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古田織部

豊臣秀吉に切腹を命じられた千利休。
徳川家康に切腹を命じられた古田織部。
織部は利休の弟子、利休七哲の一人と言われています。
二人の偉大な茶人が、時の最高権力者の命令で切腹した・・・




川端康成の小説『波千鳥』の引用を続けます。

 竹田荘(ちくでんそう)の庭に織部燈籠がありますが
 少し上りの小路を右に折れると竹田荘の石垣、
 それを反対の左に折れたところの屋敷に、
 古田織部の子孫が住んでいるとかで、
 その前を通るのにも、胸がどきどきしました。
 むかし、古田織部の子が竹田へ来て住みついたと言いつたえです。
 たしか上殿町という、昔の武家屋敷の町です。

写真の中央、土壁の立派な塀があるのが古田家の屋敷です。
今も子孫が住んでおられて「古田」の表札が、かかっています。
あのとき織部も織部の息子たちも切腹させられたのですが
孫が竹田の岡藩主中川公の家老職についたのだといいます。

古田織部の妻は関西の茨木城主であった中川清秀の妹でした。
中川公と古田織部は、もともとそういう縁があって
切腹させられ断然させられたはずの古田家は
九州内陸部の豊後竹田で続いていたのです。
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