いわゆる小腸なるものを見ず」「うっ陶梗塞することここに十有五年なり」。カワウソでは本当のことはわからない。と十五年も怪しみ続けたのである。15年待って、ついに人体解剖のチャンスが訪れたのは、49歳のときだった。すでに24歳で宮中に仕える法眼の位を得ていたが、その後も治療の実績をあげたほか、他の医官がきらった娼姑の治療を率先して実行、また唐時代の医書「外台秘要」を復刻するなどで、今や彼の名声は市民や医者の間に鳴り響いていた。その名声を東洋はあえて人体解剖の冒険にかけたのである。死体の損傷を極度に忌避するのは日本人の生れながらの感情であり、古来から律令や不文律で禁じられてきた。名声と幸福な生涯をかけるにはあまりにも危険な試みである。刑死体解剖願を、京都所司代で小浜藩主の酒井忠用に提出したのは、やはり小浜藩の医者で東洋の゛同志゛である小杉玄適ら3人。東洋は黒幕である。許可を決意したのは忠用の英断はたたえるべきだが、東洋自身は「幸いに文明の運に遭遇し」と書いている。

 

所は六角獄舎の刑場。ムシロに横たえられた首なし死体の横に東洋ら4人が座った。小刀を持つのは雑役である。

 

小刀が屍の胸を走ると、ばらりと肋骨が現れた。「椽(たるき)の梁(はり)にあつまるがごとき」と「蔵志」は感動の序章を綴る。刀はずんずん進み、肋骨が切り取られた。「豁然としてみるべし。気道前に在り、食道後に隠れる」これだけでも当時の大発見であった。しかし原色の肉塊は東洋の緊張を強い続けた。雑役が肺をつかみ出し、気管からふうと息を吹き込む。「即ち両肺皆怒張す。」胃が出、腸が出た。膀胱は「上、腸に連なり、下横骨に隠る。これを圧すれば尿ほとばしり出ず」

 

しかし、不思議なことに、東洋の永年の疑問の1つだった小腸の有無について「蔵志」はふれていない。おそらくは見落としたのであろう。

 

東洋には、事物の本質さえつかめば細事は大して問題ではないとする性格が強かったようだ。門弟の永富鳳が、東洋が家宝並みに大切にしていた器を手からすべらせ割ったとき、東洋は顔色一つ変えず許した話がある。また後に名医となった吉益東洞が人形売りをしていたころ、東洋の官患者を押しかけ診察したが、その処方を東洋は感心して採用した話もある。小腸を見落とすぐらいどうでもよかったのであろう。

 

細事を捨てて、東洋が解剖体に見たものはなにか。「手足経路の説はその妄なること知るべし」である。そして既に見ていた西洋の解剖図と目の前の屍の内臓が見事に同じであること。即ち「実を踏むもの、万里、符を同じくす」の論理であった。屍を断つ刀で同時に、千年にわたって医界を瞑想の世界に閉じ込めていた妖怪を切った東洋は、晩年まで実証の大切さを説き続ける。案の定、屍を傷つけたことへの批判が各界から上がったが、新医学への道はもはや敷かれたも同然であった。解剖に同席した小杉玄適は江戸へ走り、杉田玄白に興奮を伝えた。「解体新書」着手の端緒となるのである。東洋は深草の真宗院に葬られたが、墓は本山である新京極の誓願寺にもある。

 

山脇東洋 宝永2年(1705)、丹波・亀山の医師清水東軒の三男として生まれた。学才をかわれ、京の医師山脇玄修の養子となり業を継ぐ。当時の非科学的医学にあきたらず、後漢の医書「傷寒論」を研究して実地に応用し、゛親試実験゛をめざす古医方の4大家の一人とされた。東洋が解剖した刑死体の男は東洋らの夢を覚ましたとして夢見の戒名ょ与えられた。今の大学で行われる解剖体祭はこれを始まりとする。宝暦12年(1762)没。

 


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人物006  小堀遠州 

2016年12月07日 10時11分02秒 | 人物数々

 

小堀遠州 の庭  ➡ 寺院左0216  金地院  臨済宗南禅寺派

                  神社伏0076-5 御香宮神社5  拝殿  名水・御香水

              擁翠園

小堀遠州作の木像 ➡ 妙心寺塔頭 麟祥院 は 春日局の菩提寺

小堀遠州 屋敷跡 ➡  小堀遠州屋敷跡  町の郷土史家からの発信

伏見の小堀屋敷を受け継ぐ ➡  野口家住宅  明治時代の商家

お墓          ➡  寺院伏0236  仏国寺  黄檗宗


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人物005  黒田官兵衛

2016年12月06日 09時33分17秒 | 人物数々

 

黒田官兵衛 黒田如水 黒田孝高

1  息子  黒田長政はこの寺で亡くなった  

2  夫人  光の墓と肖像画はこの寺 

3  石碑上0039  黒田如水邸 址

4  石碑伏0082  伏見城武家地 黒田長政下屋敷跡参考地  東山一周トレイル F12


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人物004  伏見義民

2016年11月23日 13時44分40秒 | 人物数々

 

1  伏見義民・御香宮神社内の石碑

2  宝国寺・糀屋伝兵衛の墓所

3    顕正寺  日蓮宗  天明義民 板屋市右衛門 墓所

4     玄忠寺 浄土宗  伏見義民

  勝念寺  浄土宗  かましきさん

6    真西院  真宗大谷派 伏見義民

7     寺院伏0308  大黒寺 真言宗  九烈士の墓 伏見義民の遺髪塔 西郷・大久保の会談部屋

8   寺院伏0352 


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人物003  織田信長 

2016年11月18日 23時46分27秒 | 人物数々

 

織田信長****** 

京都市内で 墓所とされているところは 次の5ケ所です

1  妙心寺内の玉鳳院      信長・信忠の石塔がある

2  大徳寺塔頭 総見院     信長・信忠・信雄等 織田家一族の墓がある

3  寺町今出川上ル  阿弥陀寺 信長父子および森蘭丸ほか120名の墓がある。

                     本堂には信長・信忠の影像が安置されています

              6月2日 催事あり

             

4  寺町御池下ル  本能寺   信長・信忠父子供養塔 本能寺の変に斃れた人の慰霊塔がある

5  円山公園南  大雲院    信長・信忠の墓

    ➡  有名人ここに眠る

6  天道神社

7  旧 二条城  の 築城

8  建勲神社  

    薬師院

10   二条殿

11  浄慶寺     

12  見性寺  織田信長の庶子 村井重勝  

13     本能寺跡1   本能寺址2   

14  真如院  

15  妙覚寺  日蓮宗

16  寺院下0038  春長寺  浄土宗   織田信忠の家臣・本能寺の変で戦死・菩提寺 

 


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人物002  人康親王 記事のまとめ

2016年11月18日 16時09分48秒 | 人物数々

1  諸羽神社  琵琶石  ➡  諸羽神社

2  山荘跡石碑   ➡  石碑山0076  この付近 人康親王山荘跡  

3  御陵  ➡   陵墓山012   人康親王

4  小祠  ➡   石仏山009  泉水町の三尊石仏

5  石塔 徳林庵  ➡ 徳林庵・山科地蔵  六地蔵めぐり

 

 

川柳

 

八十路だぜ誰に遠慮をするもんか  /青二斎

 

 

 


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人物001  木食養阿上人

2016年11月17日 08時23分22秒 | 人物数々

 

 

 石碑山0068  粟田口の大名号碑  木食上人遺蹟

 松明殿稲荷神社  養阿上人の井戸あり、この辺り朝市・夜店で賑わったのだろう

 木食上人 碑

 安祥院  まだ行けてない

 教宣寺


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