遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『月神』  葉室 麟   角川春樹事務所

2013-12-25 12:33:35 | レビュー
 読後印象として心にブルーな思いをとどめさせる作品である。こんな人生もあったのかと・・・・。
 本書は、明治13年(1880)4月18日に、横浜港から月形潔を団長とする集治監建設調査団の一行8人が汽船で北海道函館へ向けて出発したという書き出しから始まる。集治監建設というのは、全国から囚人をその地に流し「総懲治監」するための牢屋を造る仕事である。北海道に集治監の設置を発案したのは当時内務卿だった伊藤博文だという。
 明治維新後、各地で様々な乱が引き続いた。明治政府側が<賊徒>と呼んだ政治犯は4万数千人になったという。多数の国事犯、重罪犯で捕らえられた囚人の一部が北海道に送られたのだ。本書を読み、初めて「集治監」という言葉を認識した。北海道を旅行したときに、囚人となった人々が開削した道路があるということを知ったのだが、この集治監という言葉を目にし聞いたという記憶が無い。
 歴史の教科書には出てこない明治維新前後の隠れた側面をこの作品で知ることとなった。史実を基盤に著者の想像力が加えられてできあがった作品だろう。事実とフィクションの分明を跡づけできる知識や情報を十分に持っていない。幕末の動乱から明治政府の体制が確立される黎明期の実態の一局面を実感できる作品に仕上がっている。その局面に居た登場人物の思いの一端が伝わってくる。その結果がブルーな思いとなる。

 手許に高校生向け教科書レベルの本がある。『検定不合格日本史』(家永三郎著・三一書房、1974年)、『詳説日本史研究』(五味文彦/高楚利彦/鳥海靖/編・山川出版社)の二冊を斜め読みしてみたが、該当する時代項目・内容あたりに「集治監」という用語は出てこない。つまり、著者は歴史に隠れた側面に月の光を当てていると言える。それは決して太陽の光ではない。

 本書は、意思/遺志が引き継がれていく形で繋がるが、独立した内容の二章で構成されている。「月の章」と「神の章」である。合わせてタイトルの「月神」となる。だがこのタイトルは、この作品の登場人物が語る次の言葉から取られた表題だろう。それを分けて章の名称にしたのだと思う。

 「月の章」の主人公・月形洗蔵が語る言葉である。「その昔、神功皇后様が征韓の船を出されたおりの先導神は月神であったことを知っているか」「月神は筑後の高良玉垂神社の祭神だそうな」「夜明け前の月はあたかも日神を先導しているように見える。つまるところ日神を先導するのが月神だ。この話を知った時、わしら月形家の者は夜明けとともに昇る陽を先導する月でなければならんと思った」(p30-31)
 この洗蔵の夜明けを先導する月になろうと気迫を込めて語る言葉を聴き、その気迫を受け止めたのが、月形潔である。洗蔵にとって潔は従兄弟にあたる。本作品の冒頭に出てくる人物であり、「神の章」の主人公である。
 
 「月の章」は福岡藩の尊皇攘夷派のリーダー格と目されてた月形洗蔵の生き様を語る。嘉永3年(1850)に23歳で家督を継ぎ、馬廻百石の身分である。藩からは過激な尊皇思想を警戒され安政3年(1856)には玄界灘の大島定番という閑職を命じられる。江戸で井伊直弼による安政の大獄が断行された後、万延元年(1860)3月に「桜田門の変」が起きている。その最中、7月に老中から散府の指示が来る。藩主黒田長溥は参勤をしようと考える。これに対し、洗蔵は参勤中止の建白書を提出し、機会を得て、藩主に謁見して意見を言上する。だが藩主長溥は「方今の事件、ただ勅命に従うのみ」と発する。頭脳明晰で<蘭癖>とも言われるほどの長溥自身の政策は開国通商論だったのだ。その後、保守派の立花弾正の家老解任を洗蔵が願い出るに及び、同年11月に謹慎を命じられることになる。
 洗蔵が幽閉されている間に、馬関海峡でのアメリカ商船への砲撃、文久の政変(長州藩が京から追放される)へと大きく揺れ動いている。2年後、謹慎を解かれた後、藩主長溥の奇策で攘夷派の登用がなされ、洗蔵も登用される。しかし、己には志があり、見識において衆に抜きん出ていると自負する長溥は、洗蔵のように「家臣でありながら自らの考えで動こうとする」男を許せないのだ。
 あくまで福岡藩にとどまり、筑前尊攘派として長州周旋を軸に世の動きの先導をめざす洗蔵と、己の志のために洗蔵の使い道を考える長溥とは、交わらないところがある。この「月の章」では筑前攘夷派の先導としての洗蔵と藩主長溥との確執を、攘夷派の動き、その活動の展開の中で、克明に描き込んでいく。
 筑前尊攘派の中で脱藩をしてまで過激な行動に出る中村円太とあくまで藩にとどまる洗蔵の関係、福岡にいて長州を助ける道を模索し高杉晋作との関わりを深めていくプロセス、そして、三条実美ら五卿の太宰府入りに洗蔵が果たす役割などが関わり合いながら進展していくが、それは結局藩主長溥の考えとは相容れない。世の趨勢がわからない智慧があるゆえの暗君に仕えた洗蔵は、「3年の内、筑前は黒土となるであろう」と罵って果てることになる。「藩を尊皇攘夷の大義でまとめてこそ、われらは諸国の志士に重んじられる」という考えでの洗蔵の先導は空しく消え去った。
 洗蔵の生き様は、佐幕と勤王の間で激動した諸藩の実態を象徴するものではないだろうか。

 「神の章」は、月形洗蔵の思いと行動をつぶさに見続けた月形潔が主人公になる。潔も筑前尊攘派の一人として獄に繋がれていたのだ。王政復古の大号令とともに政治情勢が大きく動き、大赦令により潔は釈放される。
 明治3年に福岡藩贋札事件が新政府の摘発で明るみにでると、福岡藩権少参事に挙げられていた潔は、その贋札事件を追及する立場になる。その後、本書冒頭の書き出しに連なっていく。北海道での集治監建設調査を命じられて北海道に渡った潔は、その後、集治監の建設に携わり、集治監の開所後は集治監の責任者、典獄となる。

 建設地の調査結果により、石狩国樺戸(かば)郡須部都太に樺戸集治監を建設することになる。当時石狩郡は人口が2,800人だったという。そこに、囚人と看守、その家族など合わせて2,000人が移住してくる形になる。集治監は庁舎を持ち、電話、馬車、官舎を備えた官庁となる。郵便局も作られる。そこに一つの市街地が形成されていく訳だ。荒野に町が突然に現れてくるという状況だろう。その地は月形村と名付けられた。

 潔は、「なんとしても、樺戸集治監を罪人が更正し、幸福な生涯へ歩み出す場所にしなければ」と心に誓う。それは、洗蔵が気迫を持って語った言葉を実践することに繋がるのだ。「時代を先導する月神に自分たちはならねばならない」(p156)と話した洗蔵の思いである。
 
 本章は、潔が現地調査を開始する状況から初めて、建設段階、囚人の収監、集治監の開所、集治監の日常生活の始まりという形で集治監がどのようなものであったかを克明に描き出していく。そのプロセスで責任者である潔の思いと苦悩、責任者としての行動が語られていく。潔が理想とした夢と厳しい気候条件の中での現実との隔たりが歴然と現出していく。著者は苦悩する潔とともに、集治監そのものの実態を描き出したかったのではないかと思う。
 伊藤博文が発案したという集治監がどんな状況だったのか。責任者の立場。看守の立場。囚人そのものの立場。発案者はその環境に人々が投げ込まれた後の状況のことなど、深く考えることなどしなかったのではないか。そんな思いにとらわれる。
 
 明治13年(1880)4月18日、横浜港を出て北海道の地を踏んだ潔は、明治18年(1885)6月、体調を崩した赴任のころとは変わり果てた潔は樺戸集治監を去る。
 帰路の船中で、潔は幕末の洗蔵らの非業の死以来の経過を振り返る。その思いは実に重い。著者は、潔の思いの結論をこう記す。「北海道に渡って月形の名を残すことで、果たせなかった洗蔵の志を伝えたのではないか」と(p276)。
 日露戦争が起きる10年前、明治27年1月、月形潔は、福岡県那珂郡住吉村で病死。享年48歳と記されている。

 著者は、本書を次の文章で締めくくっている。
 「潔が亡くなった夜、空には弦月があった。
  悽愴の気を漂わせながら清らかな佇まいの月明の時期は終わり、野望に満ちて赫奕(かくやく)と輝く太陽が昇る時代となっていた。」

 最後に一つ触れておきたい。著者は月形潔が樺戸集治監を辞した2ヵ月ほど後、8月下旬に太政官大書記官金子堅太郎が樺戸集治監を視察し、視察報告を復命書として伊藤博文に提出しているという。その結果が、今、「鎖塚」とも呼ばれるものとして残っているという。金子堅太郎は、日露戦争に際して、渡米し外債募集を成功させた人物である。
 金子の伊藤に対する復命書の内容は、まさに政策的観点での具申だった。
 本書の文脈の中で、その内容を読み取っていただきたい。
 私はこの視察と復命書を書き加えた著者に、痛烈な批判精神をふつふつと感じる。
 
 金子堅太郎も福岡藩の出身だったという。月形洗蔵、月形潔が月明の時期の人とすると、金子堅太郎は太陽が昇る時代のはじまりの人だったのだろう。


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本書に出てくる語句に関連して、ネット検索した結果を一覧にしておきたい。

月形洗蔵 :ウィキペディア
黒田長溥 :ウィキペディア
乙丑の変 :ウィキペディア
 
月形洗蔵顕彰碑、月形家墓碑(少林寺) ← 明治維新史跡探訪
月形洗蔵幽閉の地 筑紫平野北部の名所旧跡 :「福岡史伝と名所旧跡」
月形潔 :ウィキペディア
 
高良玉垂神社 → 高良大社 :ウィキペディア
高良大社(高良玉垂宮)(Ⅱ):「ひもろぎ逍遙」
 
行刑の町・月形の生みの親・月形潔と樺戸集治監(空知支庁・樺戸郡月形町)
 :「History Museum」(町に歴史あり!)
集治監  :ウィキペディア 
西川寅吉 :ウィキペディア
監獄秘話「五寸釘 寅吉」 :「博物館 網走監獄」
永倉新八(=杉村義衛) :ウィキペディア
月形町 :ウィキペディア
月形歴史物語 :「月形町」 ホームページ
  樺戸集治監
  月形潔、来道 
  1881(明治14)年9月3日。樺戸集治監開庁 
  囚人開拓、はじまる
 
鎖塚[有形文化財] :「北見の観光情報」
金子堅太郎  :ウィキペディア
初代校長 金子堅太郎 :「日本大学」
金子堅太郎 :「修猷山脈」
 
集治監史 町のなりたちは集治監から・・・ :「標茶(しべちゃ)町」ホームページ
 


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