遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『風花帖 かざはなじょう』 葉室 麟  朝日新聞出版

2015-01-02 14:52:56 | レビュー
 文化11年(1714)に豊前小倉藩で、家中が二派に割れて争うという騒動が発生した。俗に「白黒騒動」と呼ばれたお家騒動である。小倉城にとどまった一派を白(城)組と呼び、他の一派は隣の黒田領の筑前黒崎宿に約360人が大挙出奔して籠もったので黒(黒崎)組と呼んだのだ。その直接の原因は藩主小笠原忠固が江戸幕府の老中になる願望を抱き猟官運動を画策し金をばらまいたために、一旦立て直り始めていた藩財政が再び悪化するという事態をもたらしたことにある。
 著者はこの史実を題材にして、そこに独自の視点で想像を広げ、構想力を高めて、政争の渦中における二人の武士と一人の女の生き様-愛と忠のあり方ーを織りなし、創作した。冒頭から読者を引き込まずにはおかないフィクションを描き上げていく。白黒騒動という既知の事実の断片から独自に因果関係を紡ぎ出し、物語を描き上げていったのだろう。史実はこのフィクションを創作するトリガーにすぎない。それは参照文献を提示していないことからも言えることではないか。

 著者の描きたかったのは、下級武士・勘定方印南新六という男の生き方である。時代の制約の中で、定めと価値観を受け入れた上での生き様、愛(おもい)のあり様。新六の忠に対する考え方と行動、何よりも書院番頭菅源太郎の妻となった吉乃(きちの)に対する己の懸想に全身全霊で応えていくというその思いと行動を描き上げたかったのだろう。

 この作品は結末から始まる。
 文化11年(1814)のよく晴れた11月18日、白黒騒動で騒然とするなか、勘定方印南新六の屋敷に新六をのせた駕籠が着く。門前では菅源太郎の妻吉乃が駕籠の到着を待ち受けていた。駕籠に駆け寄った吉乃が見たものは、切腹しその脇差しを握りしめたままで事切れていた新六の姿だった。新六の襟に差してあった書状には、「一旦出国致し主君を後にして何の面目有て再び君へ顔を合はす期を知らず、依って切腹候也」と書かれているだけだった。
 新六の死顔は穏やかで、あたかも微笑んでいるかのようですらあった、と著者は描く。
 吉乃は一言つぶやく。「わたしは今生ではあなたと添えませんでしたが来生では必ず、あなたのもとへ参ります」
 吉乃が空を見上げると、澄み切った青空を白雪が舞っていた。

 雪が積もった白い山頂から風にのって雪が平地まで下りてくる。この現象を「風花」と呼ぶそうだ。本書のタイトルはこの「風花」から名づけられている。

 澄み切った青空は新六の心の姿であり、風に舞い地に落ちて消滅する雪に新六の生きる姿が重ねられているようだ。

 なぜこういう結末になったのか。白黒騒動に新六がどう関わっていくのか。

 物語は、寒気が厳しく、風花が舞った日、享和3年(1803)正月5日から書き出されている。それは吉乃が九州豊前15万石の小笠原家江戸屋敷側用人で禄高700石の菅三左衛門の嫡男源太郎が、書院番頭300石、杉阪監物の三女で17歳の吉乃と国許で祝言する場面である。勘定方100石の新六は吉乃の親戚としてその祝言の席に出る。

 この物語の背景構造は多少複雑である。
 まず、小倉藩の藩運営と政争の側面については、大筋次のような情勢だった。
 藩主小笠原忠苗(ただみつ)の時代に藩財政は逼迫していて、家老の犬甘兵庫(いぬかいひょうご)が強引な政策で何とか財政を立て直してきていた。その犬甘派に菅三左衛門と源太郎は属していた。犬甘派には儒学者の上原与市、十六流派を極め方円流を創始した剣客・直(あたい)方円斎、宝蔵院流の槍の遣い手・早水順太などが連なっている。
 上原与市は、藩校思永館(しえいかん)の句読師だった儒学者で、その才幹を犬甘兵庫に見出され小姓に登用されていたのだ。
 藩主・忠苗は犬甘兵庫を重用していた。兵庫の厳しい年貢の取り立てに、享和4年(1804)正月、小倉城下で農民一揆の騒動が起きる。それに伴い再び犬甘の政敵小笠原出雲が勢力を増してくる。失政の責任を問われる犬甘兵庫の一方で、健康の勝れぬ藩主・忠苗は養嗣子の忠固に家督を讓ることを考え始める。野心の旺盛な忠固は家督を継いだ際には、藩政を牛耳る兵庫を除きたいと考える。その忠固に兵庫により失脚の憂き目をみていた出雲派が結びついて行くのは自然の成り行きである。
 そこで問題なのは、新六の父弥助は小笠原出雲から引き立てを受けたことから出雲の派閥に入っていたのだ。そのため、新六はそれを引き継ぐ形で出雲のもとにご機嫌伺いに行っていたという立場だったのである。

 具体的なストーリーの展開は、兵庫が失脚し、藩主が忠固となり小笠原出雲が重用される段階から始まる。当初は藩主の幕府老中入りの大望を諫める出雲が、その猟官運動を支援し、藩財政を再び傾けていく中での国許の批判、派閥争いが高まっていく。紆余曲折をへてそれが白黒騒動へと極まって行くのだ。

 一方、新六が吉乃の親戚にあたるという関係の側面については、こんな事情がある。
 戦国のころ印南家は杉坂家の家来筋だったのだが、小笠原家の直臣として取り立てられる。そののち印南家と杉坂家の間で数代にわたって縁組が行われた結果、印南家は杉坂家の親戚となっていたのだ。享和3年を遡る5年前に、小倉城下で大火災があり、印南屋敷も類焼した。印南家の人々は親戚の間に分散して世話になり、新六は杉坂屋敷に住むことになった。それがきっかけで、吉乃は新六と話をする間柄になっていたのである。新六の父・弥助は仮寓先で他界、新六は杉坂屋敷に2年間留まる。
 そして有る事が契機で新六は江戸詰となる。藩の誰もが理解する理由は、御前試合で新六が伊勢勘十郎の肩を砕いたことにある。勘十郎の父親は小笠原出雲の片腕といわれる人物だったのだ。表向きは事を荒立てることなく、新六を江戸に追いやったことで落着。吉乃と新六の二人にとっては、その有る事が新六の江戸詰めの原因でもあり、この物語が展開される因の一つでにもなるのである。
 そこには、もう一つ、新六が吉乃に対して懸想したと言わしめる因が秘かに先行していたのだ。しかし、その事情を吉乃は知らないままに、菅源太郎の許に嫁ぐことになった。 吉乃の祝言が決まってしまっていて、その祝言の行われる前に、3年間江戸藩邸で仕えた後、新六は小倉に戻ってきていたのだ。

 新六は、吉乃の親戚として祝言の席に連なる。
 その場に犬甘兵庫が列席していたことから、新六は犬甘派に寝返りたいのだろうと周りの人々から憶測される立場に立つ。兵庫は、その祝言の席で下級武士である新六を己の傍に呼び寄せ、杯をとらせるという行動に出る。このことがきっかけで、吉乃が親戚であるという表向きの接点から、新六は源太郎の屋敷にしばしば出向いていくことになり、源太郎を中心に集まる犬甘派の人々の会合に加わる立場にもなっていく。

 2つの派閥の狭間に立つ新六。新六は派閥を離れた独自の「忠」観念を持つ。だが新六は己の考えを直接口にすることはない。

 新六の思いの根底にあるのは、有る事があった時に新六が吉乃に言った言葉である。
 「ご安心ください。わたしが吉乃様をお守りいたしますから。」
 作品を貫くのはこの新六の一言の重み。その根底には新六の吉乃に対する「懸想」が潜む。

 もう一つ重要な要素がある。それは新六が極めていた剣技である。小倉藩は、宮本武蔵の養子・伊織が小笠原家に仕えたことから、武蔵を流祖とする二天流が盛んなところだった。その中で新六は叔父から教えを受けた夢想願流という小倉藩ではあまり知る人のいない流派の剣技を修得していた。
 夢想願流の祖は松林左馬助で、慶安4年(1651)、59歳のとき三代将軍家光に招かれ、剣技を上覧に供したという。この時、秘技<足鐔>の技を見せたという。「蝙蝠が飛翔するごとき至妙の技なり」と褒め称えられたことで、「蝙也斎」(へんやさい)と名乗るようになった。
 新六は、この<足鐔>を修得していたのである。犬甘兵庫は、夢想願流に<足鐔>という秘技があることを知っていて、新六の剣技に目をつけたのだ。
 風采があがらぬ地味な男で、おとなしく寡黙に振る舞う新六の剣技、流派を知る藩士はほとんどいない。小倉藩では御前試合で七人抜きをした新六のことは話題にされることなく過ぎ去ってしまっていた。御前試合の直後に江戸に追いやられた新六だから、それも自然な成り行きなのだろう。だが、である。この新六の剣技、その技量と胆力が派閥の間にたつ新六を微妙な立場に追い込んでいくのである。
 白黒騒動と絡むストーリー展開を生み出して行く因がそこにもある。
 だが新六の行動の根底には、常に「ご安心ください。わたしが吉乃様をお守りいたしますから」という新六の思いが一貫しているのである。

 冒頭に述べた結末に向かってストーリーがどのように展開するのか。この作品を味わってみてほしい。
 

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本書に関連する史実部分の情報をネット検索で調べてみた。一覧にしておきたい。

小倉藩  :ウィキペディア
小笠原忠苗 :ウィキペディア
小笠原忠固 :ウィキペディア
7.小倉・福岡藩の改革

化政期の藩政と農村社会 藩主忠固の猟官運動 :「MIYAKO TOWN DIGITAL MYSEUM」
小倉藩「白黒騒動」の顛末  「日本史瓦版」 :「ブクッス」
白黒騒動  :「コトバンク」
小倉藩の白黒騒動と日明の極楽橋のお話 
    :「ロードバイクとドラムを愛す山口の歴史好きヤマポタ日記」
”黒崎宿”について  :「ゆっくりかいどう」
小倉小笠原藩の家臣団  :「鴨じいのブログ」
小倉城の歴史  :「小倉城 -小倉文化史の散策-」
松林蝙也斎   :ウィキペディア
夢想願流のこと :「国際水月宿武術協会」
宮本伊織    :ウィキペディア
武蔵顕彰碑・宮本伊織の墓  :「ゆっくりかいどう」


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