遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『緋の天空』  葉室 麟  集英社

2015-02-28 09:22:58 | レビュー
 江戸時代の幕藩体制を背景にして、様々な武士像を描き上げてきた著者が、一転して古代に題材を取った作品である。それも8世紀の半ばに、聖武天皇の皇太后として生き、政治にも関与する定めとなった光明子の伝記的小説。藤原不比等の女(むすめ)として生まれた10歳の安宿媛(あすかべひめ)の頃からの姿・行動を描き出すことから始める。やがて闇を払い自らが光となることを父から期待され、聖武天皇の后となる。持統・元明・元正という女帝の生き様を知悉し、それに影響を受けつつ聖武天皇を政治の側面でも助ける立場となる。まわりの者を照らして生きるという期待を自らの定めとして果たして行こうとした光明子の生き方が描き出されている。初の皇族以外から皇后になった人だ。
 古代史に絡んだ著者の作品を読むのは初めてである。

 飛鳥時代末期から奈良時代初期にかけてが時代背景となる。歴史年表からこの小説に関連するトピック的な事項を抜き出しておこう。
 天皇の皇位は、持統(女)-文武(男)-元明(女)-元正(女)-聖武(男)-孝謙(女)-淳仁(男)へと継承される時代である。
 697年 8月持統天皇譲位、草壁の子軽皇子即位(文武天皇)
 701年(大宝元)8月大宝律令なる(刑部親王、藤原不比等ら撰定、翌年施行)
 707年 6月文武天皇没、文武の母阿閇(あべ)皇女即位(元明天皇)
 710年(和銅3)3月元明天皇、平城京に遷都
 715年 元明天皇の子、氷高皇女が即位し元正天皇に。
 718年(養老2)養老律令(藤原不比等ら)
    光明子(18歳)が首皇太子(→聖武)との間に第1子(阿倍内親王)を生す
 720年 8月藤原不比等没
 729年(天平元)2月長屋王謀反で自殺。
         8月光明子、聖武天皇の皇后となる。
 737年 藤原4子(不比等の子:房前・麻呂・武智麻呂・宇合うまかい)没
 738年 阿倍内親王(聖武・光明子の子)立太子。後の孝謙。
 740年 9月九州で藤原広嗣の乱
 聖武が遷都を繰り返す:山背恭仁京(740/12)、難波宮(744/2)、平城京(745/5)
 743年 盧舎那大仏造立の詔
 745年 11月玄を筑紫に左遷
 749年 孝謙の即位。8月藤原仲麻呂、紫微中台(しびちゅうだい)に任じられる。
 752年 東大寺、大仏開眼供養
 754年 唐僧鑑真来日
 756年 5月聖武太上天皇没、道祖(ふなど)立太子。のちに大炊王が立太子に。
 757年 5月養老律令を施行。7月橘奈良麻呂の乱。
 758年 藤原仲麻呂が右大臣になる。恵美押勝の名を賜る。
 760年 1月恵美押勝、太政大臣になる。6月光明皇太后没。
 764年 9月恵美押勝の乱(近江に敗死)。道鏡、大臣禅師に。
    この年10月、孝謙上皇は淳仁天皇を淡路配流とし、重祚。称徳天皇に。

 冒頭の「緑陰の章」は、大仏開眼供養の描写から始まり、孝謙天皇が皇太子・大炊王に譲位し、淳仁天皇の代になるまでを描く。それは藤原仲麻呂が恵美押勝の名を賜り、朝廷第一の権力を握ることでもあった。だが、皇太后光明子は押勝の専横を懲らしめたいと考える。その相談に与ったのが道鏡だった。道鏡、即ち弓削清人との再会は、皇太后光明子に若き日々のこと、様々な人々との関わりが生まれた己の人生を回想させていく。
 「若草の章」は710年4月、10歳の安宿媛が遷都されて間もない、平城京の街にこっそりと出かけてしまうところから始まる。そこには黒牛に乗って龍笛(りゅうてき)を吹く不可思議な童との出会いがあり、長屋王の子・膳夫(かしわで)との出会いがあった。このときの膳夫との出会いが、光明子の生き様に影響を及ぼすことになる。不可思議な童は弓削清人である。清人と膳夫を知ることから、その協力を得て、母親に会いたいという首皇子の願いを実現させようという行動へとストーリーが展開し始める。それは長い年月をへて、光明子が闇を払うひとつの行為になっていく。

 光明子は父の期待を担い、首皇子の妃となることが運命づけられている。周りの諸状況を理解して、それを受け入れる光明子のこころの一隅には、膳夫への思いが留まっている。聖武天皇に仕え、聖武を照らし支えていく光明子の思いと行動を描く一方で、光明子が膳夫に抱く恋い心と膳夫の思いが政争の壁に阻まれる現実を織り交ぜていく。

 「月輪の章」で、弓削清人は、遣唐使の一行に加われることを希望する玄や吉備真備を光明子に引き合わせる。彼らの能力をまず証するために、私鋳銭と呼ばれる贋金作りの横行を解明する行動に出る。光明子は彼らとともに、現場に赴き捕縛に立ち合うことまで行うのだから、おもしろい。735年唐から帰国した吉備真備、玄らは、聖武天皇の政治のブレーンとして重要な役割を担っていく。

 本書は、藤原不比等が中心になり、律令国家体制の形成を目指した時期、そして不比等没後の時代の有り様を描いているとも言える。聖武天皇の皇后となった光明子の生き方は、不比等の託そうとした期待とともに、まさにその時代に発生した様々な政争や皇統の人間関係図の中で位置付けられてこそ「闇を払い人々を照らす」ことに繋がるのだから。
 上掲の年表概略に出てくるが、長屋王の変、藤原広嗣の乱、橘奈良麻呂の乱などは本書の後半で動き出す。光明子はそれらを皇太后として巨視的な視点から冷静に眺めているように思える。その根底にあるのは、闇を払い人々を照らすという定めを全うするということだろう。
 光明子がトリガーとなり、恵美押勝の専横を排除することに、道鏡の力を借りたという歴史解釈は興味深い。また、史実は知らないが、光明子が若い頃に弓削清人という人物と知り合ったことが様々な人間関係の繋がりを生み出していく基になったという著者の解釈・設定もおもしろい。若き日の道鏡に一層関心を呼び起こされた次第である。

 大仏の造立が光明子の聖武天皇へのアドバイスから発しているということ、そしてその示唆が元正太上天皇と光明子との対話にあったというのも、光明子の生き方として興味深い。
 権力を握ろうとする欲望の虚しさ、政争の興亡の虚しさが本書の根底にあるように思う。それは決して、闇を払い、人々を照らすためには繋がらないからだ。己の欲望を中心にした行動は虚しい。光明子はその対極にいた人である。なおかつ、その虚しさをも自分たちの罪業によるものなのかも知れないと光明子に考えさせている。
 自分は心が広くないと答える光明子に対して、母の三千代が言う。「なぜなら、あなたが光だからです。この世は苦しみに満ちた暗夜です。ひとびとは常に光を求めています。光である宿命を背負ったあなたは、自らの道を進むしかないのです。」(p158)
 
 小説のタイトルは、巻末の詞章の要約だろう。巻末は次の二文にまとめられている。
「断末魔の一瞬、仲麻呂の目に緋色に染まる朝焼けの空が映った。
 女帝が治める世を蓋(おお)う天空の色だった。」

 最後に、この小説で興味を惹かれた詞章をいくつか引用しておこう。
*誰しもが悪しきことをしようと思って、この世に生を享(う)けるわけではない。良きことをなさんと思いつつ、運命に翻弄されて、互いに憎み合い、戦うことにもなるのだ。 p332
*冬の空の星は小さく、頼り無げだった。それでも懸命に光を放つ星々が光明子にはいとおしく思えた。(まるでわたしたちのようだ)  p334
*<壬申の乱>に勝利した天武天皇は自らを、--現人神
 としたが、聖武天皇は帝として初めて仏弟子となったのだ。 p335
*紫微中台は光明子が孝謙天皇を助けて政を行うための役所だった。
 光明子は紫微中台によって、天下の大権を握ったとも言えた。   p338

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本書に関連する語句をネット検索してみた。一覧にしておきたい。
元正天皇 :ウィキペディア
光明皇后 :ウィキペディア
光明子と藤三娘  :「鴻池しゅんの『感動日本史』」
光明皇后 :「やまとうた」
聖武天皇 :ウィキペディア
孝謙天皇 :ウィキペディア
藤原宮子  :ウィキペディア
藤原不比等 :ウィキペディア
長屋王   :ウィキペディア
長屋王の悲劇 :「鴻池しゅんの『感動日本史』」
膳夫王 → 膳王 :「コトバンク」
膳王の歌一首   :「やまとうた」
道鏡   :ウィキペディア
吉備真備 :ウィキペディア
玄ボウ  :ウィキペディア

藤原広嗣の乱   :「日本史 解説音声つき」
橘奈良麻呂の乱  :ウィキペディア
藤原仲麻呂の乱  :ウィキペディア

二つの顔を持ち合わせた光明子  :「廣済堂 よみのもWeb」
集一切福徳三昧経  光明皇后御願経  :「国立国会図書館」
悲田院  :ウィキペディア

光明宗 法華寺 ホームページ


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『風花帖 かざはなじょう』 朝日新聞出版

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