釧路での最終日は地元紙釧路新聞社主催の「釧新懇話会」に参加しました。
今日は小樽商科大学の高野宏康先生から「北前船とひがし北海道 ~ 歴史文化を活かした地域振興の可能性」という演題で1時間ほどのご講演をいただきました。
実は今年の6月末に釧路市で「第34回北前船寄港地フォーラム」というイベントが開催されることになっていて、今日のお話はその前提知識を得る格好の機会です。
北前船と言うのは、江戸時代中期から明治にかけて主に日本海航路を中心に、蝦夷地(北海道)と上方(瀬戸内海を含む関西方面)とを結んだ商船の代表的呼称です。
実は「北前船(きたまえぶね)」という呼び方も全体を通じてそう言われていたわけではなかったのだそうで、そもそも北前船の定義、呼称、どこの活動範囲を差すのか、船主などを巡っては今でも議論が続いているのだそうです。
どうやら80年代に高田屋嘉兵衛の乗った辰悦丸を復元して回航したことで「北前船」の呼称が広がり認知が深まったのではないか、とのことで、ただそのことで逆に定義論がかまびすしくもなっているようです。
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北前船というと、北海道では枝幸、松前、函館(道南の三湊)などが古くからの寄港地としてよく知られていて、ニシンによる魚肥や昆布、なまこなどの俵ものを送り出す一方で、様々な日用品や酒、米、瓦、石材など北海道では手に入らないものを手に入れる手段でした。
そしてさらには、移住者もこれに乗ってやってきたしそれに伴って祭りなどの文化も北前船によって蝦夷の各地にもたらされてのだと。
また道南三湊だけが北前船のよりどころだったのではなく、江戸時代から道東や北方四島の昆布などの海産物は道南を経由して本州に送られていた、ということでは東北海道も北前船の恩恵を大いに受けていると言えます。
なにより、ロシアと危険な関係になった国難ともいえるゴローニン事件でそれを解決した高田屋嘉兵衛は、択捉島を足掛かりにした商売をしていたわけで、北前船の範囲が広かったことが日本にとっての幸運だったともいえそうです。
6月末の北前船寄港地フォーラムも楽しみになってきました。
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さて、一連の日程を終えて今回は18時の釧路空港発丘珠空港行きの飛行機で帰るはずだったのですが、なんと丘珠空港出発の直前になって丘珠空港が大変な降雪に襲われたようで、飛ぶはずだった飛行機が飛べずに欠航と相成りました。
前回も釧路空港から飛行機で帰るはずだったのが、そのときは釧路空港の霧によって欠航になりました。
今回は釧路空港の天候は全く問題がなかったために、「え?なんで?」という驚きでした。
また、欠航が決まったのが17時30分という事で、札幌に帰るには19時の特急おおぞらか、とも思ったのですが間に合うかどうかが微妙で躊躇しました。
結局、前回と同じように釧路空港でレンタカーを借りて札幌市内乗り捨てという形での帰札。
車に乗るのが大変なので飛行機にしたのですが、なんとも苦笑いしかありません。
しかも途中の帯広~トマムあたりまで強い雪が降りだして、視界も悪く大変なドライブになりました。
スバルのアウトバックという衝突安全装置などが運転支援機能がフル装備の車を借りたことで運転は楽でしたが、一方乗りなれない車で何かをするにはどこを操作するのかをみつけるのもなかなか大変。
良い車なりに運転が慣れるのは大変でした。
釧路空港にはなんだか見放されている感じです(笑)