物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

オイラーの公式2

2007-12-27 13:21:08 | 数学

Johさんへの返事として書いたことの一部をこのブログに再録しておく。

オイラーの公式の4つの導き方はその内の3つがcos x+isin xという式を基本にしており,これが複素数の極形式表示に関係している導出法が2つ、後一つはcos ^{2} x+isin ^{2}x=1を複素数で因数分解することからcos x+isin xという因数が出て来て、これが指数法則に従っていることを示し、それから微分方程式をつくり、オイラーの公式を出すという方法である。

オイラー自身は調和振動の方程式の見かけの違った解が二つ(三角関数型の解と指数関数型の解)得られたことから、その二つの表現が等しいということを級数展開で分かったらしい。この導出も入れると5つになる。

志賀浩二さんの「無限の中の数学」(岩波新書)を読むと上に述べた4つの導出法はいずれもオイラーの考えに起源があることが窺われる。後世の著名な数学者の誰かが「オイラーを読め」といったとかいうのもうなずける。

いずれにしても近頃はある種のオイラーブームのようである。オイラーうんぬんといった本が日本で数冊出ている。もちろんこのうちの少なくとも1冊は翻訳であるが。


うかい鳥山

2007-12-26 12:42:19 | 日記・エッセイ・コラム

先日の日曜日12月23日に義父、義母の改葬の法事があり、その後に義弟がこの法事への参列者を料亭の「うかい鳥山」に招待してくれた。

この料亭は高尾にあり、座敷がぽつぽつと別々の離れになっていて、そこに客が上がって料理を楽しむという風になっている。

仲居さんの説明では全体で350人ほどの人を一時に接待できるというから、10人づつの客のグループとして約35ほどの座敷の建物が傾斜した庭の中にあるということになる。

庭には池が各所にあり、鯉が泳いでおり,また水車がゆっくりと回っている。また庭の樹木の手入れも行き届いており、落ち着いた雰囲気である。

なかなか高級な料亭で普通の機会には私たちは来ることができないようなところであった。この料亭はもう亡くなった叔父がまだ存命の頃、義弟が叔母のお墓にお参りをしたときに出会ってつれて来てもらったところだとかで、そういう意味でも縁のあるところであった。

妻が冗談に私の小さな車Wagon Rでは来れないねと言っていた。確かに来ている客の乗用車も立派な車ばかりで小型車など見かけなかった。ともかく料理も立派で美味しく堪能した。帰りは高尾の駅まで義弟が車で送ってくれた。義弟に感謝、感謝。

行きは東京駅から中央線に乗って約1時間かかって高尾に着いた。東京駅から快速電車がいつも高尾行きが出るというのは知っていたが、実際に終点の高尾まで乗ったことも初めてなら、お墓の改葬等という法事に出席したのも初めてであり,また「うかい鳥山」に行ったのも初めてであった。

親戚の一部の人とも久しぶりにあって、楽しくお話ができたし、姪たちが美しく成長していて、またやさしくよく気のつくのにも感心した。

これは人に教えられてできることではないので、多分姪たちの人柄とか賢さによるのであろう。また話がきちんとできるのも感心したことの一つであった。


久しぶりの上京

2007-12-25 14:14:12 | 日記・エッセイ・コラム

3日ほど東京に行っていた。本当に久しぶりであった。友人宅を訪れ、妻の父母の改葬と親戚の人との会食、さらに息子のマンションの訪問といずれも忙しい3日であった。

航空機での旅は無事に着いてみるとこんな楽な旅はないが、無事に飛行できるだろうかと一抹の不安をかかえている。

無事に帰って来たら、やり残している仕事をやり終えるぞといつも思うのだが、また積み残しの仕事を抱えて旅に出る。あるものは自分自身が勝手に自分に課した仕事であるが、またあるものは浮き世の義理でしなくてはならないものである。

少なくとも浮き世の義理は果たさなければならないが、これがなかなか果たせない。でもそろそろ、その結末を迎えなくてはならない。


E大学生協30周年

2007-12-25 14:11:12 | 日記・エッセイ・コラム

私の勤めていたE大学の生協が30周年で記念の行事があって12月20日に出席した。記念式典の後でレセプションがあり、地元の酒雪雀とか地ビール等を味わった。30周年と聞いてもうそんなになるのかなと感慨深いものがあった。

大学のお歴々も来られていて、久しぶりに挨拶や話をすることができた。地域生協関係の人も来ておられたが,ごく一部の人を除いて話をする暇はなかった。また二次会に誘われたが、現在生協活動に携わっている訳ではないので、失礼をした。

仕事場に帰って12時までオイラーの公式のエッセイの入力をした。22日から久しぶりに上京する。


オイラーの公式

2007-12-21 00:21:11 | 数学

一昨日までオイラーの公式についてエッセイを書きたいなどとは思ってもいなかった。

それが雑誌「数学教室」の最新号に出ていた導出法に誘発されて、昨日からエッセイを書き始めた。

いま4つのやり方での導出を書くつもりである。一つだけでもその導出法を知っていれば十分かもしれないが、いろいろな導出を知っているのも悪くはあるまい。

私の友人の数学者Nさんが導いた方法もあるが、それを聞いたときにはさしてどうとも思わなかったのだが、やはり導出法も数がそろうと力になる。

こういった導出法を集めてみるとどうもなんだか蝶やトンボを収集しているような感じだ。ついぞ蝶やトンボを収集するという趣味はもたなかったが、蝶の羽根の色が、模様が違っているとか珍しいとか言って喜んでいるのと同じようなものであろう。

(2011.4.22 付記) 愛媛県数学教育協議会(愛数協)の機関誌「研究と実践」102号(2009.10)にすでにオイラーの公式の導き方のいくつかをまとめたものを載せている。

その導き方をどれか一つを知っていれば、関係式を理解するためには十分であるので、その導き方をいくつ知ってもしょうがない。

愛数協の「研究と実践」はマイナーな機関誌で、いかに数学好きでも一般の人の目にはつかないものであるので、この「オイラーの公式の導出いろいろ」をもっと一般の目に触れるところに載せたいと思わないでもないが、発表済みであるので、遠慮をすべきであろうと考えている。

私が編集人の一人を勤める、「数学・物理通信」で掲載する内容が、もしまったくない場合には、ひょっとして掲載するかもしれないが、現在はその予定はない。これは超幾何関数についてもまったく同様である。

(2014.8.22付記) 現在の気持ちとしては「オイラーの公式の導出いろいろ」は『数学・物理通信』にいつか載せたいと考えている。

しかし、投稿が多いので、なかなか掲載することにはならないのが残念である。もし、『数学・物理通信』に掲載すれば、インターネットでアクセスできるので多くの人の利用が可能となる。


正定値2次形式の条件

2007-12-20 11:49:47 | 数学

正定値2次形式の条件を2変数のときに自分で高校数学的に求めたみたら、どうも線形代数で出てくる条件と負号だけの違いが出てしまった。

どうしてなのか今のところわからない。線形代数の方が間違っているのかと思って2冊ほど線形代数の本を引っ張り出して見たが、間違ってはいそうにない。どうしたのだろう。

それで思い出したのだが,数学者の矢野健太郎が30年以上前に「大学入試問題予想法(数学)」という題の本を出したことがあった。私は初版しかもっていなかったが、第2版も出ていたと思う。

このような正定値2次形式の条件を求める問題等はさしずめ大学入試問題に数学の先生によって取り上げられそうな問題ではなかろうか。もっともこれは入試問題としてはちょっとやさしすぎるかもしれないが。

どうやって線形代数でこの条件を出しているかといえば、対称な実行列の固有値を求めてそれがすべて正であるならば,そのときにはその行列式は正であるというのがその条件である。

対称行列が直交行列で対角化できるとかその行列式の値は直交行列と元の行列と直交行列の転置行列の積で書け,その行列式の値は対角化された行列の行列式の値に等しいということを使っている。


理解や創造へのヒント

2007-12-19 12:25:52 | 数学

大学院生の頃にポントリャーギンの「連続群論」を輪講してもらったが、内容はほとんどわからなかった。そのとき池田峰夫先生に理解するためには「例を考えなさい」といわれた。もっとも例が考えられるようになれば、すでにかなり理解が進んでいると思う。Feynmanも具体的に「実例に則して理解せよ」と繰り返して言っている。

遠山啓を筆頭とした水道方式のグループでは「シェーマ」をよく使う。例えば,それは四則演算に対しては「タイル図」だったり、加減に関係した文章題だったら「テープ図」だったり、掛け算も入った文章題だったら「面積図」だったりする。また小学校での複合的な文章題だったら、この「テープ図と面積図」を併用して使ったりする。また代数の文字計算では「文字タイル」というのも使う。または関数については「ブラックボックス」を使う。

対数に対してこのようなシェーマがないものかと思っているが、そのようなシェーマを私は知らない。いまのところは「ある数の対数とは、底を10にとれば、その数の桁数である」と理解している。だからある数の小数の桁数もあると考える。たとえば、2の桁数は10の約0.3010 桁だといったように。1は10の桁が0であり、10は10の桁が1である。この0や1が1や10の対数である。

これはちょっと次元が整数でないフラクタル次元を考えるのとちょっと似ている。

数学者のポリヤは発見的推論の一つとして「帰納と類推」とを挙げているが、「比較対照する」というのは私の意識して用いて来た方法の一つである。

私の理解の一つのこだわりは「発見的にわかる」ということだ。分かったことを確認するだけではいつも不満に感じている。これは普通に本に書いてあることでは満足できないということを大抵の場合は意味するので、この要求が満たされたときには自分にとっては新しい発見がある。もっともこういう理解がいつでもできる訳ではないが。

できるだけ「統一的にものを理解したい」とも考えている。たとえば、微分と積分を一体にして考えたい。微分の公式と積分の公式をできるだけ一体のものと考えたい。このとき重要になるのは微積分学基本定理である。だからこれをどのように理解するか。これに関心がある。

それから「いくつかの違った方法で分かりたい」という欲求もある。特にこれはFeynmanが求めていた方法である。

解析接続とは「関数の定義域を拡げることだ」と思うが,そのやり方として少なくとも3つの方法があるという。その3つの方法のすべてについての例を知ってはいないので、これを知りたいと思っているが、それをはっきりと書いて満足だと感じた本にはまだ出会っていない。

創造または理解のヒントを私はこんなところに求めている。


広中平祐の『可変思考』

2007-12-18 11:54:39 | 科学・技術

木村 悠先生の『学習方法論の学林百話』を購入したときに同時に広中の『可変思考』も購入した。これが木村先生の本とよく似たある種の方法論の本であった。

まだ詳しくは読んでいないのだが,1、2カ所だけ拾い読みをした。その中で「掛け算は異質なものを、足し算は量的変化を生む」というのがあった。

その説明にもあったが、掛け算では新たな量が生まれる。足し算では新たな量は生まれない。これは遠山啓の『数学の教え方学び方』(岩波新書)ですでに以前から知っていることであるが,方法論として使おうという考えが広中さんの指摘の新しいところである。

新しい量は遠山啓によれば、掛け算または割り算で定義される。圧力なんて量もある面積に働く力ということで単位面積当りに働く力である。これは「内包量」といわれる量の一つである。温度も内包量である。例えば,30度の水1リットルに80度の水1リットルを加えても110度の水2リットルができる訳ではない。

内包量には数学でいう加法性がないのだ。このように内包量は足し算ができないといわれる。特別な場合に足し算ができる場合もあるが、まずはできないと思っていた方がよい。足し算のできる量は「外延量」と言われることも付け加えておこう。

「外延量と内包量」を小学校で学んでおくといいのだが、大学の熱力学で「示量変数、示強変数」というのを学ぶまで知らないという人が多い。いや私などは大学でも示量変数、示強変数という用語さえも学んだ覚えがない。物理の先生もこういった点をしっかり教える必要がある。

ところで唯物弁証法では「量の蓄積が質の変化をもたらす」という考えがあり、たとえば、つまらない研究と思われることでも長年の蓄積でそれの価値が逆転するということもあり得る。これなどは数学的な足し算と掛け算とは違う側面をもっているのではないか。だからものごとには形式論理では捉えられない側面もあると思う。

もっとも広中平祐さんには唯物弁証法等は無縁かもしれないが。


学習方法論の学林百話

2007-12-17 15:13:02 | 科学・技術

先日大学生協で標記の本を入手して、ざっと読んだ。木村悠先生には直接に学校で教わったことはないのだが、私の卒業した高校の物理の先生や数学の先生として居られた50年以上前から存じ上げている。

以前に年賀状を頂いていたときには学習法の一言メモのようなものをいつも拝見していた。それがまとまって一冊の本になって出版されていたらしい。2002年の発行なのでもう5年も前のことになるのだが、最近まで知らなかった。

なかなか実践的な本であるが,このように本としてまとまったとき何かまだ物足らないような気がするのだ。これは木村先生の本がいけないのではなく、そういうところが必然的にあるという気がするのだ。この本が実践に基づいたものであり、この種の本はあまりないので貴重な本だと思うが,私の思いはちょっとだだっ子がお母さんに甘えてないものねだりをしているようなところがあり、ほめられたことではない。それを承知ではあるが、そんな感じがするのである。

もっとたくさんの貴重な経験を木村先生はお持ちなのにそれの一部しか出ていないのではないかという感じがどうしてもつきまとう。

これは具体的な内容に触れないで方法だけを述べておられるからかもしれない。もっと物理の内容とか数学の内容にも踏み込んで話を展開されたらもっとよかったのではないかと思う。

本にすると何か物足りない気がするというのは木村先生のことだけではなくて、私の本「数学散歩」にもそう感じている。自分自身に向かって「たったこれだけのことしかお前は話題としてもっていないのか」という問いが自然と出て来るのだ。悩みは尽きない。

久しぶりに木村先生のお宅を訪問してお話をしてみたいと思う。


三段階論は科学史から導かれたか

2007-12-17 14:58:58 | 科学・技術

科学の認識論として知られている武谷の三段階論だが、広重徹はこれが武谷の科学史の曲解から出て来たという風に考えている。

広重は「科学史を具体的に研究して三段階論のようには歴史はなっていない」といっているか。それとも「歴史からは三段階論は出て来ない」という風に言っているか、または「三段階論は間違っている」と言っていると私は理解している。

これはかなり私の自分勝手な解釈なので本当は広重がそう思っていたかどうかは今後詳細に調べてみる必要がある。ともかくもそういう理解を前提としてここでは論を進めてみる。だからこの前提がくずれれば、以下の議論は無用である。

武谷はこの三段階論の着想を必ずしも科学史だけからヒントを得たものではないことは彼の回想「思想を織る」に出てくる。音楽理論等からも着想を得ているという。

そうだとすれば、広重がいう武谷は科学史をきちんと調べないで論を立てたという話は確かにそうかもしれないが、それだからといって武谷を論難するのはちょっと話が違うかもしれない。

だからどうだというところまで考えが及んではいないが、もっと広い(人文科学や社会科学も含めた)科学全体のコンテキストからこの三段階論をもう一度考え直さなくてはならないだろう。

広重のいう「科学史の素人であった」武谷の三段階論はやはり素人目にはぴったり来るところがあるのを否定はできない。これは力学の形成だけではなくて他にもいろいろな場合でも考えられるだろう。

ということは個々の科学の歴史についてそれが三段階論と離れていようとも実はそれがむしろ本質をついたものであったのかもしれない。しかし、実際の場合の有用性については別に評価をしなければならないだろう。

以下は単なる放談である。

量子電気力学では現象論の段階をどこにとるのかはよくわからないが、坂田のC中間場の理論はその実体論とも考えられる。もちろんこの場合には実体論はうまく行かないところもあり、結局は「くりこみ理論」である種の本質論となった。

もっともそう捉えるとHeisenberg-Pauliの場の量子論はどの段階に位置づけたらいいのか。

また、電弱理論は「量子電気力学と弱い相互作用」のある種の本質論であるが、その前の段階として何をどのように位置づけるのか。そしてそれは実際の電弱理論をつくるときにどう働いたのか、または働かなかったのか。実際の歴史は輻輳していて一筋縄では行かない。

ゲルマン等のクオークモデルへと導いたその元の坂田モデルはやはりある種の実体論と位置づけるべきではないか。ところが逆転してU(3) またはSU(3)へと導かれたところはある意味で現象論であったということになる。

坂田モデルは実体論であるが、それからU(3)というある意味で本質論だが、一方で現象論であったものができた。

その現象論を修正することにより、SU(3)という本質論であるが、また新たな現象論であったものができ、それの実体を探るという意味でクォークモデルが出た。またこれはある種の実体論であり,またそれは現象論でもあった。

そのときにゲージ原理がある種の役割を果たしているが,それをどう位置づけるのかそれを落としてはならないだろう。

そういった素粒子の歴史をもう一度ひもといてみる必要がありそうだ。


疑問文のイントーネーション

2007-12-15 14:04:55 | 学問

昨日に続いて言語の話題をもう一つ。

どうして疑問文はイントーネションが尻上がりになるか。もちろん疑問詞で始まる疑問文は必ずしも尻上がりではないが、尻上がりのイントーネーションでも間違いではない。

疑問文が尻上がりのイントーネーションだとそこで一まとまりのテーマが終った訳でないということを示しているということだろう。

だから疑問文の場合はそこで終っている訳ではなく、続いてある答えの文の文末のイントーネーションが下がって初めて一つの完結したものになるということだろう。これは音楽で和音のドミソで終るのが落ち着きが良いのと似ている。

この間NHKの英語講座の放送で大西泰斗先生が「英語は順序の言語だから,順序が変わると緊張感が違って来て感情のニュアンスというか感情の緊張感が高まってくる」と言っていた。「疑問文のときも言葉が平叙文のときから倒置されて緊張感が高まってきているのだ」と説明されていて、なるほどと納得のできるものであった。

それで思い出したのが、このなぜ疑問文は尻上がりのイントーネーションかという疑問に対する答えが冒頭に説明したようなことである。しかし、「疑問文はなぜ尻上がりのイントーネーションか」という説明はどこでも聞いたことがない。これは自己流の解釈である。

文が尻上がりになったときにはそこで終ったとするには落ち着きが悪い。すなわち、聞き手はまだ話が続くと期待する。そういう心理を持ち合わせているのではないか。これはだから音楽についても同じであろう。

理屈だけではなくもっと人間の感覚の深いところに言語も依存するということだろうか。


シーボルトはジーボルト?

2007-12-14 12:08:57 | 学問

なんだかクイズみたいだが、別にここでクイズを出そうとしている訳ではない。先日ドイツ語のクラスでとてもよくできる女性が西予市と関係があったシーボルトのことを話した。

そのときにシーボルトと発音したので、日本では確かにシーボルトだが、本当はジーボルトなのではと疑問を出したら、どうも先生のR 氏によれば、やはりジーボルトの方が正しいらしい。

とっさに思いついたことなのでどうしてそう思ったのかと言われても困るが、Sieboldと綴っていたような気がしたからである。

フンボルト財団が日本からの元の留学生にこのSieboldに因んだ賞を出していて、この綴りを覚えていたためだと思う。こういった間違いを私たちはしばしば犯してしまう。

もっとも若いときにフライブルクのゲーテインスチュートで一緒に学んだペルー人の学生はシー イスト(sie ist)とかシー シント(Sie sind)と発音していたが、ドイツ人先生にはこれがちゃんとジー イストとかジー ジントであることは分かっておられたから、別に問題ではないのかもしれない。

学生の頃にインフェルトのアインスタインの回想記が訳されて出ていたが,Erinnerung an Einsteinだったかと思う。このErinnerungをカタカナ表記すればエリンネルグ(グは正しくはクと濁らない?)と発音していたと思う。後でerinnnern という動詞はむしろカタカナ表記すれば、エアーインナンと発音するのが正しいと知ったのはドイツ語をかなりやってからであった。

これもよく出てくる単語だが、vereinという語もある。フェアアインというのが正しい発音だが,フェラアインと発音していた。

どこで切って発音するのか、または続けて発音するのかはとても難しい。特に文字で習うとこういった間違いをする。もっとも言葉にはフランス語風にリエゾンとかアンシェヌマンとかもあって、フェラインでも正しいのかもしれない。

大阪の天王子駅は「てんのうじ」が正しい発音で、「てんおうじ」とは発音しない。似たようなことで子どもころ観音さんを「かんのん」と聞いてとても不思議に思っていた。「かんおん」ではないのかと。もっとも予讃線の観音寺は車掌は「かんおんじ」と発音しているようだ。「かんのんじ」と発音した方が自然に聞こえると思うのだが。因に今のこのパソコンへの入力では「かんおん」と入力すれば,観音は出て来ない。

学生の頃にエレベータで3階に行くときに私は「さんがい」と濁って発音していたことにふと気がついた。これが本当は「さんかい」と発音するのが正しいのかは分からないが,いまでは気をつけて「さんかい」と発音するようにしている。しかし、「さんがい」と発音するのもあながち間違いではないような気がする。


源氏物語と二つの文化

2007-12-13 12:23:55 | 日記・エッセイ・コラム

口語訳でいいから一度源氏物語を読んでみたいと考えている。沢山の人が訳しているのだが,瀬戸内寂聴さんの口語訳は今どうだろうかと考えている。これはあくまでもはかない希望であって生きているうちにこれが実現するかどうかはわからない。

それで松山市立図書館とか県立の図書館にあるかどうかを探したら、どちらかにはあるようだ。県立図書館の方が仕事場からは近いのだが、市立図書館の方がこのような本はよくそろっているらしい。

いままで小説をあまり読まなかったが,これはそれが好きでないというよりはそういうものに耽溺しない方が良いという強い意識からであった。たしかに文学に耽溺してしまうと才能のない自分にはいつも頭を使う物理とかはできなくなるだろう。それくらい人間の関心のあることとしてはかけ離れている。

スノーが文学的な文化と科学的な文化と二つの文化がかけ離れていると言ったのはもうだいぶん昔のことになるが、その状況は今もなおまったく変わっていない。


私の悪い癖

2007-12-12 12:07:46 | 日記・エッセイ・コラム

このブログは当然のことながら別に誰かに毎日書きなさいと言われて書いている訳でもない。またブログを始めた頃は1週間に1回とか半月に1回の頻度でしか書いていなかった。それがこのごろはほぼ毎日何かを書いている。

いけない、いけない。どうもまた私の悪い癖が出てしまった。ある会の会報の発行を数年前に受け持っており、それをはじめ何年かは3ヶ月に1回出していたのだが、気がついたら毎月出すようになっていた。それで数年後には自分ではやれなくなって投げ出してしまった。

もっともこれは投げ出した方が正解で、会の他のメンバーがもっと積極的に働かないとどうしようもないと今にしてわかる。そして現にいままでのところ他のメンバーの努力でなんとかその会報は定期的に出されている。

誰からもどうしろと言われたこともなくても,自分で自分を縛ってしまうのは私の悪い癖だ(もっとも強制されたら、反発してなにもしないのだろうが)。このブログも日曜は休んでいたのだが、どうもその休みも守らないという風だ。

一昨日一日かけて、計算における「文字の置き換え」というエッセイをつくった。原稿は日曜日にこたつで書いたのだが,それをパソコンに入力した。またしばらく引き出しに寝かせておいてから、ある程度時間が経ってから再度検討することにしよう。


小川洋子「博士の愛した数式」

2007-12-11 12:01:45 | 学問

この小説を読んだことはないのだが、12月9日の日曜日の夜にテレビでその映画を見た。あらすじは省略して、要するに「博士の愛した数式」はe^(i  ¥pi)+1=0 である。ここで、¥pi  は円周率を表している。これは不思議な数式であるが、またある意味ではちっとも不思議ではない。

オイラーの公式といわれるe^(i x)=cos x +i sin xを知っている人で、その幾何学的意味が実軸上で0から1に向かった矢印→を原点Oの周りに角度を弧度法(ラディアン)で測って角度xだけ反時計方向にその矢印を回転させることだと知っていればすぐにわかる。

いま0から1に向かっていた矢印→を¥piすなわち180度反時計方向に回転させれば、0から-1へ向かう矢印→となる。すなわち、e^(i  ¥pi)= -1が得られる。この式の両辺に1を足せば,e^(i  ¥pi)+1=0 が成り立つ。

どうも小説では意味深長で神秘的に聞こえる、この関係をなんでもない散文的なものにしてしまうから、「科学者なんて毛虫のようだ」なんていわれるのだろうが。

「毛虫云々」は物理学者・武谷三男が太平洋戦争後につづり方研究会に出て、「梅毒で頭がもうろうとした人からいい文学が生まれるのとサルバルサン606号やペニシリンで梅毒が治って文学が生まれないのとどちらがいいのか」という意見を述べたときに、その会に参加していた、ある女性が武谷を「毛虫のようだ」と評した故事にちなむ。

武谷三男はするどい論調で皮肉をいつも言っていたとか。それで、武谷の口には毒があるといわれたという。また彼のあだ名は「ゲジゲジ」だったらしい。

これはトップシークレットです。もっとも大阪大学理学部の第2回の卒業生だった、すでに故人の長谷川先生によれば、大阪大学の理学部の創設の初期にそこをしばしば訪れていた武谷は寡黙だったという。

湯川秀樹、坂田昌一たちとの中間子論の共同研究で武谷三男は物理学会に知られるようになる。特高に捕まって留置所生活を半年間ほどするのはその直後である。

(2024.4.27付記)
物理学者・武谷三男について少しネガティブに聞こえることを書いたので、付け加えておく。

哲学者の鶴見俊輔と彼の生前にちょっとの間だったが、知り合いになって、私がいつか武谷三男の伝記を書きたいと言ったところ、武谷が文学や演劇・音楽を愛し、かつ人間性が豊かで、繊細な感受性の人物であることを直に知っている京都在住の女性を紹介してくれそうだったことである。

武谷三男の伝記は書くという、私の見込みはまったく立たず、たぶんそのことは私よりは若いが、物理学者・坂田昌一の伝記をすでに書いて実績のあるNさんが、その望みを叶えてくれるのではないかと密かに思っている。