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神格化の否定

2016-05-09 15:42:09 | 政治
>昭和20(1945)年12月、GHQは我が国と神道(しんとう)のつながりを断ち切るため、国家が神道を支援したり、あるいは普及させたりすることを禁止する神道指令を発しましたが、その次の段階として、天皇の神格化を否定しようと考えました。

日本語の階称 (言葉遣い) による ‘上とみるか、下とみるか’ の判断は、天皇の神格化につながりますからね。天皇の神格化は、アメリカ人には考えられないこと。法王 (現実) も神様 (非現実) にはなれないのだから。無哲学の国民には、これは分からぬこと。

>しかし、これをGHQの主導で無理やり行えば、日本国民の反発を招き、占領政策に悪影響となるのは確実でした。
>このため、GHQは昭和天皇があくまでも「自主的」に神格化を否定することを期待したことで、その意を汲(く)んだ宮内省によって、GHQを納得させることができる詔書の作成が行われました。

天皇の神格化否定されても、我が国の人間序列が消滅するわけではない。無哲学・能天気な人間の発する ‘上意下達’ が無くなるわけではない。日本人には意思が無いので、この場合、上意は ‘上位の者の恣意 (私意・我がまま・身勝手)’ になる。上位の愚鈍、下位の愚直は今なお続く。

>こうした動きに対し、昭和天皇は元々自らが現人神(あらひとがみ)であることを否定されておられたので、特に問題には思われませんでした。なぜなら、天皇と国民とのつながりは、神格化によってのみ保たれるような弱いものではないことを、陛下ご自身が一番理解されておられたからです。

日本語には、階称がある。階称は文法ではないけれども、その使用法を知らなければ、日常会話にも差し支えるほどの重要な意味を持っている。それで、日本人にとって序列判断は強迫観念になっている。敬語を想い起しただけでも、この身がしびれる。’上とみるか、下とみるか’ の想いは、玉砕精神を呼び起こし、海行かば、 ・・・。 これも (修身) 教育の効果であるか。

自己慶賀の話はとてつもなく気持ちが良い。だから、国粋主義 (超国家主義) はやまらない。国際社会の中において、名誉ある地位を占めたい。これも伝統的な向上心の表れであるのか。日本よい国、きよい国。世界に一つの神の国。この道は、いつか来た道。ああ、そうだよ。序列メンタリティは治らない。

日本人の礼儀作法は、序列作法である。我々は、礼儀正しい人間にならなくてはならない。序列判断は、自分の身の回りだけで通用する基準である。哲学が無い。皆に対して大同を提示すことができない。処世術であるのか、世界観がない。’自分さえ善ければ’ である。孤高の人だから、外国人に対して説得力がない。日本人の励みは孤軍奮闘に終始して、常に自己満足に終わる。国際性に欠けた作法になる。一国平和主義のようなものか。諸国民の公正と信義に信頼を寄せる能天気に危険はないのか。

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