右は 車折神社碑 西園寺公望、富岡百錬 の名前が見られる 明治42年建立
車折神社は平安時代末の儒学者清原頼業(1122~1189)を祭る。境内は頼業の墓所であったと伝え,嵯峨上皇の車が頼業の社前を過ぎた時,車が折れたので「車折(くるまざき)」の社号が生まれたという。あるいは、石のあたりで車を牽く牛が動かなくなったので,この石を車前石と呼んだことによるともいう。この碑は祭神清原頼業の事績を顕彰するものである。
車折神社碑【篆額】
尚矣吾宗之自出天 分派真人錫姓祖禰清原御寓天皇族叨華胄爵寵珪組遠矣家学之
淵源崇道尽敬之撰書紀双岡大臣之解令義逞辞流離奮名翰苑爰逮中世有若大外記公
諱頼業挺生喪乱之際特稟淑霊之性継承先緒弥綸典術明経明法兼綜両道高倉院時侍
読殿陛承安二年宋明州刺史上書曰賜日本国王公援故事両朝往来用敵国礼簡冊具存
往牒可按辺吏慢辞宜郤勿受治承養和諸源兵起海内鼎沸平宗盛惶惑罔措問計于公公
対以革弊政而息獄訟庶幾可救危亡宗盛弗能従闔族淪胥凡朝章典故毎有諮議公徴引
精博多見聴用雖限于資格弗尽其才而立朝大節彪炳一代矣公卒于文治五年閏四月十
四日春秋六十有八相伝公読礼記表出中庸拠本経為解弗取伝注与朱晦庵暗合又講毛
詩伝箋岐互舎鄭従毛公之為学醇茂疏通於焉可窺藤公兼実謂為学該和漢当世無双国
之大器道之棟梁厥後我清原氏世為天朝儒師本支蕃滋明習経業紹往開来寔公之頼公
既重于時世俗遂伝言公死作冥官後嵯峨天皇嘗遊幸西郊従者過公墓下弗謹忽然折轅
或奏触神譴怒因贈正一位賜号車折大明神世人亦謂明神司為民雪冤遠迩崇奉祷賽者
踵相接以迄于今弗独我宗族歳時報祭也粤距公卒七百廿一年車折神社社司高田静衛
思欲樹碑表公盛徳以余為公嫡胤来請作銘其辞曰
緜緜帝胤家伝六芸惟公抜萃玄鑒絶世建議廊廟風発 燭照興亡著于亀筮 遺経
微言妙契後人折衷仰其孤詣生為儒宗死為明神凡民有屈祷莫弗伸蔵公魄兮桂水之浜
神降格兮堆石輪因迺棟迺宇迺進藻蘋流沢無索在茲貞
明遂賢治四十二年四月 三十三世孫従三位勲四等子爵舟橋撰
従一位勲一等侯爵西園寺公望篆額
前車折神社社司正七位富岡百錬書
中村寿山鐫
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