馬鹿も一心!

表題を変えました。
人生要領良く生きられず、騙されても騙されも
懸命に働いています。

今日はあいつの命日 ,木下街道(きおろし)を行く(4)食道癌にまっしぐら!

2021-06-30 06:32:56 | 日記


今日はあいつの命日 ,木下街道(きおろし)を行く(3) 40年の歳月を経ての再会



続きです。
炎天下 歩みは遅々として進まない。
体力の衰えが脚力で感じる。
休憩地点である街道沿いにある


小麦の郷店 (鎌ケ谷)ピーターパン


真向いにある道の駅 房の駅になかなか着かない。
ここで休憩する。
やっと着いた。





深度60mからくみ上げた入口横の水飲み場で飲む。
江戸の昔、旅人が飲んだであろう。
ちょろちょろ流れ落ちる水を両手で掬い取る。
店内に入り房総名産のピーナッツコーンアイスクリームを買い
ベンチで一休み。
暫しあいつの癌に至った原因を思う。
なるべくしてなったのだ。
両親が亡くなって一人暮らしになった。
家庭で食事することもなく
朝昼晩外食。
煙草と酒の日々。


再掲

ニュートーキヨービル閉館。

2015-03-15 17:48:06

3月15日(日)

数日前の新聞に銀座数寄屋橋 ニュートーキヨー 閉館の記事があった。

私は1967年(昭和42年)大学に入った。

同時に体育会山岳部に入部。

1971年卒業。

時は流れ平成時代1991年 何月か思い出せないが

体育会所属部員を中心とした同期会が開催された。

場所は数寄屋橋のニュートキヨービル メーンホール

受付に黒服姿のあいつが立っていた。

卒業以来24年ぶりの再会であった。

懐かしき仲間が会場に溢れ再会の歓談が

立食テーブルで広げられた。

体育会合気道部主将であった彼はニュートーキヨーの副支配人だった。

その後、時折 彼と飲むことがあった。

当時 彼は独身で鎌ヶ谷の自宅にご両親と住んでいた。

大酒飲みでヘビースモーカーであった。

その後、60歳前に早期退職をした。

ある朝、最寄駅で再会した。

私の近くにマンションを購入したのだ。

3LDKの新築マンションに一人暮らしだった。

既にご両親は他界。

妹は嫁ぎ埼玉に住んでいた。

 

リーマンショック前で景気は良かったが

経済成長は徐々に下降気味だった。

私の仕事を手伝いしてもらった。

ビッグサイトで開催されるギフトショーの設営準備。



事務所内での商品検査等を煙草を吸いながら

無口な彼は黙々と続けた。

外でのランチは、必ず生ビール大ジョッキ2杯で

サラダを食べるだけで食事はしなかった。

夕方仕事を終えると、豪快に日本酒を飲み続けた。

ビヤーホールの支配人時代の話で

「酒も給料のうち、安かったが商売柄飲み代がかからない」

普通のサラリーマンだったら30年勤めれば

飲み代は1千万円以上は自己負担している。

退職金代わりだと語った。

2009年 3月、突然日本橋にあった事務所に現れた、

「俺は食道癌らしい」

千葉の癌センターで再検査した。

9月に摘出手術が決まった。

病院の帰途、電車から飛び降りたいと考えたと言う。

私も9月に大腸ポーリープ摘出で別の病院に入院した。

2010年 癌は転移した。

ケアーマネジャーから「夏が始まる前までの命です」と

私に告げられた。

6月25日 谷津の病院で逝った

 

それから毎年2回墓参りする

 

大震災も知らず

 

 

そして勤めていたビヤーホールも無くなった。

破壊は一瞬 建設は死闘!

私が三途の川を渡り迎えてくれるあいつに

下界で起きたことを伝えよう。

続く。

 SaxRuby(本名 王云希さん/台湾) 心に沁みるサックス演奏で「醉歌」ほか  


今日はあいつの命日 ,木下街道(きおろし)を行く(3) 40年の歳月を経ての再会

2021-06-29 06:09:31 | 日記

今日はあいつの命日 ,木下街道(きおろし)を行く(2) 2010年3月の手紙

続きです。
炎天下の街道をトボトボと歩く。
スマホの歩数計を見る。
約13キロ歩いている。

2017年4月に前立腺癌放射線治療前は
年に2回 街道を巡礼して往復36キロの道程で墓参した。
何て馬鹿馬鹿しいと思いもあるが
山岳部時代 同期の遭難死での北アルプスで遺骸を背負い
下山した痛哭の思いがあったからだ。

上記のプレビューの歌
井上陽水の名歌は
芥川賞作家柏原兵三の少年時代を描いた
「長い道」主題歌
恩師でもある。

途中の休憩する道の駅はまだ見えない。
やはりピッチは遅い。

同期への手紙後 再会するのだ。
再掲
40年の歳月を経ての再会
2010-03-28 10:51:46
再会は珍妙な会話から始まった。
午後3時にJR船橋駅交番前待ち合わせ
10分程到着が遅れた。
電話で既に着いて待っていると言った。
しかし 交番前にはそれらしき人物は見当たらない。
交番前で携帯で呼んでみる。
「どこにいる」
するとその声は携帯電話からではなく
生の声がまん前で聞こえる。
互いに人相が分からなかったのだ。
40年前 互いにクリーニングを4年間しなかった
学生服姿の印象しかなく
互いに腹突き出て、白髪まじり
40年ぶりの再会は浦島太郎状態。
背の高い男だったが
「おまえ 少し低くなったな」
「年とりゃ縮むさ」
これが40年ぶりの会話の始まり
この男は大学入学前からの知り合いであった。
浪人して学んだ?予備校で顔を会わせていた。
入学して体育会山岳部に私は入部
彼は合気道部に入部して体育会学生が集まる
部室ホールで見かけ、同じ大学に入ったのが分かった。
これから、谷津保健病院に見舞いにいく男は
合気道部主将で再会した彼は副将をしていた。
彼は昼前大阪から新幹線でやって来た。
一部上場の住宅建築メーカーの役員なっていて
関西近畿地区の総責任者として単身赴任中なのだ。
意外にも出世していたのだ。
3時半谷津保健病院着
病室で体中に3本のチューブを差し込んで
24時間抗癌治療を続けなければならない。
ベッドに横たわっていた。
やつれていた。
メールで強い薬を昨日から使っていて
倦怠感、めまい、飯食えない、眠れない、10日間排便が無い
とメッセージが来ていた。
力なく手で談話室にいてくれと示す。
妹さんも入間からやってきていた。
妹さんは言う
「兄は今月末一旦退院しなければならない
そうすると 声も出せず食事も風呂も洗濯も
ままならない状況になってしまう」
その案ずる深いため息に返す言葉無し。
5時病院を出て船橋駅近くの居酒屋へ入る。
彼は私にビール注ぎながら
「本当にご苦労さん」とねぎらいの言葉を
私にかける。合気道部同期9人は
癌の進行がここまで悪化しているのを知らなかった。
寡黙なあいつは知らせてくれなければ何も言わなかった。
互いに60歳過ぎた。
30代~50代はまだまだ浮世の煩悩から抜け出せず
にいたが、団塊世代も卒業後還暦を越え
過ぎし青春の日々振り返ることや
懐かしき友人と酒を酌み交わす邪心なき60代になった。
「お前偉くなったな」
「ゼネコンがらみ仕事は一流大学出たからと言ってうまく
できるもんじゃない」
ヤクザは出てくる ピストルで脅される
20年近く代金回収で修羅場をくぐってきたからな
来年は引退するよ」
この男の奥さんも同期合気道部出身であった
よくキャンパスを二人でいるのを見て
羨ましいと思っていた。
子供は無く40年以上も連れ添ってきたわけだ。
彼は妙な言い訳した。
「だから60過ぎて単身赴任はいいのだ」
7時半、船橋駅で次の連絡を約し彼は
大阪へ帰って行った。
私はそれから自宅近くの飲み屋
「あんこう」で店主にやつの病状を伝える
退院したら、あいつはアンコウにやって来るだろう。
優しく迎えてあげて、お粥を食べさせてあげてくれと頼む。
午後10時 疲れた。
明日は私も午前中日本橋で首の治療して
それから柳橋事務所で仕事だ。

続く。



今日はあいつの命日 ,木下街道(きおろし)を行く(2) 2010年3月の手紙。

2021-06-28 06:35:59 | 日記

今日はあいつの命日 ,木下街道(きおろし)を行く(1)


続きです。
陽の高まりとともにあいつの墓に向かう街道は車列渋滞が始まった。
街道の細い歩道は雑草が点在し舗装もひび割れ
歩く人はいない。
足取り重くヨタヨタ歩く姿は、以前も
ホームレスに間違えられたが
渋滞車列の窓からは、擦り切れた姿恰好に
ゴミ箱であさったようなリュックを背負った爺さんしか見えないだろう。



汗ばむシャツと顔面に滴る汗を拭いながら
ひたすら松戸の共同墓地に向かう。
道行で回想しながら歩む。


木下街道(きおろし)を行く2
2010年3月 余命旦夕迫ったあいつを
このまま死なせる訳にはいかない。
私は予備校時代一緒で
大学入学も一緒
同じく神奈川県の高校で私は海辺の高校
その男は山より厚木にある高校。
手紙を書いたのだ。




再掲

2年前 2010年3月の手紙。(1)

2012-03-25 16:47:17

パソコンに保存した2年前、2010年 3月の手紙を開いた。

当時 私はあいつの容態が日毎に悪くなってゆくのを間近で見て焦燥感で一杯だった。

そして、卒業以来音信の途絶えていた友人に手紙を書いたのだった。

あいつは大学合気道部主将だった。

副将をしていたのは浪人時代同じ予備校にいた。

その友人の住所をあいつから聞き出した。

 

○○様

 

私は○○大学 体育会山岳部にいた△▲です。

卒業以来の長いご無沙汰しています。

私達団塊世代も卒業後還暦を越え

過ぎし青春の日々振り返ることや

懐かしき友人と酒酌み交わす60代になりました。

貴君も如何なる歳月をお過ごしになられたか知るよしなく

しかしながら元気であると貴君と同じ合気道部にいた

□□君から聞いていました。

私も幾多の波乱の人生ありましたが

何とか夜露しのぎ今日に至りましたが

まだまだ働かなければならない状況です。

 

さて突然のお手紙驚き当惑されていると存じます。

□□君は私の住まい近く居住していまして

日常的に会うこと、また私の仕事をお手伝いしていただくこと

ありました。

しかし 昨年6月食道癌であることが判明

9月には 柏の癌センターにて切除しました。

その代償に声帯切除という代償もあり

声を失いました。

それでも元気で相変わらず酒豪ぶりを発揮

仕事していないので午後からは酒三昧

ところが、2月になり癌が再発していることが分かり

リンパ球 肺に転移しました。

3月12日 千葉 谷津保険病院にて再手術しました。

当人は知らないことですが、妹様からの

連絡により余命は三ヶ月から9ヶ月以内との

連絡を受けました。

ご存知のように彼は独身既に両親は他界

入間に7歳離れた妹様がいるのみ

又親族との交流も少ないと聞きました。

今後入退院を繰り返すと聞いています。

私も近くに住むのですが世話も少ししか出来ず

限界を感じています。

手紙にて、□□君の現況を連絡したわけです。

今後も状況次第では貴君に電話等をすることになるかも知れません。

以上のことは まだ学生時代の仲間は殆ど知らない。

 

もしそちらの都合が良い時あればお会いしたいと思います。

 

わたしの連絡は以下です。

 

2010年3月13日

○○

 

一週間過ぎても連絡が来なかった。

その後 夜遅く自宅に電話が入った。

彼は大手建設会社の役員で関西中部地区の総責任者で

大阪に単身赴任しており、郵便が転送されて遅くなった。

又、私の携帯電話番号を手紙に間違えて書いていた。

 

その後、40年ぶりに再会する。

 続く

落葉しぐれ/落葉時雨-SaxRuby(B key)

今日はあいつの命日 ,木下街道(きおろし)を行く(1)

2021-06-27 08:47:23 | 日記
今日はあいつの命日、麻央さんの旅立ちに涙する。


4時半 ベランダから未明の空を見上げる。


月は霞の中にこっそり覗く。
天気は大丈夫だ。
柔軟体操して、朝食は摂らず出る。
黒のくたびれて首回りはヨレヨレシャツ。
色褪せグレーになりかけたv黒の綿パンの黒のジョギングシューズ。
リユックにはインナーバッグに
カード、保険証、免許証 薬他諸々を詰め込んで
9時40分 出発。

気温はまだ上昇していない。
京成電鉄の踏切を越え、なだらかな住宅街の道を上がる。
木下街道に入る。


木下街道(きおろし)を行く1
エンジン音と排気ガスが街道沿い歩道を
絶え間なく揺らし続ける。

疲れているのだ。
足取りは重い。
最近食事制限している。
通常 朝食は食べず
ランチを重食にしている。
夕食はタマネギと玉こんにゃく
或いは鯖缶鰯缶
ハイボール、ワイン 日本酒少々
塩分控えめ。
体重減少は少ないが
血圧は120~75で下降
血糖値も低い
中性脂肪も低い。
しかし、毎日10キロ程歩くので
スタミナ切れ。
アメリカ刑務所では
囚人ボディーの言葉がある。
刑務所内での運動は限らており
腕立て伏せ、腹筋 懸垂を続けた結果
上半身はゴリラ体形になるが
脚はその過程で無視され衰える。
私の場合は逆だが
前立腺癌放射線治療副作用で
下肢は更に衰えた。
山岳部時代北アルプス白馬岳登頂での
登頂での凍傷の傷跡はい今でも消えない。


加齢に伴い足腰の衰えは仕方ない。
ピッチは上がらない。


2010年3月、食道癌で声帯を失ったあいつは
市から派遣されたケアマネジャーが
私の自宅で今後の生活をどうするか話し合った。
玄関を出てから、美しい女性ケアマネージャーは
私から顔を背け呟いた。
6月雨期が終わる頃、初夏までの命です。
そうして、病院内で過ごす。
4月、日中、あいつの妹から電話で呼び出しがあった。
兄が会いたがってます。
急いで駆けつけた。
あいつは、動かぬ指で懸命にビールと書いた。
院長先生が許可した。
急いでコンビニに缶ビールを買い
あいつの口元に付けた。
しかし嫌がり口を横にする。
脳は欲しているが受け付けない。
代わりに私が飲んだ。
6月梅雨入り
雨垂れの日々
2010年6月25日午後8時
自宅でほろ酔いでうつらうつらしていた。
あいつの妹から電話。
「病院から連絡があり、緊急です。
まもなく命が消えます」。
妹は言った。
これから向かいます。
船橋谷津干潟の病院へ
埼玉入間から来るのだ。
夜9時 私は病室に入った。
室内は既に死の腐臭が漂っている。
22時半妹が到着した。
看護師が私達に呼び掛ける。
「手を握ってあげてください」
「本人は分かっています」
妹と私は互いに片方の手を両手で軽く握った。
温かい。
電流が微かに私に伝わる。
閉じられた目がわずかに開き動く。


それから、静かに召された。
続く

夜霧の第二国道/男性的苦戀-SaxRuby(D key)


芝信用金庫石原理事長宛て配達証明郵便 宛先不明で戻る。(8)ワクチン接種は国民の安全安心よりオリンピック開催優先。

2021-06-26 06:27:21 | 日記

6月25日(金)
月一の定期検診。10時半予約受付。
院内待合室は満杯
ワクチン接種のご老人が付き添いの
息子娘もいて立ち待ち。
名前呼ばれ、診察室へ
先月の血液検査表を渡される。
日頃の鍛錬により良好な身体。


医師に問いかけた。
「先生、家族3人の中で一番早く接種券が届き
接種予約しました。
妻はかなり遅れて接種券通知がきました。
直ぐにかかりつけ医に電話連絡しました」
驚いたのは接種日がわ私より早いこと。
又、娘は職場接種が突然行われ
昨日 一回目の接種しました」
医師が困惑した表情で言った。
「政府が個人開業医にワクチン接種する医院には
助成金を支給することにした」
「すると、かなりの医院が手を挙げた」
そうすると、個人開業医に殺到」。
「国民安全というよりオリンピック開催ありきが優先された」
なんたること。
国民は権力者の下辺?
奴隷?
安全安心より、権力誇示に利用。
これでは、共産国家になるつもりか?




悪徳悪質芝信用金庫石原哲夫理事長の嘘の釈明文(7)

続きです。
白々しい嘘に開いた口が塞がらない。
考えに考えた末決断した。
芝信用金庫石原理事長宛てに
配達証明郵便を送付した。
しかし、配達受領葉書は届かない。
10日間過ぎてから
住所には宛先人はいない通知が届く。
住所の番地が間違っても配達証明郵便は
転居先に届くようになっている。
芝信用金庫内担当は、怪しい郵便物として
受け取りを拒否したのです。
責任回避の拒否が後々、彼らに言い訳できなくなる。



再掲

2020-04-05 07:57:32

芝信用金庫石原理事長宛て配達証明郵便 宛先不明で戻る。


 

先日、安倍の陰陽師が、下々の愚民にマスクを2枚下賜されました。

ずっと前のことですが、皇居を清掃する国民、警察官に恩賜の煙草が授与されました。

頂いた方々は、大切に神棚に置いて下りました。

右翼はどうやって手に入れたか不明ですが

子分に報奨として煙草一本を与えました。

日本の社会構造が階級制度に移行しつつあるのでしょうか?

令和の歴史的残滓として刻まれます。

 

興味関心のない方はスルーしてください。

 

さて、芝信用金庫石原理事長釈明文の公式釈明文が

虚偽であったことが判明しました。

 

クリック↓

https://blog.goo.ne.jp/kikuchimasaji/e/1f156bf0074333495c210c78165347be

 

上記を読み、心中耐え難い精神状態になった。

トップ、ミドル、ロゥアーまでが

組織グルミで隠蔽した。

 

去年2月 考えて考えて決断しました。

石原理事長宛てに

内容証明郵便を送付することを決意。

しかし、内容証明には

文字数が制限あり配達証明とした。

 

芝信用金庫 石原理事長宛てに送付した。

しかしながら、宛名人不明で戻った。

石原理事長が在籍してない?

調べると会長として君臨。

又しても、怪しげな郵便物として拒否したのだろう。

改めて芝信用金庫御中の宛名にて配達証明郵便に書き換え送付。

受領の葉書が届いた。

これにより、一般職員に文面内容が知られることとなった。

愚かな選択判断。

 

2019年1月21日ブログ

 

芝信用金庫石原理事長あて郵便続き

 

 

配達証明郵便で送付したが10日後

宛先不明にて配達証明郵便物が戻った。

 

何で?

 

現在も、会長として在籍している。

芝信 案内カタログに写真入り掲載。

致し方なく、芝信用金庫御中にて

再度配達証明郵便で送付。

 

しかしながら

3月、4月、5月過ぎても

書面回答、電話もない。

 

しかし、3月半ばにブログに異変が起きた。

 

突然、ブログ閲覧数が急上昇

17日3.160件

18日50574件

 

ブログ開設して3.200日

全て閲覧したことになる。

 

何らかの調査したと推定される。

 

私は思想的問題も破壊者でもなく

ブログ名

馬鹿も一心 の如く

騙されてばかりの人生。

 

脚色なし事実を記載しています。  

続く


吻別-SaxRuby @顧峰銘