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今日のうた

思いつくままに書いています

二十歳の原点 (1)

2019-08-20 05:40:19 | ⑤エッセーと物語
高野悦子著『二十歳の原点』を読む。
高野さんと私はほぼ同じ世代だ。
この本がコミック化されたという記事を読み、これまで小説を読んでいなかったので
本屋に買いに行った。
まさかないだろうと思ってはいたが、文庫コーナーにありました。
昭和54年発行、平成29年版は54刷になっている。

高野さんは1967年に立命館大文学部史学科に入学し、
大学紛争がエスカレートする中で、自ら行動すべくバリケードに入る。
そして1969年の6月に鉄道自殺している。
私が大学に入学したのは1969年なので、大学紛争が一番激しい時を知らない。
それでも立看やアジビラ、マイクからのまくし立てるようながなり声は日常だった。
内ゲバからキャンパスで人が殺されたり、キャンパス内で投石騒ぎがあったり、
学部の入り口にバリケードが築かれて、他のセクトの人間が締め出されたりして、
今では考えられないようなことが起きていた。
私は常に部外者だったので詳しいことは知らないが、
少なくとも当時の学生は、自らが社会の盾になるといった気構えがあったようだ。

高野さんは、「独りであること」、「未熟であること」、
これが私の二十歳の原点であると書いている。
どうやって生きたらよいのか分からずに悶々としていた当時を思い出すと、
この言葉が一番共感するところだ。
「私はいつもまじめであり真剣である。そして純粋さも持っている」と
ご自分を書いているが、繊細な感覚や周りに流されまいとする一途(いちず)さ、
そしてたくさんの本を読み、ジャズを愛し、煙草を愛した高野さんが
追い詰められていった時間は、あまりにも短い。
心に残った箇所を引用させて頂きます。

①私は弱い
 自分が何をやりたいのかさえわからない
 それでも朗らかに人と話し笑う
 しかし ふっと気づく
 なぜ笑い 話をするのだと不安になる
 その時 目に見えぬ世界が知らぬまに
 私の体を動かしているのに気づく
 それは地主の世界なのか
 サラリーマンの世界なのか
 マルクスの世界なのか
 資本の世界なのか 何もわからない

 自分の世界が私の知らぬまに存在している
 なんだかわからぬものによって
 私は動かされている
 激しい感情に身をまかせもせず
 生きる情熱も失せているまま

 私は煙草(たばこ)をすう にがい煙草をすう
 私はこの部屋の中で ここは私の世界だ
 しかし一たびここを出ると 私は弱くなる
 クラス討論の場で煙草をすわせない何ものかがある
 煙草を買うのを恥ずかしめる何ものかが存在する
 私は弱い

②自分の世界を作りあげようとすれば、すぐに政府という怪物にぶち当る。
 それは笑顔のうちに非情さと残酷さをもち、いつのまにかしのびよる煙のような
 怪物だ。ブルジョア新聞を読んで、あせりを感じるようでは、
 そんな怪物に太刀打ちできない。
 新聞、雑誌、本をよんで考えよう。人と話をしよう。これぐらいで自暴自棄になる
 なんて甘すぎる。政府や独占資本は巨大な怪物であることを銘記せよ。

 父と母の面前で煙草を吸って、両親と対決することができるだろうか。
 かみそりで指先を切るよりも、自分のほおを思いきり叩(たた)くことよりも、
 それは幾十倍の勇気がいることだろう。

③高石友也の「坊や大きくならないで」をステレオできく。
 ベトナムであの歌をうたっている数多くの女達がいるということを、
 一体どう考えたらよいのか。

  「マイケルズ/坊や大きくならないで(1969) YOUTUBE」からお借りします。
                 ↓
https://www.youtube.com/watch?v=vh0vtSmhQEw&list=PLbSHtUHzaL6lMWJNqX6aPnsnCPomN23aq&index=79&t=0s


④人間は醜い。ずっと前、横田君がいっていた。"I have my mother very much"
 翌晩、私は思った。"My mother is ugly, my father is ugry"
 彼らは動物的な肉体関係をもっているのに、そんなものとは遠く離れた世界の中に
 生きているふりをしている。その父と母から、性交によって生まれてきた私。
 キリストのいう原罪。そして私自身も醜い。鈴木との肉体関係をのぞむし、
 くさいくそもすれば、小便もする。メンスのときは血だらけになる。 ②につづく







 


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二十歳の原点 (2)

2019-08-20 05:40:00 | ⑤エッセーと物語
⑤もう五月である。じっとりと汗ばむ陽の光の中に、散りぎみの八重桜が重たく花を
 咲かせ、くまんばちが密(みつ)をすって花弁をのぞき回り、すっかり若草色になった
 地面には、黄色の可愛(かわい)いタンポポが青空の中で太陽光線をうけている。
 時々鳥の声がする。しかし、それが何だというのだ。それぞれ醜さをもって
 勝ち誇っている存在なのだ。

⑥暗闇(くらやみ)でもなく、明るい光線にみちあふれているのでもなく、ぼんやりとした
 何もない空間の私の世界。国家権力、そんなものは存在しているのかさえ定かでない。
 私自身の存在が本当に確かなものなのかも疑わしくなる。他者を通じてしか自己を
 知ることができぬ。他者の中でしか存在できぬ、他者との関係においてしか
 自己は存在せぬ。自己とは?自己とは?自己とは?・・・・・・

⑦人と話しても、どうということもありません。くだらないことを話しているよりも、
 黙っている方がよいのです。言葉が一体何なのでしょうか。
 言葉に束縛されるのは嫌いです。不誠実なことばかりしゃべるのもいやです。
 ただ黙って行動するだけです。
 どうしてみんな生きているのか不思議です。そんなにみんなは強いのでしょうか。
 私が弱いだけなのでしょうか。でも自殺することは結局負けなのです。死ねば何も
 なくなるのです。死んだあとで、煙草(たばこ)を一服喫ってみたいといったところで、
 それは不可能なことなのです。

⑧現在の資本が労働力を欲しているが故(ゆえ)に、私は、そして私たちは学力という名の
 選別機にのせられ、なんとなく大学に入り、商品となってゆく。すべては資本の論理に
 よって動かされ、資本を強大にしているだけである。

⑨はっきりしていることは、己れが存在し、矛盾と混沌に満ちておることだ。それは、
 己れがまた現代に生きる人間、もの、動物、すべてが商品となって間化、物化、
 機械化され、資本という怪物により支配されているという矛盾であり混沌である。
 考えることも感じることも、行動することも、支配されている現代の人間。
 いかにして現代社会から人間をとり戻すのか。いかにして己れの人間としての存在を、
 自らのものとして発展させるのか。方向は支配者との闘い、独占との闘いの方向に 
 しかないことは明らかなのだが。私の存在の軸は何なのか。

⑩未熟である己れを他者の前に出すことを恐れてはならない。
 マルクシズムのマの字も知らないからといって、帝国主義の経済構造を知らない
 からといって、現在の支配階級に対する闘いができないという理由にはならない。
 私の闘争は人間であること、人間をとりもどすというたたかいである。自由をかちとる
 という闘争なのである。人間を機械の部品にしている資本の論理に
 私はたたかいをいどむ。
 その一方で私は私のブルジョア性を否定して行かなければならない。
 その長い過程で真の己れを形成し発展させていく。それは苦しいたたかいである。が、
 それをやめれば私は機械になる。己れが己れ自身となるために、そして未熟であるが
 故(ゆえ)に、私はその全存在をさらけ出さなければならない。  ③につづく







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二十歳の原点 (3)

2019-08-20 05:39:07 | ⑤エッセーと物語
⑪なぐられたら殴りかえすほどの自己愛をもつこと。

⑫「ティファニー」にて
 一切の人間はもういらない
 人間関係はいらない
 この言葉は 私のものだ
 すべてのやつを忘却せよ
 どんな人間にも 私の深部に立入らせてはならない
 うすく表面だけの 付きあいをせよ

 一本の煙草(たばこ)と このコーヒーの熱い湯気だけが 
 今の唯一(ゆいいつ)の私の友
 人間を信じてはならぬ
 己れ自身を唯一の信じるものとせよ
 人間に対しは 沈黙あるのみ

⑬一・00PM
 生きている 生きている 生きている
 バリケードという腹の中で 友と語るという清涼飲料水をのみ
 デモとアジ アジビラ 路上に散乱するアジビラの中で
 風に吹きとび 舞っているアジビラの中で
 独り 冷たいアスファルトにすわり
 煙草の煙をながめ
 生きている イキテイル

 機動隊になぐられ 黒い血が衣服を染めよごしても
 それは非現実なのか!
 おまえは それを非現実というのか!
 しかし何といわれようと 私は人を信じてはいないのだ!

 警察官総数八万四千人
 十万の人をもってすれば警官は打ち破れる
 自衛隊員の総数二十五万人
 三十万人の人をもってすれば自衛隊はうち破れる
 しかし その十万人の人 三十万人の人とは一体何なのだ

⑭旅に出よう
 テントとシュラフの入ったザックをしょい
 ポケットには一箱の煙草(たばこ)をもち
 旅に出よう

 出発の日は雨がよい
 霧のようにやわらかい春の雨の日がよい
 萌(も)え出でた若芽がしっとりとぬれながら

 そして富士山の山にあるという
 原始林の中にゆこう
 ゆっくりとあせることなく

 大きな杉の古木にきたら
 一層暗いその根本に腰をおろして休もう
 そして独占の機械工場で作られた一箱の煙草を取り出して
 暗い古樹の下で一本の煙草を喫(す)おう

 近代社会の臭(にお)いのする その煙を
 古木よ おまえは何を感じるか

 原始林の中にあるという湖をさがそう
 そしてその岸辺にたたずんで
 一本の煙草を喫おう
 煙をすべて吐き出して
 ザックのかたわらで静かに休もう
 原始林を暗やみが包みこむ頃になったら
 湖に小舟をうかべよう

 衣服を脱ぎすて
 すべらかな肌をやみにつつみ
 左手に笛をもって
 湖の水面を暗やみに漂いながら
 笛をふこう

 小舟の幽(かす)かなるうつろいのさざめきの中
 中天より涼風を肌に流させながら
 静かに眠ろう

 そしてただ笛を深い湖底に沈ませよう       (引用ここまで)

※この美しい詩で終わっています。







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長崎の痕(きずあと) ①

2019-08-06 17:53:27 | ①核と人間は共存できない
大石芳野写真集『長崎の痕(きずあと)』を読む。
長崎に落とされた原子爆弾により被爆された方々の、証言と写真が載っている。
証言された方がどこで被爆したのかを見ると、兵器工場が目立つ。
「三菱兵器大橋工場(後に三菱兵器住吉トンネル工場に疎開)」、
「川南工業香焼島造船所」、「三菱造船所」、「三菱重工業長崎兵器製作所」、
「三菱製鋼所」、「三菱工作隊本部」、「三菱造船所立神工具工場」、
「三菱電機長崎製作所」、「三菱造船所幸町工場」・・・・・・。
(言い方が違うだけで、同じものもあるかもしれません)

●〈ヒバクシャーー核時代を生きるホモ・サピエンス 朝長万左男〉より
 引用させて頂きます。

 江戸時代の長崎は、明治維新まで一貫して西洋文明の摂取に専念する
 国際都市であった。海軍、医学、語学、造船、炭鉱、出版、食物、料理などの
 文化が長崎を通して日本中に広がった。
 明治期の日本の帝国主義模倣時代には、殖産、興業に多大な貢献を果たした。
 昭和に入り、第二次世界大戦になると、造船業の長崎では戦艦「武蔵」の建造で
 そのピークを迎えていた。造船所と種々の軍需産業が建ちならぶ浦上川沿いの
 工業地帯は、戦争末期の昭和20年のはじめには、連合軍の無差別爆弾を
 必然的に受ける標的となる運命にあったことを長崎市民は誰も
 まだ知るよしもなかった。それが原爆であった。

 瞬間的爆発から放出されたガンマー線と中性子線からなる初期放射線は
 1分程度つづき被爆者の全身を貫いた。
 細胞の核の主成分のDNA(その中に27000個の遺伝子が含まれる)の鎖が
 標的となり、放射線の高線量被曝ではDNA鎖はずたずたに切断され細胞の死を招き、
 それはただちに臓器の破壊につながり、多くの被爆者が原爆3か月の間に
 重傷の急性放射線症によって死亡する原因となった。
 低~中線量の被曝ではDNA鎖の切断は細胞死ではなく、DNA鎖に傷を与えるに止まる。
 その傷はいくつかの遺伝子の修復力によって快復し、被爆者はいったんは
 健康を取り戻す。

 しかし3年後からは早くもこのDNA修復のミスから臓器の腫瘍が誘発され始める。
 はじめに白血病が子どもに現れ、次第に大人にも多発するようになった。
 15年後には種々の固形癌が発症し始め、これは今日まで持続する後障害となり、
 ここに「生涯持続性」が明白となっている。
 簡単に説明すると、放射線は細胞を標的とし、たくさんの遺伝子が乗っている
 DNA鎖を傷つけ、数十年の潜伏期間ののちに被爆者に腫瘍の発生をもたらす。
 現在は二つ目、あるいは三つ目の腫瘍をみる「多重癌」も少なくないため、
 被爆者にとって大きな心と身体の負担となっている。   (引用ここまで)

●〈造船と軍需産業の町で〉より引用させて頂きます。

 「魚雷」も国力の象徴として対米戦争の要の一つだったが、アメリカは日本に先駆けて
 原爆を開発し、成功させた。三菱製作所だけでも、全体の従業員と
 学徒報国隊(学徒動員)、女子挺身隊を含めて「1万7793人のうち原爆による
 死亡者は2273人、負傷者は5679人」と同社史は述べる。
 実際の数は遥かに上回ったと推測されている。
 徴用された朝鮮人労働者の被害も多大だった。  (引用ここまで)

1945年8月6日に広島に落とされたのはウラン235爆弾だ。
そして3日後の長崎に落とされたのはプルトニウム239爆弾だ。
たった3日後に別の種類の原子爆弾が落とされたことから、
これは太平洋戦争を終わらせるためではなく、ウラン爆弾とプルトニウム爆弾の
両方を実験したかったからに他ならない、と私は思う。
(⑦の最後に、アメリカ軍が撒いたビラの内容が載っています)
是非、世界中の人がご自分の目で、この写真集を見て欲しいと思います。

●〈ある晴れた日に〉から引用させて頂きます。

 北東の空からアメリカ軍機が飛んできた。晴れ渡った長崎の青空のなか、
 急降下したそのB29は、目的を遂行して去って行った。
 警戒警報も鳴らされなかったために、人びとは、上空500mという間近から
 もう一つの太陽に晒された。火の玉は直径100mもあり、30万~100万°Cに
 達したと推定されている。
 西洋文化を受け入れて豊かな精神を育み、つつましく暮らしていた市民に
 アメリカが落とした原子爆弾の惨劇は余りにも深刻だ。当時の長崎市民21万人、
 うち約15万人が瞬時に死傷したから、3人に2人がやられた。その後も原爆症で
 次々に亡くなり、今や18万人以上が鬼畜に入った。

 長崎の〈ある晴れた日〉の悲劇から50年、いや70年、いや90年・・・・・・、
 人びとは暗黒の記憶と蝕まれる身体と闘わなければならない日々を生きている。
 当人のいのちが果てて終わるものではなく、さらに苦悩は続く。子や孫に、曾孫に、
 そして関係者や私たちにも。終わることがない果てしない記憶が、
 どこまでもどこまでも追いかけてくる。      (引用ここまで)

●谷口稜暉(すみてる)さんは郵便を配達途中に被爆し、背中から腰全体に大火傷を負った。
 1年9か月間、うつぶせ状態で、「ベッドの上が毎日食堂になり、また便所」の
 日々だったという。肋骨、顎、左頬が床ずれになり左ひじは伸びなくなった。
 谷口さんの言葉を引用させて頂きます。

 こんな苦しみは私たち被爆者だけでたくさんだ。
 それだけに日本の核武装への道への不安は大きい。
 決してあってはならない。

 身体の傷痕は「見世物ではない。だが、私の姿を見てしまったあなたは、
 どうか目をそむけないで、もう一度よく見てほしい。
 私は奇跡的に生き延びたが、今もなお私たちの全身には
 原爆の呪うべき爪痕がある」と25年後の『長崎の証言』で述べている。
 思いは亡くなるまで同じだった。     (引用ここまで)    ②につづく


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長崎の痕(きずあと) ②

2019-08-06 17:53:10 | ①核と人間は共存できない
原爆症認定は、なぜこんなにも困難を極めるのだろう。
放射能はきっかり何キロ以内にだけ降り注いだとでも言うのか!
(④の終わりに詳しく書いてあります)

●松谷さんの証言を引用させて頂きます。

 1977年に原爆症認定を厚生大臣に申請したが却下され、異議申し立てを繰り返して
 20年が過ぎた。国は最高裁に上告したが、多くの人たちの協力を得て
 2000年に勝訴した。2㎞以上でも認められたのは彼女が初めてのケースとなり、
 ナガサキ、ヒロシマに広がった。 (引用ここまで)

●岩永さんは自宅の縁側にいて被爆したそうです。証言を引用させて頂きます。

 ピカーッとなり俯せになったが、背中と両腕、足、顔に大火傷を負い、
 家の下敷きになって右足を挟まれた。皮膚が垂れ下がっていたがはぎ取って、
 死体の山また山をまたいで逃げた。中2に時、歪曲した足の手術をしたが治らず、
 今も痛む。原爆認定を何度も申請したが、却下された。 (引用ここまで)

●〈キリシタンの祈り〉より引用させて頂きます。

 250年もの間、潜伏して自分たちだけで信仰を守り続けた「潜伏キリシタン」と
 呼ばれる信者も少なからずいた。やがて30年間かけて1925年に東洋一を誇る
 煉瓦造りの浦上天主堂を建てた。が、その後、原爆で崩壊した。
 すでに被爆から2か月後には、遺構として残そうという声が挙がったが、8年後、
 当時の市長、市議会らは街の発展が大事だといて否定した。
 歴史の彼方に消えた浦上天主堂の惨禍は、敷地内に並ぶ聖人や天使の石像などから
 うかがうばかりとなった。      (引用ここまで)
 (浦上信徒は約1万2千人いたが、その約8500人が爆死した)

●高見三明さんは2003年に大司教になり、「長崎9条の会」が設立される時に
 宗教界から呼びかけ人として加わった。高見さんの証言を引用させて頂きます。

 日本には16のカトリック司教区があるが、ほぼ全員の司教が「9条」を守ることで
 一致している。戦争になると宗教は意味がなくなる。利用されるか、迫害されるか。
 戦争を起こす環境を作ってはならない。
 「『9条』は政治だけの問題ではなく、人権、生活を守るために必要なものだ」。
 (引用ここまで)

●伊江ご夫妻の証言を引用させて頂きます。

 沖縄からは1000人位が長崎の軍需工場に徴用された。三菱造船の工業青年学校に
 入学したが1年で終わって現場に行かされ、飽の浦(3・2km)で被爆。翌年末に
 沖縄に戻ってから酷い下痢が続いたが、米軍によって収容所に囚われても
 原爆とは言えなかった。
 妻の弟(12歳)は学童疎開の対馬丸に乗船していて犠牲になった。(引用ここまで) 

●三田さんの証言を引用させて頂きます。

 1944年8月22日、沖縄から長崎港に向かった3隻の疎開船の1隻、対馬丸が
 米潜水艦の魚雷攻撃を受け2隻の前で沈没、犠牲者1484名を出した。
 対馬丸は、日本郵船のT型貨物船で、大勢の子どもたちが海に沈んだが、
 箝口令が敷かれた。生き延びた2隻の人びとは長崎港に上陸した。
 「ほとんどが女性で、みな俯いて悲しみの底にあって何かに耐えている哀れな姿
  だった。まるで雨に濡れて電線に泊まるツバメのよう。その姿が目に焼き付いて、
  今でも雨の日の小鳥たちを見ると、あの時の光景をありありと思い出す。
  こういう格好で、ここにじっとしていた」とその姿を示した。 (引用ここまで)

●坂本さんの証言を引用させて頂きます。

 心臓の手術2回、家の下敷きで腰を痛め入退院を繰り返している。今も恐い夢を見る。
 「今の政権は戦前に戻そうとするようで心配だ。食事は美味しいけれど、
  戦争が突然始まったらどうしようと不安になる」。 (引用ここまで) ③につづく


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長崎の痕(きずあと) ③

2019-08-06 17:52:52 | ①核と人間は共存できない
●朝長万左男さんの証言を引用させて頂きます。

 中町の自宅(2・7km)で被爆し、爆風で家は崩れ15分ほどで延焼したが、梁と梁の
 間にの隙間で助かった。長崎大学医学部原子爆弾後障害医療研究所(原研)で
 教鞭をとり、定年退官後も被爆者の白血病研究を続ける。
 「原爆白血病は終わったと思ったがまだ消えず、第二の白血病(別名MDS)となった。
  被爆者においては、発症は生涯持続する」  (引用ここまで)

●城臺(じょうだい)美禰子さんの証言を引用させて頂きます。

 2014年8月9日の原爆犠牲者慰霊平和祈念式典で被爆者代表の 「平和宣言」をした。
 「被爆の実相を語り継ぎながらフクシマとも繋がっていきたい」。 (引用ここまで)

●川野さんの証言を引用させて頂きます。

 生まれは北朝鮮の中国国境の平安北道。父親の召集で、41年に母親と兄弟3人は
 長崎に帰省した。父親は満州匪賊討伐決死隊に参加した。父は酔うと
 「あのころは電信柱に首がぶら下がっていた」「若い男は網で捕まえた」などと
 話していた。母親もその種の写真を持っていた。
 「父が自ら手を下したか否かは分からないが、加害側にいたことになり、その息子で
  あることは確かだ」。加害と被害を身をもって体験していることもあり、
 平和運動に身を投じている。   

 2017年国連で採択された核兵器禁止条約への署名を政府に要求したが回答なし。
 8月9日、長崎を訪れた安倍首相に要望書を手渡ししながら
 「あなたはどこの国の総理ですか。
  今こそあなたが世界の核兵器廃絶の先頭に立つべきです。」と直言した。
 そして「被爆者の願いがようやく実り、核兵器禁止条約ができた。
 私たちは心から喜んでいます。私たちをあなたは見捨てるのですか」と詰め寄った。
 要望書には「長崎の被爆者は満腔(まんこう)の怒りを込め、
 強く抗議する」と明記した。   (引用ここまで)

●山川さんは被爆遺構巡りの案内人を引き受けている。証言を引用させて頂きます。

 浦上刑務支所の中国人原爆犠牲者追悼碑の前で、修学旅行生に説明をする。
 「戦時中、日本は約4万人の中国人を強制連行し、炭鉱や鉱山、港湾、土木工事
  などで過酷な労働を強いて、わずか1年余りの間に6830名もの死者を
  出しました。・・・」と刻まれている。   (引用ここまで)

●山口さんは、お姉さん(9歳)の言葉が平和公園の噴水の石碑に刻まれている。
 引用させて頂きます。

 「のどが乾いてたまりませんでした
  水にはあぶらのようなものが一面浮いていました
  どうしても水が欲しくてとうとうあぶらの浮いたまま飲みました」。
  (引用ここまで)

●横山さんの妹律子さんは44歳で亡くなるまでほとんど入院生活だった。
 証言を引用させて頂きます。

 「私の最初の記憶が戦争と原爆の恐ろしい出来事だった。律子は身体の心底から
  熾(さか)るマグマのように湧き続ける憤りを、心の内に抱いていたでしょう。
  妹のような人生を送る人がいないように、というのが私の役割」。
 貧血に悩みながらも被爆者救済の活動に力を入れている。
 「あの日に亡くなった人たちを無駄死にさせないために
  『憲法9条』はあるのだと思い、私の道標にしている」。(引用ここまで)
④につづく


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長崎の痕(きずあと) ④

2019-08-06 17:52:33 | ①核と人間は共存できない
●俳句で「原子の火ヒトに渡した神の悔い」と詠んだ池田さんの証言を
 引用させて頂きます。

 「1発の原爆が無辜の民を殺傷し、人生を狂わせた。1万発余の原爆を保有しながら、
  人道だ、正義だと。今や人間も絶滅危惧種だと自覚すべきだ」。  (引用ここまで)

●山崎さんの証言を引用させて頂きます。

 「遺骨も分からない両親たちのことを考えると、
  絶対に三度目は許されてはなりません」。   (引用ここまで)

●竹下さんの証言を引用させて頂きます。

 1992年に平和公園に長崎刑務所浦上刑務支所の死刑場の地下室と階段が
 出土したことで、被爆遺構にとの市民運動を起こし活動したが、願いは叶わなかった。
 下の川の護岸工事の時には、元の住宅81軒や人骨が出土した。ここで520余人
 のうち400余人が直撃で家屋もろとも亡くなったが、工事によって沢山の遺骨や遺品、
 住宅跡などが処分された。僅かに残ったなかから許可を得て持ち帰った、
 焼け溶けたビンの破片を手にしながら「埋もれていた頭骨に乳歯が5~6個
 残ったのがあり、涙が溢れ出た」。      (引用ここまで)

●居原さんの証言を引用させて頂きます。

 IPPNW(核戦争防止国際医師会議)会員として大会に参加し、
 ICAN(核兵器廃絶国際キャンペーン)の主張を聴いて共感した。
 「健康は平和でないと成り立たない。私を含め健康に携わる医師はそれを
 自覚すべきだ。医師が核兵器廃絶や、環境保護への努力を強めないと
 未来は拓けない」。   (引用ここまで)

●松江さんの証言を引用させて頂きます。

 「平和すぎるせいか、若者が考えなくなった。無関係の人を殺し、お金、お金。
  大企業中心の政治。間違っている」。   (引用ここまで)

●〈分断された「被爆」--被爆体験者〉から引用させて頂きます。

 「被爆体験者」という言葉をご存じだろうか。ヒロシマでもナガサキでも、
 原爆で被爆した人は皆その「体験者」のはずだと、誰もが単純に思う。
 実はそうではない。ヒロシマにこの言葉はは存在しない。
 広島では広範囲に降り注いだ「黒い雨」による
 胎内被曝が問題になっているが、行政が歪んだ円での線引きはしていない。

 けれど、長崎では、ほど旧長崎市内にあたる、
 爆心地から半径南北12km、同東西7kmで
 被爆した人たちを被爆者とし、
 その範囲外だと、半径12km圏内でも
 被爆者と認めないと規制したのだ。


 実際にはそうした地域にも、黒い雨どころか閃光も爆風も届き、家屋が壊れたり
 燃えたりしたうえ、地上から巻き上げられた破片なども灰のように降り注いだ。
 地表での爆発ならば山々で遮られたかもしれないが、上空500mでの爆発だった。
 放射性微粒子を含んだ原子雲は、放射性微粒子が「同心円」状に広がって
 地上に降り注ぎ、呼吸や飲食により人びとの体内に取り込まれた。

 原爆の直後から原爆症特有の嘔吐や脱毛、歯ぐきからの出血などが起こり、
 白血病や癌、心臓病、脳症、肝臓病、糖尿病、帯状疱疹、白内障などの病が
 多重に襲いかかってきている。爆心地周辺で被爆した人とも同様に、
 身体的な問題が歳を重ねてから再発するだけでなく、PTSDのような精神的な苦痛も
 歳とともに重くなっていると専門医らは述べる。

 岩永さんは「私たちを被爆者ではないと国や県、市が言う根拠は、内部被曝と
 低線量被曝でもたらされる害はないという点だ。けれど多くの人たちが、原子雲
 が立ち込め、太陽は卵の黄身のような色に見えたと言っているので、原爆の
 影響に違いない」と訴える。

 「被爆体験者」と括られた人たちへの冷淡さは国や県の行政ばかりではない。
 裁判でもまさかの敗訴が続く。結局、私たち被爆国民の一人ひとりとしての
 意識がかれらを救うことになる。  (引用ここまで)   ⑤につづく
 




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長崎の痕(きずあと) ⑤

2019-08-06 17:51:17 | ①核と人間は共存できない
●布留谷さんと徳永さんの証言を引用させて頂きます。

 「生活用水は水槽に溜めた井戸水。降り注いだ灰などは避けられなかった」。

●吉田さんと鈴木さんの証言を引用させて頂きます。

 「マツヤニ採りは村人総出でだったが飛行燃料には役立たなかったらしい」。

●岩永さんの証言を引用させて頂きます。

 「行政の線引きは、裁判で楽勝だと思っていた。誰が見てもヘンだと分かる
  線引きだから。当たり前のことが通らないのが裁判であり行政」。

●松田さんの証言を引用させて頂きます。

 「入市被曝」を2度申請したが却下された。「役所は子どもを認めたがらないのは、
  長い出費を阻止したいのかと疑っている」。

●松尾さんの証言を引用させて頂きます。

 友だちは白血病になり小学2年生の時に亡くなった。この辺は「流行り病」のように
 白血病が多かった。当時は放射能が原因と分からなかった。

●〈記憶の継承〉より引用させて頂きます。

 トルーマン米大統領は「日本はパールハーバーの何十倍もの報復をうけた。
 それは原子爆弾である。この期におよんでもなおポツダム宣言の受諾を拒否するなら、
 有史以来最大の破壊力をもつ爆弾の雨がひきつづき日本人の頭上に降りそそぐだろう」
 と8月6日の後に声明を出した。しかし大本営は「新型爆弾」としか伝えず、
 「勝利を収めて」からだと無視し、8月9日、2発目が落とされた。

 秋月辰一郎は綴る。「原子爆弾というものは、終始私たちには知らされず、歴史の流れの
 なかにぼかされていくのである」。アメリカ軍の原爆調査団が長崎に着いたのは
 40日も後だったから、40日間の空白は埋められなかった。
 「(アメリカ軍の)原爆症による死亡者が何年後には何パーセントになり、白血病は
  どうかわったなどという報告書は完成した。しかし、人間の運命についての調査は
  ついになされなかった」(『死の同心円』)。

  竹山広さんの歌
 黒き腹生きて動くを踏み越えし贖(あがな)ひに似て怖れあたらし
 あはれかの炎天の下燃えしぶる肉塊として記憶するのみ
 怒りなき長崎びとを鞭(う)たむとぞこの国の声ここにあつまる

  瀬戸口千恵さんの歌
 浦上川の水を堰きゐる幾百の死屍の傍を生けるは歩む
 爛(ただ)れたる真土(ひたつち)のうへに積み重ね教え子の屍体焼きしこの手か
 ケロイドの背は見せたくなしと哭けり肺切除手術決まれる少女  (引用ここまで)

●松尾あつゆきさんの句碑を引用させて頂きます。

 「降伏のみことのり、妻をやく火いまぞ熾(さか)りつ」としか。 (引用ここまで)
⑥につづく



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長崎の痕(きずあと) ⑥

2019-08-06 17:45:57 | ①核と人間は共存できない
●森田さんの証言を引用させて頂きます。

 「あと一歩、遅れていたら私のいのちはなかった。100分の1秒のいのち」
 「私と同じ子どもが大勢、一瞬にして消された・・・・・・
  その酷さを訴え、伝えていきたい」。      (引用ここまで)

●山田さんの証言を引用させて頂きます。

 浦上水源地のダム工事のために大勢のコリアンがいて、被爆して苦しむその子どもを
 助けなかったことが悔やまれる。
 爆心地から仲間に抱えられてきた両眼の飛び出た三菱の労働者の
 「坊や、この仇を絶対に討ってくれよ」ということばが忘れられない。
  今も戦時中の夢を見る。
 「気が重いのは核兵器廃絶に日本が入ろうとしないことだ」。  (引用ここまで)

●井原さんの証言を引用させて頂きます。

 2016年8月9日の平和祈念式典で被爆者代表として「日本が引き起こした
 加害の歴史も忘れてはならない」と平和の誓いで訴えた。  (引用ここまで)

●林田夫妻の証言を引用させて頂きます。

 「核は絶対反対。日本が核を持っていたら使ったでしょう。毒ガスも使ったのだから」。
  (引用ここまで)

●元山さんの証言を引用させて頂きます。

 「元気なうちに戦争の臭いのない状況にならないと、死んでも心残り」。
  (引用ここまで)

●権(クォン)さんの証言を引用させて頂きます。

 友人の誘いで日本に渡った父の後を追って母と3歳の時に来た。差別は酷かった。
 18歳の時に香焼島で結婚したが、人夫20人位の食事作りや水運びなど
 厳しかった。指紋押捺問題でも活躍した。  (引用ここまで)

●大倉さんの証言を引用させて頂きます。

 「日本は”空母”なんて言って、まるで戦前じゃないの。心配だ。
  もう繰り返してほしくないのに」。  (引用ここまで)

●吉岡さんの証言を引用させて頂きます。

 「若い人たちには特に戦争、原爆の切実な怖さを知って欲しい」。 (引用ここまで)

●三瀬(みせ)さんの証言を引用させて頂きます。

 「一番大事なものは何か?いのちやろ。いのちを大事にすることは物を粗末に
  しないことでもあるんよ」と子どもたちに語り掛ける。  (引用ここまで)

●2017年にチェルノブイリを訪れた末永さんの証言を引用させて頂きます。

 「30km圏内で生活する人たちの逞しさやふるさと愛には胸を打たれた。けれど
  科学者たちの安全性の強調や核エネルギー利用の必要性の説明には違和感があった。
  ナガサキもチェルノブイリも、共に核の被害に見舞われ苦しんでいることに
  変わりはない」。  (引用ここまで)    ⑦につづく
 
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長崎の痕(きずあと) ⑦

2019-08-06 17:44:21 | ①核と人間は共存できない
●被爆者代表、田中さんの「平和への誓い」を引用させて頂きます。

 「原爆は全く無差別に、短時日に、大量の人々の命を奪い、傷つけました。
  そして、生き延びた被爆者を死ぬまで苦しめ続けます。人間が人間に加える
  行為として絶対に許されない行為です。(中略)
  私は、多くの先人たちの働きをしのびつつ、速やかに『核兵器禁止条約』を発効させ、
  核兵器もない戦争もない世界の実現に力を尽くすことを心に刻み、
  私の平和への誓いといたします」。  (引用ここまで)

●国連事務総長として初めて式典に参加したアントニオ・グテーレスさんの
 言葉を引用させて頂きます。

 「悲しいことに、被爆から73年経った今も、私たちは核戦争の恐怖とともに
  生きています。ここ日本を含め何百万人もの人々が、想像もできない
  殺戮の恐怖の影の下で生きています。(中略)
  ここ長崎で、私は、すべての国に対し、核軍縮に全力で取り組み、
  緊急の問題として目に見える進歩を遂げるよう呼びかけます。
  核保有国には、核軍縮をリードする特別の責任があります」。  (引用ここまで)

長崎には遺構が少ない。街の発展のために撤去され処分された。同時に、土の中には
いまだ家屋や家財、人骨までもが埋まったままだ。

「反核 9の日 座り込み」が毎月9日に行われる。平和祈念像は1955年、北村西望が
制作した。ここには長崎刑務所浦上刑務支所があったが埋めて整地した。

●〈あとがき〉から、次の3つの言葉を引用させて頂きます。

 永井隆の言葉

 「鐘が鳴る。暁のお告げの鐘が廃墟となった天主堂から原子野に響き渡る。(中略)
  人類よ、戦争を計画してくれるな。原子爆弾というものがある故に、
  戦争は人類の自殺行為にしかならないのだ。(略)
  この浦上をして世界最後の原子野たらしめたまえと。
  鐘はまだ鳴っている」。   (引用ここまで)

 物理学者の湯川秀樹の言葉

 「私は『核は人類と共存できない』と確信している」。   (引用ここまで)

 最後に、アメリカ軍が撒いたビラに書いてあった言葉

 日本国民に告ぐ!
 このビラに書いてあることを注意して読みなさい。
 米国はいまや何びともなし得なかったきわめて強力な爆弾を発明するに至った。
 今回発明された原子爆弾は、ただその一個を以てしても優にあの巨大な
 B29二千機が一回に搭載し得た爆弾に匹敵する。
 この恐るべき事実は諸君がよく考えねばならないことであり、
 我々は誓ってこのことが絶対事実であることを保証するものである。
 
 我らはいまや日本本土に対して、この武器を使用し始めた。
 もし、諸君にお疑いがあるならば、この原子爆弾がただ一個広島に
 投下された際、いかなる状況を惹起したかを調べてご覧なさい。
 この無益な戦争を長引かせている軍事上のあらゆる原動力を、
 この爆弾を以て破壊する前に、この戦争を止めるよう
 陛下に心願することを望む。  (略)

 しかざれば我らは断固、この爆弾ならびにその他あらゆる優秀な武器を
 使用し、戦争を迅速かつ強力に終結せしめるであろう。

 トルーマン大統領の日本に向けた声明もあった。

 日本はパールハーバーの何十倍もの報復を受けた。
 これは原子爆弾である。
 この期におよんでもなおポツダム宣言の受諾を拒否するなら、
 有史以来最大の破壊力をもつ爆弾の雨がひきつづき
 日本人の頭上にふりそそぐだろう。        (引用ここまで)



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