ビールを飲むぞ

酒の感想ばかり

「比ぶ者なき」馳星周

2024-03-24 21:44:28 | 読書
太政官とは、太政大臣を長官とし、左大臣、右大臣、大納言の四者を言う。
史(不比等)は出世を望まず、その方が嫉妬を買わずにすむという事で、裏で工作を進める。様々に策謀を巡らせつつ、従うものを集めていく。小説としてはこう言った段階にある時期が面白い。若干北方謙三的なご都合主義感は否めないが。
造営中の新しい都の視察に来た史に百枝は新しい神を見つけたという。新しい神話を作るのだが、そこに登場する神のことだ。天照大神は男神だが、女神に変え、それを現在の天皇とする。
史の娘、長娥子と高市皇子の子、長屋王が結婚。
柿本人麻呂が史に呼ばれる。草壁皇子の付人同士の仲。新しい神話の話を聞かされる。草壁を偲んだ歌に、天の原というのがあり、そこから高天原という名前を思い付く。
磯城皇子が史を怪しむ。やがて磯城皇子は薨去する。史が武という者に毒殺を命じた。ここで、磯城皇子は歴史上実在が曖昧だ。そこをフィクションにした。
ここに来て、史と県犬養道代が不倫関係となっている。互いに考えが合うのだ。
軽皇子は正室を娶らないという。正室は皇族から娶らなければならない。すると史が娘を軽皇子に嫁がせて子孫を皇室に、天皇にしようとする野望が叶わない。それを汲み、軽皇子はそういってる。史は感極まる。
《柿本人麻呂に関して(wikiから)人麻呂の歌は持統天皇の即位からその崩御にほぼ重なっており、この女帝の存在が人麻呂の活動の原動力であったとみるのは不当ではないと思われる。歌道の秘伝化や人麻呂に対する尊崇・神格化が進んだ平安後期から中世、近世にかけては、『人丸秘密抄』のように持統天皇の愛人であったと記す書籍や、山部赤人と同一人物とする論も現れるが、創作や想像による俗説・伝承である》
皇子達の合議によって軽皇子が次の天皇となることが決まる。史が長屋王や葛野王を取り込んでいたからだ。史は軽皇子から信頼されており、軽皇子が天皇になった暁には史が世を取り仕切る、全権力を握ろうと考えているのだった。しかし軽皇子は自分も政治に参加できるよう令を変えようと考えている。その事に危機感を覚える史。
軽皇子が即位する。その時史は不比等という名前を与えられる。同時に軽に警戒感を抱く不比等だった。
一方、阿閇皇女の道代に対する信頼も深まる。
持統天皇は太上天皇となる。軽皇子は不比等の策略により毒殺を恐れるようになる。不比等は娘の宮子を側室にする。その間にできた子を天皇にする。そして自分は国を仕切ろうとする。
太上天皇は不比等を警戒する。長屋王を呼び、不比等の元に潜伏し、不比等が死に、軽と正室の子が大きくなるのを見届けろと、かつての不比等がそうであったように命じる。
軽と宮子の子は首(おびと)と名付けられた。
軽は病弱だが、太上天皇も老いのため伏せている。不本意ではあるが、女性でありながら権力を持ったことを後悔している。今となっては軽のことだけが心配。不比等には軽のことを頼む。かつての讃良と史の関係に一瞬戻る。自分が死んだら火葬して欲しい。これは史実通り、初めて火葬された天皇のようだ。しかし、後にした不比等は、太上天皇が首(おびと)のことを何一つ口にしなかったことを気にする。太上天皇は軽に正室を迎え、その子を後継者にすることしか考えていない。
軽は病でやつれていく。母である阿閇に譲位し天皇となって欲しいと頼む。取り合わない阿閇。軽は父である草壁が天皇になるべきであったが早世したため叶わなかったため、命日を国忌とするよう不比等に相談。草壁は天皇でないため無理な話であったが、軽が乗り気でない遷都を許す代わりに何とか国忌とするよう交換条件。不比等はそれを実現した。
軽が死ぬ。首が天皇になるには早すぎる。阿閇が譲位すればいいが、もっとふさわしい皇族がいる。そうなると首が天皇になるのは永遠に叶わない。ここで国忌が活きてくる。国忌は天皇の命日であり、天皇の后は、かつての持統天皇がそうであったように天皇になり得る。また西域での事例を引き合いにだし、中大兄から血族だけに伝えたとする典(のり)があるとし、天皇を次ぐ根拠があることを主張した。そして阿閇は即位する。誰も不比等の手際に反論できない。この辺りが盛り上がる場面。
氷高皇女、軽、吉備内親王は兄弟。吉備内親王は長屋王の正室。氷高皇女は吉備内親王の夫の長屋王が不当な扱いを受けているのを思い、阿閇天皇に不比等に気を遣いすぎると不満を漏らす。
平城京に遷都しようとする。宮の東に東宮を造り首を住まわす。興福寺が藤原の氏寺。これで平城京は藤原の都となる。
軽の側室の石川の娘に子がいる。それが心配の種だが、石川の娘、そして紀の娘から称号を取れば済むと考える。
草壁、軽と、天皇にすることが叶わなかった。首は何としても天皇にしたい。
阿閇は天皇の位に疲れ譲位をする。但し首はまだ若く、氷高皇女に。元正天皇だ。氷高は長屋王推しで、不比等には警戒をする。
このままでは長屋王が皇室を占有しかねない。不比等は首を天皇にするため、秘かに舎人を知太政官事に、新田部親王を五衛府、授刀舎人寮の主にするよう太上天皇(阿閇)に依頼する。これで磐石となる。
同時に日本書紀の編纂をすすめる。蘇我馬子の功績を厩戸皇子の事と書き換えなければならない。と同時に聖徳太子と名前も変える。
史実ははっきりしないが作者の創作により野望に満ちた人物に作り上げられた。もう少し悪人に仕上げてもよかったと思うが、題材が題材だけに難しいだろう。また、「鎌倉殿の13人」北条義時のように、ライバルを粛清していくことはないところは、そこまで悪人ではないと感じる所以だろうか。
 
20240212読み始め。
20240324読了。

「強い力と弱い力」大栗博司

2024-03-05 19:43:49 | 読書
強い力とは距離が長くなると強くなる。漸近的自由性の計算結果の符号がマイナスになるから、離れるほど強くなる。
何が難しいと言って、図がほぼないのが難しい。クオークに色があるというところは図が欲しいところ。そういう図はないのに、研究者の似顔絵なんかはある。
野村泰紀の書籍同様、科学者の世界では、いかに他者より先んじて発表するかということに神経質。知らないところでライバルが、同時多発的に同様の研究をしている。自分しか研究していないだろうと思っているときに突然ライバルが先に発表してしまう、この共時性。
超伝導体の中では光子は質量を持つようになる。
弱い力のボゾンがどうやって質量を持つのかわからなかったが、ヒッグス場を取り入れ、自発的対称性が破れることで解決できることを発見。強い力の正体を見つけるためのヒッグス場だったが、電磁力と弱い力が統一されていたことの証明として役に立った。
今では異なる力が、宇宙の創成当初は同じものだったというのが非常に魅力的だ。逆に、この先電力と磁力が別々になることがあるのだろうか?
こういった驚くべき理論は1960年代という、自分が生まれる前の時代に既に登場していたようだ。そこから60年近く経つが、ほとんど進歩していないようにも思える。
ヒッグス粒子は空間に占められており、そこを素粒子が通ろうとするが、ヒッグス粒子が抵抗となり、質量が生まれる。そのヒッグス場を水飴のように例えるが、実は抵抗の効果と誤解している。質量とは運動状態の変わりにくさが本質なのだ。質量と摩擦は異なるものだ。
電磁気では電磁場を強くしていくとその中の電子の受ける力が強くなる。同じように素粒子の質量はヒッグス場の値によって変わる。いヒッグス場の値が大きくなると全ての素粒子の質量は一様に大きくなる。しかしどの素粒子も同じ質量なのではない。それぞれが異なるヒッグス荷を持つ。電気が電荷を持つように。
場とは場所ごとに何らかの値が決まっている。
質量の単位がeVという、電気力の単位なのが不思議だ。
 
20231204読み始め。
20240305読了

「なぜ宇宙は存在するのか」野村泰紀

2023-11-30 00:51:52 | 読書
宇宙は膨張していて距離が遠いほど速い。風船の上に点を置き、膨らませるイメージ。ただ宇宙のサイズが大きくなっているわけではない。銀河は広がるが、原子核と電子の距離が広がるわけでなく、従って、人間のサイズが大きくなるわけではない。
銀河の渦は中心から渦巻きのように回転している。遠心力と向心力が働く、実際観測すると遠心力の方が大きい。実際は6倍の質量が必要。それがダークマター。2つの銀河がぶつかるとき、目に見える物質は相互作用や摩擦が働くが、ダークマターは相互作用が少ないのですり抜けていく。
ダークマターという未知の物質が存在することに、そのうち見つかるだろうと楽観的なのが面白い。それが当然存在すると理解する時代が来るだろうと。
物質は引力があり、互いに引っ張り合うので、いずれ収縮するはずなのに、膨張しているということは、何らかの斥力が働いていると考える。それがダークエネルギー。
宇宙は初期から放射→物質→真空と支配されていった。
10-12秒、数百兆℃。その前は電磁気力と弱い力が統合され、電弱相互作用となっていた。それが分かれた際、クオークレプトンが質量をもった。この構造の変化はヒッグス場に満たされているものの凝縮によって起こった。
真空のエネルギー問題に取り組んだ1人である、スティーヴン・ワインバーグ。電弱統一理論を完成させ、1979年にノーベル賞受賞。人間原理という考えに注目した。
20231126広島からの帰りの電車で読み、非常に充実した気持ち。
この本が分かりやすいのはなぜなのか考えると、例えの明確さがあるだろう。類書では理論を素人でも分かりやすくするよう例え話を用いる。しかしその例え話自体が分かりにくく、余計に理解を妨げがちだ。しかし、この本は例えが分かりやすい。(と言ってもある程度難しいものではあるが。)
 
20231120読み始め
20231129読了

「真夜中に海がやってきた」スティーヴ・エリクソン

2023-11-03 18:04:03 | 読書
一度読んだことがあるが、この続編と言われる「エクスタシーの湖」を読みたくなり、復習のため再読。ところが全く覚えていない。初読と言ってもいいだろう。まあ丁度良かった。1回目は20040906に旭屋書店京都店(今はない)で購入していて、20010420に出版されているので3年後に買ったのだ。恐らくすぐに読んだだろう。一度は処分してしまっていたが、また欲しくなり20151114に丸善広島店で改めて購入。20020420の第2刷が残っていた。買ったものの、結局8年積んだままだった。
クリスティンはホテル・リュウというメモリーホテルで働くメモリーガール。週に何度も通ってくる博士という老人。老人の記憶(という思出話のようなものか?)を聞く替わりに、自分の記憶の話をするという仕事。ある日博士が客でやってきた。全く挨拶をしないことに腹を立てたクリスティンだが、博士は息を引き取っていたのだった。博士との取り決めがあるので、自分の記憶を話し始める。
カルト教団から脱出してきた。その集団はミレニアムに大波が襲ってくるとし、1000年には1000人を船に乗せ脱出する計画。2000年にクリスティンは脱出する2000人の中にいたが、教団に興味がなく逃亡したのだった。途中でイザベルとシンダという女性二人組の車に拾われる。金もなく行くあてもないから、すがるようにその二人と同行する。しかし二人は殺人をおかし、その被害者の家に住んでいるのだった。それを察知し、わずかの金をもって再び放浪する。レストランで見た不思議な広告に応募し、男と生活するようになる。男は自称、黙示録学者(アポカリプトロジスト)。しかし余計なことを何もしゃべらず、自分の素性に繋がるものの何一つ部屋に置いていない。クリスティンにも余計なことはしゃべらせない。奇妙な共同生活を過ごす。
男(居住者という)はほとんど地下に閉じこもっている。ある日男が留守の時にそこへ入るクリスティン。すると壁一面のカレンダー。ただ月日が連続したものでなく、無秩序に並んでいる奇妙なもの。そのカレンダーはアポカリプスのカレンダーとのこと。真のアポカリプスの新世紀は1999年12月31日ではなく、もっと以前に始まっているのだった。正確に言えば1968年5月7日午前3時2分。アポカリプティックな事件とは理由なき事件。つまり1968年4月のアメリカ合衆国で最も偉大な公民権運動の指導者の暗殺(とだけ書かれているが、キング牧師の暗殺のこと)は理由があるためアポカリプティックではない。それに対して1974年6月30日、その指導者の母が暗殺された。これは理由もなく起こったという意味で現代のアポカリプスというべき出来事なのだ。日本の誇大妄想的な小説家(第3年目、1970年11月25日)、東京の地下鉄でのサリン事件(第27年目、1995年3月20日)、気のふれた韓国人の牧師が、一方的に配偶者を決めて四千人の集団結婚式をとりおこなった事件(第15年目、1982年7月16日)など日本人にも馴染みのある出来事が出てきて面白い。第32年、北カリフォルニアで2000人の女や子どもが断崖から身を投げる事件。これはクリスティンが当事者であり、生存者であるため、実際は1999人だったと親切心から居住者に教えてやった。様々な出来事が居住者の中でアポカリプティックな出来事と認識されている。そしてクリスティンの体から脾臓のあたりにある個所を見つけ1985年4月29日と書き入れる。アポカリプスのカレンダーは静的なものでなく動的にそして1次元的な方向でなく立体的に位置を変えるのだった。クリスティンはカレンダーの中心なのだ。クリスティン自身を配置し、カレンダーの日付との位置関係がどう変化するのか調べだす。クリスティンを部屋の中のあらゆる場所、または外に配置して、そこからカレンダーがどう変化するか見るのだ。
このカレンダーらしき描写にはかすかに記憶がある。男が秘密の部屋で壁に写真か何かを張り付けているような映像が頭に残っていたが、カレンダーだったのだ。主人公がいたのは思い出せなかった。完全にクリスティンが主人公だ。2度目にして理解しながら読むことができそうだ(いや、本当の意味で理解できているかはわからないが)それにしても、つくづく訳者によって雰囲気が違うと思う。本作は越川芳明であり、柴田元幸もエリクソンのいくつかは訳しているが、柴田のエリクソンの翻訳における暗さ、吐き気を催すような寂寥感というものがなく、どことなく明るい。こちらの方が好みかもしれない。何か今回の読書はワクワクする。読み進めるのが楽しみだ。
やがてクリスティンの語りから、居住者の主体に変わる。男の過去が語られ始める。どうやら、1968年5月7日というのは、母親の故郷であるフランスに家族ともに移住していたとき、両親のへやから発砲音が聞こえ、女子大生の死体を見つけた日。同じ時、学生運動が盛んで、学生対警察で抗争があった時期。母親は群衆のなかに消え父親は女子大生を殺害したという疑いで刑務所に入れられる。当時11歳だった男は、言葉を発することをやめ、友人の家を転々とするのだった。スターリニストのジュナという女性と出会い、チグハグな関係が始まる。カール・マルクスとの三角関係。これぞ幻視か?全く、男の狂った思考が続く。
マクシー・マラスキーノという女性と知り合う。しかしマクシーに監禁されてしまう。7ヶ月が過ぎる、その間ずっと頭痛に悩まされる。ある日鍵が開けられていて脱出する。舞台はパリに移る。男は25歳になっている。アンジーという19歳の少女と知り合う。例の韓国の指導者の合同結婚式の話。
よくわからない描写が続いたが、情熱的ではあった。アンジーとは親密になったように思える。過去について彼女は話さなかったが、自分は11歳の時の出来事を話した。青いカレンダーの原型はできていた。
二人は別れる。アンジーはロスに去ってしまった。それまで6年付き合っていたのだ。そして妊娠していた?男はもう一度会いたいとロスに向かう。一方のアンジーは疎遠にしていた自分の親に会おうとする。過去を回想する。父親は日本人で物理学者。核科学者。母親は放射線の影響で既に死んでいた。アンジーは小さい頃はサキと呼ばれていた、というセンテンスがあった。父親が日本人だから日本名のサキだったことがわかる。アンジーは子供の頃窓から暗くなりつつある景色をみるのが好きだった。遠くにラスベガスの明かりが見える。それは熊本に住んでいた父親が1945年8月に長崎の方に見た原爆の明るさに重ねる。
サキは子供の頃父親に期待されていた。成長すると肌身離さずにいた熊のぬいぐるみを取り上げられた。サキは非凡な才能を持っていたが、ピアノ以外は飽き性で学校の成績も平凡なものだった。母親は戸惑い、父親は憤慨する。反抗したサキは熊のぬいぐるみを探しだしそれを連れて家出する。そしていかがわしいバーで働き出す。よくかかっていたロックバラードから取ってアンジーと名乗るようになる(ローリング・ストーンズの「アンジー」らしい)。そのうちにマクシー・マラスキーノという女性と知り合い、その部屋に転がり込む。マクシーはパンクロックの歌手をしているようで、酒やドラッグでヘロヘロになったロックミュージシャンやアーティストも転がり込んでいた。マクシーの紹介で映画に出るようになる。年齢(17歳)がばれマクシーの部屋を出ることにする。荷物を取りにマクシーの部屋に行くと、部屋の奥で暴力的な男が閉じ込められて、外から鍵をかけられている。荷物を取りたいが怖くて中に入れないアンジー。差し鍵をそっと開け、去る。中の人物こそ、居住者だ。ここで繋がる。
アンジーは最後の映画に出演して辞めようと思う。マクシーと会い、ミッチ・クリスチャンという男は危険だからやめた方がいいとアドバイスされるが、アンジーはマクシーが仕事を独り占めしようとしているのではないかと疑心暗鬼になり(妄想思考?)反対を押しきって事務所に行く。現場に入ろうとするところで黒い革ジャケットの女に止められるが無視。しかし現場をみて現実に戻されたアンジーは逃げ出す。そのまま飛行機に乗りロンドンへ行く。9ヶ月後パリのサンジェルマン通りのカフェに座っていて、居住者に会った。
黒い革ジャケットの女はルイーズといい、かつてミッチと結婚していた。少し話が進み、新聞記事に(実は前のページにも出てきていた)車がトンネルに入った時、出っぱりで頭部が引っ掛かりスライスされた男の事故の記事。その衝撃で車はトンネルの壁にぶつかり運転していた女も死んだ。男はミッチで、女はナディーン・センケヴィッチ、芸名はマクシー・マラスキーノだった。
ルイーズの過去の話になる。ミッチェル・ブルーメンサルとルイーズの夫婦は映画制作をしていた。ミッチが監督で、ルイーズはルル・ブルーの名前で脚本を書いていた。そこにルイーズの兄のビリーが加わり3人で仕事をしていた。3部作を予定していた映画制作が最後の1作で行き詰まっていた。ルイーズはスナッフフィルム(殺人ポルノ映画)を計画した。勿論本物ではなく作り物で。ミッチは盛り上がる。偽物と言う点ではガッカリしたが。女優としてミネアポリス出身のマリーという18歳の少女を見つけてきた。真実味を出すため撮影の一日前に呼び出し、目隠しをして裸にし24時間宙吊りにし、横で殺した後の始末をどうするか3人で話し合う振りをした。撮影後マリーは錯乱し行方不明となる。映画は公開されると警察が真に受け2人は逮捕された(ビリーはその前に逃亡)。マリーは行方不明のため殺人はしていないということが実証されない。しかしマリーが見つかる。ただ拷問をしたり精神的に追い詰めたという行為に対しては追及される可能性があった。しかし、マリーは精神がおかしくなっていたため実証不能として罪は免れた。
しばらくすると、同時多発的にハンブルク、ブエノスアイレス、メキシコシティ、東京、ロサンジェルスでルイーズたちの映画を真似て、実際に5人の少女が殺される事件が起きた。それ以来ルイーズはおかしくなる。ルイーズはミッチとの間に子どもを妊娠する。産もうとするとミッチは大反対。ミッチと別れる。兄のビリーの行方が分かり、会いに行くとそこにはマリーがいた。ビリーは逃亡するときにマリーも一緒に連れ、ダヴェンホール島に来てバーを経営していたのだった。既に正気に戻っているマリー。逆にルイーズの方が精神的に病んでいた。なぜか優しく介護するマリー。反発するルイーズ。ルイーズは毎晩自分の作った映画によって死んでしまった5人の少女の夢を見て苦しむ。一方のマリーはあの撮影の時、光に包まれ突ききってしまい、それ以来夢を見なくなった。
ルイーズは赤ん坊を産むと決意する。マリーに付き添ってもらう。ミッチに似た男の子や、ルイーズに似た女の子は産まれてきてほしくない。自分達に似て欲しくない。ルイーズはある考え、マリーに産まれてくる子の面倒を見てもらえないか相談した。それはできない、と断られる。かつて非道なことをした自分なのだから当然だと思ったが、そうではなくマリーは自分は死ぬからというのが理由だった。そして出産。疲労のため赤ん坊と添い寝して眠ってしまうルイーズだが、目が覚めたら赤ん坊がいなかった。気が変わったマリーが赤ん坊を連れて去っていったのだった。それから3年間、サンフランシスコで一人で過ごす。マリーから手紙が来たりしたが開封せず、読むこともなく返事も書かず。やがてビリーからの手紙が来たとき、中は読まず、島に帰ると返事だけ出して、島へわたる船着き場に向かう。対岸にビリーと手を引かれた自分の娘の姿を見つける。船は着岸したがそれには乗らず、サンフランシスコに帰る。それからも娘に会わない。耳の奥で銃声が鳴り続ける限りは(幻聴)。マリーにしたことの償いとしてあらゆる映画のフィルムを盗み出す。そのフィルムを焼きその灰を家々のパラボラアンテナに塗り黒く染めていく。そしてそのパラボラアンテナを日本人の少年が白いパラボラアンテナに交換していく(このシーンは前の方で出てきた。何のことかと思っていたが、ここで繋がる)1999年のことだ。ルイーズはもう54歳。窓際に映る裸の少女が目に入る。
それはクリスティンだった。居住者のタイムカプセルと金を盗んで家を抜け出す。パラボラアンテナを取り替える少年のトラックに乗せてもらう。少年は黒い時計墓地(「黒い時計の旅」の黒い時計のことか?)の中からタイムカプセルを掘り出し、日本に送っていた。墓地で少年は落雷に会い、少年から鍵を奪い、少年の家で寝る。夜中に侵入者があり、日本に送るための無数のタイムカプセルが盗まれた。クリスティンが持っていた居住者のカプセルも一緒に持っていかれた。その事実を知った途端、自分が遂に孤独になったことを自覚する。自分が3、4歳の時のことを思い出す。この世界に欠けているものはなn?という問いを叔父に投げかけ、それ以来叔父が機嫌を損ねた。ダヴェンホール島でバーの経営をしている叔父、つまりビリーだ。ここでまた繋がる。
クリスティンは居住者の家に戻る。居住者は不在。クリスティンがトラックを走らせていると故障したカマロに乗るルイーズと知り合う。居住者の家に連れ帰る。親子の対面か?
家の中を案内するクリスティン。地下でカレンダーを紹介。2.3.7.5.68.19と書かれた場所。1900年代の68番目の年の5番目の月の7番目の日。つまり1968年5月7日3時02分すぎ、そこが全ての始まりと説明する。
クリスティンがいなくなり、ルイーズはパラボラアンテナを乗せたトラックを使ってチャイナタウンのペントハウスに向かう。
また場面は変わり、20年後。カールという老人の話。相変わらずここへ来てまた新しい人物を登場させる。老人の幻覚。地図の制作をしてきた老人。例の数字は座標ではないか、と妄想する。中華街の青い目の4歳の少女が登場。過去に会った少女と重なる。
居住者はパリで売春婦を助ける事業に取り組む。一人一人?果てしない。不遇な女性たちを救出しホテルにかくまう。いつかそういった女性たちも去っていく。ブドウ畑を経営する老夫婦のところにいる。被害妄想的な幻想が続く。セーヌ川の埠頭で空を見つめ幸せな時間を味わう。この場面が癒される。
なけなしの金を使いブルターニュ半島のシュールレバトーという村のホテルに泊まり、そこで2.2.79と書かれたメモを見つける。それはマクシー・マラスキーノに監禁された日だが、関連が見つけ出せない。
眠ると夢を見る。赤ん坊(をつくったことはないはずだが娘)の夢だ。娘ということに執着しているような夢。結局この小説は、産んだことのない娘に対する愛情をずっと描いている。
クリスティーナという人物が登場。この女性はクリスティンと関係あるのか?娘?彼女は逆に父親が死ぬ幻想を見る。
クリスティンがまた登場。妊娠する。東京へ来てからの話に戻る。東京の場面が続く。帯の解説は安易にここだけをピックアップしたのではないか?クリスティンは叔父につれられダヴェンホール島の川の堤防にいる。対岸に母親を見る。
クリスティンの見る東京の風景。やがて日本人の女性と知り合い、それがホテルのオーナーであり、メモリーガールとして雇われることになった。冒頭に出てきたカイ博士。アメリカに何年も住んでいたが、日本に帰ってきた。娘のサキとは縁を切っている。とここで。アンジー(サキ)の日本人物理学者の父とは、このカイ博士だったと繋がる。
ミカからメモはクリスティンにふさわしいといわれる。水族館?に行きそのメモの番号を探しカプセルを見つける。その直後、爆発が起こり大量の水が押し寄せる。これが真夜中に海がやってきた、なのだろうか?
それからの幻想。クリスティンはお腹の子を流産する。苦しい描写が続く。しかし赤ん坊が座っている夢を見て、目覚めると、お腹に子が宿っている感覚を覚えるのだった。
途中まで読んで気づいたが、前回は途中で挫折していたのではないだろうか。今回は読了した。そして楽しめたと思う。
居住者(多分作者をあらわしているのだろう)の赤ん坊(特に女の子)に対する感覚が印象的。生まれているのか生れていないのか?生まれたとして急に成長し、ぶっ飛んだ少女(18歳くらい)に成長している。そうなってしまうことへの恐れ、そうなってしまって不幸な人生を歩んでしまうのではないかという不安。これはまさに作者の観る幻想だ。被害妄想的幻想。
 
20231022読み始め
20231103読了

「利休の死」井上靖

2023-10-22 03:17:00 | 読書
中公文庫で20210125に発売されている。当然、何度目かの発行。何だか買った記憶があるが、記録にないし、実物も出てこない、何なんだろう?その頃は石川に引っ越しして間がない時期だ。そんな昔でもないような気がしたが。ただ収録作品を見てみると、講談社文芸文庫の2冊とほぼダブっている。だから買わなかったのかもしれない。そして今回はまた忘れていて買ってしまった。というところだ。
「桶狭間」
信長の話。よく知られる、若い頃のうつけの話で、父の葬儀に行きたくない。まっこうをぶっかける。それを嘆いて平手が自害する。自分の考えと、自分の上の世代との考えのギャップに違和感を感じている信長だが、桶狭間を機に帝王のような情熱が顕在化する。
「篝火」
多田新蔵は織田信長方に捉えられている。赤い褌一丁で捕らえられているという情けない状況。敵からは嘲笑の的だ。しかし当の本人は全く恥とも思っていない。この戦に馬鹿馬鹿しさを感じている。というのは、新蔵の感覚では戦とは、槍や刀で戦うもの。しかし今回の戦は鉄砲が登場した。一瞬で何の武士らしさもなく決着がつくことに馬鹿馬鹿しさを感じていたのだった。山県昌景を狙撃したという名もない下っぱの侍の話を耳にする。新蔵からすれば山県は崇拝する人物。それが一介の下っぱが暇だから命令を待たず撃ったという。その暇だったからというワードに怒りが沸騰する。敵の槍を奪って抵抗を試みる。万にひとつの勝ち目もない。それは承知だ。最後の瞬間を迎えようとしている。
「平蜘蛛の釜」
以前に読んだ。松永久秀が自爆した日は10月10日で、10年前に南都の大仏を焼いた日と同じ日と月だったという。
「信康自刃」
何とも暗くて悲しい話。丁度今年の大河ドラマは「どうする家康」で、信康自刃の話も出てきたところだ。大河が例外で、築山殿と信康は今川らと通じて理想郷を造ろうとしていたという話だったが、ここではやはり史実通り、築山殿は今川に重きを置き息子である信康も同じ考え、織田信長の娘である徳姫は信康母子と不和であり、徳姫は信康への讒言12項を信長に訴える。築山殿と信康は信長の命により自害させられる。徳川に徳姫を言ってみれば人質として送る信長の悔しさと、家康は信長から送られてきたあいくちのような徳姫、いつか自分に突きつけられはしまいかという予感を持っており、まさにそれが現実となった。
「天正十年元旦」
武田勝頼、織田信長、明智光秀、羽柴秀吉の元旦の様子を描写した、非常に短い短編。数ヵ月後にはこれらの登場人物の運命が一気に替わる。本人たちはそれを予感したりしてなかったり。短くそして静謐ながら味わい深い。山田風太郎の「同日同刻」のような感じ。
「天目山の雲」
武田勝頼の話。冒頭は血気にはやる勝頼だが、その衰退が凄まじい。敗戦が続き、味方も次々に去っていく。最後天目山に入るときには44名しか残っていなかった。信玄の子であるというプライド。それが空回りし敗戦、重臣たちを無くし、やがて次々と味方が去っていく。その寂しさ虚しさがよく伝わる。嫌な人物としては描かれておらず、それだけに悲劇的な主人公と映る。
「信松尼記」
以前に読んだ。
「森蘭丸」
蘭丸。弟は力丸、坊丸という。父は森可成で宇佐山城だった。浅井朝倉との戦で討たれた。ただ惟任光秀が加勢していれば助かったかもしれないところを、素通りし石山に向かった。これを蘭丸は恨みに思っている。だから光秀が好きになれない。信長が武田を破った際、蘭丸は美濃兼山城を与えられる。その時一人の女性と出会う。由弥という。初めて恋愛感情を持つ。しかし由弥は光秀の愛人だった。そして迎える本能寺。これは短編ながら読みごたえがある。蘭丸の気持ちが伝わってくる。
「佐治与九郎覚書」浅井長政とお市の娘三姉妹の一番末っ子の小督(こごう。井上靖はこう呼ぶことが多い。お江のこと)は3度結婚している。一人目が佐治与九郎一成だ。与九郎の母は信長の妹で市と姉妹なので、二人はいとこの関係になる。浅井三姉妹の2番目の娘の初と違って、勝ち気で知られるが、ここでは逆に穏やかな朗らかな性格だ。仲良く過ごすが、2年後、秀吉から小督を病気になった茶々の見舞いに来させるよう使いが来る。与九郎はこのまま小督を返してもらえないのではないかと予感する。案の定離婚させられ、秀吉の弟の秀勝と結婚させられる。これまた仲睦まじかったそうだが、秀勝は朝鮮出兵時に病没した。やがて小督は徳川秀忠と結婚する。与九郎は自分と小督がそうであったように、秀忠と仲良くやっているのだろうと思う。小督は誰とでもそれなりに仲良くできる性格なのだろう。
「利休の死」
切腹を言い渡される直前から始まる。何か自分の運命が替わるような知らせが来るような予感を感じている。辞世の句をもう書いている。秀吉との確執がいつ起こったのか想いを巡らす。それは秀吉と初めて言葉を交わしたときに、既に運命は決まっていたのだと思う。他の作品でもそうだが井上靖の考えでは、利休は秀吉に対しては見えない刀で斬っている。何度も何度も斬っている。その仕返しに切腹させようという。そんな解釈だ。
 
「桶狭間」
20230709読み始め
20230709読了
「篝火」
20231015読み始め
20231015読了
「信康自刃」
20231015読み始め
20231015読了
「天正十年元旦」
20231018読み始め
20231018読了
「天目山の雲」
20231019読み始め
20231019読了
「森蘭丸」
20231021読み始め
20231021読了
「佐治与九郎覚書」
20231021読み始め
20231021読了
「利休の死」
20231022読み始め
20231022読了