北の心の開拓記  [小松正明ブログ]

 日々の暮らしの中には、きらりと輝く希望の物語があるはず。生涯学習的生き方の実践のつもりです。

もう、メモしなくちゃだめなんだよ

2024-04-27 23:23:42 | 介護の世界

 

 先日買い物サポートで実家へ行った時のこと。

 母がため息をつきながら、「いやいや、爺ちゃんにひどい目に会ったよ」と嘆いています。

「どうした、どうした?」

 母と父は週に一度、地区の会館で開催される麻雀の集いに参加しています。

 ところがその日はちょうど父が月に一度病院に行く日だったので、母は一人でマージャン会場に向かい、父には「病院から帰ってきたら、薬を置いてすぐにこっちの会場に来てよ。お昼の食事は用意してあるんだからね」と何度も念を押して伝えたとのこと。

 そうして当日は一人でマージャンを楽しんでいた母ですが、普段なら父は病院から11時には家に帰ってくるはずで、遅くても12時までには会館に来るだろうと思っていたのに、「それが、1時になっても1時半になっても全然来ないの。どうしたかな、と思ってマージャンを中断して家に帰ってみたら、素知らぬ顔でパンを食べているんだよ」

「あれだけ『ちゃんと来るんだよ!』と念を押したはずなのに、もう忘れちゃうんだからね、は~」

 私の方もぎゃくに呆れてしまって、「婆ちゃん、それが認知症ってことなんだよ。だから『ちゃんと伝えたんだから覚えているはず』という思いを捨てなくちゃダメじゃん。これからはやってほしいこと、伝えたいことを紙のメモにして絶対わかるところに貼っておくとか、マジック黒板を買ってきて書いておくとか、とにかく伝言を文字にしておくようにしようよ」

 それを聞いて母も、「そうだねえ、もうそうしなくちゃダメか」と少しは納得した様子でした。

 しかしそもそももうここ2年程前から、父の認知症が進み始めていることに気が付いている母のはずですが、それでもどこかにまだ「正常であってほしい」という期待と願望が消えないのでしょうか。

 
 買い物を終えてから実家に上がり、新聞を読んでいた父に、「なに、マージャン会場に行くのを忘れちゃったんだって?」と話しかけてみると、「ああ、そうなんだ、全然忘れちゃって腹が減ったからパンを食べていたら怒られてさ(笑)」とばつが悪そうながらも笑う父。

(あれ、それで怒られたことは覚えているんだな)と思いましたが、記憶も健忘もまだらに表れてくるのが初期の認知症ということです。 

 父は最近また真夜中に起きてしまうようになったとのことですが、それでもそこから外に出て徘徊をしたりするわけではないし、食事も風呂もトイレも全く問題なくできているのが最大の幸運です。

 認知症もどのような症状として現れるのかは自分の思い通りになどいかないわけですから、大いに助けられています。


       ◆

 
 母は、「爺ちゃんはいつも『俺はいつまで生きるのかなあ』と言うようになったんだよ」と言います。

 それを聞いた父は「だって、体のどこも悪くないんだぞ」と。

 返す刀で母は「だから、頭が悪くなっているんだって(笑)」と言い、父も「そこだな、問題は」「わかってるんだ」で3人して爆笑。

 こういう会話がいつまで続けられるのか。

 暖かくなった春の一コマです。  

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「お父さんはお日様が好きなんだよ」 ~ 陽の光を浴びると元気になる

2023-08-24 22:57:30 | 介護の世界

 

 父の話の続き。

 先日の通院のときのことですが、そろそろ迎えに来る時間だということで、母に促されて父は家の外でワゴン車が来るのを待っていました。

 ところがなかなか車は来ません。

 今年の北海道は例年になく暑くて、家の中から見守っている私と母は「お父さん暑くないのかね」とフウフウ言っていました。

 見ていると父は家の日陰からいつの間にか陽の当たるところへ出て、帽子も被らないまま陽の光を浴びています。

「父さん、日向に出ちゃったよ」

 そう言うと母は「そうなんだ、お父さんお日さまが好きなんだわ。今も夏だから暑いと言っているのに、朝起きたら東のカーテンを開けて『おお、お日様が昇ってきた』と嬉しそうなんだよ」

「そうなんだ、知らなかったよ」
「太陽が南側に来て居間に日が差すようになったら、わざわざそこに座るんだよ、この夏の暑い盛りでもね」

 でもまあそれが一つの救いかも知れません。


 医師で高齢者に対して日頃の暮らし方や人生への考え方などについて多くの本を著して人気の和田秀樹さんは、「『心の老い支度』のための実践行動として、幸せホルモンのセロトニンを分泌させるために、とにかく外に出て日の光を浴びなさい」と日光に当たることを勧めています。

 さすがにこの酷暑の夏の炎天下に外に出ろ、ということではないでしょうけれど、日の光を浴びること、お日様が好きということは決して悪いことではないようです。

 実際、父の場合も時間感覚が分からなくなることがまだらに生じてはいますが、食事、トイレ、入浴、服を脱ぎ着するなどの日常動作にはなんの支援も必要としていません。

 そして和田秀樹さんが警鐘を鳴らす「老人性うつにだけはなるな、それは高年者の病気の中で最も恐れるべき病気だ」というようなこととは縁遠く、声を荒げたり腹を立てたりすることもなく普段はニコニコしています。

 母も「それだけはありがたいよね」と言います。

 歳を取った人の話として「自分のお金を取っただろう!」とか「(本当はもう食べたのに)食事を出してくれない!」と怒り出す人がいると聞きます。

 心の奥底にネガティブで怒りの感情が潜んでいて、それを抑制していた脳の機能が弱くなると本性が出てくるのかもしれません。

 本性がネアカで感謝の気持ちに満ちている人は幸せだと思います。

 
 先日の病院の付き添いでは、診察が終わって病院の隣の薬局で薬ができるのを随分長い時間待たされました。

 薬を待っている間に、日の当たる席に父と私が二人で隣り合って座っていると、「随分長い時間付き合わせて悪かったなあ」、「息子がいるってのはありがたいもんだなあ」と繰り返しつぶやいていました。

 僕ももっと歳を取ったら日の光を浴びようと思います。

 ただしそのときはエアコンの利いた室内からだろうと思いますが。
 

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認知症が疑われる父に付き添って病院へ行った話 ~ ちゃんと話せなくちゃダメなんだな

2023-08-23 21:13:29 | 介護の世界

 

 先日実家の両親を訪ねた時のこと。

 家に入ると私の顔を見た途端に父が開口一番笑いながら「いやいや、いま水だけの昼ご飯が終わりました」と言うのです。

「ええ?昼ご飯が水だけって体力持たないよ」
「はは、俺も笑っちゃうよ、水だけだもんな」

「母さんは?」
「トイレかな、今来るよ」

 やがて母が居間に入ってきたので、「昼ご飯が水だけって、随分耐乏生活になったね」と言うと母は「ええ?お父さん、そんなこと言ってるの?いやいや…」と渋い顔。

「え?なに?」

 父がテレビのドラマを大きな音を出しながら見ている後ろで母が言うには、「昨日の夜は地域の夏祭りがあって、出店で焼き鳥だとかいろいろ買ってきたんだよ。で、それをさっきお昼に食べたんだよ」

「はあ、じゃあ食べたんだ」
「で、さんざん食べて、最後に水を飲んだのさ、そしたら最後に食べたものしか覚えてないんだよ」

 母は、「お父さん、さっきお昼に焼き鳥食べたでしょ!?」と思い出させようとしますが、父は「えー?思い出せない」と怪訝な顔をするばかり。

「母さん、もういいよ。何か言えばなんとかなるわけでもないからさ」

 ついさっき食べたものがもう思い出せないとは、やはり記憶の障害が進んでいるようです。


     ◆


 そんななか、「何か買い物や用事はあるかい?」と母に電話したところ、翌日が父が月に一度の通院の日と知りました。

 母が「こういう思い出せないようなことに良い薬ってないんだろうかね」と言うので、「じゃあ僕が父さんに付き添って病院へ行って先生に相談してみるよ」ということにしました。

 母はそもそも父が何の症状で病院へ行っているかもよくわかっていないし、父自身も今ではわかっていないのではないかと思われます。

 いつも父は病院から来る迎えのワゴン車に乗って病院へ行き、診察と点滴を受けて、生きと同じく病院の車で送られてくるので通院そのものには困難はないのですが、なにしろ医師とどんな会話をしているかなどは全く話してくれることがありません。

 そこで私が付き添うことにして、事前に家での記憶障害や時間の概念があやふやになる見当識障害についてメモにしてこれを医師に見せるつもりでいました。

 診察では医師から「お変わりありませんか?」という質問に対して父が「変わりありません」というやりとりから始まります。

 医師は私がいることも意識して、「腎臓の数値がやっぱり悪いのでそれを改善する点滴とお薬を継続しましょうね」と説明してくれましたが、黙っているとそこで診察は終わるところでした。

 そこでタイミングを見計らって、「先生、実は最近父が夜中に起きて服を着たりする見当識障害や、食べたものを忘れる記憶障害なども目に付くようになっているんです」と説明とメモを渡しました。

 医師は「そうですか、それじゃあ以前もやりましたが記憶テストと脳の萎縮状況をMRIで見てみましょうか」と言って、すぐにその準備を手配してくれました。

 診察室を離れて先に記憶テストを実施。

 これはMMSE(ミニメンタルステート検査)と呼ばれる認知障害を測定するために普通に用いられているテストが行われました(私の立ち合いはなし)。

 その後にMRIで脳の状況を検査し、再び医師の診察を仰ぎます。

 
 医師からは「認知障害のテストなんですが、30点満点の24点でした。このテストでは23点以下だと認知症と判定されて24点というのは境界線上と言うところですね。
 
 それとMRIの結果ですが、全体的に脳の萎縮は見られますが特に記憶をつかさどる海馬の萎縮が大きいことが見て取れました。先にも行ったように24点では認知症と言う判定ではないのですが、ご家族から見当識の障害が訴えられたという事で、脳の萎縮を抑制する薬を出しましょうか」という診断が下されました。

 やはり父を一人で診察させている分には本人からはこうした訴えはありえないので、やはり私が付き添って良かったです。

 帰りには今までの腎臓の薬の外に脳の薬を足した包みを一か月分出してもらってお中元かと思うような紙袋一杯の薬を持って帰ってきました。

 とりあえずはその報告で母のモヤモヤした気持ちも少しは晴れたようです。

 思ったことは声に出してみないといけませんね。

 反省しつつ、これからも推移を見守ってゆこうと思います。

 

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介護スクール14回目 ~ 自分で考えて支援技術を駆使してみよう

2023-05-28 21:53:13 | 介護の世界

 

 2月から始まった毎週土曜日の介護スクール、先週の土曜日で全部で15回のスクーリングの14回目が終わりました。

 14回目の課題は「総合生活支援技術」というテーマで、これまで習った様々な介護技術を駆使して、想定した要介護者への介護の仕方を考えるというもの。

 介護の仕方を習うだけでなく、自分たちでどのような工夫ができるかを考えさせるということが目的です。

 今日の受講者は臨時で加わった50代の女性を交えて全部で5名でしたが、5人で意見を交わしながら与えられたテーマに対して方向性を出し、それを先生が論評するという形の授業でした。

 具体的には右半身まひの女性を車いすで食堂に連れて行き、車いすから食堂の椅子に移乗させ食事ができるようにする、という一連の動作が課題。

 車いすから立たさず、腰を浮かしたところで食堂の椅子にスライドさせるのですが、机との間に作業スペースを取れるかとか、椅子に座らせた後に食卓まで椅子を近づける手伝いなど、今まで考えたことのない介助方法に頭がくらくらです。

 
 また午後からの課題は、電動ベッドに寝ている利用者の足を洗うという支援のやり方を考えます。

 足を洗うには膝を立ててもらってそこで枕などを使って固定するというのがポイントです。

 ただ電動ベッドって、背もたれと膝の部分を電気で持ち上げると背中やひざ下にシーツとの摩擦で不快なヨレが生じます。

 そういうのに気がついて直してあげるのも心遣いの一つですが、実際に電動ベッドに寝て背もたれを上げてもらわないとそんなことにも気がつきません。

 利用者の不快な思いを察知する気遣いこそとても重要なポイントでした。


     ◆


 今回臨時に参加された女性に、「介護のお仕事につかれるんですか?」と訊いてみると、「いえ、主人が脳出血で半身まひになって介護が必要になったものですから、ちゃんと勉強しようと思って」とのこと。

 なんでも海外の仕事が多くこの奥様も一緒について海外での暮らしが長かったのが、最近北海道に転勤になりそこでご主人が倒れられたのだと。

「いい歳になったらゆとりをもって一緒に旅行をしようね、と言っていたのですが、どうやら叶わなくなりました。皆さんも楽しめるときに楽しんでおかれる方が良いですよ」

 家族の介護って、いつ終わるかもわからず大変な立場になってしまうものです。

 そういう家族の介護の大変さを施設での預かりで気晴らししてもらうというのも介護事業の組み立ての一つです。

 ご主人が快癒されて少しでも日常が戻ると良いですね。

 
     ◆


 さて、これでいよいよ残りは来週の土曜日となりました。

 来週は午前中が振り返りの授業で、午後に終了評価試験を受けて合格ならばそれで終了、不合格ならば後日再試験という形になります。

 一通りの基礎的な介護について学んだ4か月でした。

 年寄りこそ余生の一部を自分たちの先輩世代の介護に貢献すべきではないか、という思いで始めた受講でしたが、初めて知ることが多くいろいろな気づきと考えさせられることの多い日々でした。

 来週も無事に終わることを祈ります。

 さあて、試験対策、試験対策…と。

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体の清潔を保つ入浴と清拭 ~ 介護スクーリング13/15回目

2023-05-13 23:20:19 | 介護の世界

 

 ゴールデンウィークの間はお休みだった毎週土曜日の介護スクーリングが再開。

 今日で15回中12回目が終わりました。

 今日のテーマは「入浴と部分浴について」で、体をきれいにするための入浴や手だけの手浴、足だけの足浴、体を拭く清拭(せいし)などについて学びました。

 日常生活を営むことにあまり苦労しない我々はほぼ毎日と言って良いほどシャワーか入浴をしていますが、これが身体機能や認知機能に障碍を持つようになると自分一人での入浴がままならなくなります。

 入浴には身体を清潔に保ち、血行を良くして体を温めることによる健康増進やリフレッシュが期待されます。

 また体を清潔に保つことで対人関係も円滑になったり社会参加意欲やなにより生きる意欲につながるという効果も期待できます。

 逆に身体の障碍や意欲の減退で入浴を忌避するようになると、これらの要素が失われてしまいます。

 日頃当たり前にできていることが一たびできなくなると、それによって失うものは結構多いことに気がつきます。

 
     ◆


 入浴というと、まず肩までお湯につかる"全身浴"を思い起こしますが、体の状態によっては浴槽に椅子を入れる半身浴や、立ち上がるだけの力もない場合は手や足だけでもタオルで拭くことで皮膚の清潔とリフレッシュ効果を期待することができます。

 今日の実習は、半身麻痺の方を二人で介護士ながら体を洗って半身浴まで導く、というものと、熱いお湯に浸したタオルで体を拭く清拭(せいし)を行いました。

 お湯は暑いお湯と水で温度を調整しますが、今の主流は56℃という高温のお湯にタオルを浸してそれを絞ったもので体を拭くというものだそう。

 56℃のお湯って、実際には相当熱いです。

  浸したタオルは両端をひねってできるだけ高温のお湯を絞ってから最後は水分がしたたり落ちないように気合で絞り切るのですが、2~3回と繰り返すうちに手がひりひりしてヤケド一歩手前くらいの手への刺激がありました。

 でもペアで互いの腕を拭きとり合うと、これくらいの温度のタオルで拭かれると実に気持ちがよくリラックスできます。

 利用者には快適なサービスですが、介護者にはいささか辛いケアだと感じます。


 あと、高温のお湯と水を混ぜ合わせて利用者のお好みの温度のお湯を作る際は、「先にお湯を入れてから水を入れて温度を調整してくださいね」と講師から言われました。

「なぜですか」
「反対に先に水を入れて後からお湯を入れて温度を調整するのを『逆さ水』と言って、人が無くなった時の湯灌のお湯を作るときの作法なので、そういう知識のある方の前でそれをすると、嫌な思いをさせることになりかねませんので」

 湯灌のお湯はそうやって作るとは知りませんでしたが、注意すべき点ですね。


 さて、今日をもって実技らしい実技は終了です。

 あと3回の講義は主に講義と座学が中心で、これまで習ったことを振り返りながら総合的な支援技術の充実を目指します。

 まだまだ油断はできません。

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排泄に関するこころとからだの仕組み ~ 介護スクール11回目

2023-04-22 22:53:31 | 介護の世界

 

 介護資格のためのスクーリング授業も今日で11/15回目。

 今日は「排泄に関するこころとからだの仕組み」というテーマで一日授業が行われました。

 我々のクラスは中年おじさん4人のクラスなので、講師の女性の先生は「男性だけのクラスは珍しいのですが、逆にお互いに実技練習をやりやすいかもしれませんね。クラスにぽつんと男性一人とか女性一人だと却ってやりにくい面があるので」と、笑いながらの感想。

 やはり微妙に羞恥を伴う授業なのです。

 さて排泄とは尿や便(ほかにも汗や涙、呼気なども含むのですが)などによって体の中の不要な老廃物を体外へ出す行為の事。

 生きている限り逃れられない生物の仕組みですが、こと人間の排泄となると「身体的意味」に加えて、「心理的意味」と「社会的意味」が加わってきます。

 「身体的意味」とは文字通り、老廃物を体外に出すという生命維持に欠かせない行為であるという意味です。

 一方「心理的意味」とは、自分の陰部を他人の目にさらしたり触れられたりすることに羞恥と抵抗を感じるという面が強いことです。

 講師の先生によると、「実は介護をする側にとっては排泄の介助は日常茶飯事なのですぐに慣れて、そう負担には感じなくなります(笑)」ということなのだそうですが、やってもらう方は自分の問題と捉えると申し訳なさや負担感が募るのだそう。

 そのためできるだけお世話になりたくないという思いから、水を飲まなくなったり食事をとらなくなったりする人も出てきます。

 それは結局健康な日々の暮らしからは外れてゆくので、利用者に負担を感じさせないような介護がポイントになります。

 さらに「社会的意味」もあってこれは、排泄の自立度が低くなると「外出しなくなる」「人に会いたくなくなる」「行動範囲が狭くなる」といったことに繋がって行き、やはり前向きな暮らしの質が保たれなくなる恐れがあります。

 排泄って、実に大切なことながら介護を受ける側にとっては非常に繊細なことでもあるという理解が大切です。

 
      ◆


 排泄の動作一つとっても、それを苦も無く当たり前にするためには下記の手順を経なくてはなりません。

 ①「尿意・便意を感じる」→②「トイレの場所が分かる」→③「移動ができる」→④「トイレの扉の出入りができる」→⑤下衣の着脱ができる→⑥「便器の使い方が分かる」→⑦「着座・排泄姿勢・排泄ができる」→⑧「拭く・水を流す・手を洗う」

 …とまあこれだけの動作手順の連続を行っているのが我々の日常の排泄行為です。

 そして高齢化や病気などによって上記のどこかの段階ができないということになるとそこを介助しなくてはなりません。

 ただ、できることがあるのならそれは自分自身でやってもらうのが一番で、そこにもやりすぎないような細やかな気遣いが必要なのです。


      ◆


 そんなわけで今日の実習は、寝たきりで自分で排泄のコントロールができない人のためのおむつの装着練習、排泄後の陰部洗浄の事例見学、ベッドに座ることができるおむつ装着者のポータブルトイレへの移動介護とおむつ装着介助などを行いました。

 以前に私も実体験したおむつ装着と排尿体験ですが、背中にちょいもれが発生した苦い経験があります。

 それは実は「正しい装着をしていなかったからですね」と体験レポートを呼んだ講師から指摘を受けました。

 何が正しくなかったかと言うと、おむつを止める左右に二つずつあるマジックテープを、下の方は自然に引っ張って止めるのですが、上にあるテープは背中がぴったりになるように腰骨から斜め下に向かって強めにテープを貼るべきだった」ということでした。

 さらには「股間の部分にはおむつの吸収体を山と谷のように空間を作ってゆとりを持たせることで吸いやすくなりますよ」とも。

 講師からは「排泄の介助は施設では最も頻繁にやるので、実際にやればすぐに慣れますよ」とも。

 排泄を学ぶことで、やはりできれば他人の世話にはなりたくない、という思いがますます強くなりました。

 そのためにはできるだけ健康で移動ができるということが肝心です。

 皆さんもぜひ一度事前に学ぶことをお勧めします。

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介護スクール 10/15回目は「整容と歩行介助」

2023-04-17 22:23:11 | 介護の世界

 

 先週の土曜日は10回目の介護スクーリングで、テーマは「整容と歩行介助」。

 整容とは顔を洗ったり服を着替えたりして身だしなみを整えることです。

 朝寝床から起きた瞬間の自分と出かける際の自分では全く身なりが異なるでしょう。

 それは、顔を洗って歯を磨き、髪を整えて服を着替えて、人から見られて恥ずかしくないように身なりを整えているからです。

 その行為全体が「整容」ということです。

 整容には、体を守り健康を維持したり、生活のリズムを作ったり暮らしに楽しみを見出してQOLを向上させるなどの意味があります。

 さらにそうすることで他社と良い関係を作ることに繋がり、おしゃれなどをすることで自分らしさを表現することは自尊心を保つことでもあります。

 普段当たり前にしているようなことですが、病気になったり体が思うように動かなくなったりするとそうしたことを自分一人ではできなくなることがあります。

 そのときには人の助けを借りることになりますが、その場合も自分でできることはできるだけ自分ですることが大切です。

 できるのに人にやってもらうのは自立の心が欠けていることです。

 どんなときでも自分でできることは自分でやるのです。


     ◆


 演習は、利き腕側が半身マヒと言う方を想定して上着やズボンの着替えを手伝うことから始まりました。

 マヒがあるときの着替えは、マヒしている側の袖などを先に通して置いてから使える腕を使って服を着ます。

 整容では「立てるかどうか」が結構重要です。

 利き足がマヒしているなど自力で立てない方でも、立つのを手伝って、杖を突いてでも移動するのを手伝うことで、洗面所へ移動するなど自力でできることをすることに繋がります。

 つまり歩行の介助が必要になるのです。

 歩行介助の演習は、生徒一人がまず道具を使って右足が曲がらないようなサポーターをして足首に錘を巻き付け、錘をつけたベストを着て動きを悪くして、さらに視野が狭くなるゴーグルをつけて高齢で半身マヒのある方に成りきります。

 そしてその人を椅子から立たせて杖を持たせ、段差を介助しながら超えて椅子に座らせる、というものでした。

 杖を使わないと歩けない人の介助の際の立ち位置、何に気をつけるか、どんな声をかけて誘導するかなどのごく初歩的なことを学びます。


    ◆

 
 本日の最後は、視覚障害があって白杖を使っている方への誘導の仕方。

 広くてほぼ二人分の幅で歩けるところは良いものの、地下鉄の改札機など一人分の幅しかないところでは、介助者が前を歩いて一列にならないといけません。

 そんなときには介助者は手を後ろに回して一列になるような約束事があるのだそう。

 我々がやったのは初歩中の初歩で、実際に視覚障碍者の外出をサポートするためには同行援護従業者という視覚障碍者のガイドヘルパーの資格があります。

 一定のカリキュラムと演習をこなして資格を取得する制度があるのだそうで、もっともっと勉強と経験を重ねなくてはなかなか身につかないと実感した次第です。

 今日で対面スクーリングは15回中の10回を終えました。

 そろそろ胸突き八丁の時期です。

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食事についての介護 ~ 当たり前に食べられることのありがたみ

2023-04-08 23:40:08 | 介護の世界

 

 介護スクール、10/15回目。

 今回のテーマは「食事に関連した心体のしくみと自立支援」です。

 食事は、体に必要な栄養素を取り入れるだけでなく、それ自体が楽しみであり、コミュニケーションの場であり、食事で生活のリズムが作られるのだと学びます。

 普段何気なく食べている食事ですが、空腹を満たすだけでなく、日々の楽しみがそこにあることを改めて感じます。

 それも、人から食べさせられるのではなく、自分の手で口から摂取できることがどれほど無上の喜びであることか。

 食べるものを自分で選べるという事も、それができなくなったことを思えばとても豊かな暮らしであることが分かります。

 改めて当たり前の日常のありがたみが分かりました。


     ◆


「高齢になると水分の補給も大切」ということを学びました。

 歳を取ると感覚が鈍くなるので、のどが渇いているとか脱水症状になっていることの自覚がうすれがちになります。

 一日に必要な水分は標準成人で2,000~2,500mlとのことで、これだけをガブガブ水を飲んで取り入れることは現実的ではありません。

 そもそも食事から得られる水分で約1,000mlは取れるという事なので残りの1,000~1,500mlをどうやってとるか.

 高齢になって危険なのは誤嚥です。

 喉の機能として食べ物を飲み込んで食道に導くためには気管の方に入らないように蓋をするようになっているのですが、加齢とともにその反応が鈍くなると蓋をする前に水分が喉に落ちてきて気管に入ってしまうことがあり、それが誤嚥です。

 それを防ぐためにはお茶やジュースなどのさらさらした飲み物にとろみをつけることが有効です。

 また水分をゼリーを食べることで補うのも有効です。

 今日はゼリーを食べたりとろみのついたお茶を飲んだりして、どんな感覚かを味わいます。

 次いで、ベッドに寝ている人と右半身まひの方を想定した食事介助の演習を行いました。

 実際の現場では、お年寄りがご飯を食べなくなったりすることがあり、それは単に食欲不振と言うだけでなく、解除する人の手袋の匂いがきつかったり、介助者のエプロンの柔軟剤の匂いが強かったり、そんなちょっとしたことで食べられなくなることがあるそう。

 さらには、「お茶碗にまだ残っているご飯が、お茶碗の白に紛れて見えなくなって食べないということもあったりします」という先生の体験談も教えられました。

 ごくごく当たり前にモノが食べられるというのは健常であることの証です。

 それを改めてありがたく思い、自分がまだ食べられることの幸運を噛みしめたいものです。

 味気ない食事をするようにはなるまいぞ、なるまいぞ。

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ついにやってみた「おむつ体験」 ~ 理性があるうちは簡単に排尿なんてできないわ

2023-04-06 23:33:07 | 介護の世界

 

 昨日おむつ体験の宿題について書きましたが、その勢いで昨夜おむつ体験をやってみました。

 まずはおむつの装着です。

 寝る前にトイレを済ませてから寝室で下半身裸になって、説明図を参考にしながらおむつを装着します。

 ちょうど孫がまだおむつをつけているので、前後に挟んで前でマジックテープを止めるというのはわかりますが、大人用は抑える面積が大きくてテープも上下に二つあります。

 実際につけてみると、慣れていないので体にフィットさせるのが難い。

 (ちゃんとつけられた)というつもりでもすこし動いてみると、腹回りがゆるゆるになってしまい、また締め直すことの繰り返し。

 少しずつ締め直してようやくフィット感が出ました。

 これでこのまま寝て朝起きたときに排尿してみることに。

 ところが普段から夜中に尿意で目が覚めがちなことに加えて緊張もあったのか、4時前に目が覚めてしまいました。

 こうなると、(いまやるしかない!)と思い、排尿を決意。

 しかしそのままベッドで寝ながらの排尿では、おむつの隙間からもしも水分が漏れ出した時に大変なことになると思い、畳の部屋に移動してそこでしてみることに。

 畳の上で仰向けになって、いざやるぞ!と決意はしたものの、やはり理性が邪魔をしてしまいます。

 本当に排尿を始めるまでには決心を繰り返して数分を要しました。

 そしていざ少しずつ尿を出し始めてみると、暖かいものが下腹部にまず貯まって広がりそこから低い方にじんわりと流れてゆく感触が広がります。

 体の上を暖かいものが広がって流れるというのは相当な不快感です。

 そのうちに温水が体の後ろから背中に回りこみました。温水は背中の上の方にまで浸みてくるのが分かり、(あれ?ここにおむつのパッド部分があったか?)と不安になりました。

 後で知りましたがこのときに背中とおむつの隙間から尿が少し漏れてパジャマを濡らしてしまっていました。

 しかしこの段階ではまだたまった尿全体の1/5も出していないのです。


 ここから先に安定的に外に漏らさずに排尿するためには、おむつのパッド部分を背中よりも低いところに位置させないと流れていかないということを理解しました。

 次の排尿からは背中を反らせて尻よりも少し上げるようにしながら排尿してみました。
 これで背中に回り込むことはなくなりましたが、まだ体内に溜まっている量全部を一気に放出すると大量すぎて吸水ができないのではないかという不安があります。

 意識して少しずつ少しずつ出してゆきますが、それはつまり不快感が何度も訪れるという事になります。

 相当の決意と勇気を出して理性を抑え込むという頭の中の葛藤は大きなものがありました。

  
      ◆

 
 数分かかってようやく出せるだけの全量を出した感じになりました。

 しかし宿題は「その状態で少し歩いてみること」とあります。

 幸いパジャマの背中が少し濡れましたが畳まで濡れるほどではありませんでしたが、とんだ粗相です。

 そのままの状態で部屋の中を少し歩いてみました。

 ぼてっとした重たいものが腰からぶら下がった感触がありますが、結構な量を出したはずの尿は吸い取られていて不思議とおむつの中が濡れている感触はありません。

 今日のおむつの性能は大したものだと感心するしかありません。

 嫌な感触が続いたこととパジャマに粗相をしてしまったことで気持ちはブルーになりましたが、宿題を終えたところで浴室へ向かってお風呂に入り体をあらって終了です。


 改めて考えたことは、寝ながら排尿するのは心理的に抵抗があること、また寝ながらの大人の量の排尿をおむつで吸収するためには装着の仕方をよほどしっかりしなければ漏れてしまうということ。

 さらに、自ら自分自身にやってもこんな調子ならば、他人におむつを当てるのはもっと大変な事だろう、ということでした。

 トイレでの通常の排尿は、尿は直接便器に落ちてゆくので体にはなんの皮膚感覚は生じませんが、おむつでの排尿となると一度体にまとわりついた液体がやがて吸収されてゆくまでの間の不快な時間を過ごさなくてはなりません。

 この不快感を一日に何度も繰り返すのは相当なストレスでしょう。

 まともな精神と自尊心と理性のある人にとっては耐えがたい苦痛だということがわかりました。

 たとえ親が認知症になったとしても気楽に「おむつしてもらうのも仕方がないよね」と軽々しく言う気にはなれないと思います。


 これもこれからゆく道なのかと思うと落ち込みます。

 少しでもこんなことにならないように、日ごろの健康にさらに気を付けようと思わせてくれるおむつ体験でした。

 それにしても、一度で十分、二度とやりたくはないのが本音です。

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アドバンス・ケア・プランニング(=ACP)という実践活動

2023-03-28 23:12:46 | 介護の世界

 

 以前(3月8日付ブログ)もご紹介した、アドバンス・ケア・プランニング(ACP)のお話。

 ACPとは、アドバンス(あらかじめ)、ケア(世話・介護)、プランニング(計画を立てる)を組み合わせた言葉で、自分のこれからの姿をあらかじめ考えておきましょう、という実践活動のこと。

 自分が病気になったり、介護が必要になったりしたときに、「自分はどう生きたいか」をあらかじめ元気な時に考えて、家族や介護・医療チームと共有しておくことでもあります。

 前回のブログでは、東京都で作成しているACPを進める「私の思い手帳」を東京都の担当部所に申し込んだところまで書きました。

 その後、東京都から封筒が送られてきたのですが、中には手帳と手紙が入っていて、手紙の文面は「この手帳は都民の皆様用です。都外からの4冊のご要望でしたが、ご参考までに2部をお送りします」とのこと。

 本来は東京都の税金で作られているものなので都民以外には渡せないのだけれど、参考という事で送っていただきました。

 周りの家族用にと4冊をお願いしたのですが、現物があればコピーもできるし参考にもできます。

 東京都のご担当者のご配慮に感謝します。

 
 ところで私からは「私の思い手帳」という、ACPの理解を深める冊子をお願いしたつもりだったのですが、実はこの手帳には「書き込み編」というペアの冊子があってこちらも送ってくださいました。

 まずは「私の思い手帳」で理解を深めたら、実際に書き込んで思いを現実の形にしてみましょう、ということなのですね。

 まず気になるのは、私自身のこともありますが、それよりはこれを親に届けてどう感じるかという事です。

 これに似たような記録帳でエンディングノートというものがあります。

 しかしこちらはどちらかと言うと、お葬式や連絡先などを記録するのが主たるイメージの冊子です。

 それに対して「私の思い手帳」は、自分の大事にしていることや希望、もしものときの処置などへの意思を示しておくもので、エンディングノートよりはもっと広範囲の関心ごとを記録しておこうというものになっています。

 「書き込み編」の最後のページには、見直した時の日付などの記録を書き込む欄もありました。

 考えは何度変わっても良いのです。

 そのたびごとの自分の思いを明らかにしておくことが大切なのですね。

 アドバンス・ケア・プランニングという考え方がある、こういう手帳がある、そのことに気がついていればいつか本気になるのではないでしょうか。

 

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