物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

第15回雑談会

2011-02-28 12:51:10 | 日記・エッセイ・コラム

知事選に出た前愛媛大学学長の小松正幸氏に来ていただいた。私自身は知事選のことを話題にして欲しくはなかったのだが、話題のテーマは本人に決めていただくので自然とその話がテーマとなった。

参加者は12名で今までで一番出席者が多かった。議論も活発であったので、前からお願いをしておいたように30分だけ議論の時間を延長した。

地方分権というか自治体自治という方向に政治が変わらなければならないという点ではある程度意見の合意があったと思うが、それをどういう風に実現するかという点ではいろいろ論があるであろう。その実現の方法が難しい。

道路の交通標識の不備みたいなところから行政の政策論議をはじめてはどうだろうかという、Eさんの意見とかもっと素朴な疑問から出発して女性の意見を聞いてそれから出発してはどうかという、I さんの意見とかがよかったと思う。

妻の知人からもらった野菜とか残ったお菓子とかをお土産に参加者が帰るときあげた。これはいつも妻が言っている「現世利益」の一種である。「現世利益」については明日にでもまたこのブログで述べよう。


花粉症始まる

2011-02-26 17:32:54 | 日記・エッセイ・コラム

昨日と今日は暖かくて暖房がまったく要らない。もっとも明日からはまた寒くなるとか天気予報で言っていた。それでというわけでもないのだろうが、目がかゆくなってきた。花粉症の典型的な症状が出てきた。もちろん鼻水が出るという症状は前から出ているが、それでも一日ひどかった以外はそれほどでもなかった。

目のかゆみは目薬をさしてとめるので、そのための目薬が手放せない。いつも鞄に入れて目薬を持ち歩いている。はじめ花粉症になったのは20数年前であって、どうも風邪が治らないのかと思った。

その後には花粉症とわかったので、病院に行って手当てをしているが、はじめは薬を処方されるが、それを飲むと勤務中でも眠くてしかたがなかった。いまでは薬を飲んでもそれほど眠くなることはない。だから、車を運転する人も花粉症対策の薬を飲んでも大抵眠くなることはない。

この薬はイギリスの空軍で使っている薬だと前に聞いたことがある。確かに空軍のパイロットが飛行中に眠くなって戦闘機や爆撃機や輸送機が操縦できなくなったのでは話しにならない。

花粉症は別に日本だけの病気ではなく、どこにもある病気らしい。英語ではhay feverというと思う。それを昔は「枯れ草熱」とものの本では訳されていたが、いまでは花粉症という語が定着している。

もっとも「枯れ草熱」hay feverのfeverは熱であるので、熱が出るという。私が前にもこのブログで書いたように40度前後の不快な熱が出る。それがちょうど4,5月頃の草花の咲く頃なので花粉と関係があるのであろう。

日本の花粉症は普通鼻水がしきりに出るが、私の場合には熱は出ない。それが他の人にも一般的ではあるまいか。

Heisenbergがちょうど量子力学の端緒をつかんだのは1925年の5月であったが、このときに彼はひどいHeufieverに罹り、それから逃れてヘルゴラント島に転地療養に出かけた。そこで、彼は自分の見つけた奇妙な数学を使って、非調和振動子のエネルギー保存則が成り立つことを証明できたとか。

ヘルゴラント島にはもちろん行ったことがないが、岩だらけの草花のない北海に浮かぶ島らしい。ここは海岸に赤い色の崖がそそり立っている。これはテレビで一度だけ見たことがあるきりで本当かどうかは疑わしいが。


詐欺?

2011-02-25 12:44:55 | 日記・エッセイ・コラム

四国電力を名乗って電話がかかってきた。それには取り合わなかったのだが、ファックスをしてもいいかというからいいよと言ったら、その後でファックスが入った。このファックスには四国電力などとは載ってなかった。実在するかどうかは定かでないが、民間の会社のようである。

冷静に電話を聞いたので、四国電力だと後追いで相手が名乗ったことは間違いがない。しかし、妻によれば、電話での会話は記録が残らないからこれは水掛け論になるのだという。

妻によれば、四国電力を名乗って詐欺まがい(または詐欺)の電話がかかっているので、注意するようにとテレビのニュースで見たとのことである。これがそれにあたるのかどうかは定かではないが、省エネで電気代が4割近く安くなると聞くとそれに引っかかる人もいるに違いない。このファックスをもって警察に行って見ようかと考えている。

話の内容に関心を示した人の家庭に取り入って無料の調査をすると称してうまく取り入り、何がしかの費用を払わすなどということはまったくありえないことではない。

そういえば、知人で税金を3万円ほど払い戻すといわれて、携帯と預金通帳をもって銀行まで出かけた方もいる。あわてたのでその人ははじめ携帯を忘れ、急いでそれを取りに帰ったら今度は預金通帳を忘れたりしているうちに、冷静になり、振込み詐欺にはあわないで済んだという。

人間の弱点をつくのがうまい者がいるものである。これも世の中の多くの若者を中心とした人々の収入が少なくなっていることに根本的な原因があると思う。シンガポールではこういう犯罪を厳しく罰するということもあるが、人々に職があり、まっとうに働いて収入を得ることができるからか国際的な組織としての犯罪はあるかもしれないが、そこに住んでいる人はあまり犯罪に手をつけないとも聞く。

誰だってまともに働けば自分が食べて生活しているだけの収入を得ることができれば、詐欺をして金を稼ぎたいとは思わないはずである。詐欺で楽をして金を手に入れても、いつ警察に捕まるかもしれないと思ったりすると心落ち着かないものである。もっとも、詐欺に手を染める人は良心も麻痺しているのかもしれない。


アクセスの傾向から

2011-02-24 13:05:12 | 日記・エッセイ・コラム

昨日のニュージランドは地震国ということを書いたら、一日で19件のアクセスがあった。これは世間の人が時事的なニュースに反応する傾向にあることを示している。ところが、この時事的なニュースを期待してアクセスした人はそれについては述べていないので多分このブログに飽き足らなさを感じることであろう。

もう一つの傾向として先日書いた「恐ろしいことには近づけ」は心の重いテーマであるが、あまり人をひきつけるようなテーマとは感じられない。だから、アクセスが少なくても当然であろうと感じていた。そしてその通りにアクセス数はすぐに上がるということはなかった。

ところがしばらくしてみるとそのアクセス数は2位か3位まで上がってきている。これはどういうことだろうか。カンボディア社会主義の過誤に関心があるのか、心の問題として関心があるのかはわからない。

現在では資本主義の行き詰まりでマルクスの「資本論」の読み直しがされているという。現在の資本論の読み直しは以前の社会主義思想の単なる復活のためとは限らない。世間に社会主義またはマルクス・エンゲルスの思想からヒントを得て、それからなんらかの成果を得たといわれる人が居られるのにちがいない。

詳しいことは知らないが、経済学者でロンドン大学で活躍した森嶋氏はマルクス経済学から学んでそれを近代経済学に生かすことによって評価されたとどこかで読んだことがある。また、分野がまったく違うが宗教人類学の中沢新一氏は彼のまわりの家族はマルクス主義的思想の人たちであったと書いている。

そこから新しい観点を導き、社会に注目されるようになった。彼は一時エントロピーの概念を誤解している人として、東京大学の教員の人事で拒否に会い、結局は他の大学に勤めるようになった。しかし、物理学の概念としてのエントロピーの概念を正しく理解していようがいなかろうが、彼の観点の新しさがあったから、世間から注目を受けたのであろう。

私自身は「チベットのモーツアルト」という彼の著書のそれもごく一部しか読んだことはないが、彼のチベット仏教の修業体験を興味深く読んだ。その体験とあわせて私は武谷三男のいう、実践に役立たないものは実体的には認識できないのだという唯物弁証的な認識論とをあわせて考えたりした。

中沢新一氏の認識論には組しないが、自分では体験できなかったその宗教体験をそれ自身としては体験としては認めている。


好きな言葉

2011-02-23 14:37:38 | 外国語

cit'e  universitaireは文字通りの訳だと大学都市だと思うが、これで大学の寮のことだと知るとこの言葉が好きになる。これはフランス語である。

ずっと以前に友人の数学者H君がパリから便りをくれたときに住んでいたところがこのcit'e  universitaireだった。そのときには文字通り、大学のある街の区画だと思っていた。

だが、これは直接には大学の寮を指すらしい。ドイツ語ならStudentenheimであろう。ドイツ語のMensaという語も好きである。この語は学生食堂のことで昔フライブルクのゲーテインスティチュートに入ったときに英語でstudent restaurantと英語に訳されたが、どうもMensaという語ほどぴったり来るものを知らない。このMensaはdie Mensaで女性名詞である。

食堂で思い出したが、die Kantineというのもある。これはフランス語から来たドイツ語であるらしい。私の理解ではこれは社員食堂のことである。私の古い辞書には(工場などの)食堂兼売店とある。兵隊用語だと酒保とある。酒保が何を意味するのかは正確なことを知らないが、およそのことは想像できる。

logisticとかlogisticsという語も好きである。昔の辞書だとlogisticsは兵站とあった。この兵站が何を意味するかは辞書を引いたことがないので、知らないがそれでもおよそのことは予想がつく。新しい辞書ではさすがに「物流」と現代的な訳がついている。

logistic  curveは「成長曲線」とも訳されている語であり、これはコンピュータの言語フォトランの解説を教育テレビで見たときに森口繁一先生が紹介されていた。これを見たのはもう40年以上も昔のことである。

このごろはaubergeというフランス語が流行り、格好のいい言葉だと思われているらしいが、私の理解ではこの語は日本語でいうと「旅館とか旅籠(はたご)」というニュアンスではないかと思っている。これは何十年も昔にフランスの片田舎で宿を探していたときに覚えた言葉で懐かしい言葉である。

発音も日本語ではオーベルジュという風に長く発音するらしいが、オベルジュと短いはずである。


ニュージーランドは地震国

2011-02-23 13:11:12 | ニュース

ニュージーランドは地震国だということをクライストチャーチで大地震が起こってはじめて知った。世界のことなど知っているようで何も知らないのだと思い知らされた。

テレビのニュースでOKをオーカイというように聞こえたので、オーストラリアだけでなく、ニュージーランドでも似たような発音をするのかなと思っている。

阪神大震災で日本でも耐震性の基準が大きく変えられたらしいが、同じことはニュージーランドでも言えるらしい。が、それでも古い教会等はそういう処置がされていなかったらしい。

これは歴史的な建造物だと文化遺産としての保存等のことがあり、難しかったのかもしれない。地球にあるプレートが別のプレートの下に滑り込むので、大部分の地震が起こるというのが現在では通説になっている。

これについてちょっとした思い出がある。それは地球物理学の泰斗であった坪井忠二氏の文章である。これを私は岩波書店のPR雑誌「図書」で読んだのだが、彼は地震の原因をいわゆるプレートが他のプレートにもぐりこむという説に反対であったらしく、彼の弟子であった竹内均氏がNHKの地学の講座等で地震の起こる原因として説明していることに不満だったらしい。

もちろん、坪井さんは竹内さんの名前をあからさまには上げてはいなかったが、私にはそう読めた。そのうちに坪井氏はもちろん竹内氏も亡くなったので、こういうことを書くこともできる。

坪井さんが他に地震の原因についてクリアカットな説明していたかどうか知らない。彼の考えはともかくとして現在ではプレートの滑り込み説が定説になっていると思う。そして海底にひずみ計を設置してそのひずみの大きさを日夜測定して、そろそろ地震が起こりそうだとの地震予知をするということまで考え、実行されている。

まったく話は違うのだが、焼酎の飲み方でA型の焼酎では冷蔵庫の中で冷凍庫の部分に保存していてそれをコップに注ぐと途端に氷となるという形で飲むのが今では普及しているのだと義弟から聞いた。もちろん時間が経てば、この氷は融けて液体の焼酎にもどるからそれを飲むのだろう。一度それを経験してみたい。

これは過冷却を利用したのだと思う。A型の焼酎は不純物がないので、零度以下になっても凍らないのであろう。だが、それをコップに注ぐという衝撃を契機としてそれが凍るようになる。そういうことかと思う。

私はあまり日本酒とか焼酎を飲まないので、そういう飲みかたを焼酎を発売している会社が教えているということをまったく知らなかった。これも先日の法事の後に義弟から聞いたことである。


数学・物理通信6号の準備

2011-02-23 12:01:34 | 数学

いま数学・物理通信6号を準備している。これは各原稿はすでに以前に投稿されているのだが、これを数学・物理通信として一体化をして、不具合がないかを検討している最中である。各原稿は出来上がっていたのだが、これをまとめてみるといくつかの修正を要するところが出ている。

N先生からは他の方の原稿にも意見を寄せてもらった。私の原稿も意見をもらったので、修正をした。いいコメントをもらったので、M先生の原稿はとてもよくなった。

だが、修正には少し時間がかかるので、発行は3月初旬を予定している。Sさんからは「冊子体でない雑誌というかサーキュラーとしてこういう形態があるのですね」とのメールを以前に頂いた。Sさんは「徳島科学史雑誌」を20年以上も出されている篤学の方である。

私たちの「数学・物理通信」は多くても30ページに満たないミニ雑誌またはミニ・サーキュラーである。無償でPDFのファイルとして知人・友人に配布している。印刷したものは原則としては配布していない。

また、京都大学の谷村省吾さんのご尽力で彼のホームページにリンクされて「数学・物理通信」は公表されているから、関心をお持ちの方は「数学・物理通信」で検索をしてみてほしい。いままでの「数学・物理通信」をそこで見ることができる。

この場で谷村さんのご尽力に感謝の意を表しておきたい。


リコール

2011-02-22 12:26:36 | 社会・経済

アメリカでのトヨタ車の電子制御装置の不具合があるというので、トヨタ車は広範なリコールがなされた。それがごく最近ではこの電子制御装置には不具合がなかったということをアメリカの運輸省交通局にあたるところが公表した。

それでもトヨタ車の欠陥で損害を受けたという多くの訴訟があり、トヨタはその名誉回復に苦労している。これは本当は業績不振だったGMやフォードの救済策の一環だった感もあるが、それはともかくリコールは会社の信用問題である。だからいくら費用がかかっても信用と名誉の回復に努力をする。

三菱自動車が車のいろいろの欠陥を隠していたためにリコールが遅れて、業績が落ち込んでしまったのはまだ私たちの記憶に新しい。製品がいいという名声を得ることは長時間がかかるが、その信用を失墜するのは本当に一瞬である。

私の家などにリコールなど関係がないと思っていたら、先日パナソニックから電話がかかってきた。それによると以前に松下電工が発売したホットカーペットに欠陥があり、リコールをしているという。

以前に電話がかかってきたときどうも妻が取り合わなかったらしいが、それでもまた電話をかけてきた。今度は私が対応したので製品をチェックしたが、問題のない製品だった。ところがそれよりもはるか以前に発売した製品を我が家では購入しており、それに欠陥が見つかったのだという。

そのときには心当たりがなかったのだが、電話の後で気がついた。そうだ。じゅうたんの下にある、ホットカーペットがそうではないか。

それから1週間ほどしてまた電話がかかってきた。それで話をしたら、製品番号を見てくれといわれた。それで、調べて電話で告げるとそれはリコール商品だという。それで数日したら、取替えの製品が送られてきた。

先日の夜に新しい製品と取替え、送り返す箱に梱包をした。後は宅配業者に電話すればいいようになっている。

これはパナソニックには費用がかかったことだろうが、誠実に会社が対応したということでパナソニックの信用は保たれたことであろう。評判を保つことにもそれなりのコストがかかるものである。


エンゲルスの方が面白い

2011-02-21 14:48:00 | 本と雑誌

これは私の見解ではない。マルクスの「資本論」は経済学の抽象的な理論で理解が難しいが、エンゲルスの書は具体的で面白かったというのは他ならぬ次兄の意見である。

19日(土)にエンゲルスの「自然弁証法」の本をもっていないかと私が尋ねたときにその本をもっているとは言わなかったが、そのときに次兄の言った言葉である。その例として彼が挙げた例はつぎのようなものであった。

南米では昔狩猟で生活をしていたので、女性でも弓矢で動物を狩していたらしい。それで、弓を射るときに女性の右の乳房が邪魔で狩る動物を射る精度が落ちるので、女性の右の乳房を切り落としていたのだという。

そういうことをエンゲルスの本には書いてあるという。その本が何であるかはもう覚えていないようだったが、エンゲルスの本の記述の具体性の一つの証として覚えていたらしい。

私にもそういう話は初耳だったので、ここで記録として書いておく。世にはエッセイストも学者もいるので、そういうことを読んでそれがどの書のどこにあると知っている人も居られるだろうが、少なくともエンゲルスの本などあまり読んだことのない私などがそのことを知っているはずがない。

また、そういうことを書いたことのあるエッセイも読んだことはなかった。


本がゴミに?

2011-02-21 13:44:51 | 日記・エッセイ・コラム

先週の土曜日に I 市の兄の家で法事があったので、出かけた。それで、先週の土曜のブログは必然的にお休みになった。

これは父と長兄とが相続いて亡くなってから、17回忌の法事だった。父は80歳を優に越えていたが、兄はちょうど60歳であった。

法事の後に兄弟姉妹と甥の家族の会食をしたが、その後の兄との会話がおもしろかった。次兄は私より2歳上の73歳だが、今年は74歳になる。それで自分の蔵書をあまり必要がないものをブックオフにタダで引き取ってもらったという。

ドストエフスキー全集と百科事典を引き取ってもらった。ブックオフの社員に来てもらって評価してもらったら、評価できないとのことだったので、タダでもって帰ってもらったという。

さらにマルクスの「資本論」を捨てるということだったので、もらって帰った。世界大思想家全集の内の4巻本である。多分もらって帰っても私も読まないだろう。だが、ゴミとして捨てられるのは忍びない。

本をゴミにするという話は亡くなった長兄も生前していたが、個人としてはそうするしかないだろう。が、何人かの蔵書家の本を集めて私的な図書館をつくるべきではないかというのが私の考えである。NPOかなにかの組織としてそういうことをする必要がある。

自治体の図書館でも本を所蔵する場所が少ないためにすぐに本や雑誌を廃棄処分にするということをする。このごろは大学の図書館もほとんど同じである。愛媛大学の図書館などでも2冊以上ある本は抜き出して古本屋に売り払ったりしている。私も古本屋経由でそういう廃棄本を数冊もっている。

まだ大学に在職中に要らない本は売ってくれないかと図書館の係りの人に言ったことがあったが、そういうのは大学内での癒着につながるから駄目というような話だったと思う。おかしな話だと思ったが、いちいち対応ができないというのが正直なところなのだろう。

個人の本をどうするのかはいつも問題だが、それを文化資産として考える人が出てきてもいい気がするのだが、どうにもならないのだろうか。

日本語の書でないものは外国の大学、ベトナムとかタイ等の東南アジアやアフリカの大学で本の少ないところへ送るという活動も行われているとは前に聞いたことがある。これはどこかの財団だか、国の補助金をもらって、されているという風に聞いた。もっともこのごろは日本ブームだから、日本語の本でもいいのかもしれない。

私のもっている本の冊数は3千冊には達しないのではないかと思うが、作家司馬遼太郎とか評論家大宅惣一の蔵書は数万冊または数十万冊で個人財団の図書館とか資料館として利用されているとか聞く。そういうところでないともう残っていない資料もあるとか。

そういえば、ミュンヘンの科学博物館は壮大なすばらしいものであるが、それでもはじめは設立者が乞食ミュラーとかいわれながら、科学技術の展示物を集めたとか。志が大切だと思う。


ドイツ語の単語

2011-02-18 12:01:36 | 外国語

昨夜、ドイツ語のクラスでいくつかの語が出てきた。

「手に入れる、得る」という意味のbekommen(ベコッメン)と同じ意味でkriegen(クリーゲン)という語がある。kriegenは口語的であまり文章で書いたものでは見たことがない。

また、同じ意味で使うことのある、erhalten(エアハルテン)は学生の頃にセミナーで読んだK"allenのQuantenelektrodynamik(量子電気力学)の本を読むときに出てきた語であり、この語の方がbekommenよりはもっと早く覚えた語である。が、その後50年近くの間のドイツ語との接触ではお目にかかったことがなかった。

それでそのことをクラスで話したが、あまりきちんとは言うことができなかった。このerhaltenの語と一緒によく出てきたのが、enthaltenで「含む」という意味だったと思う。haltenが後ろについているが、前綴りはerとentと違っている。それが意味を大きく変えている。

方程式か等式かを表すGleichungenという語も覚えた。先々週のクラスのときに思い出した、角運動量のドイツ語はDrehimpulsだったのではないかなと一瞬思ったが、確かでなかったので家に帰って、K"allenの本の索引を見たら、やはりそうだった。

英語ではimpulseは力積を意味するはずなのでちょっとImpulsで大丈夫なのかなと思ってしまった。もっともimpulse力積は運動量の時間変化と同等であるから、意味としてはあっているのかもしれない。ちなみにドイツ語ではImpulsとeがつかないが、英語ではeがついている。

Drehen(ドレーエン)は回転するという意味であるから、DrehimpulsにDrehがついているのは理解ができるが、implusの方にちょっと違和感を感じたのである。しかし、Drehbuchはシナリオの台本のことだったと思う。

いままでの話とは違うが、見るという意味のsehenは誰でもちょっとドイツ語を学んだ人なら誰でも知っている。ところがschauenというと南ドイツ風である。

また、これも口語でしか使わないのかもしれないが、guckenという語がある。Gucken Sie es malとかGuck mal(グック・マル)とかいう。それぞれ「それをちょっと見せて」とか「あれを見てよ」というようなニュアンスなのだろうか。

このguckenもあまりドイツ語の教室等では学ばないが、口語的にはよく使われる語である。

日本語の「さよなら」はAuf Wiedersehen(アウフ・ビーダゼーエン)というが、これもバイエルン等の南ドイツやオーストリアではAuf Wiederschauen(アウフ・ビーダシャウエン)ともいう。ただ、Auf Wiederguckenというのは聞いたことがない。

guckenはチラッと見るという意味だと思うので時間的に長く会う、見るという意味があるsehenとは違うのであろうか。もっとも「じっと見る」という意味ではansehenという語を使う。

マインツにいた頃にあるとき電話がかかってきたが、それがドイツ語だったので妻が私に受話器を手渡した。ところがそれは日本人留学生のO君だった。O君が妻を驚かして引っ掛けたというので、妻はしばらく’お冠だった’。

これはO君が妻を驚かすためにドイツ語で電話をかけたのか、それとも長年のドイツ生活でO君のクチからドイツ語がつい出てしまったのかわからない。でも私をだますのは無理だし、またちょっと気がとがめたので彼は日本語を話したというのが真相であろう。

O君は十分長くドイツの大学にいたので、彼が望めば学位をとることは十分できたのだが、日本では哲学の先生で学位をもっている人はその当時はごく少なかったので、学位をとると日本の大学に勤めることは絶望的だという理由であえて学位はとらないで帰国して、ある大学に勤めた。


幸せとは

2011-02-17 15:15:18 | 日記・エッセイ・コラム

フランス人が幸せと感じるのはどんなときか。

友だちがいて、家族がいて健康で愛があるときとかいうのが普通の答えであるが、ときどきなるほどそういうのが幸せなのかと思わせる面白いイデーがある。

たとえば、朝早くに電話がかかって来なくてゆっくりと十分に朝寝坊できるときとか、はたまた朝食をベッドで食べられるとき(Je prends le petit dejuner au lit)とかいうのもある。特に女性は夫が日曜日の朝など朝食をベッドまで運んできてくれるのを憧れにしているとか聞く。

毎朝コーヒーとバゲットか何かを食べてそそくさと仕事に出かけるというのが日課になっているからでもあろうか。

何でも話のできる友だちがいて、年に2回くらい2週間か3週間のバカンスを楽しむ。バカンスのためにフランス人は生きているともいわれる。

もっともエクゼクティブの中には忙しくする人もいるようだが、それでもそういう人もバカンスには堂々と出かける。フランスは階級社会であるので、なんでもフランスがいいなどとは思わないが、このバカンスの長さはちょっぴりうらやましい。

もっとも私のように貧乏では大抵東京に年に2回子どもたちに会いに行くくらいが関の山である。


戸田盛和氏の死

2011-02-17 12:01:56 | 物理学

物理学者の戸田盛和氏が昨年の11月に亡くなっていたことを朝日新聞で知った。戸田格子で世界的に有名な方である。

東京教育大に勤めておられたが、教育大の筑波移転に反対だったのかどうかは知らないが、筑波大学には勤務されず、その後千葉大学、横浜国立大学に勤められたと聞く。

朝永振一郎さんを教育大の学長に担ぎ出したり、個人的には研究生活に朝永さんが帰ってほしいと思いながらも、学科や学部を代表して再度学長選挙に出て欲しいと言いに行ったりした。

人間というのは個人的な思いと組織としての意思とが異なる場合もある。戸田さんはおもちゃ博士としても知られていたが、その方面には私自身が関心がないので、よくは知らない。

大学の定年後たくさんの物理のテキストやその他の本を書かれた。しかし、彼の書いた著書「物理学30講シリーズ」(朝倉書店)10巻はどの一冊ももっていない。

新聞には渡辺慎介横浜国立大学名誉教授の言として、「学問の全体を学べ、と若い学徒に訴えたかったのだろう」とあった。これらの本をよく読んだわけでないので、評はできないのだが、どこかいいところがあったのだろうか。どうもそうは思えなかったという感をもっている。

もっともこれはろくろく、このシリーズの著書を読んでいない私の印象だから、まったくあてにはならない。彼の著書「ソリトンと物理学」(サイエンス社)はこの分野の専門家の書として他の人が書けないようなものだし、新物理学シリーズの「振動論」(培風館)も優れた書であると思う。

また、私も戸田さんの著書「ベクトル解析」(岩波)に出ていた立体角について小著「数学散歩」(国土社)で取り扱ったが、戸田さんの記事よりも一歩を突っ込んだ書き方をしたつもりである。

戸田さんは多くのエッセイも書いたようだが、私は彼のエッセイの書は1冊ももっていない。

(2013.1.21付記) 上に「物理学30講シリーズ」(朝倉書店)10巻のことを書いたので、誤解があるといけないから付記をする。

最近の物理学者で物理学のすべての分野をカバーされるようなことをできる物理学者はほとんどいないので、戸田氏のこれらのシリーズ本は快挙であることは間違いがない。それを上に引用した文章で渡辺さんは言われたので、そのことを否定するようにとられたとすると、言葉足らずであった。

ただ、私がこのシリーズの本を個人的には1冊ももっていないが、それらを大学の備品として自分の研究教育用に購入していたことも事実である。だから、まったくこのシリーズを覗いて見たこともないということではない。

ただ、戸田先生の書かれた本としてはちょっと特色が少くないのではないかという、印象をもったということを率直に述べたのが、上の文章となっている。

もっとも詳しく読んではいないので、よく読めば、特色とか他の人があまり書いていないようなことを書いてあるのかもしれない。それだから、これらのシリーズを詳しく読んだ方から、このシリーズ本のここが特色であるとか、これはさすがに戸田先生だと思ったというようなことをコメントに期待した。

もし、このような意見のある方にはどしどしコメントを頂きたい。

彼のエッセイがつまらないというつもりはまったくなくて、私の個人的な経済状況によって購入することができなかっただけであり、かなり多くの彼の書いたエッセイを愛読したと思う。

戸田、渡辺共著の「非線形力学」(共立出版)には、カオスを引き起こす2次式の写像の中に2周期、4周期、・・・が図で示されていたが、山口先生(京都大)の説明を理解するのに自分でも苦しんで、コンピュータで同じような図を描いて納得した直後であったので、とても感心をしたものである。


バレンタインのチョコ補遺

2011-02-16 17:45:43 | 日記・エッセイ・コラム

バレンタインのチョコについてブログに書いたと妻に言ったら、チョコレート業界はこの季節に年間の売り上げの8割を売り、残りの期間で後の2割を売り上げているのだと話してくれた。

そういう業界が他にはないかと考えたら以前に私の関係した大学生協でも似たような状況があった。

それにしても頭がいい人がいたもので、ある数日間でチョコレート業界の売り上げの年間のほとんどを占めるようにすれば、後は寝て暮らせそうである。

実際にはどの業界でもそんなに簡単なことはなく、売り上げを他の期間でも上げるようにはしているのであろうが、それにしてもこの期間の売り上げはすごいものである。

日本の女性の大半がバレンタインのチョコを買ったら、そんなにすごいものとなるとはまったく予想もしなかった。もっともこの習慣は日本だけで、外国にはないと聞く。

確かに日常生活であまりチョコを食べたら、一挙に体重が増すという結果になり、とても私個人としてはたまったものではない。だが、昨夜封が開けられていたチョコの箱を覗いてパクパクと半分ぐらいは食べてしまったので、あまり人のせいにもできない。

バレンタイン以外の普通のときにはどのような人がどのようにチョコレートを食べているのであろうか。


鳥獣戯画

2011-02-16 13:19:17 | 日記・エッセイ・コラム

鳥獣戯画は鳥羽僧正筆の戯画と言われている。ところがこの鳥獣戯画が和紙の裏表に描かれていてそれを裏と表に分けてそれを台紙に張ってつくられたらしいことがわかったと朝日新聞に出ていた。

実は40年以上も前のことだが、この鳥獣戯画を京都高尾の高山寺で見たことがある。これは長く続いた屏風で、亡くなった河辺六男(ニュートンのラテン語の「プリンキピア」の訳者)さんの車で連れて行ってもらった。このときには当時、京都大学基礎物理学研究所の所員だったUさんともご一緒だったと思う。

もっともこのとき見た鳥獣戯画も本物であったかどうかはいまではわからない。そのときは本物だと思って密かに感激をしたのだが、いま考えてみると本物をいくら所蔵している寺にしてもそのまま展示されているとは考えられない。

だから精巧にできたレプリカであったのだろう。原本をそんなに一般の人に開示するはずがない。それもガラスでその展示の屏風が覆われている訳ではなかったのだから。

高山寺という名も覚えていなくて高尾の神護寺だと思っていた。二つの名をこの寺がもっているのかどうか。それとも別の寺で、二つの寺に行ったのかよくは覚えていない。

鳥獣戯画は中学校の美術の教科書にも載っているくらいの有名な絵である。細かく見るととてもユーモラスに描かれている。現代の日本のマンガ・アニメの元祖は意外にこの鳥獣戯画かもしれない。

朝永振一郎の著作集の第1巻は「鳥獣戯画」という題であった。朝永さんはこの「鳥獣戯画」がとても好きで、複製本ではあるが、購入してもっていた。

その購入に至るまでのいきさつが彼の軽妙なエッセイに書かれていた。中西先生が亀渕さんから聞いた話としていくつかのpunをこのブログのコメントでして下さったが、朝永さんはユーモアに富んだ方だったらしい。