京都市西京区大原野上里北ノ町1298-4
浄土宗
是住院
当院は安蓮社運譽文貞和尚を開山とする元竜池山大雲院の塔頭として洛中寺町四条に建立されたるも惜哉天明8年正月の大火に罹り烏有に帰す然れども第11世全海上人に依って再建せられ今日に及ぶ近年寺域周辺繁華雑踏を極めるに至りしため昭和59年洛西大原野に聖域を求めて当地に移転せり
16世 深譽現準 敬白
昭和59年7月 建立
富岡家墓所
富岡鉄斎の墓あり
富岡鉄斎
是住院は大原野上里に移転し、昭和59年7月に新しい本堂の落成式が行われた。それと共に富岡鉄斎の墓も境内墓地に移された。墓は1mほど、表面に「富岡鐵斎先生・夫人佐々木氏墓」と刻まれている。鉄斎は近代日本画の巨匠として、国内外はもとより、遠く海外にも高く評価されている京都の生んだ芸術家であるが、画はあくまで余技であって、本来は儒者である。天保7年(1836)中京区三条衣棚の法衣商十一屋の二男として生まれた。名ははじめは猷輔、のちに百錬・鉄斎と改めた。少年時代から学問に励み、長じて国学を学ぶかたわら、大角南耕という画家に絵の手ほどきを受けた。20歳の頃、当時女流歌人として知られる太田垣蓮月尼の北白川心性寺に仮寓し、尼が趣味の作陶の手助けなどをした。その間、蓮月の人格に薫陶され、大きな影響を受けた。鉄斎が晩年に至るまで、新聞紙上などで貧窮者を知ると、必ず義損金を送ったのは、すべて蓮月の感化によるものであるといわれている。その後、27歳の頃、聖護院の蓮月旧宅にて私塾を開いていたが、無名の学者のこととて弟子もなく、画をかいて生計の助けとした。
鉄斎は勤王の志厚く、多くの志士たちと交わったが、幼年の頃、病のため難聴となり、志士達の会合の席に参加できなかったことが幸いとなり、安政の大獄には追補を免れた。
明治維新後は神社復古の必要性を力説し、国民道徳の宣揚につとめた。これが縁となり明治9年(1876)大和の石上神宮の大宮司や和泉の官幣大社大鳥神社の大宮司に任用され、荒廃した神社の復興に尽力し、その費用捻出のため、画をかいて希望の信者に頒布した。在職5年、明治15年(1882)兄の死によって京都に帰り、上京区室町一条下ルに定住し、89歳で世を終わるまでの40余年間を在野の学者として送った。
鉄斎は山稜の探査に心がけ、また京都付近の名所旧跡を修復したり、
先哲や孝子節婦等の遺跡顕彰に力を尽くした例は、枚挙にいとまがない。
太秦の牛祭の復活もその1つである。
これは本来の考古趣味によるものだが、根本観念は陰徳を施すことにあったとみられる。無縁墓となった故人の墓を修復する程功徳になることはないと考えていたらしく、これというのも、心学を重んじた鉄斎の父祖伝来の家学の影響によるものといえる。大正13年(1924)12月31日、持病の胆石が悪化し、正月を目前にして亡くなった。
享年89歳。法号を無量寿院鉄斎居士という。
是住院本堂前には鉄斎の筆塚が建っている
正面に見えるのが筆塚
墓は1mほど、表面に「富岡鐵斎先生・夫人佐々木氏墓」と刻まれている。
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