遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『春雷 しゅんらい』 葉室 麟  祥伝社

2015-07-18 10:57:08 | レビュー
 15年前に、備後浪人だった多聞隼人は、当時の筆頭家老・飯沢長左衛門の推挙で、豊後・羽根藩に仕官する。
 多聞隼人は、羽根出身で大坂に出て儒者として名声を得た粟野岐山の弟子となる。そして、家族を養うために岐山の紹介状を持ち羽根藩に向かった。羽根藩では藩主兼定が隠居し、兼清が18歳で家督を継いだことで、威風堂々と騎馬で国入りをする時だった。当時羽根藩は大坂の商人から10万両という膨大な借銀をかかえ、返済に苦しんでいた。国入りした兼清は質素倹約の緊縮財政を行い、自らも軽格並みの粗衣粗食に甘んじた。そして、「名君になられるご器量である」「兼清様こそ、羽根藩の鷹山公である」と家中の信望を得始める。「藩校には江戸から高名な学者を招き、藩士を長崎や大坂に遊学させるなどして人材育成に努め、賢君の名を高くしていった」(p6)のである。
 
 羽根藩に仕官した多聞隼人は、奧右筆から書院番、お側役と次第に重用されていく。兼清の質素倹約策だけでは財政が好転しないことから、隼人が御勝手方総元締に任じられ、借銀返済のために、藩財政再建策を断行する先頭に立つ。その強硬な対策実施は、百姓や町人からの反発が強く、鬼隼人というあだ名を付けられ、怨嗟の的になっていく。兼清が名君・賢君であるのに対し、多聞隼人は圧政実行の元凶とみられているのだ。

 この多聞隼人が心底には藩主・兼清が真に名君なのかどうかを見極めたいという大願を秘めいる。そして鬼隼人と呼ばれることを甘受した生き様を貫き通す。そこを描き出す作品である。幼き命への慈しみを秤として人としてのあり方を問うという壮絶な生き方がクライマックスで涙を誘うことになる。

 過去何度も失敗してきた黒菱沼の干拓工事という難事業を、藩主兼清は改めて藩財政再建の柱として、多聞隼人に命じる。ここからストーリーが具体的に展開し始める。黒菱沼干拓を成功させる為に、隼人は縦横の采配を振るえるための条件として家老の末席に連なる必要性を建言する。そして、それを認めさせることになる。これは隼人が藩主と直に話をできる機会を作るための布石でもあった。
 黒菱沼の地図と過去の文書を眺めた隼人は「この難工事をやり抜くことで、わが大願は成就いたすかもしれぬ」(p35)と思う。

 黒菱沼の干拓工事の推進が、羽根藩内を大きく揺り動かしていく。
 鬼隼人の藩財政再建対策に繰り返し反論し、藩主に建白書を出す藩校教授・白木立斎が再びこの黒菱沼干拓事業の前に立ちはだかる。白木立斎の指示をうけた輩が暗躍する。修験者・玄鬼坊がその先頭に立つ。立斎は飯沢長左衛門引退後に筆頭家老となった塩谷勘右衞門と結託していく。塩谷は鬼隼人の失脚が筆頭家老である己の力を強化するものと考えている。藩財政再建に自策の定見があるわけではない。
 藩主・兼清は隼人に藩財政再建を託しつつ、白木立斎が繰り返す建白書とを両天秤にかけていく。
 隼人の仕官を推挙した飯沢長左衛門は、隼人を内心では嫌っている。それは推挙せざるを得なかった事情があるからだ。それは、隠居所として建てた欅屋敷を、事情によりある時期から女人を住ませるために与える羽目になったことにもつながっている。その飯沢は内心を抑えて、表面は隼人の家老入りを支援する。

 御勝手方総元締としての隼人の力量を見込む新興呉服商人である白金屋太吉は、隼人に取り入り、羽根城下での商人としての基盤を固め、拡大していく機会を狙う。そのために、家士の古村庄助と家僕・半平しかいず、女手のない隼人の屋敷に、太吉は女房・おりうを毎朝通いで屋敷に訪れさせ、女中代わりの働きをさせることにする。それはある意味で、隼人の動向を知りたいためでもあった。そのおりゅうの父は3年前に、年貢取り立ての厳しさに対し、江戸に出て強訴する談合していたことを村役人に知られ、入牢での過酷な取り調べ中に死んでいたのだ。過酷な年貢取り立ての大本は鬼隼人に繋がっている。おりゅうは隼人の屋敷に通ううちに、鬼と呼ばれる隼人の人柄を理解し始める。それは隼人への深い思いに進展していく。おりゅうの女心が一つの筋として織りなされていく。 

 鬼隼人は、時折、忍ぶように欅屋敷を訪れる。この小説の冒頭は、この欅屋敷を訪れた帰路、多聞の不行状を懲らしめるためと待ち伏せていた武士が隼人を襲うところから始まっているのだ。欅屋敷に住む三十二、三の佳人が、この小説に登場するもう一人の女人でもある。そして、鬼隼人の代理人としておりゅうが欅屋敷を訪ねるようになる。そこから、屋敷の住む女人・楓とおりゅうの交流が始まって行く。おりゅうの観察を通して、楓のことが語られることにもなる。

 黒菱沼の干拓工事は、さらに今時点のことしか考えられない百姓たちの反発を買い始める。一方、この事業を成功させるために、鬼隼人が組む人物がいる。一人は、太吉を介して会うことになる領内一の大庄屋、佐野七右衞門。もう一人は瓦岳の獄に捕らわれている千々岩臥雲である。臥雲をこの干拓工事のために解き放させるのだ。
 佐野七右衛門は人食い七右衞門とあだ名され、様々な干拓の経験を経てきた人物である。百姓をただ働きでこきつかったとの悪評を持つ。それは事実に反するのだが。臥雲は酒乱で獄につながれた人物。大蛇というあだ名がある。土木に長け、工事の図面が引けるという人物なのだ。彼の入獄にも実は意外な事実があった。
 鬼隼人、人食い七右衞門、大蛇の臥雲・・・領内の三悪人が組むことで、事態がどう展開していくか。一方で、ひそかに百姓の怨嗟を煽り、百姓一揆の謀を進行させる動きが現れる。

 この作品、いくつもの人間の三角関係が相互に交錯しつつ織りあげられていく。その展開の次元とプロセスが面白い。哀切を秘めた思い、壮絶な思い、ひたむきな思い、うごめく欲望など、様々な思いが重層されて作品を色づけしていく。人間の関わりの興味深さに満ちている。

 その三角関係模様を抽出しておこう。それらの関係がそのような意味合いをもち、どのように展開していくのかを味わっていただきたい。
 
  多聞隼人-藩主・兼清-飯沢長左衛門
  多聞隼人-藩主・兼清-白木立斎
  鬼隼人-人食い七右衞門-大蛇の臥雲
  鬼隼人-白金屋太吉-おりゅう
  隼人-楓-おりゅう
  黒菱沼干拓工事推進者群-怨嗟する百姓群-鬼隼人排除推進者群
  鬼隼人-玄鬼坊-白木立斎
  人食い七右衞門-百姓群-新津村の鉄五郎
  飯沢長左衛門-塩谷勘右衞門-白木立斎
  鬼隼人-白金屋太吉-播磨屋弥右衞門
  塩谷勘右衞門-播磨屋弥右衞門-白木立斎
  楓-孤児達-おりゅう
 
 人を結びつける要因・要素は何か? そこには様々な次元と色合いがある。そして、それらが複雑に絡み合っていく。人は人との関係性の中で、真の友を見出す。
 人の行動の現象面を見ることと行動の背後にある本質を見ること。本質を見極める難しさを味わわせる作品でもある。

 最後に、印象深い文を引用しておこう。
*罰するべきは罰する。これこそがそれがしの仁政でございます。 p22
*鬼と謗られ憎まれても、領民のために働くのが武士だと思っております。 p69
*出来た新田はこの世からは消えませぬ。わたしのものになったといっても、わずかの間、お預かりいたすだけのことです。  p75
*わたしは、悪人とはおのれで何ひとつなさず、何も作らず、ひとの悪しきことを謗り、自らを正しいとする者のことだと思っている。  p136
*名君の名などいらざるものだ。大切なのは、日々を生きるひとびとの命だ。 p228
*ひとは目の前の苦しさから逃れることはできぬ生き物だということか。 p266
*多聞さまは自らが鬼となることで、まことの正と邪を明らかにされようとしていたのではないかと思います。  p294

 「蒼穹を、春雷がふるわせている。」これが巻末の一文である。余韻が残る。

 ご一読ありがとうございます。


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本作品に出てくる語句のいくつかをネット検索してみた。一覧にしておきたい。

上杉鷹山 → 上杉治憲 :ウィキペディア
九代目米沢藩主 上杉鷹山公  :「伝国の杜」
現代の指針 上杉鷹山  :「置賜文化フォーラム」
藩主の心得 伝国の辞  :「上杉鷹山の生涯~不安定な現代に役立つ格言~」

関口流の柔 
 → 関口新心流 「新心館」 ホームページ
 → 関口流柔術 :「総本部道場尚武館」
 → 関口流柔術 富田派 誠武館 瓜破道場 ホームページ
関口新心流柔術   :YouTube
関口流柔術自在 : 極意詳解 日詰忠明 著 :「近代デジタルライブラリー」

海保青陵 :ウィキペディア
江戸のアイデアマン達 3.海保青陵  :「江戸思想史への招待」
文献紹介 江戸の地域政策コンサルタント「海保青陵」  石瀬忠篤氏
海保青陵の政治言説における能力原理  森岡邦泰氏  大阪商業大学論集
経世済民   :ウィキペディア
「汝(なんじ)の立つ所を掘れ、其処(そこ)に泉あり」:「愛媛県生涯学習センター」

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こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。

『影踏み鬼 新撰組篠原泰之進日録』 文藝春秋
『緋の天空』 集英社
『風花帖 かざはなじょう』 朝日新聞出版
===== 葉室 麟 作品 読後印象記一覧 ===== 更新3版 ( 31冊 )


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