ギンナンにこれほど憑りつかれるとは思わなかった。
9月2日、昭和記念公園で採取したのが発端。このときの量は推定2100個。
現地の暗がりで果肉に素手で立ち向ったとき、その<ぐにゅりぐにょる>の感覚にすでにはまっていた。
3日水洗して白い実にする作業をしていて痒くなり、たまらず4日に皮膚科を受診して経口薬と塗り薬をいただいた。そうとう痒みが静まった。
妻はぼくの衣服を洗濯していて痒くなったと小言をいい、ギンナンに触れることを厳禁した。ぼくもそのとき妻に従おうと思った。
全指の皮がむけてぼろぼろ。
ところが5日、近くの森林公園の八幡神社を散歩していて多量のギンナンを踏んだ。
好ましい大きさでふっくらしている。
拾わずにいられなくなって6日、ゴム手袋はめた。
素手よりやや感覚がにぶるが<ぐにゅりぐにょる>の中から<クリっ>と固い実を探り当てるのはきわめて性的な興奮といっていい……。実をから果肉をできるだけ落とす。
ギンナンの粒ひとつひとつが<クリっ>と声を上げてこたえてくれるような気がする。
これは情事でありゴム手袋をコンドームと錯覚する。
手袋嫌いだった父を思い出す。
彼はほとんどの作業を手袋つけずに行った。手袋をつけると物の感覚がわからず作業の速度が落ちる、が持論であった。
いま多くのプロ野球選手が素手でバットを握らないのをぼくはいぶかしむが、これは父の素手の作業にある。
父の手はクヌギの皮のように荒れていた。
この手で母を愛したのだろうか、母は痛くなかったのだろうか、と考えたものである。
父が素手でギンナンをいじったところを見たことがないが、ぼくの今の感覚を父がいちばん理解してくれるだろう。
八幡神社の落ちているギンナンはすべて拾おうという執念が生じた。
7日も拾って約870個収穫した。いちいち数えつつ拾った。
昭和記念公園の平地は腰が痛んだが八幡神社は斜面である。
<なだり>に膝をついて這いつくばって拾っていると大地のたのもしさを感じる。大地の
<なだり>と女性の下腹部のそれとが似ているせいか。
木木茂る暗がりもその印象を助長する。
妻に隠れて浮気している感じだ。妻が禁止するので禁断の果実の高揚感はいやましになる。
それでも女は単純なところがある。
「初物のギンナンの色を味わってください」と妻に差し出すと「いい色ね」といってすぐに口にいれた。
妻は<ぐにゅりぐにょる>から遠いところに来てしまった。労わらないといけない。