馬鹿も一心!

表題を変えました。
人生要領良く生きられず、騙されても騙されも
懸命に働いています。

コロナ感染 韓国人は犬も食べるが、蛇も食べる。

2020-02-29 08:22:47 | 日記

2月28日(金)

午前11時 久しぶりに桜上水事務所に行くので電車に乗った。

車内は空いていた。

 

デザイナー女性から、ラインでくれぐれもマスクして

車内では、吊革につかまらないように

事務所に着いたらすぐに手洗いをしてください。

 

 

コロナ感染拡大の影響が弊社にも

じわじわと押し寄せる。

 

トランス製造では、問い合わせが多くなった。

海外製造が混乱で不透明。

なもんで、国内製造している弊社への見積もり。

https://www.takase.online/

 

逆に中国で製造しているグッズ ステーショナリー類は

製造工程、納品予定が全く立たず回答できない。

https://www.sanshoright.co.jp/

 

娘は仕事柄、対応に追われ疲労困憊。

 

まさか、地球まるごと汚染されるとは、

各国互いに非難いがみ合っている場合じゃないよね。

 

夕方 鳥料理の店で、鳥刺しを食べた。

生はやばいか?

ジビエ料理が流行っているようだが

今後食べるのはどうかな?

 

中国人の食べ物嗜好を書いたが

蛇 鼠は美味しいと言うがΣ(・□・;)

https://blog.goo.ne.jp/kikuchimasaji/e/6f8ebb2afa141396dd2035da888cdcf8

 

韓国人は犬を食べるのは知られている。

 

前のブログでロッククライミングの写真を整理したが

52年前 日韓親善登山隊として

韓国済州島にある韓国一番高い山に登った。

蛇の写真があった。

 

登山道で韓国の学生が蛇を捕まえリュックに入れた。

幕営地に着くと、早速 蛇の皮を剥ぎ串刺しにして

焚火に放り込んで蒸し焼きにした。

 

日本の隊員にも食べたのがいたが

私は、遠くから離れ見もしなかった。

 

自衛隊が野戦訓練で、生の蛇を食べるのを見たが

 

登山好きの私でも、食料尽きても食べられない。

 

 


丹沢でボルダリングに挑戦?

2020-02-27 10:01:25 | 日記

丹沢河津桜と酒のみハイキング。1 続き

https://blog.goo.ne.jp/kikuchimasaji/e/12da86d80a46a2088f58bde4c4f3cd75

 

丹沢でボルダリング。

塔ノ岳 入山口 大倉にボルダリング広場があるので見る。

ボルダリング 丹沢大倉

本格的野外ボルダリング。

若者が、恰好よく、スポーツクライミングに挑戦。

眺めていると、う~ん 徐々に脳が呼び覚ます。

50年以上前のロッククライミング興奮が脳を駆け巡る。

懸命に若者の登攀ルートと足さばき、手と腕の動き

腰の位置を見続ける。

 

本格ルートは無理で有料なので眺めるだけだが

 

無料でボルダリングが楽しめる高さが3m余りの壁に挑戦した。

手を溝に入れ、両足を突起に乗せる。

ここまでは、誰でも出来る。

次に片足を上の突起に架ける。

手を上の溝に差し入れる。

交互にルートファインディングをするのだが

1段階で支え切れず落下。

 

こんなはずじゃなかった?

再度試みるも滑落。

愕然とする。

 

青年時代より体重20キロ増加

筋力衰え、柔軟度低下。

脳が肉体への伝達速度は、電流 電波ではなく

糸電話のようにプツンと切れて反応しないのだ。

老人であることを実感。

 

ボルダリングと山岳でのロッククライミングは

全く別のだと考えています。

安全が確保され高度も短く、自然現象による

雪風雨、岸壁劣化、不安定性がない。

 

山岳登攀は

岩壁へのアプローチ

山岳登攀のダイナミック。

通常 単独登攀はなく、信頼するパートナーとザイルで

繋がり、自然を見極め未知のルートを登攀。

 

50年前は、山岳での滑落死はかなりあったが

今では殆どない。

 

山岳部同期は北アルプスで200m滑落死。

https://blog.goo.ne.jp/kikuchimasaji/e/3e7962c811b71213e7526db4cae52a3f

 

老人は、若い頃を懐かしく回想するだけで

無茶なことはしては阿保だ。

 

政治経済も年寄りが出しゃばりするより

若い世代に任せ 賢明な道筋をアドバイスすることだ。

 

昔のロッククライミングの写真をスクラップ帳から取り出した。

クライミング写真は、当時撮影は困難だった。

セピア色は50年の歳月を物語る。

自慢 自己満足ではなく、若き日の記録として下書きに残し

逝ってしまった親父の生前を息子娘が想ってくれるかな?

稲子岳南岩

剣岳

韓国ウルサナムロック

谷川岳 衝立岩

剣岳

 

 

 

 

 

 

 


丹沢河津桜と酒のみハイキング。1

2020-02-26 07:34:13 | 日記

2月24日(月)振替休日

朝7時自宅を出て、京成電鉄に乗車八幡駅で

都営新宿線に乗り換え。

新宿で小田急線急行小田原行に乗車。

コロナウイルス感染拡大の影響なのか

休日での登山客は少ない。

10時20分渋沢駅着。

鶴巻温泉在住の兄はホームにいた。

同じ電車だった。

改札口を出ると、雪富士が出迎え。

昨日は富士山の日。

バスに乗り大倉入口で下車。

ここから、丹沢大倉尾根に向かう。

春の陽射しを受けてのんびりと左右住宅地の舗装道路を歩く。

50年以上前は、畑、田んぼ、雑木林が麓まで続き

埃舞う砂利道だった。

麓に近づくにしたがって、農家の家が続く。

垣根には、柑橘類の木が茂る。

落ちてしまった柑橘類が道路まで転がる。

落下まもない、はっさく、レモン等を拾う。

兄が言う。

農家の人は、腐るのを放置したままだそうだ。

 

丹沢塔ノ岳登山口に着いた。

河津桜が広場に満開。

大倉に来たのは30年以上前のことだろうか?

横浜の実家に夏 家族泊まりに行った。

 

一人、スニーカーを履き、ポッケトにリンゴを一つ入れ

健脚コースの表尾根縦走をした。

通常7時間半の行程だが5時間余りで縦走した。

体力あった。

 

大倉のバス停広場は、50年以上前、17歳の頃 どんぐり山荘名称の

食堂があってラーメンを食べた。

親し気に、話しかける親父がいて山のことを教えてくれた。

兄が言った。

既に物故して経営者は代わった。

 

広場には河津桜が満開。

暖かな陽射しの下に家族連れは憩う。

 

ボルダリングが出来る広場を眺める。

 

本日、塔ノ岳頂上1.491mには登らず

山麓を周遊する。

通称 馬鹿尾根と呼ばれる大倉尾根を

76歳 73歳の兄弟がゆっくりと登る。

元気な若者には、さっさと追い抜かれる。

駆け上った10代20代の筋力は失われた。

 

昨夜午後7時軽い夕食を食べてから

一切の飲食物を摂取していない。

尿漏れパンツを履き、車中での頻尿予防のため。

16時間の空腹状態です。

前立腺癌で放射線治療してからは、鍛えているが足腰に力がない。

兄にもかなり遅れ気味だ。

大観望地点で休憩。

霞かかった相模平野と相模湾を臨む。

テーブルにワインとツマミを出す。

 

欧米系の太った若者二人が

高尾山の杖を突き到着。

ほろ酔いになったところで16時下山。

 

途中 金曜日 テレビ東京 奥多摩駐在刑事に登場する

窯小屋を通る。

実際は奥多摩ではなく、丹沢でのロケ。

 

17時半渋沢駅着。

秦野在住の高校時代の友達を交えて居酒屋で飲む。

それから、中華店で食事。

 

2年前の夏には、老兄弟3人で丹沢酒飲みハイキングをした。

https://blog.goo.ne.jp/kikuchimasaji/e/557f476578da8fa77dc3919172adb961

兄と私には、長期療養中の家族がいる。

弟は現役の自営業。

それぞれの苦悩を背負いながら生きている。

だからこそ 気を許せる登山ができる。

 

 

帰宅は23時半。

2に続く

 

 

 

 

 

 

 


水平線を見詰める少女。

2020-02-23 23:28:17 | 日記

2月22日(土)

AM10時 久しぶりに幕張茜浜までウオーキング。

 

海は荒れていたが風は春の到来を告げる。

凍傷の痛みはない。

https://blog.goo.ne.jp/kikuchimasaji/e/f863d4ab992b1243ae676bc6273bfcf8

 

護岸のテトラポットに、白い波頭が打ちつける。

海原を吹き渡る風に向かって都鳥が飛ぶ。

魚群に向かって急降下するが風に遮られる。

 

ぐるりとマリンスタジアム 幕張メッセ 木更津、

ディズニーランドを見渡す。

大型船が港を出て外海に向かう。

 

何年か前のことだが、護岸に立って水平線を眺めていた。

振り返ると、石の階段に座る少女がいた。

海を見詰めていた。

その面影は愁いの瞳と黒髪が風に揺れ

額と悲し気な目を一瞬覆った。

少女は動かなかった。

暫くして、後ろから黒の装いの中年男女が

少女の背後に立った。

やはり二人は愁いの表情でじっと水平線を見詰めていた。

幕張茜浜

離れて見ていた私は、突然胸が締め付けられる悲しみに。

 

護岸の後ろは海浜霊園。

幕張茜浜海浜霊園

ウミネコ 松風騒ぐ護岸に

悄然と海原を見続けていた。

映画の一シーンを想わせる

とても美しい3人の姿だった。

 

祖父母の墓参りであれば、多数の人がいて話し声もある。

勝手な想像をしたのだ。

もっと、深い肉親の死への追憶なのか。

 

10年前、甥っ子が20歳で自死した。

妻の妹 その夫

妻と私 

沈黙の葬儀をした。

若者の死を4人が受け入れることができなかった。

花々に包まれた棺を見詰めても涙は滲むこともなかった。

霊廟塔の階段を登り、納骨した。

塔を囲む木々からけたたましく蝉が鳴き出し、忽ち連鎖の鳴き蝉。

私達は、それぞれの帰り道で、無言の礼をして別れた。

 

 


 再掲白馬岳遭難 遠くなった苦い思い出!今年暖冬異変

2020-02-23 07:30:40 | 日記

今冬は、コロナウイルス感染で日本列島は大混乱で右往左往。

観光地は、外国人が訪日せず凍えています。

雪不足でスキー場営業出来ません。

 

毎年、寒風吹き荒ぶ漁港を通ると、

凍傷になった右手、右耳 右足に針を刺したような痛みがはしる。

しかし、暖冬で痛みは生じない。

 

52年前の北アルプス白馬岳登頂での傷跡だ。

痛みは肉体が記憶しているのか?

心に刻まれていて呼び覚ますのか?

 

卒業して娑婆に出た。

修羅の下界の方が、余ほど危険なことに気付くのであった。

 

再掲

2012年5月13日 ブログ

5月5日 北アルプス 白馬岳6人遭難死が報道された。

白馬岳

毎年 高齢者登山遭難事故が起きる。

報道によれば年配者だが登山経験は豊富な方々で

海外登山経験者、そして医師仲間。

遭遇した事故死を安易に語れない。

私には白馬岳登山は苦い思い出だけがある。

昭和42年大学1年生12月24日~翌年1月22日まで立山~槍ヶ岳縦走

昭和43年春 北アルプス前穂高北尾根登頂して

順調に冬山経験を積んでいた。

昭和43年12月末 北アルプス白馬岳主稜を登頂目指した。

しかし頂上直下で悪天が続き5日間雪洞でのビバークを余儀なくされた。

4年生2名 3年生2名 私を含めて2年生2名

食料も尽き欠けていた。リーダーの決断で下山を決定した。

雪洞は大波のごとき吹きつける雪で積み量さなり

脱出に3メートル以上も堀上げなればならなかった。

体感温度 マイナス16度の暴風雪を下り白馬大池で幕営した。

テント場で同期と飯作りをしたが右手が痛みだしていた。

上級生が私の右手をみて「やばい!凍傷だ」

その夜、寝袋に包まれ右手を股の間に入れて眠れぬ夜を過ごした。

トランシーバーにて緊急事態を連絡した。

天狗原でスキーリフトに縛りつけられて栂池まで下山。

そのまま、大町の昭和電工病院にて治療を受ける。

翌日 帰京すると慈恵医大病院へ直行。

右手、右足、右耳、飛騨側から吹き付ける凍風で凍傷になった。

それから約4ヶ月間治療を続けた。

幸い、指切断にはならなかったが、後遺症はいまでも残り冬は痛む。

その時 同じ病院で冬山登山により凍傷になり足指4本切断した人がいた。

私がいた山岳部も前年2年生が冬山で指を2本切断していた。

あの時 リーダーの撤退するとした判断は良かった。

4年生の主将として冬山が4年間の登山の集大成であり

白馬登頂はなんとしても完登したかったはずだ。

あのまま登頂を強行すれば遭難死はしないまでも私の指は

凍傷により切断していたに違いない。

その後、厳冬期登山を断念しなけれならない期間があった。

翌年、厳冬期槍ヶ岳北鎌尾根登頂を断念した。

槍ヶ岳北鎌尾根

大学4年秋 再び白馬を厳冬期登頂の偵察を兼ねて

2パーティーにて分かれて登山 白馬大雪渓で合流予定であったが

悪天の為、別パーティーは一時行方が分からない状況となり

翌日、捜索をしてビバーク中を発見した。

白馬冬季登頂は昭和46年1月 大学4年の時だった。

やはり、猛烈なブリザードの中、凍傷の手足を庇いながらの登頂だった。

 

人生も同じ。

経験も積み、装備も万全、それでも予測出来ないアクシデント。

人は思い通りにならないことに怒り、うろたえ他人に当たりちらす。

その結果はますます状況が悪くなる。

人生 焦ってはいけないと肝に命じる。

      

昭和45年3月 北アルプス 蝶ガ岳

両脇の同期はとっくに旅立ってしまった。

合掌。