きのうの讀賣新聞の「時の余白に」というコラムに編集委員の芥川喜好氏がポケモンのことから書きはじめている。
街のあちこちにひそむという架空の生き物を求めて、膨大な数の人間が捕獲器を手に一斉に歩き回っています。
ひと月前、テレビのニュースに初めて映し出されたその光景は、驚くべきものでした。
現実の風景とゲームの画面を融合させた拡張現実(変な言葉です)という技術への、驚きと称賛があります。
ポケモンをニュースの画像で見てぼくはゲーム界が俳句を追いかけてきた、と直感しました。
現実の風景の中でポケモンを捕獲するという営為は、俳句のおける嘱目のエッセンスにかなりに通っています。
たとえば以下のような私鉄沿線の風景を見て俳句をつくろうとする場合、ぼくらは何を季語にするか考えます。
そう、この風景の中にポケモン(季語)を捕獲しようとします。
朝顔がはっきりありますからある人は「朝顔」をポケモンとしてつかまえるでしょう。それをポケモンにしたくない人は空の青さに注目して、「秋の空」「秋高し」というポケモンを探し出すかもしれません。
または、朝顔をかこむ「秋草」、そこに生きる「蟷螂」(かまきりのこと)を自分のポケモンとする人もいることでしょう。
爽やかさより暑さを感じる人は「残暑」「秋暑し」をキーワードとするでしょう。
ゲームと違うのは風景の中に現れるポケモンは一種類ではなくていろいろあることです。
風景はいろいろなポケモンを含んでいます。
ゲームではどうやって捜すのか知りませんが、作句では「いける!」とある季語に電流が走ります。この季語を核に風景を再生産するのが俳句の妙味といっていいでしょう。
体調や気力の状態により季語を中心とした世界は複数発見できることになります。
同じ場所へ複数の人が繰り出して俳句を書いておもしろいのはめいめいがまったく異なる世界を創り出して見せるからです。
讀賣新聞の芥川氏の記事はどうやらポケモンの流行を危ぶむという論旨のようです。
現実と虚構の区別がつかなくなった行動、前後の見境ない無神経な振る舞いへの、驚きと憤りがあります。ついては交通事故も起きました。
…………
人間はこれほど簡単に、やすやすと、何かに操られてしまうものか、これほど無防備に、疑いもせず、一斉にはまってしまうものか、という驚きです。その薄気味悪さです。
このあたりを読むと小生のように俳句をする輩にも通じるところが多々あり、ぼくらは薄気味悪い人種かもしれないとすこし反省します。
たとえば吟行で大勢の人があちこちに散って同じような小さな手帳に字を書いています。そんな光景は一般の人から見てそうとう違和感があるのではないでしょうか。
しかし交通事故を起こす確率は低いのでまあよしとしましょうか。
いずれにせよ芥川氏の「時の余白に」を読んで、俳人はゲーム業界より先んじて季語というポケモン捜しをしてきたのだなあと感じた次第です。
俳人はシーラカンスのように時代から取り残された存在かと思っていましたが意外に先頭を闊歩しているのかもしれません。
ゲームのポケモン好きの方は言葉のポケモンである季語を捜すこともしてみてはいかがでしょう。もっとこころゆさぶられる時間が出来するかもしれません。
さあこれから季語というポケモンを探しに行きませんか。
街のあちこちにひそむという架空の生き物を求めて、膨大な数の人間が捕獲器を手に一斉に歩き回っています。
ひと月前、テレビのニュースに初めて映し出されたその光景は、驚くべきものでした。
現実の風景とゲームの画面を融合させた拡張現実(変な言葉です)という技術への、驚きと称賛があります。
ポケモンをニュースの画像で見てぼくはゲーム界が俳句を追いかけてきた、と直感しました。
現実の風景の中でポケモンを捕獲するという営為は、俳句のおける嘱目のエッセンスにかなりに通っています。
たとえば以下のような私鉄沿線の風景を見て俳句をつくろうとする場合、ぼくらは何を季語にするか考えます。
そう、この風景の中にポケモン(季語)を捕獲しようとします。
朝顔がはっきりありますからある人は「朝顔」をポケモンとしてつかまえるでしょう。それをポケモンにしたくない人は空の青さに注目して、「秋の空」「秋高し」というポケモンを探し出すかもしれません。
または、朝顔をかこむ「秋草」、そこに生きる「蟷螂」(かまきりのこと)を自分のポケモンとする人もいることでしょう。
爽やかさより暑さを感じる人は「残暑」「秋暑し」をキーワードとするでしょう。
ゲームと違うのは風景の中に現れるポケモンは一種類ではなくていろいろあることです。
風景はいろいろなポケモンを含んでいます。
ゲームではどうやって捜すのか知りませんが、作句では「いける!」とある季語に電流が走ります。この季語を核に風景を再生産するのが俳句の妙味といっていいでしょう。
体調や気力の状態により季語を中心とした世界は複数発見できることになります。
同じ場所へ複数の人が繰り出して俳句を書いておもしろいのはめいめいがまったく異なる世界を創り出して見せるからです。
讀賣新聞の芥川氏の記事はどうやらポケモンの流行を危ぶむという論旨のようです。
現実と虚構の区別がつかなくなった行動、前後の見境ない無神経な振る舞いへの、驚きと憤りがあります。ついては交通事故も起きました。
…………
人間はこれほど簡単に、やすやすと、何かに操られてしまうものか、これほど無防備に、疑いもせず、一斉にはまってしまうものか、という驚きです。その薄気味悪さです。
このあたりを読むと小生のように俳句をする輩にも通じるところが多々あり、ぼくらは薄気味悪い人種かもしれないとすこし反省します。
たとえば吟行で大勢の人があちこちに散って同じような小さな手帳に字を書いています。そんな光景は一般の人から見てそうとう違和感があるのではないでしょうか。
しかし交通事故を起こす確率は低いのでまあよしとしましょうか。
いずれにせよ芥川氏の「時の余白に」を読んで、俳人はゲーム業界より先んじて季語というポケモン捜しをしてきたのだなあと感じた次第です。
俳人はシーラカンスのように時代から取り残された存在かと思っていましたが意外に先頭を闊歩しているのかもしれません。
ゲームのポケモン好きの方は言葉のポケモンである季語を捜すこともしてみてはいかがでしょう。もっとこころゆさぶられる時間が出来するかもしれません。
さあこれから季語というポケモンを探しに行きませんか。