シリーズ 原発の深層 第三部・差別と抑圧超えて⑧ ゆがめられた研究
日本原子力研究所(原研、現・日本原子力研究開発機構)では、研究者連絡懇談会がつくられ、自主的な勉強会や見解発表が活発に行われていました。1964年ごろから、こうした自主的な活動に対して就業規則などで干渉が行われ、研究の自由が阻害されてきました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/46/b3/f638bc4dc2766156838a87c71c2eb0b5.jpg)
佐世保港に入港する原子力船「むつ」と包囲する反対派の漁船団=1978年10月16日、長崎県佐世保市円内は故・中島篤之助さん
弾圧や処分も
68年、高崎研究所に第二組合をつくった宗像英二理事が理事長に就任すると抑圧はエスカレートします。元原研研究員・元中央大学教授の舘野淳さん(75)は「動力炉・核燃料開発事業団の再処理工場に反対する署名を行った所員に対する弾圧や、事故にかかわる不当な処分が実施されました。自由にものが言えなくなり“恐怖政治”といわれた」と話します。
68年11月、国産1号炉(JRR-3)で燃料破損事故が続発していることを職場新聞が告発。これに対して原研は69年2月、「事実を歪曲(わいきょく)した」「(燃料を製作した)日立製作所の抗議も到来」したとして停職や配転処分を強行したのです。
抑圧と支配の下で研究がゆがめられ、その影響は安全研究において最も深刻な形で現れました。
73年6月、原研労組委員長も務めた中島篤之助さん(故人)は、月刊誌『科学』に「原子力施設の事故例について」とする論文を載せたことから、「厳重注意」処分を受ける事件がおこりました。中島さんは学術会議の会員でもあり、研究員の信頼を集めていました。
74年原子力船「むつ」の放射線漏れ事故が発生。中島さんは、長崎県佐世保港での同船の修理のため77年1月に長崎県知事が設置した安全研究委員会へ出席を要請されます。しかし、原研は出席を認めず、それをおして出席した中島さんに無断欠勤したとして賃金カットを強行。マスコミでも取り上げられ大きな問題になり、原子力委員長が仲介に入る事態になりました。
予算にも圧力
処分だけでなく研究への圧力は予算配分にも現れます。全国に造られていった軽水炉について政府は、技術は「実証済み」、安全性に問題はないとの姿勢をとります。そして原子炉の「安全研究」は縮小していきます。
元原研研究員の市川富士夫さん(82)は「安全研究という名前では研究はできなくなった。『安全性実証試験』という名称になり、安全を高める新しいアイデアは取り上げられなくなった。予算がつかなくなった」と説明します。
こうして原発推進へと暴走するなかで起きたのが今回の福島第1原発事故でした。
日本原子力研究開発機構労働組合の岩井孝委員長は話します。「政府は、“安全神話”と決別し、大本の考え方を変えていかなくてはいけない」
(つづく)
「しんぶん赤旗」日刊紙 2011年11月8日付掲載
やはり、自由に意見を言ったり、研究したりして、科学や技術は発展するものですよね。
始めから「安全」と決めつけてしまっては、本来必要なセーフティネットも機能に無くなります。「5重の防御」なんて砂上の楼閣だったんです・・・
日本原子力研究所(原研、現・日本原子力研究開発機構)では、研究者連絡懇談会がつくられ、自主的な勉強会や見解発表が活発に行われていました。1964年ごろから、こうした自主的な活動に対して就業規則などで干渉が行われ、研究の自由が阻害されてきました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/46/b3/f638bc4dc2766156838a87c71c2eb0b5.jpg)
佐世保港に入港する原子力船「むつ」と包囲する反対派の漁船団=1978年10月16日、長崎県佐世保市円内は故・中島篤之助さん
弾圧や処分も
68年、高崎研究所に第二組合をつくった宗像英二理事が理事長に就任すると抑圧はエスカレートします。元原研研究員・元中央大学教授の舘野淳さん(75)は「動力炉・核燃料開発事業団の再処理工場に反対する署名を行った所員に対する弾圧や、事故にかかわる不当な処分が実施されました。自由にものが言えなくなり“恐怖政治”といわれた」と話します。
68年11月、国産1号炉(JRR-3)で燃料破損事故が続発していることを職場新聞が告発。これに対して原研は69年2月、「事実を歪曲(わいきょく)した」「(燃料を製作した)日立製作所の抗議も到来」したとして停職や配転処分を強行したのです。
抑圧と支配の下で研究がゆがめられ、その影響は安全研究において最も深刻な形で現れました。
73年6月、原研労組委員長も務めた中島篤之助さん(故人)は、月刊誌『科学』に「原子力施設の事故例について」とする論文を載せたことから、「厳重注意」処分を受ける事件がおこりました。中島さんは学術会議の会員でもあり、研究員の信頼を集めていました。
74年原子力船「むつ」の放射線漏れ事故が発生。中島さんは、長崎県佐世保港での同船の修理のため77年1月に長崎県知事が設置した安全研究委員会へ出席を要請されます。しかし、原研は出席を認めず、それをおして出席した中島さんに無断欠勤したとして賃金カットを強行。マスコミでも取り上げられ大きな問題になり、原子力委員長が仲介に入る事態になりました。
予算にも圧力
処分だけでなく研究への圧力は予算配分にも現れます。全国に造られていった軽水炉について政府は、技術は「実証済み」、安全性に問題はないとの姿勢をとります。そして原子炉の「安全研究」は縮小していきます。
元原研研究員の市川富士夫さん(82)は「安全研究という名前では研究はできなくなった。『安全性実証試験』という名称になり、安全を高める新しいアイデアは取り上げられなくなった。予算がつかなくなった」と説明します。
こうして原発推進へと暴走するなかで起きたのが今回の福島第1原発事故でした。
日本原子力研究開発機構労働組合の岩井孝委員長は話します。「政府は、“安全神話”と決別し、大本の考え方を変えていかなくてはいけない」
(つづく)
「しんぶん赤旗」日刊紙 2011年11月8日付掲載
やはり、自由に意見を言ったり、研究したりして、科学や技術は発展するものですよね。
始めから「安全」と決めつけてしまっては、本来必要なセーフティネットも機能に無くなります。「5重の防御」なんて砂上の楼閣だったんです・・・
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