遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『水鏡推理Ⅵ クロノスタシス』 松岡圭祐  講談社文庫

2017-09-14 13:49:34 | レビュー
 この水鏡推理シリーズは、「人の死なないミステリ」を特徴としてきた。ところが、目次の裏ページに、「本書は過労死について描いている」と述べている。そして、今回のテーマは、「劣悪な職場環境による過労死が根絶されるように強く願う」という著者の思いを込めたものである。そして、「劣悪な職場環境」の事例として国家公務員の職場と警視庁とを題材にする。
 過労死問題と水鏡がどう結びつくのか? 「過労死バイオマーカー」の研究が連結ピンとなる。この研究は厚労省と東京大学大学院医学系研究科の共同開発であり、同大学院の特任教授菅野裕哉医学博士が創始者兼開発者としてほぼひとりで研究をまかされている。PDG値が157.5を超えていれば過労死リスクにつながるという検出方法であり、この数値の検出で事前のリスク対策をめざそうとするものである。
 研究公正推進室の石橋室長は、総合職の須藤誠と水鏡瑞希を呼び、この過労死バイオマーカーについて、3日以内にこの研究内容を評価し報告書を提出するよう指示した。石橋室長は、過労死バイオマーカーはすべてをPDG値に集約し、過労死と過労自殺を予見できる革新的研究であり、値を一見し危険を察知して、労働者に休みをとらせる基準を明確にできるという。厚労省はこの研究の精度が実証されしだい、公的な基準の採用、法案提出に持ち込みたい方針のようだと告げる。水鏡は須藤の助手として、その評価を担当することになる。

 ここで須藤についてまず触れておこう。30歳前後、線が細く、どこか軽そうな印象を漂わせる総合職。本人は総合職として入省したが、同期の中では落ちこぼれ的な状態にいると自覚している。が、転職する勇気も無いという人物。それ故か、一緒に仕事をすると、風変わりな知識を機転に役立てて難問題を様々に解決してきた水鏡から学べるのではないかという思いを持つ。その意識が瑞希の行動を支持する形にもなり、このストーリーでは相性のよい関係として描かれていく。ここが一つの読ませどころになる。
 
 ストーリーの冒頭は一つの過労死事例として、同僚の立場でみた事例描写から始まる。文化庁文化財部の一般職菊池裕美は、秋山惠子の死が過労死だと思っているが、周りの誰もそれを認めていない。所属する学芸研究室の新たな室長に40代の総合職、尾崎寬樹が来てから職場の雰囲気が一変し、修羅場の様相を呈し、連日の徹夜仕事が当たり前になっていた。裕美の所属する職場の雰囲気が描写されていく。
 裕美は厚労省から職員全員に届いたPDG値記載のカードを思いだし、同僚の高田に「過労死バイオマーカーの研究」のことを尋ねる。そして教えられた厚労省の広報誌に特集されていた記事を見つける。裕美自身のPDG値は129.6、惠子のPDG値は167.2だったと思い出す。裕美は同僚から研究公正推進室の末席係員水鏡のことを聞くと、裕美は即座に水鏡に会いに行くという行動をとる。研究が公正なものならば、秋山惠子の死は過労死と認定される可能性があるからと。裕美は瑞希に面談し、過労死バイオマーカーの研究が公正で本物だと立証して欲しいと依頼する。ただし、検証の客観性を保つために、同僚の惠子の死については何も語らない。この時点で、瑞希はこの研究の公正さを評価する業務を担当する以前だった。突然の裕美の依頼は、この研究の評価という課題を助手として取り組むに至って、瑞希がこの研究の公正さの評価に引き込まれていく一つの原因になる。
 裕美が唐突に瑞希の前に現れて依頼事をしたというきっかけは、評価課題を与えられた瑞希の最初の行動に結びつくことはない。なぜ著者は裕美の依頼事というエピソードを冒頭に持ってきたのか? わからないまま読み進めることとなる。だが、このエピソードが重要な伏線となっている。これがストーリーの最終段階で活きてくる。なるほど!という展開になっていくから、読後感として面白さを加える。このストーリーの途中で菊池裕美の言動が時折描かれるが、それはこのストーリーにおけるどんでん返し構想の重要な一つの柱であり、大団円に至る水鏡推理の伏流となっていく。

 このストーリー、大筋で眺めると、菊池裕美の訴えを聞いた後で、「過労死バイオマーカーの研究」の評価という課題に須藤の助手として瑞希も担当。その研究内容の資料読み。研究者の菅野博士の研究室訪問と面談。昨年の春以降に全省庁職員で亡くなった人とPDG値の確認により該当者3人の事例を入手。菅野も事例の細部について検証し研究成果との関連性を分析する必要性に同意。調査の対象を文科省に一番近い財務省での死亡事例に絞り込み、活動を開始。菅野から基本情報を入手。ここから始まる。
 死亡事例の対象となったのは、財務省主計局主査だった吉岡健弥。1981年7月18日生まれ、35歳の総合職で、東大法学部出身。菅野は、主査は主計官の補佐であるが、在職中または退職や異動直後に亡くなった人が多いという。菅野は瑞希の質問に対し、吉岡のPDG値を測定した愛真会病院精神科、医師・佐久間竜平の名を教える。勿論、菅野は須藤と瑞希が佐久間に面談し調査することに同意する。
 菅野によれば、PDG値が基準値を超えている人に関して、過労死の危険性を伝えたが、研究段階だということで、省庁側は菅野の助言を無視したという。

 佐久間医師は、菅野の研究を認めながらも、吉岡は過労死ではなかったと言う。そして、菅野博士は研究の成果が認められ、閉塞性血栓血管炎の奧さんのために医師としての地位向上を望んできたことは有名な話だと須藤と瑞希に告げる。
 須藤と瑞希は、主計局を訪れ、吉岡の元同僚に面談する。同僚は、吉岡が結婚間近で、幸せの絶頂期に居て、婚約者は松浦菜々美という。吉岡のデスクには婚約者の写った写真が置かれていた。過労については、返答に困惑する者とありえないと答える者がいた。
 次に、須藤と瑞希は警視庁に赴く。吉岡の自殺事件を扱った矢田警部補に面談するためである。矢田は、大手商社アルカルク女子社員過労死疑惑の捜査に携わっていた。矢田から吉岡の自殺事件の概要を聞く。鎌倉警察署が扱い、由比ヶ浜東端、滑川川口付近で発見され、死因は溺死。現場の状況と医師の検案書により、自殺と報告されていた。担当医は検案書に永井泰己と記されていた。上の判断で、捜査は終了していた。
 矢田は過労死自殺の疑惑について、思うところはあるが刑事としては捜査終了については仕方が無いという。過労死は民事責任のみで刑事責任を問えないというのが従来の風潮なのだと言う。過労死疑惑に対して、業務上過失致死の適用ができるかどうかという観点で捜査対象になるのだという。矢田は、上司の許可を得ないと、松浦菜々美の連絡先を教えられないと言う。
 警視庁を辞すとき、職員から矢田の同期で同僚が亡くなっていて、過労死疑惑で遺族が公務災害を争ったが認められなかったということ。矢田が過労死問題には尽力したいと思っている刑事だと聞かされる。そして、警察官の殉職理由の一位は過労死であり、キャリアであっても激務だからと。また事件性があきらかなら矢田が動いてくれるのではとも言う。
 ここから瑞希が吉岡の自殺事件が過労死を原因とするのかについての調査に具体的に取り組んでいくことになる。まず話を聞くために松浦菜々美探しをどうするかから始まって行く。瑞希が独自判断で調査行動に邁進し始める。例の如く、動き出したら止まらない。それがこのストーリーに引きつけられる要因でもある。今回は須藤がかなり協力的なのが幸いしていくのだが、瑞希の悪戦苦闘は変わらない。瑞希の推理と行動が、勿論今回も読ませどころである。松浦菜々美探しが、瑞希の推理を経て意外な結末へと導いていく。
 ストーリーの最終ステージは、この研究の評価に関わる謎解きが3つの場所を舞台として行われていく。1つは、警視庁の会議室。事件関係者が集まった場所で、瑞希の謎解きが説明される。2つめは、菅野博士の研究室を須藤と瑞希が再訪問し、研究に絡んだ謎解きをする。3つめは、冒頭の菊池裕美が瑞希に依頼した事柄への解決である。
 この謎解きはどんでん返しの発想ができないと至り得ない結末だから、凡人読者としてはウ~ン・・・・・ナント!・・・・・である。

 メイン・ストーリーの展開の各所に、ちょっとした枝葉的エピソードが2つ挟み込まれているのは、いつもの通りである。今回もなかなかおもしろい水鏡推理による問題解決エピソードとなっている。須藤が仕事として関わった課題に関連している事項である。瑞希がちょっとした助言をしたり、行動をとることで、これらサブ・ストーリーが決着していく。須藤は瑞希に助けられる。これらは著者の読者を楽しませるサービス精神か。
 *超音波ネズミ避け器製造販売会社からのクレーム対応
 *モバイル機器への自動ハッキング問題への対策提案への対応

 さらに、一つおもしろいオチが書き込まれている。瑞希もこの研究の一段階で、全省庁の職員の一人として、PDG値を測定されていた。そして、この研究の評価に助手として担当に加わり菅野の研究室を訪れたとき、再測定をしていたのだ。その結果、瑞希に一つの影響が及んでくる。それは何か? お読みいただき、最後に楽しんでいただきたい。

 この小説の読みどころとなり、おもしろくかつ興味深い点を列挙しておこう。
1. 素直に読み始めれば、思いもつかないどんでん返しの構想でストーリーが組み立てられ、幾度か読者をあっと言わせるおもしろさ。結果的に水鏡推理シリーズの大前提「人の死なないミステリ」の前提がクリアーされている。
2. 日本における最近の過労死状況についての統計的データや法制化の経緯など、事実情報が背景情報として書き込まれ、読者の認識を高める局面を提示している。
3. 著者が過労死問題について、国家公務員の職場における時間外労働の実情について、フィクションの形をとりながらも、現実に起こっている状況を社会諷刺風に描き出す。それは一つの現代社会における官僚社会機構内部の問題点として批判の対象になっている。単なる推理エンターテインメントに留めてない。ちゃんと読者に考える材料を提示している。
4. 石橋室長が須藤と水鏡に与えた時間は3日という限定。このタイムリミットがストーリーの展開に緊迫感を与えて行く。こんな進め方で大丈夫? と読者に思わせる展開にどう進むのかと読者を引き込んでいく。
5. 「過労死バイオマーカーの研究」の理論的次元での評価は世界並びに日本の研究者、関係者が既に完成していると認めているという実態がまず明らかになる。そのため、過労死実例の確認調査という観点からデータ値の妥当性評価に絞り込まれる。実例の調査確認という次元での評価行動が実際の課題となる。国家公務員の自殺事件の調査に絞り込むことで、推理の展開が始動する。その巧妙な設定の意外性がおもしろい。

 このストーリーは読者に簡単には展開の予測を立てさせないところがさすがだと言える。煙にまくやり方が緻密で職人芸的でもある。後で部分的に読み返すと、ああこの言葉の使い方で錯覚させられたのか・・・・という箇所に気づくという次第。立ち止まり立ち止まり、検証的に文脈を詠み込まなければ、恐らく著者のからくりに惑わされると思う。ストーリーの流れに沿って読み進み、先を読みたくなると、多分著者に手玉に取られること請け合いである。私は著者の語り口に惑わされた一人、凡人読者だから。

 今回も水鏡は己の信念に基づき、ひたすら突っ走る。疲労困憊という形になるが、その中から思わぬ閃きと推理で、結果を出す姿は、やはり楽しめる。読者を裏切らない。

 ご一読ありがとうございます。

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本書のテーマに関連する事項をネット検索してみた。一覧にして起きたい。
クロノスタシス  :ウィキペディア
しばらく目を隠して急に時計を見ると、一瞬秒針が止まったように感じるのですが何故でしょうか? :「YAHOO! 知恵袋」
クロノスタシスとは何か?  :「NAVWER まとめ」
過労死等に係る統計資料  資料4  :「厚生労働省」
平成28年版過労死等防止対策白書(本文) :「厚生労働省」
「どう防ぐ?過労死・過労自殺」(くらし☆解説)  :「NHK 解説委員室」
日本の自殺の現状と原因―「死にたい」と「うつ病」は深く関係している
     :「Medical Note」
地方で自殺が急増した「意外な理由」?日本社会の隠れたタブー  貞包英之氏
     :「現代ビジネス」
日本を動かしてきた「電通」の正体~「過労死問題」は落日の始まりなのか
     :「現代ビジネス」
バージャー病(指定難病47)  :「難病情報センター」
バージャー病の症状や原因・診断・治療方法と関連Q&A  :「gooヘルスケア」

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『万能鑑定士Qの最終巻  ムンクの<叫び>』  講談社文庫
『アノマリー 水鏡推理』 講談社
『パレイドリア・フェイス 水鏡推理』  講談社
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