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「鞆ノ津茶会記」 井伏鱒二

2019-05-21 22:52:27 | 読書

茶会記の体裁をとり、客がそれぞれの思っていることを吐き出す。

梨田入道斎(安芸国梨田郷)、村上左門(豊田郡大崎上島)、杉二郎左(豊田郡沼田郷杉四郎左の兄)、宮地左衛門尉(備後国向島)が客として、

佐々成政の処分に関して話が始まる。

ある時は有田蔵人介という安国寺恵瓊の影武者を一度務めたため影殿と言われていた武士が亭主となり茶会がある。客は梨田入道斎、村上左門、杉二郎左、宮地左衛門尉、栗屋四郎兵衛(備後国神辺、片山城)。佐々成政は信長の死後、血統を守るため徳川家康と組んで秀吉に対抗した。しかし前田利家が討伐に向かい敗北し秀吉に帰順して茶人のように生きようとしているように見えたが、九州征伐の時に武勲を発揮し肥後一国を与えられた。ただし五箇条の誓約書と共に。それには一揆をおこさせないなど指示があった。しばらくすると成政の驕慢な性格から、国の者たちから不評を買った。そこで秀吉の命で島津が成政征伐に乗り出したが、退けられる。次に安国寺恵瓊が乗り出して説き伏せにいく。大阪へ来て一揆の実否を糺すよう促され、それを受けることになる。しかし途中、法園寺で宿をとる。そこへ秀吉からの使いの者が来て、腹を切れというものと察知し、初めから覚悟をしていたため勢いで腹を切った。そのさまがすさまじい。腹を十文字に切り腸を引き出して天井に投げつけ、庭に飛び降りて首を切れと言い、郎等に首を打たせた。その時天井に付いた血糊が今も残っているらしい。佐々成政の死後、肥後の北半分は加藤清正に、南半分は小西行長が治めた。ここに北の政所と淀どのの代理戦争の格好となる。佐々成政は肥後一国を与えられた際喜び、北の政所に珍しい花を贈った。しかしその鼻をあかそうと、淀はさらに多くの花を取り寄せ、珍しくともなんともないと見せつけた。北の政所は大いに恥をかかされたという。清正、幸長は犬猿の仲となった。この珍しい花と言うのはこの小説では触れられていないが、成政の愛妻の百合姫が、不倫しているのではないかという成政の疑心暗鬼により殺されてしまう。そのとき呪いともとれる言葉を残す。黒百合が咲いたら佐々は滅びる、と。いわゆる黒百合伝説であるが、それを意味しているのである。
小早川隆景の家臣である杉原盛重には元盛と景盛という兄弟がいた。兄弟は仲が悪く、備中高松城攻めの時、弟の景盛は兄を罠にかけようと秀吉に寝返るよう誘いをかけた。毛利が勝ったあかつきには、兄の元盛が秀吉に通じていたということで処分しようとした。しかし兄は杉原家は吉川元春(に現在は従っていた)に恩がありそれを裏切ることはできないと一蹴。早目にかたをつけようと、兄を殺害し、秀吉に通じていたから成敗したと偽る。吉川元春は調査したが景盛の謀略であることが判明。ただ処分はしないまま先送りにしていた。
秀吉と和睦するため清水宗治を犠牲にし切腹させた。他に6名が自刃した。そのうちの一人、高市允の16歳になる倅が天涯孤独になったため小早川と吉川は目をかけ、あんこくじえけいに預け安国寺の後を継がせるため、允然と改名させ小僧とした。それに安国寺恵瓊の茶会の給使役をさせた。そもそも安国寺えけいのために父親は切腹させられたわけだが、因果なものだ。
小田原攻めの時、合間を縫って連日茶会が催された。そこに敷く畳表は小早川の地元の畳で評判がよかった。
秀吉が朝鮮出兵を決めたきっかけは、小西行長の嘘からだとか、その前から決めていて、船を調達するためにイスパニアかポルトガルに船と航海士を譲渡してもらう。その代わりにキリスト教の布教を許可する、という考えがあった。
秀吉が博多の宗湛の自宅に寄り茶を飲んだ。牧谿(もっけい)の遠浦帰帆(えんぽきはん)の一軸が掛けられていた。この掛け軸を2畳間の茶室では小さすぎると秀吉が言う。つまりこの図は本能寺前夜まで信長が所有していた、信長お気に入りの軸であり、本能寺の変の際神谷宗湛が必死に救いだしたそうだ。それが今、宗湛の元にある。よく救いだしたと遠回しに誉めたのだ。
宮地左衛門尉は秀吉嫌いらしい。小西行長は対馬の宗氏を通じて勘合貿易をしていた。そう言えば歴史の授業であったなと思い出す。秀吉は高麗に対して、自分に挨拶に来い、さもなくば攻め入ると手紙を出そうとする。その使いに利休を遣わそうとしたが断ったため切腹させられた。また、宗の方でも穏便に済まそうと書状の内容を無難なものに改竄した。
ここにも古田織部が登場。恵瓊は古田織部の何もかも真似たとのこと。大阪城の近くに織部の屋敷があった。そこに東屋があったが、慶長の地震で倒壊した。しかし恵瓊は安国寺にそっくりなものを建てていた。
朝鮮出兵から引き上げた後、各武将は自国へ帰るべきではなかったか?そうでないから関ヶ原が起きることになったと推測する。朝鮮から帰国後、家康は各人に論功行賞するため伏見に留めおいた。しかしその報奨は朝鮮での働きに比して少ないものだった。それは三成による讒言であると言う疑心暗鬼を募らせることとなり、加藤清正らは石田三成に反感を募らせ、成敗すると息巻く。危険を察知した三成は家康に庇護を求める。その後三成を一階級降格させ、佐和山城に蟄居という事で収める。
石田、小西が家康を討とうと試みた際、琵琶湖辺りで関所を設け、一般人含め行き来を止めた。数日後関を開放すると今まで足止めを食っていた人たちが一斉に大坂方面に殺到した。それを東からの軍勢のように見せるよう放言し、対抗した。
豊臣恩顧の武将たちは家康に接近しつつある。恵瓊は織部の振る舞いを見習う人であり、大谷吉隆(大谷吉継の別名)、古田織部と共に伏見の武将たちの屋敷を訪ね。秀頼に味方し大坂方に与することこそ忠勤であると説得して回る。そこで毛利、浮田(宇喜多)、小西、立花、島津を呼び集めつつある。一方家康は伏見城を鳥居元忠に託し、ここで死んでくれと頼む。
その直後、長束正家が家康の宿に夜討ちを仕掛けた、また島左近も試みたが失敗したらしいという噂で終わる。
いずれも簡潔に書かれているが、それぞれのエピソードを深掘りしていくと、わずかな記憶が繋がって面白い。と同時にこの小説の深さに驚く。
佐々成政の黒百合伝説も小学生の時に何かで読んだ記憶が繋がった。神屋宗湛が本能寺の際に名物を救いだしていたこと。これも「へうげもの」で登場したが改めて確認できた。家康が伏見城に残した鳥居元忠の話は、司馬遼太郎の「関ヶ原」にその場面があり、主従の厚い絆が感動的だった。遠回しに死んでくれと頼み、元忠も喜んで死ぬと請け負う。ここは少しあっさりしていて、何となく有無を言わせず死んでくれ、玉がなくなったら小判を鋳直して玉として、それで三成の胸を撃ち抜くよう言い残す。どちらかというと武士道というよりは、太平洋戦争の日本軍的な考えにも見える。理不尽な思想。もしかして、これこそが作者が皮肉を込め伝えたかったことなのだろうか。
鳥居で気がついたが、山田風太郎の小説に時折登場する鳥居耀蔵はどうやら鳥居元忠の子孫らしい。つまり伏見城を守って討死した忠義に対してこの時代まで報いられていたのかと驚く。因みに忠臣蔵で有名な大石内蔵助も元忠の子孫らしい。
 
20190513読み始め
20190521読了