こんな気持ちでいられたら

落ち込み、ヤキモチ、ひがみ。心には波風が立ちやすい。いつも穏やかで、優しい気持ちでいたいものです。

夜中に書いた手紙をそのまま出したりしないように

2012年05月30日 | こんきも
物事には言っていいことと、悪いことがある。言って悪いことを言ってしまうと、取り返しがつかなくなる。ツイッター、フェイスブック、ブログに言うべきではないことを書いて、“炎上”ということがよくある。

自分では、これは絶対に正しい、という論をそういうところで主張するわけだが、客観性の無いこと、荒唐無稽なことを声高に主張しても、受け入れられることは無い。
自分の立ち位置があれば、それと反対の立ち位置があることを常に考えて表明しなくてはいけない。それができないのであれば、自分の主張は少し控えめにしておくといい。

自分のブログなりが炎上してしまった人は、なんで自分の意見が批判の対象となっているのか、よくわからないかもしれない。
あらためて読み直しても、それほどおかしなことを言っているようには、自分では思えない。

夜中に書いた手紙は、そのまま出すな。

と言う言葉がある。私も昔は、気分に任せて一気に手紙を書て出したり、長文の説教じみたメールを出したりしたことがある。手紙もメールも一度出したら取り戻せない。夜中に書いた手紙、“出す前に”もう一度良く読んでみるといい。よくもまあ、これだけ書いたものだと思えるような悪文、汚文であることがほとんどのハズだ。二度と読みたくなくなる。そして、メールを使いだした頃、いったん出したメールを取り戻したいと思ったことがどれほどあったことか。

手紙やメールですら、出したあと取り消したくなるのだから、不特定多数の人あてに発信した場合、どうなるかは火を見るより明らかだ。

考えを発信するということは、とても高度で責任を伴う作業である。
その行為自体を十分考えて実行しないととんでもないことになる。

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考え過ぎの人生か

2012年05月29日 | こんきも
こうして毎日、ブログの更新、というか、日々考えたこと、思ったことを書き連ねていると、よくもまあ、毎日毎日、しょうがないことばかり思いつくものだと、我ながらあきれてしまう。

私はあれこれ、考え過ぎなのだろうか?

エセ哲学青年だった高校生時代から、何も変わっていない。

中途半端な理想論と、中途半端な正義感。
そして、その実、たいしたことのない、ウソばかりの実人生。

それらのギャップから生じる葛藤めいたものを、毎日ぼんやり考えている。

思考の柔軟性は、日々失われ、固定化した視点からでしか世の中を見ることができなくなりつつある。

つい先日も考えたことだが、身近に人生の良きロールモデルたる人がいればいいのだが、なかなか見当たらない。そんな人を探しているうちに、いつの間にか変わることができなくなっているのではないかと、不安を感じる。
それとも、いろいろな人の中に、良い部分を見つけながらも見つけられないでいるのかもしれない。

答えを見つけ出すためには、人生はあまりにも短いが、答えなど探さずに生きれば、人生は案外ちょうどいい長さなのかもしれない。

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しまった!忘れてた。

2012年05月28日 | 家族
朝、歩きながら小説を読んでいたら、新婚の主人公が仕事で忙しく、新妻の誕生日をろくに祝ってあげられなかったことを嘆いている場面があった。

そこで、思い出した。

しまった!今日は妻の誕生日だった。



その日になってから慌てなくてもいいように、誕生日プレゼントは先週から用意し、息子の部屋に隠していたのに、その誕生日当日の朝、今夜の食事の相談どころか、『誕生日おめでとう!』の一言も言わず、いつもの月曜日の朝通りに出てきてしまった。
自転車で自宅前の坂道を猛スピードで下っていく私の背中を見て、妻はどう思っただろう。
新婚でなくても、連れ合いの誕生日くらい、覚えていなくてはいけない。

なんで忘れたかって?おそらくはいつもより一時間も早く目が覚めてしまうほど気合いが入っていたせいだろうと思う。今週から、心機一転頑張ろうと思い、今日、仕事に行ったらどうしよう、こうしようなどと考えていた。そうしたら、肝心のことを忘れてしまった。
この小説、ちょっと、はずれだと思いながらも、なんとなく先も気になり、とにかく早いとこ読み終えようと、大切な朝のぼんやり歩きの時間に、ほめられたことではないが、歩きながらまでして読んでいたのだが、こんな形で私を助けてくれるとは思わなかった。
下手をすれば、昼ぐらいまで、いや一日中忘れていたかもしれない。

さてどうしたものか、と悩んだが、さっさと謝ったほうがいいだろうと思い、病院手前の公園まで来たところで、妻に電話をしてお祝いを伝え、忘れていたことを詫びた。
電話口で妻は笑っていた。


午後の大雨には驚いたが、帰る時分にはすっかりやんだ。

ネットで探した職場近くのケーキ屋に注文しておいたバースデイケーキも、帰りがけに無事受け取った。
カンファレンスが終わる時間を見越したかのように、娘から「ケーキ覚えてる?」の確認の電話がきた。もちろん、返事は「うん、大丈夫」だった。
あとは、横須賀線でケーキが潰されないよう、気をつけて帰りさえすればいい。ただ、隠し場所がわからないので、プレゼントは、息子が塾から帰ってくるまで渡すことはできない。



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独身ぽさ

2012年05月27日 | こんきも
スーパーのレジに並んでいると、前の人の買っている品物が見える。その品物の内容から、その人の暮らしぶりを想像してしまうことがある。


妻と娘は女子バレーの応援、息子は朝から模試に行って、私は犬たちと留守番。
昼になって、逗子ハイランドの西友に買い物に出かけた。
そこで買ったのが、発泡酒、ノンアルコールビールに歯ブラシ、洗顔石鹸。
レジに並んでいて、ふと思ったのが、この品物たちのチョイス、独身ぽい買い物だなということ。最近はおひとり様用の品物も多いので、イコールおひとり様とすぐわかることが多いが、品物の偏りからも独身であることがうかがえることがある。

こういうのはある意味偏見だが、50がらみのオヤジが日曜日の昼に、歯ブラシやら、歯磨き粉を酒と一緒に買っているなどというのは、ちょっと物悲しい。

などと思っていたら、浄明寺に住んでいる子供達の同級生のお父さんが西友に入ってきた、声をかけたが、こちらには気がついてもらえなかった。彼は、何を買ったのだろう。

結局のところ、誰が何を買おうが、まあ、どうでもいい。

さて、5月は結局立ち直れず、土日の大部分は庭いじりと読書に使ってしまい、一度も(休日)出勤できなかった(平日は、もちろん、普通に仕事に行っています)。

来週末はもう6月。
明日から、再起動、といきたい。


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引き分けの論理

2012年05月26日 | こんきも
柔道家の山下泰裕氏が、北方領土問題についてのロシアのプーチン大統領の「引き分け」発言を評価していた。
この問題に関して、私なりの解決案などというものはない。私が生まれた時には既に存在していた問題で、「日本の領土だったけど、戦争に負けてソ連に占領された場所」という認識でこれまで過ごしてきた。アメリカが沖縄を返還したこともあって、ソ連も同様に返還してくれまいか、と思ったが、なかなかそうもいかない。それに、返還されたといっても、沖縄にも深刻な問題がいまだにある。北方領土問題にしても、沖縄問題にしてもそれぞれの問題の明確な解決策というのは、おそらくないだろう。アメリカにしても、ロシアにしても立場が違えば、ものごとの見方は日本とは真逆になる。

そこで「引き分け」。何をもって「引き分け」とするかは、これまた難しいことだろうが、「引き分け」という決着があってもいいのではないかと、私も思う。

山下氏は柔道を通じてプーチン大統領と知己であるようで、その「引き分け」発言を評価しているようだ。山下氏と言えば、1980年のモスクワオリンピック日本不参加の最大の被害者の一人であるといっていいだろう。当時、誰もが疑わない最強の柔道選手であり、その頃の日本国民の英雄であった。その英雄が、テレビで涙したのを高校生だった私はよく覚えている。

だから、「引き分け」なのかもしれない。

結局のところ、モスクワオリンピックに西側諸国が参加しなかった理由(ソ連のアフガン侵攻)も、いまでは多くの人が忘れているし、その効果もわからない。ロサンゼルスオリンピックに東側諸国が参加しなかったことと合わせ、少なくとも、オリンピックが多分に政治的なものであるということが世界中の人に認識されただけだ。外交上の勝ち負けということばかりにこだわっていたら、いつまでもケリがつかない。

そろそろ、「決着を着ける」ということにこだわるのはやめてもいいのではないか。
なんとなく、居心地が悪くても、それが、「引き分けのせい」とわかっていれば、居心地はよくなる。
領土問題は、国家存続の最重要事項であるが、先の大戦の負の遺産からの脱却を目指すためには、一部「引き分け」を考えてみるのもいいのではないかと、私も思う。


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クレンメルで指を切った

2012年05月25日 | 病理のこと
クレンメルで右手の薬指の腹を切ってしまった。
病理医は手術で摘出された臓器の切り出しや病理解剖で、ほぼ毎日刃物を振り回しているので、針刺し事故のような事故を起こすことがまれにある。だが、私の”事故”は刃物とは無縁の、意外なことだった。

顕微鏡で標本を観察する時の基本は、汚さないために、中央の組織が載せられている部分を触らないのは当たり前だが、ほかのガラス面もなるべく触らず、病理の番号やら、患者の氏名や識別番号が記載されている紙の部分を持って、顕微鏡のステージに置く。
       

このとき、標本をおさえている蟹爪の様になっている銀色の器具をクレンメルという。
クレンメルの名前は、病理医でも知らない人が多く、「標本をおさえるやつ/はさむやつ」とか、「ステージの上のアレ」とか、そんな呼び方をしている。
で、どうやって、指の腹を切ってしまったかと言うと、こういう感じで、クレンメルを薬指でどかしながら標本をセットしたときに、切ってしまったようだ。

切った時は、血も出ないような、わずかな傷であったのだが、どうも気になる。標本をセットする時はもとより、診断書を書くのにキーボードを叩く時もシクシクする。ほんの小さなとげが刺さったようで、それが抜けないという感じが続いて、うっとうしくなる。たまに、紙で手を切ることがあるが、ちょうどその切ったところが、たまたま標本をセットするときに使う指の場所という感じだ。

その、肉眼的に見ることのできないほどの小さな傷がクレンメルに当たらないよう、右手で標本を持ってセットするのが面倒になってしまった。代わりに、左手で標本のラベルのところを持って、右手でクレンメルを押しのけてセットすればいいのだが、標本の向きが変わると上下が変わってしまうので、左手でガラスの端っこをつまむように持ち、スライドガラスでクレンメルを押し上げながらセットすることにした。ガラスが多少汚れるが、致し方ない。


標本一枚用のクレンメルもあるのだが、これだと標本を一度に二枚載せられないので、ちょっと使い勝手が悪い。昔は、一枚用のクレンメルを使っていたが、追加の染色が多くなってきたので、いまではもっぱら二枚用しか使っていない。
    

顕微鏡というのは性能が上がっている割に、スマホやテレビ・ビデオのように訳の分からない機能が付加されていないという点で、興味深い製品である。

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自然な光

2012年05月24日 | こんきも
なにをもって、自然な光というのか。
基本的には太陽光をもってそういうのであろうが、火の灯りは自然ではないのか、というと難しい。
人類は短期間のうちに沢山の種類の光を手に入れた。

勤務先の病院の医局の照明の入れ替えが行われている。従来の蛍光灯から、LED蛍光灯に変えるようだ。
私のいるブースの上はすでにLED蛍光灯に変わっている。変わった当初はなんだか、紫色っぽい白、というか、おかしな気分だったか、じきに慣れてしまい、今ではなんとも思わない。

医局はとても広く、半分はまだ従来の蛍光灯を使用している。まだ使えるので、そうしているのだろう。そちら半分はなんだか黄色っぽい。

手洗いはまだ従来の蛍光灯なのだろうか、色が黄色っぽい。
廊下もまだ、従来の蛍光灯のようだ。

こうなってくると、どういう光が“自然”であるのかよくわからなくなってくる。
現代の日本人の多くは分娩室で生まれるはずなので、はじめに見る光のほとんどは、人工灯の光であるはずだ。それも、蛍光灯。そのうち、LED蛍光灯になっていくのだろう。

私の仕事部屋である、病理診断科の照明は従来の蛍光灯が入っている。幸いにも外に面しているので、太陽光も入ってくるし、ちょっと離れたところにある、いつもの公園の緑も見える。

太陽光は朝、黄色がかっているが、昼間は真っ白、そして夕方赤くなって、沈む。
病理診断でも光量をいろいろに調節して診断することがある。そもそも色の着いていない組織に色を着けて、診断をするが、この場合、自然光というものを規定することは困難だ。
顕微鏡の光源にも近頃LEDが使われるようになってきた。真っ白すぎるような気がしたが、慣れれば、今使っている、白熱灯のものよりも視認性が上がるかもしれない。それで、診断能力も上がるのであれば、すぐにでも更新するのだが・・・(実際は、予算の都合上困難)。
それに、この程度(光源が白熱灯か、LEDであるか)の違いは、弘法筆を選ばずの範疇のようである。

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ディスカッション顕微鏡で

2012年05月23日 | 病理のこと
病理診断科には標本を一度に数人で診ることができるディスカッション顕微鏡がある。
小さな二人用から、大きいものだと十人用とか、もっと大きいものまである。

病理標本を複数の病理医が一緒に診て、診断のための意見交換(ディスカッション)をはじめ、後輩と一緒に診て教育したり、臨床医への説明などにも使う。

だいたいはドライブする人(顕微鏡を操作して、標本の診たい場所を出す人)が、いろいろしゃべるのだが、これがクセもの。いろいろ動かして、診断をしていくのだが、自分が知らない病変とかがあったりすると、困る。最初から、難しいとわかっていればまだしも、結構簡単そうな症例を後輩に相談されたりすると、普段何でも知っている(わけではないが、ある程度は知っている)ような顔をしている手前、わからないことがあると困る。

あるとき、優秀な後輩に難しい症例を相談された。わからないのは、良かったのだが、その後輩、けっこう論理的な診断能力が高く、さまざまな染色などを行った上で、正しい診断を下していた上で、私に持ってきたのだった。
そこに、運悪く、というか、ほかにも病理医が居合わせて、数人でディスカッション顕微鏡で標本を診ることとなった。そこで、顕微鏡をドライブしていた私が、その後輩の診断の過程上の所見を見落としてしまった。それを、一緒に診ていた別の後輩に指摘され、先輩としての面目丸つぶれとなってしまった。

穴があったら入りたいとは、まさにこのこと、そのとき恥ずかしかったことといったら、今でも忘れられない。

昔、そんなことを同期の病理医と話したことがあるが、そのとき、その病理医がこういったことも忘れないでいる。
「自分から何か言っちゃダメなんだよ、偉い先生っていうのは、うーん、とか唸ったっきり、何も言わないんだよ。」
確かにそう。これならば、間違いを言うことは絶対にない。

あと、私の先輩でこういう病理医もいた。
「お前、どう思う?」
これもまた、素晴らしい。同意できれば同意すればいいし、わからなければ、こっちもわからないと言えばいい。

とはいっても、結局のところ、どちらも後から考えれば相手に投げていることはバレバレである。

たまには大恥をかくことを覚悟の上で進むか、恥をかくのはよしとせず、常に相手に投げて進むか。

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私の方こそ嫌なことをしている

2012年05月22日 | 通勤
通勤途中、三度も嫌なことがあった。
”あった”というよりは、嫌なことを人にしてしまった、というほうが正しい。

一つは電車で座ろうとしていた人がいた席にそうとは気づかず、自分が座ってしまった。朝の椅子とリゲームで、タイミングが悪かったと言えばそれまでなのだが、さぞ嫌な気分がしただろう。その人も無事別の場所に座れたのでよかった。降り際にでも謝ればよかったが、最後まで会釈一つで着なかった。
もう一度はコンコースを歩いている時に、前を歩いている女子学生の靴のかかとを踏んでしまった。それほど、ちんたら歩いていたわけでもなく、私もちょっと急いでいただけだったのだが、軽く踏んでしまった。学生さんには一瞥されたが、謝るタイミングが掴めず、そのまま立ち去ってしまった。
最後は、道路を歩いているとき。制限速度30キロの道路を50キロくらいで走ってきた車がいたので、迷惑顔で運転手を睨みつけたら、病院の顔見知りの職員だった。相手も相手だが、目くじらを立てて睨みつける方も上品ではない。

あれ?何やっているんだろう?早く謝らなくちゃ!と思っているうちに何もできない。
気がついただけでこうなんだから、そうでなければこの10倍くらいは、なんだかんだで目障りなことをしているのではないだろうか。

世の中の身に降りかかることにあれこれ文句ばかり言っていていながら、実際のところはこんなもの。どうみても私の方こそ周りに迷惑をかけている。

いつも、穏やかで、優しい気持ちで過ごし、そして、周りに迷惑をかけず、静かに生きていけたらいいのだが、なかなか難しい。
一日中、そんなことばかり考えて過ごしてしまった。


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追い越し時にトラブルか=渋谷駅刺傷事件―警視庁
時事通信2012年5月22日(火)05:27
 東京都渋谷区の東京メトロ渋谷駅で、男性が男に脇腹などを刺され重傷を負った事件で、男がエスカレーター上で男性を追い越す際にトラブルになったとみられることが22日、捜査関係者への取材で分かった。警視庁捜査1課は構内の防犯ビデオを解析するなどして逃走経路の割り出しを急いでいる。
 捜査関係者によると、男性は地下4階から同5階の副都心線ホームに下るエスカレーター上で、隣り合った男と言い合いになった後、いきなり殴られて刃物で脇腹などを刺された。
 男性がエスカレーター左側に乗った直後、男が後方から右側に乗り込んだといい、男が追い越す際にトラブルになったとみられる。
 男はホーム上を移動して階段などを使って上の階に逃走したとみられ、同課が行方を追っている。 
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人間にあって、人間以外の動物にないもの

2012年05月21日 | こんきも

乱暴な言い方だが、デカルト的自然観に立つと動物に感情は無いらしい。
だが、フラットコーテッドレトリバーのナイトの散歩好きは、見ればわかるし、夜、クレート(室内用の犬小屋)に入れられるのは嫌がる。犬だって、好きなことは好きだし、嫌いなことは嫌いだ。人間的な感情は無いが、動物なりの感情はある。

毎朝山から聞こえてくるシジュウカラ、ウグイスさらにはカラスの会話を聞けば、イルカでなくても動物同士が情報交換をしていることもわかる。人間にわからない方法で行っているだけのことだ。
この世で起きているありとあらゆる事象は人間が、人間の思考、言語で語っていることであり、人間がこの地球上での標準的な生物であるという前提で行っている。そんな調子だから、自然破壊がおこり、結局はしっぺ返しが自分たち自身に来る。話がそれたが、一面的な見方は、何が相手であっても厳に慎まなくてはならない。

だが、人間にあって、人間以外の動物に無いものが一つだけあると、最近思う。それは“好奇心”だ。

もちろん、人間以外の動物にも危険を回避するために、何らかの危険予知のための行動がある。だが、犬が歩き回るのは、基本的には餌や安全な場所を探すためで、散歩もその延長であり、欲求がかなえられて犬は嬉しい。

人間の好奇心というのは、こういったものとは異質のものである。
探検家は、領土拡大のためだけに世界各地をくまなく探したわけではないだろうし、多くの科学者は兵器を作るために研究をしているわけではない。地球の成り立ちを知るために、ハヤブサをイトカワまで飛ばすのは、人間の好奇心であろう。

人間の好奇心こそが、人間以外の動物との違いを規定しているように思う。それとも、結局のところ、好奇心も人の衣食住の安心を求めることの延長であり、突き詰めて言えば、人間以外の動物と変わるところは無いだろうか。

日食をみて、あれこれ考えるのは人間だけなのは、確かだと思うのだが。
それとも、日食メガネさえあれば、辺りが急に暗くなって不安になったら、ナイトも確認のために、太陽を見ただろうか。日食に際し、動物の動きを観察する研究があったようだが、結果はどうなるだろう。

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