馬鹿も一心!

表題を変えました。
人生要領良く生きられず、騙されても騙されも
懸命に働いています。

ウクライナ軍 接近戦で優勢。

2022-03-31 08:12:09 | 日記


3月30日 午後2時半 トラブル続きのトランス製造千個終了。

今月初め佐川急便の出し忘れで工程が順調に進むまず。
夕方、集荷した車が 対面ショッピングセンター
荷捌き場に待機する大型トラックに積み替えを確認。


これにて、中継基地から配送。
31日着になる。
ドライバーに言った。
「もし 届かなかったた、ドローンで
大型トラックを爆破破壊するからな」
桜上水事務所に忙しく、行ってない。
支払い伝票が溜まっているので
本日、31日 
事務所にて送金する。



そんなこんなで、ブログは簡略です。
ウクライナ軍 ロシア軍を押し返してます。
戦争なんて屁理屈でするのではない。
日本の元知事だったようだが
トール ハゲコクバルが、もっともらしい
助言コメントで降伏を促すようなコメントしてます。
たった一度の知事経験で脱落したのが
ウクライナ人にとっては、戯言しかない。
ウクライナ軍 地の利、時の利
世界世論の利、
もっとも強いのは、屈しない。
ロシア軍 疲弊しきっています。
ウクライナ軍
優勢になっています。
心配は、キチガイに核です。
破れかぶれのプーチンです。


祖国を死守すべき戦いは続いています。


下記 ブログの通りになっています。
 


クリック↓

ロシア襲来と蒙古襲来、共通は?
https://blog.goo.ne.jp/kikuchimasaji/e/fa1e964ec7504aa7df52657bb61a948f
映画『赤い闇 スターリンの冷たい大地で』予告編

ソ連全体主義社会のその後は、乱れ、腐敗した「地獄篇」映画『DAU. 退行』予告編

ロシアがポーランド軍人2万5千人を殺戮したカティンの森。

2022-03-30 07:50:08 | 日記


ブックオフでカティンの森と題する物語を買った。
定価876円 販売価格246円



ずっと前、BS放送で見た。
記憶としてはかなり薄れた。
ロシアとポーランドへの侵攻で起きた
残虐事件を知った。
ポーランド軍人2万5千人を虐殺して
カティンの森に埋めた。
衝撃だった。


手元に本はある。
しかし、読むのには勇気がいる。
今も現実にロシアがウクライナ人を殺戮しているからだ。
約束を気に入らなければ、簡単に反故にする。
平和協定など、遵守する気など毛頭ない。
ないと言うより、その理念が無いのだ。


言葉は言葉に過ぎない。
ロシア言語には
「説明は説明に過ぎない」。
「約束は約束に過ぎない」。
安倍川もち、森喜朗の蜃気楼の森、鈴懸の径、
みんな騙されあしらわれた。
な~にも、かの政治家は表明してません。
サラリーマン時代、私を面倒みてくれた先輩の
御父さんはシベリア抑留され死んだ。
ロシア人を見ると、形相が強張り、
青い顔で睨みつける。
ウクライナが平和を取り戻したら
読もう。



カティンの森事件
概要
1939年9月3日、ダンツィヒの返還を求めてドイツ軍は西側よりポーランドに侵攻。第二次世界大戦が勃発する。開戦前、独ソとの間に交わされたモトロフ=リッベントロップ協定により、ソ連軍も東側から侵攻を開始。軍事大国に挟撃されたポーランド軍はあっと言う間に倒され、降伏に至った。ポーランドの国土は独ソによって仲良く半分こされ、支配を受ける事となる。


ソ連の支配下となった東側では、ポーランド人はシベリア北部へと強制移住させられた。捕虜になったポーランド軍将兵は25万に達し、その身柄は秘密警察(NKVD)に引き渡された。このうち、ソ連の領土である西ウクライナ地方と西ベロルシア出身の兵士は解放された。捕虜は出身、階級、民族などに応じて8つの強制収容所に送られ、約7000人が銃殺。13万3000人ほどが強制労働や移動途中で死亡したとされる。


そして、3つの収容所に送られる予定だった1万5500人の捕虜が忽然と姿を消した。


カティンの森事件
ソ連は、捕虜にしたポーランド将兵を共産化させる再教育を試みたが、反ソの意志が強いポーランド人には通用しなかった。1940年3月5日、ソ連共産党政治局は「特別手続きによる処理」を決定。つまり捕虜全員を銃殺刑に処する事を意味していた。ちょうど対フィンランド戦(冬戦争)で新たに捕虜を獲得した事もあり、早急に収容所を空ける必要があったのだ。この決定はNKVD委員長べリヤによって提案され、スターリン以下政治局員7名の署名で実行に移された。1920年から翌年にかけて生起したポーランド・ソ連戦争でソ連が敗れており、スターリンがポーランド軍人に私怨を抱いていた事が引き金になったとされる。


毎朝、モスクワからコゼルスク特別収容所に電話がかかってきて、処刑が決まった捕虜の名が読み上げられる。該当者は突然「西へ向かう」とだけ言い渡され、駅で汽車に乗った。西へ向かうと言いながら進行方向は北東であった。4時間ほど揺られた後、グニエズドヴォ駅に到着。NKVDが厳重に警備する中、黒塗りの輸送車数台に乗せられて、カティンの森へと向かう。そこには高さ2mの金網に囲まれた、8つの穴があった。そしてスターリン直属の125名の処刑人が、ヴァルター拳銃片手に待っていたのである。ここで捕虜は「解放」ではなく「処刑」される事を悟った。穴のふちに立たされた捕虜は、後ろから銃殺された。抵抗する若い将校は両手と首を縛ったうえで銃殺された。遺体の多くに抵抗した跡があり、いかに理不尽な死であったかを静かに物語っている。処刑場は全部で3ヶ所あり、他の収容所から連れてこられた捕虜も殺されている。


2~3m掘られた穴の中に遺体を9~12体重ね、その上から土をかぶせて埋葬。遺体がある事がバレないよう、埋めた場所に松の苗木を植える徹底っぷりであった。最初の処刑は1940年4月3日から始まり、5月22日に全員の処刑を終えたと報告している。虐殺された将校にはポーランド・ソ連戦争の従軍経験者が多く含まれており、スターリンの怨嗟が見て取れる。ロンドンに亡命中のポーランド臨時政府は、消息不明になっている25万人の軍民が行方不明になっているとして説明を求めたが、満足のいく回答は得られなかった。


虐殺の舞台になったグニエズドヴォ周辺では、1万人以上のポーランド軍人が銃殺されたとの噂が絶えなかったという。


発覚
1941年6月22日、300万のドイツ軍がソ連へと侵攻。大粛清で弱体化していたソ連軍は連戦連敗し、領土の奥深くにまで侵攻を許した。秋頃にはスモレンスクを攻め込み、カティンの森もドイツの勢力圏内に収まった。虐殺事件が発覚したのは、1943年2月18日の事だった。森の中にある埋葬地が発見され、その中からポーランド人捕虜の成れの果てが出てきたのである。異説では、2月27日に中央軍集団のドイツ軍将校が遺体を発見した事になっている。ともあれ3月27日に再調査が行われ、7つの穴から幾重にも積み重なったポーランド将校の遺体が発見された。


報告を受けたゲッベルス宣伝相はこの虐殺事件を世界的に公表し、ソ連の犯行と断言。当然ソ連は虐殺を否定し、ナチスが行った虐殺だと反論。他の連合国も冷ややかな目でドイツの動きを見ていた。しかし用意周到なドイツは第三国による国際医学調査委員会を設立させ、遺体発掘を依頼。各国の報道機関にも広く呼びかけた。さらに捕虜にした連合軍兵士を現地に連れて行くなど、着実に証拠を集めていった。ポーランド赤十字調査団も独自に森を調査。悪事が暴かれていき、焦燥するソ連は「ドイツの工作だ」と非難し続けた。数々の調査を経て、「虐殺は1940年春、犯人はソ連」と決定付けられた。


ポーランド臨時政府は、ソ連の仕打ちに激怒。ソ連も、勝手に事件の調査をスイスの国際赤十字社に依頼した臨時政府との断交を発表し、連合国内で険悪な雰囲気が漂い始めた。決定的な亀裂を避けるべく、アメリカとイギリスはこの事件をスルーした。一応アメリカ側も調査員をバルカン半島に派遣しており、ソ連の仕業だと突き止めた。しかしルーズベルト大統領に報告書を握り潰されて無かった事にされた。またドイツは虐殺の証拠品をクラクフ法医学研究所に送ろうとしたが、ソ連は刺客を放って輸送を妨害、失敗に追いやっている。


1943年9月26日、ソ連軍がスモレンスクを奪回。さっそく事件の調査にかかったが、調査員は全員ロシア人であり、連合国の立会いすら許さないという隠蔽する気満々の体制だった。証拠品を偽造して何が何でもドイツに罪をなすりつけようとしたが、住所の地名をスペルミスした事が仇になって看破されてしまった。他にも作り話や嘘の証言をでっち上げたりしたが、いずれも矛盾点があった。ソ連の公式見解は「カティンの森で起きた虐殺はドイツ軍によるもので、地元住民を脅してソ連の仕業だと証言させた」とした。


戦後
1946年に開かれたニュルンベルク裁判で一時的にカティンの森事件が取り上げられたが、問題解決には至らなかった。戦後はポーランドがソ連の衛星国になったため、この事件に触れる事自体がタブーとなった。1951年から翌年にかけてアメリカ議会がカティンの森を調査しているが、ソ連の責任と認定している。それでもソ連は事件を否定し続け、ナチスを全否定して再スタートした西ドイツもソ連に真相究明を言い出せず、長らく謎に包まれていた。


1987年にゴルバチョフ政権へ変わった事で真相究明へと動き始めた。1990年4月、モスクワでポーランドのヤルゼルスキ大統領と会談した時に初めて公式に事実を認めた。そしてソ連公文書館で発見された極秘資料を彼に手渡し、全容が明らかにされた。またゴルバチョフ大統領が自国の犯行と認め、ポーランドに謝罪。更にソ連崩壊に伴って隠されていた機密文書が白日のもとにさらされ、遂に全ての謎が氷解する。


2000年にロシアとポーランドが共同で「カチン・メモリアル」という慰霊施設を建立。


2010年4月7日、事件からちょうど70年の節目に行われた式典でプーチン大統領は「スターリン体制の犯罪はどんな形であれ正当化できない。数十年間、カティンの銃殺について真実を汚そうとする嘘が続いてきた」と述べ、犠牲者を追悼した。事実上、ロシア政府が事件を認めたと言えよう。この式典にはポーランドのトゥスク首相が招かれており、これでポーランドとの関係改善に向かうかに思われた。しかし事件は起きる。ロシア主催の式典とは別の追悼式典に参加しようとしていたレフ・カチンスキ大統領を乗せたポーランドの大統領専用機(ロシア製のツポレフ)が、4月10日にスモレンスク近郊で墜落。カチンスキ大統領やその妻、家族など96名全員死亡する大事件になってしまう。カチンスキ大統領はカティンにおけるソ連の蛮行を決して許さず、ロシアからの和解案を全て蹴っていた強硬派であり、ロシア主催の式典に招かれなかったのもロシアに高圧的な態度を取り続けていたからだった。このため疎ましく思ったロシア政府によって殺されたとする説が浮上した。

映画「カティンの森」アンジェイ・ワイダ 予告編

雪崩事故。

2022-03-29 09:08:00 | 日記

那須雪崩事故から5年経過と新聞報道。


雪崩遭難死とは書かれてはいません。
高校の課外活動だからでしょうか?
業務上過失致死傷罪で在宅起訴。
高校での他のスポーツは、アクシデントがない限り
ルールで危険は防止可能。
高校生登山は、経験豊富な登山家教師が指導しても
危険は避けられない。
ロッククライミング、氷壁登攀は困難であるが
危険は避けられる。
雪崩発生の予知は不可能。
厳冬の積雪が凍り付いた午前2時に登山すれば
危険度はないが、そのような時間での山行は
日々のトレースでは不可能。
未経験の高校生には対応できない。
平地の横断歩道を横切るのではない。
歩道を歩いていて、自動車道でクラッシュした
大型トラックが、舗道を通学途中の高校生を巻き込んだと同じ。
予知も瞬間的判断で避けることなど無理。
長い人生行路には危険はいっぱいある。
太陽がディープブルーの空を抜けて
雪面に注ぐ時
深い雪の渓谷は白銀の下には黒い悪魔が潜んでいる。
17歳の少年の未来は失った。
鎮魂の谷間に雷鳥が旋回してそっと下りる。
何と無情な白銀世界。


両親の生まれ故郷であり
小学生時代は毎夏、那須山麓の麓で
従兄弟たちと野山を駆け回った。
雪崩事故により
急遽、校長として赴任したのは
文科省出身の親族であった。
極めて、困難な課題があり辛かったと聞いた。
ご冥福を
合掌。














那須の山 雪崩遭難。
那須の山 雪崩遭難。 - 馬鹿も一心!

独自入手 ピンネシリ岳雪崩事故 緊迫の救助映像【HTBニュース】


プリズム。

2022-03-28 07:49:46 | 日記


サラリーマン落第続きはお休みです。
27日は早朝からトランス製作に追われていました。
顧客との勘違いで、3週間
トランス製造です。
冬の陽射しリビングからキッチンまで
温室にします。
リビングルームの壁に虹が投影されています。
朝から夕陽が沈むまで、壁のプリズムは
壁にゆっくりと移動しながら虹色を映して
鉢の葉緑を影絵として浮かび上がる。
自然光の巧みな色彩。
こんな幻想的な動きは秋から冬へ
春が近づくとサヨナラです。
ベランダテーブルに重しとして置いてあるクリスタル。
反射作用です。













鏡に誰かさんが懸命に作業しているのが覗けます。

トランス製作絶縁テープ貼り付け

トランス銅線巻き
しかし 疲れたな!

ちなみに、マンション名はプリズム
建設された年
優秀デザイン建築賞に選ばれた。

はいだしょうこ「にじ」- きっと明日はいい天気(フル)〈公式〉







サラリーマン査定評価は 最低ランクD だが負けない。

2022-03-27 09:22:19 | 日記

続きです。
銀座営業部に人事移動になる前に
結婚式をあげた。
レストラン事業部在籍していたので
大手町のホールを借りた。
コックさん、他レストランの従業員が
無償で手伝い。
会社側男子社員は一人も列席せず。
男は、私と関わり合いになるのを避けたのだ。
会社関係は妙齢の女性達が列席。
私の山岳部先輩後輩他の列席者は驚いた。
何で お前の結婚式に会社の女ばかり来るのか?


サラリーマン社会が、如何に見えない複雑な
人間関係が如実に顕在化するのだ。
あいつと親しい間柄であれば上司から睨まれる。



サラリーマンは社内での人間構図に敏感に反応する。
結婚式参列の損得を量りに掛ける。
私にような阿保とは無縁であると示すのが
結婚披露宴に出ないことである。
鈍重な馬鹿も一心は、理解出来ず。
銀座営業部勤務になると
組合役員になる。
理由は新しく配属されたから自動的になる。
ユニオンショップ協定の組合であるから仕方ない。


こうして、月一の会議に出席することになる。
僕は何の発言もせず、黙って書記長の
活動報告を聞き同意するだけ。
会議終わればすぐに帰宅。
他の役員は、居酒屋に連れだって行く。
そうして、歳月は過ぎ
営業部は大手町に移転。
息子が生まれた。
更に池袋ビルに移転。
又銀座勤務になる。
最初の銀座勤務時代は
部長、直属の所長は、私の事情を知っており
気遣いをしてくれた。
異端者であるので、ルート営業ではなく
飛び込み的営業を命じられる。
山岳部時代の先輩、同期の紹介もあり
抜群の営業成績で査定は特Aであった。
部長と所長が代わると、
私の人事査定は一番下のDとなる。
訳は明瞭である。
媚びない、
総論しか言えない上司
現場を熟知している私。
最後は部長は役不足で移動。
所長は、横領で懲戒免職。
バブル景気の歳月は、過ぎてゆく。
雨期が終わり初夏を迎える夕刻の
組合会議で突然
私は書記長になる。
立候補したのではなく
行き詰っていた執行部は
当面 私に書記長を押し付けのだ。
馬鹿は内情を知らず承諾した。
そうして、思いもよらず人生が
地味で目立たぬ一社員が
書記長になった。
経営側は、全く情報を得てなかった。
人事名簿にも、両開きの名簿の
間に挟まれ名前が判明しなかった。
ウクライナ、ゼレンスキー大統領ではないけれど
期待されての登場ではなかった。
中途入社の低学歴である。
人間は常に偏見と先入観の心をもって見る。
その状況下で相手は見間違いをする。
続く。

ロシア戦車撃退した“携帯兵器” 米に1日500基求めた威力とは(2022年3月25日)