こんな気持ちでいられたら・・・一病理医の日々と生き方考え方

人生あっという間、私の時間もあと少し。
よりよく生きるにはどうしたらいい?

いつの間にこんなに歳をとっていたのだろう

2020年01月31日 | 日々思うこと、考えること
通勤電車で立っている時、少し斜め前で座席が空いた時、同じような距離に立っている人が若い場合、大抵はそこを私に譲ってくれる。

前の職場への通勤はとても空いている路線を利用していたので、そもそも座席がどうという心配はなかったのだが、今度の職場への通勤は結構混んでいて、ぎゅうぎゅうとはいかないまでもそれなりに座席は埋まっているので、このような場面が増えた。
自分ではあまり認めたくはないが、彼らから見たら、私はもう老人なのだ。
私自身その空いた席に座れば楽だと思い、自分がもう年寄りなのだと自覚する。
先日は譲り合っているところに、”いいんですか?”というような顔をした若いサラリーマンに座られた。ちょっと可愛らしい顔をした女性にカッコつけて譲ろうなどと考えずに、最初から自分で座っておけばよかったと後悔した。
こんなことがよくあり、自分がいつの間にか歳をとっていたのだということを余計に感じる。
それでも、私より明らかにお年を召した方が、近くに立っていたら席を譲る。
そんな時、周りにスマホの画面を凝視しながら座っている若者の誰かが譲ってくれないかと思ったりするが、彼らは本当にそのご老人に気がついていないので仕方がない。
座っている人が立ち上がって座席を譲ってくれるということはまだないが、そうなったらなったで落ち込んだりせずありがたく座らせてもらおうと思う。
それまではせいぜい腰が曲がってしまわないよう気をつけたい。
背も縮んだ

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あの頃は何にでもなれると思っていた

2020年01月30日 | 日々思うこと、考えること
子供の頃、自分は何にでもなれると思っていた。自分の人生が伝記になるような偉人、作家、政治家。はたまた、多くのタイトルを獲得する一流スポーツ選手、超人にだってなれるかもしれなかった。
でも、小学校に上がるか上がらないかのうちに、自分より力のある、大きな友達が行く手を塞ぎ、中学校に上がる頃には自分がどちらかというと凡人の部類に属することを自覚した。そして、自分探しもそこそこに、進路を定め、親の助けもあって大学に進むことができた。
ヒーローになれなかったからといって、いまさらそのことを悔やんでも仕方がない。人生は淡々と、ときに大きくうねりながら時間とともに流れていく。自分に与えられた残り時間が少ないと今頃になって気がつき、この先自分は何に成れるのだろうと考える。でも、いくら考えたところで、選択肢はほとんどない。それより、自分に今与えられていることが天命で、それを全うすることが私がすべきことなのだと自覚することが大切なのだろう。
ブレイクスルーはもう無いか

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これはある意味人類対ウイルス

2020年01月29日 | 自然災害・事故・感染症
新型コロナウイルス、2019-nCoV。
感染の広がりを日本中、いや世界中で憂慮しているが、感染症というもの、全員が全員感染防御態勢でなくては意味がない。でも、そんなことは土台無理で、感染防御の意識の低い人はもちろんだし、そういう意識の低い人を含めた不特定多数の人と関わるざるを得ない人などは、その意識があってもリスクは高まる。
そういったところからの感染拡大は仕方ないとして、せめて自分の身は守ろうと思えばそれはそれで少しは貢献できる。
個人レベルでできる感染対策はマスク着用、手洗いと咳エチケットぐらい。そんなにたくさんではない。

マスクは多くの人が使っている。昨日電車内で見渡したら4割ぐらいの人がマスクをつけていた。この先、感染の拡大にしたがって、その割合はもっと上がるだろう。ずいぶん前にマスクのつけ方を記事にしたことがあるので参考にしていただきたい(それ、ちょっと違います(1)・・・マスクの表裏 - 2013年1月25日、マスクのつけ方 - 2014年3月13日)。最近はマスクの色も形も様々で使い方もそれぞれのようだが、いまだに鼻の形を作っていない人が多いように思う。
手洗いも大事。この前も書いたが咳を手のひらで受ける人は少なくない。私もつい手で咳を押さえてしまう。その手で手すりやつり革を触ったらどうなるかは火を見るよりも明らか。でもまあ、外から室内に入ったときぐらいでいいのではないか。あんまり潔癖になって心の方がやられてしまってもよくない。あと、スマホは案外不潔なので気をつけたい。
咳エチケットは数年前からいわれていることで、咳の飛沫が周囲に飛び散るようなことがないように気をつける。周囲の人への配慮ともなるので、喉がイガイガしていたらマスクをしておいて、急な咳に備える。マスクをしていない場合、口を手で押さえるようなことはせず、腕や肘などで受けるようにする。
上気道に感染するということは明らかだから、どれも有効な感染防御作であることは間違い無い。インフル対策にもなると思って一人でも多くの人がやるしかない。自分だけは大丈夫などと慢心しないほうがいい。
マスクの記事を読むと、”SARSウイルス、鳥インフルエンザ、豚インフルエンザ”などという今でも恐ろしくなる単語が並んでいるが、これまでに人類はどれも乗り越えてくることができた。話は人類対ウイルスなのだ。人類はワンチームとなって戦うという意識が必要。
潜伏期の確定がまだできていないようだが、押さえ込みに成功するか否かは2月いっぱいがヤマとなるだろう。
免疫力は落ちるし、乾燥で喉の防御機能も落ちている。くれぐれも注意しましょう。
夜になっても暖かい

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井の中の蛙、あるいは山椒魚

2020年01月28日 | 日々思うこと、考えること
NHKのど自慢の予選に参加してよかったこと、それは、医療業界という狭い世界の外には、すごく広い世界があるということを体感できたということ。
普段の生活であれば、考え方の違う人とわざわざ付き合う必要などないが、だれもが平等の立場で選ばれようとするとなると、どうしてもほかの人のことも考えることになる。
私は病理医で、外来にやってくる様々な人と接することもなく、顕微鏡にしがみついて
一人で過ごしている時間が圧倒的に長い。大学病院にいた頃は同僚の病理医が同じ部屋にいたから雑談も挟んでいたが、今はそれもない。検査技師さんと一緒に行う作業もあるが、全体に比べたら少しの時間だ。気をつけなくては、井の中の蛙というか山椒魚のようになってしまいかねない。
そこで、のど自慢。予選には多くの人が来て、多くの応援の人も来ていた。老若男女が20の枠を目指していた。観客席に座っていると、いろいろな人が間近で会話しているのを聞くことができる。そうして、ああ、そういう考え方もあるのかといろいろ気づかせてもらえた。たかだか、のど自慢の予選会場でのことではあったけど、私にとってはとても有意義なことだった。
外へ出よう

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週末はもう2月

2020年01月27日 | 自然災害・事故・感染症
今日も天気は今ひとつ。雪の予報は外れたのかもしれないが氷雨。
カレンダーをみると1月も最終週。今年は正月休みが長く、第1週がお休みだったせいもあり、あれこれぎゅっと詰まったひと月だった。
今年は有名外国人企業家の国外逃亡から始まったが、今深刻なのは中国発の新型コロナウイルス(2019-nCoV)。勤務先の病院でも患者対応策が練られている。
インフルエンザも流行しているはずなのだが、その話題は残念ながらあまりでてこない。一般生活での感染予防といえば、うがい手洗いぐらいしかない。
この前、手で口を押さえて咳をした人が、直後にその手で手すりにつかまっているというのを目の当たりにして、これはしっかり防御しないといけないと感じた。乗り換え駅では人混みの中を歩くので、さすがにマスクをして歩いたほうがよさそうだ。世界的な流行になる可能性もあるので、今から免疫能をアップさせておきたい。

週末の土曜日は2月1日、東京神奈川の中学入試の日。これから、高校入試、大学入試も始まる。受験生の皆さんが、頑張ってきた実力をいかんなく発揮できるよう、体調をくずしたりしないことを祈念する。
月日の経つのは

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雨とナイトと49日

2020年01月26日 | 犬との暮らし
朝から寒い雨。
昨日のNHKのど自慢予選参加&落選の余韻も冷めない1日。
妻も疲れたようで、二人して氷雨降る外に出る気にもならなかった。そして昨日はナイトの49日でもあった。
昼にのど自慢を観て、やっぱりみなさん上手だなと思った。それに、番組そのものも上手にできていると。
そのあとは、家掃除。ナイトの骨壷を置いていたところを片付け、他も色々と模様替えして過ごした。
書くことあまりありません

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NHKのど自慢の予選に出てみたところ

2020年01月25日 | 日々思うこと、考えること
鎌倉でNHKのど自慢があるというのを妻に教えてもらい、応募してみたら、予選に出させてもらえた。会場は鎌倉芸術館。ずいぶん多くの人が来ていた。駅前ですれ違ったことあるな、横須賀線で乗り合わせたことあるな、なんて人がいたりして面白かった。
妻が鶴岡八幡宮の境内にある弁天様のお守りをいただいてきてくれ、襟には鐘をつけてくれた。
和田アキ子のあの鐘を鳴らすのはあなたを歌ったのだけど、残念ながら予選落ち。明日はテレビで応援しよう。
老若男女、善男善女が歌うのを聴いていると、この国はまだまだ平和でいいな、と思えて幸せな気持ちになった。
学会と違って準備は楽だったけど、やっぱりというかカラオケよりはずっと疲れた。
ダメ元だったがやっぱりちょっと残念だった。
生バンドなんて初めて!

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さよなら大学入試センター試験

2020年01月24日 | 日々思うこと、考えること
共通一次、正しくは大学共通第1次学力試験というらしいが、私はこの共通一次世代。共通一次は1979年から1989年までの11年間実施されたそうで、私はこのうちの2回を受けた。昭和54年から64年とは昭和の掉尾を飾る大イベントだった。せっかく頑張った試験だが、残念ながらその結果を利用することはなかった。共通一次が昭和のテストだったとすれば、平成の世に導入されたのが、大学入試センター試験。先日行われた今年の試験が最後となるそうだ。息子と娘が受けたのでなんとなく想像できるが、それは共通一次の延長と考えたからで、実際には名前同様内容はだいぶ違うものだったのだろう。いずれにしても平成とともにあった試験制度だった。

センター試験に代わる新テストは、より高い思考力を求めることになるそうだが、このテストがAIを超える人間を生み出してくれる起爆剤になってくれることを願う。それぞれの若者の得意なこと、長所を”探しにいく”教育というものを行って欲しい。
ところで新テストは民間テストを導入するとかいう、怪しげな事態が問題となって英語の試験は練り直しとなったそうだ。記述式の問題にしても学生バイトが採点をするなんて、人の人生を一体どう考えているのだろうかという役所の迷走が目につくのは気になるし、教育の場に利権を持ち込むようなことは決してしないでいただきたい。
試験も時代とともに

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AIの知識は人間の経験の積み重ねのわけで

2020年01月23日 | 電脳化社会
10年後無くなっている仕事、というのが挙げられるようになって久しい。曰く、その仕事に従事している人は、AIに仕事を奪われる、とのことだが果たしてそうだろうか。
人間には人間にしかできないことがある。たしかにそろばんをはじくだけをやっていた人は、電卓の出現とともに仕事は無くなっただろうが、はじき出された結果をどう使うかを考えていた人は、電卓を使うようになってより高度な仕事をすることができるようになった。
この前、板金の熟練工の仕事をAIに覚えこませ、ロボットアームで処理をするということをやらせていた。この先、熟練工の技術はAIが覚えて、人間でそれができる人はこの先消えてしまうだろう。でも、そのAIが覚えた技術の先の展開が人類の目の前に出現しつつあるのだと思う。
医療技術にしても、症状と検査データを入れたら、AIが相当の部分まで診断してくれるだろう。いくら記憶力のいい医者が頑張ったところで、AIの有する医療知識には遠く及ばない。医者の仕事の多くはAIが暴走していないかの確認と、AIの判断に対する承認だけになるかもしれない。それだけにこの先、医者のできることは大きく広がっているともいえる。
AIの知識はこれまでの人間の経験の積み重ねであって、これまでに誰かが経験してきたことだ。スタートの時点でそれが効率の悪い、間違っていたとしたら、どんどん悪い方向に向かっているともいえることを忘れてはいけない。人類に求められているのは、AIの力を基礎にはするものの、これまでとは別の観点がないかを考えながら発展していくことではないか。
恐れずに使う

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鵜の目鷹の目監視の目

2020年01月22日 | 電脳化社会
事件や事故があると、必ずといっていいほどその周囲の人が”善意”もしくは”興味本位”でその現場をスマホで撮影する。そしてその事の公共性は高いと”その人なりに”判断した場合はすぐネットに上げてしまう。マスコミも、NHKを含め、スクープ画像を鵜の目鷹の目で漁っているから、なにかの"ほんの些細な事件”であっても当事者になってしまったら、大変なことになる可能性がある。顔はぼかされていても、よく知っている人が見たら服装や背格好で本人がわかってしまう。
ほとんどの人がカメラを持っている時代、天皇陛下の即位パレードの風景を見たら納得するしかあるまい。そしてそれらの人全てが目撃者であり、情報発信者となる時代なのだと自覚して行動しなくてはいけない。
そんな多数の人の目がある上に、監視カメラも加わるので、天網恢恢疎にして漏らさず、が実現化される時が来るのもそう遠くはないかもしれない。

そういうことだから、通勤時に喧嘩をしたり、あおり運転をしたりといったような、他の人の迷惑になるようなことをしたら、必ず誰かにレンズを向けられていると思っていなくてはいけない。
ちょっとした口論だって”とりあえずは”動画に撮られ、自分の知らないうちにネットにアップされていてもおかしくはない。まさしく鵜の目鷹の目に加えて監視の目といったところだろう。
ネット世界は神の領域?

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ブロ友さんはどんな人?

2020年01月21日 | 電脳化社会
ブログをやっていると、フォローしたりされたりとか、コメントを入れたり入れてもらったりするようになる。互いのブログを読んだり読まれたり、また、コメントを入れていただき、それにお返事するというやりとりを何度かするうちに、友達のような感じになる。そういうのがブロ友だと思っている。頻繁に更新している人のブログだったら少なくとも一週間に一度は読ませていただくので、結構な頻度で顔というか話をしていることなる。そしてブロ友さんのブログを読むうちにその人の背景も少しずつみえてくる。
ブログに書かれていることは少なくとも一度はそのブロガーさんの頭をよぎったことで、それが私の意見と合うようだったらその人は結構自分に近い考えの持ち主ということになる。
最近、私にもブロ友さんが増えてきたと思うようになった。ほとんどのブロガーさんとはハンドルネームで呼び合うだけだが、それでもお互いに意思の疎通が可能となりつつある。そのうち、このハンドルネームが実生活で呼び合っている名前というものと等価になる日が来るかもしれないと思える。
そんなブロ友さんだが、ブログを読んで元気がなかったり、ご不幸があったなどということを知ると心配になる。私がフォローしているのはポジティブで明るい内容のブログが多く、そんなブロガーさんに何かあるとどうしたらいいのかわからなくなる。気の利いたコメントを書き込めたらいいのだが、いざとなるとそうもいかない。面と向かって言うのであれば、言葉は消えてしまうが、コメントは永遠に残る。難しいものだ。
親友も何人か

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あまり寒くない大寒

2020年01月20日 | 日々思うこと、考えること
おとといは寒く、昨日はそれほどでもなく、大寒の今朝もあまり寒くなかった。昼間は病院の中にいるのでよくわからないが、窓から見る日差しは暖かそうで、実際暖かかったようだし、帰りも都内はそれほど寒くなかった。
週の半ばは少し寒くなるようだが、それも長くは続かないらしい。
これって三寒四温ということ?暖冬とはいえ、せめて立春までは冬らしい寒さが続いてもいいのだが。
などと考えると少し不安になる。

今年は北日本では雪が極端に少ないらしい。
気候は確実に変動しているように感じるが、その原因が温室効果ガスによるものなのか、地球自身の気まぐれなのか、それともそれ以外に原因があるのかはよくわかっていない。
よくわかっていないからといって、資源の無駄遣いが許されるわけではないので、そうならないように注意して生活していく必要がある。
今週は地に足つけて

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久しぶりに1万歩

2020年01月19日 | 鎌倉暮らし
夕方になり雲が出てしまい、寒くなったが、久しぶりに鎌倉市内を妻と歩いた。寒かったといっても雪の降った昨日ほどではなく、冬場の散歩はこんなものだろう。
向かった先は、フラットコーテッドレトリバーのナイトが亡くなった時、お花を持ってきていただいた方の家。ナイトの49日を迎える前にご挨拶に行っておきたいということでお伺いした。
どこを歩いてもナイトの思い出があり、妻はいまだに一人では市内を歩きたくないと言う。たしかに、あちらこちらに思い出がのぞく。
地元道を歩いていたのだけど、途中で小町通りを歩いたらものすごい人出だった。あいかわらず多くの人がやってきたようだ。

ナイトと歩くことができなくなって以来、歩数は4000歩程度だったが、今日は久しぶりに10000歩を越えた。ナイトが私たちの健康維持にも大いに貢献してくれていたことに感謝する。
家の前の坂を登るのが少々しんどかった。
明日は大寒

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人目を気にする、ということ

2020年01月17日 | 生き方について考える
どこまで他人に対して無関心でいたらいいのか、どこまで人の目を気にしないでいたらいいのか。
この文章は昨日の記事を書き始めたときに一緒に思い浮かんだものだったが、期待するということと人目を気にするということは、自分以外の人との関係を考えると少し違っていると思えたので、切り離した。

かつての同僚と顔を合わせるという、他人の目を気にするということを考えるにいい機会があった。それは仕事上のことだったので、割り切って考えることができたというのもあるが、かつての同僚たちの目はまったく気にならなかった。こう書くという時点で少なからず気にしていると、いえなくもないが、その時、私は、顔もみたくない、なんてことはなく淡々としていることができた。

人目が気になるなんていうことは、期待するしないと同じでやはりとても自分勝手な問題というか感覚で、その人たちが生きている間に自分のことを考える、というか自分のことを考えてくれる時間などというのはほんの刹那であるということに気がついた。
人目を気にする、というのは承認欲求の裏返しのようなものにも見える。日々謙虚に生きていたら強烈な承認欲求など湧いてこない。
穏やかな気持ちで生きていたら、人目を気にするということなどなさそうだ。

また、他の人を見るときもいつも穏やかな気持ちでいたら、さらに人目は気にならなくなるだろう。
考えすぎてもいいことはない

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他人への期待が自分の勝手にならないように

2020年01月16日 | 生き方について考える
どこまで人は他人に対して期待していいのだろうか。

「私がやりましょう」という人に用事を頼んで思った通りになることは少ない。他人が自分の思い通りになるなんていうことはまずないし、そうするのであれば、自分がそれなりの負担を持つ必要がある。
「よろしくたのむ」
これほど勝手な物言いはなく、具体的に細かく指示してやっと望みの結果にたどり着くことができる。


たとえば選挙。たかが1票、されど1票と、あれこれ頭を悩ませて投じた1票が全て自分の期待した通りになることはありえない。自分が投じた1票が、賄賂などによてねじ曲げられたとしたら期待外れを通り越して失望、絶望となる。

”期待”とは自分本位な思い込みだと思えば、それを他人に押しつけてはならないことなど容易にわかる。
期待しない代わりに、自分は自分で自分の責任に基づいて思った通りに行動する。いいこともわるいことも、全ての原因は自分にあるといつも思っていたら、他人に期待することもなく、生きていくことができる。

いいこと悪いことなんていうのも相対的なことであって、他人へのおかしな期待ややきもちを持たなければそれほど悩ましいものではない。
受験もそうですよ

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