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JSPから発信するビジネスブログ

洗練

2012-05-30 09:50:10 | 日記
わが社の事業所があるビルは新横浜のラーメン博物館近くの一角にある。最近は以前駐車場だった近くのスペースが、地下駐車場つきのビルを建てるために延々と工事中である。

節電のために空調の設定温度が高めのため、窓を開けて風を入れたいところだが、窓を開けておくと工事の音で会議等がやりづらくなるため、中々フルオープンでというわけにはいかない。工事業者の方々には罪はないのだがなかなかどうしてうまくいかない世の中である。

私自身は暑さが苦手なため、時々ドア外の非常階段に用意されている簡易喫煙所に逃げ込む。生産性を上げるためには適度な休憩は必要なのだ。うん、そういうことにしておいて欲しい。
実際外に出るとかなり爽やかな初夏の風に吹かれることができ、こっちで仕事した方がいいのではないかと思われるのだが・・・。ここでは雨は考えないことにしておく。

ところで喫煙所から工事中の様子を見ることが出来るのだが、これが中々に飽きない。

恐らく作業の安全性、効率性を求めてフィードバックと改良が積み重ねられてきているのだろう一見何に使うのか判らない建設機械も実際に動いているところを見ると、その形状やパーツ構成も「あー、そういう風に組み立ててこのために使うのね」と納得。
無骨に見える機械も合理性に溢れ、実用美ともいえる輝きを放ち、ちょっとワクワクしてくる。

ビルそのものにも様々な調査や事前準備、設計が必要だが、使われる建設機械にも色々なノウハウが詰め込まれて部品ひとつから設計、製造されていることを考えると気が遠くなってくる。こんなことを考えるのは要件定義や設計から運用まで関わるSEとしてのクセみたいなものだが。

振り返ってわれらがIT業界を見るとまだまだ未成熟だなあ、と痛感させられる。システムを作っているのにまだまだシステマチックにできていない工程があまりにも多いからだ。なんちゃら式住居に始まる数千年の歴史を誇る建築業に対してIT業界はまだ数十年の歴史しかない。その洗練さに差が出るのは当たり前なのだが。

まさに物理法則や天候等との戦いを数千年繰り返してきた建築業に対して、IT業は何と戦うべきなのか?大なり小なりシステムというものが生活に浸透してきている今、その失敗が人の命を奪いかねないシーンも多々でてきているはずだ。真剣勝負と無縁ではいられないという事をそろそろ業界全体で皆認識してもいいころではないだろうか。

そういう信念と本気の洗練の積み重ねが、IT業界の効率化等の背中をぐっと押してくれるような気がしてならない。
海の向こうではとっくに押されるどころか邁進してる気もするが。日本のIT業界は頑張らなければならない。

とまあそん事を煙を吹かしながら考える、こともある。今日この頃。いかがお過ごしでしょうか。いやあ今日も暑いなあ。


あと少々心残りなのは、ビルの完成を見ることなく事業所を移転してしまうことである。作業員の方々の安全も祈願しつつ、また完成したころにフラっと見に来るとしよう。
(刑事長)


横浜を拠点に、神奈川、東京を中心とした地域でソフトウェア開発、システム開発を手がけるIT企業/ビジネスパートナー企業募集|株式会社ジェイエスピー(JSP):http://www.jspnet.co.jp


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やっぱり重要なのは毎日の積み重ね

2012-05-29 10:46:52 | 日記
先週金曜日の夜、日曜日にディズニーランドに行こう!という提案を妻に一蹴されたので、じゃあ妻の実家に行こう!暑いし避暑だ!ということで急遽、妻の実家のある諏訪地方へ出かけてきた。

このブログでもそうだが、最近社内で何かとゴルフネタが多い。飲み会でも初心者を勧誘しては一緒に行こうと誘っている姿は定番化しつつある。コンペを企画してみんなでやろう!という話は半年以上前からあるが実現していない。何故かというと幹事をするであろう私が練習不足でとてもコースを回れる状態ではないからである。

周囲にゴルフ人口が増えそうだし、事務所の引越しも終わって落ち着いた秋頃にはコンペをしても良いかなぁ、という社内の空気を感じてきたので、この機会に重い腰を上げて練習場に行ってきた。

妻の実家近くにある練習場はとても広く、とてもすいている。あまり人が居ないので誰の目を気にすることも無く、あっちへ曲げたりこっちへ曲げたりしても全く恥ずかしいことはない。1年近くクラブを握っていない私には最適な練習場なのだ。

さて、しばらくぶりに9番アイアンから素振りをしてからボールを打ってみると、

「ドカッ」

ゴルフではあまり聞かない音が響く。ボールはあらぬ方向へ。
気を取り直してもう一発、

「カツッ」

これまたとんでもない方向へ行ってしまう。

それから数発後にやっと前に飛び始めたが数発打っては右へ左へ飛ぶ方向が変わってくる。
うーん、こんなはずはない。

ちょっと間を置こうかな、と自販機でコーヒーを買っていたら、見た目70歳を過ぎた方に声を掛けられた。農作業の繁忙期だろうが、農閑期だろうが毎日この練習場に通っていて、100発とはいかないまでも数10発打っているそうだ。雪で来れないときは庭で素振りしていると言っていた。

その方が打っているのを見ていると高齢の方にありがちな何とも独特なフォーム。本人の中では独自の理論があって完成されたフォームなのだろう。

「バシッ」

ものすごくいい音をさせてドライバー(1番ウッド)を振っている。
飛距離もかなり出ていそうだし、なにより全く曲がらない。1発くらい打ち損じがあっても良いと思うが、私がコーヒーを飲みながら見ていた少なくとも数分間は全く打ち損じ無しだった。

毎日、真剣に何かに取り組む姿勢はあらゆることを凌駕するなぁ、と私は感心しきり。これからまたしばらくは暇を見つけてゴルフを向き合ってみようと思う。(野)

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思い出ダイバー 六

2012-05-28 09:15:28 | 日記
これまでの人生で「続けてきたもの」は、
 ・水泳(幼稚園年長〜小学4年生)
 ・小学生(1年〜6年)
 ・ピアノ(小学3年生〜高校1年春)
 ・大学生(1年〜5年)
と、ピアノ、小学生の順となっている。

ここに、
 ・ジェイエスピー社員(2002年〜)
が加わってきた。しかもキャリア・ハイの長続きである。

閑話休題。
過去に時計の針を戻してみる。

新人だった頃、特に入社したばっかりの今のような時期は、現在のわが社の新入社員と違い、ホントに「学生がスーツ着て何かやってる」という状態だったと思う。そのため、上司には「お前らうるさいんだよ」と怒られることもあった。
その年の6月の下旬から一人、また一人とお客様先へ入場する同期が決まっていき、随分終わりのほうになってから私も決まったことをおぼえている。
結局2002年度は、3つのお客様先で仕事をさせていただくことができた。

仕事以外でも、プライベートでは結婚もした。
 ・夫婦(2002年〜)

婚姻届を嫁と二人で夜中の区役所へ届けに行ったが、かなりの深夜な時間だったにもかかわらず、既に2〜3組の夫婦が生まれた後だった。

2009年には娘が誕生した。
 ・父親(2009年〜)

人の親になることって、大変なことだと気づくのに大した時間はかからなかった。今までの私と嫁の好きなときに寝て、起きて、ご飯食べて、出かけて、、、ということが全くできない。当たり前といえば当たり前だが、子供が中心の生活になると、今まで過ごしてきた当たり前の生活が急に「ダメ生活」となる。これから嫁と子供を生活させていかなくては、との気負いからか、気持ちばかりが先行して空回りすることも多かった。

娘と一緒にテレビを見ることがあるが、今までとはガラリと変わったチャンネル選択となった。ほぼ民放は見ることがなくなり、国営放送ばかりが映っていることが多くなった。
子供が生まれると、「おかあさんといっしょ」を見る機会が生まれると思うが、私もその一人だ。その番組の歌を子供が歌いながら踊っていると、「パパも」と誘ってきてくれるのだ。一緒にやるのも楽しい。

そんな「おかあさんといっしょ」の中で
 ぼよよん行進曲
という歌がある。
作詞・作曲が中西圭三のこの曲は、番組中でも絶大な人気を誇る歌なのだが、本当に名曲だと思う。ぜひともググってもらい、聴いていただきたい。この歌の歌詞は人を元気にするパワーがある。

これを聴いて、この先の10年も頑張れたらいいと思う。

(照)

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海の武士道

2012-05-25 09:21:11 | 日記
第二次世界大戦の戦後の長きにおいて日本人の誰もが知らなかった、戦場の奇跡の物語があります。それは「海の武士道」と名付けられています。

その物語は、太平洋戦争が勃発した翌年の1942年2月28日、ジャワ島北東部のスラバヤ沖で起こりました。当時の戦況は日本が圧倒的優位で、イギリスをはじめとする連合国艦隊は、連日、猛攻撃を浴び、当時少尉だったフォール卿の乗るイギリス海軍駆逐艦「エンカウンター」も日本海軍の戦闘艦に包囲されていました。

日本海軍の砲弾がイギリス海軍の船に命中しエンジンが停止。フォール少尉たちは、もはや脱出する以外、方法はありませんでした。

3月1日午後2時頃、「エンカウンター」の乗組員は全員、救命ボートで脱出しました。その直後、「エンカウンター」は日本海軍の攻撃によって炎上し、海に沈みました。

しかし、フォール少尉たちにとって、本当の地獄はここからでした。船からもれた重油が目に入り、多くのイギリス兵が、一時、目が見えなくなってしまったのです。近くには、沈没した別のイギリス巡洋艦の乗組員を含め、合計400名以上が漂流していたため、たった8隻の救命ボートではあまりに不十分で、漂流者たちはボートにしがみつくのがやっとの状況でした。

「オランダ軍がきっと救助に来てくれる」フォール少尉はそう信じていました。船から離れる前に打ったSOSの無線を受信できる位置に、味方のオランダ軍の基地があったからでした。しかし、いつまでたっても味方の救助は現れませんでした。フォール少尉たちは、なすすべもなく海面に漂うしかありませんでした。

そのうち日が暮れ、真っ暗な闇がフォール少尉たちの漂う海を襲いました。「もう限界だ・・・」口々に嘆くイギリス兵たちにフォール少尉は、「諦めちゃダメだ、必ず助けが来る。生きて祖国に帰るんだ。家族を思い出せ。」と励ましました。それは、自らに言い聞かせる言葉でもありました。

やがて、夜が明けました。しかし、いまだに助けは来ません。赤道近くのため、日が昇り始めると暑くなってきました。3月2日午前10時、すでに漂流から20時間近くたっていました。

その時、突然フォール少尉の前方200ヤード(約180m)のところに船が現れました。フォール少尉の目の前に現れたその船は、あろうことか、日本の戦闘艦でした。

日本海軍の駆逐艦「雷(いかづち)」(二代目)。乗組員220人の小型の軍艦ですが、開戦以来、連合軍の船3隻を撃沈するなど、その威力をまざまざと見せつけていました。

その「雷」の指揮をとったのが艦長の工藤俊作少佐(当時)でした。工藤艦長は、身長185cm、体重90kgという、堂々たる体格の猛将でした。

ぐんぐん近づいてくる日本の戦闘艦に、フォール少尉は目を見張り、そして、「日本軍だ!」と言いました。仲間のイギリス兵は、息を呑みました。

波を切って進む「雷」。その艦橋から、工藤艦長は双眼鏡を覗き込みました。その時、工藤艦長が見たものは、ボートや瓦礫につかまり、必死に助けを求める400名以上のイギリス海兵でした。

しかし、この海域はいつ敵の潜水艦に襲われるか分からない危険地域です。全ては艦長である工藤の決断に委ねられました。

迫り来る日本海軍駆逐艦の船体は、もう漂流するフォール少尉たちの目前でした。もはや絶体絶命のフォール少尉たちは、最期の瞬間を覚悟しました。

しかし、工藤艦長が下した決断は、「敵兵を救助せよ!」
「雷」のマストに旗が掲揚されました。それは「救難活動中」を示す国際信号旗でした。艦上の水兵たちは驚きましたが、工藤艦長はある信念を貫きました。それは工藤艦長が海軍兵学校の頃から教育された「武士道」でした。「敵とて人間。弱っている敵を助けずしてフェアな戦いはできない。それが武士道である。」と。

日本兵は甲板から縄梯子を降ろし、自力で上がれる者に手を差し伸べました。しかし、イギリス兵たちは上がってきません。日本兵は甲板からイギリス兵に向かって、「お前たち、何で上がって来ないんだ?」と大声で問いかけました。イギリス兵たちは、「Handle first, handle first!(病人を先に!)」と、傷ついたものから優先的に救助するよう求めました。

こういう状況にあっても、イギリス兵たちは秩序を守り、負傷者、士官、下士官、兵の順で艦に上がってきました。フォール少尉も梯子を上り、「雷」の艦上に辿り着きました。

フォール卿はこの世紀の救助劇を、「救助の旗が揚がった時は夢かと思いました。彼らは敵である私たちを全力で助けてくれたのです。」と感慨深く回想しています。

422人のイギリス兵たちは、翌日、ボルネオ島の港パンジェルマシンで、日本の管轄下にあるオランダ病院船に捕虜として引き渡されました。

フォール少尉は終戦後、家族と愛する恋人のいるイギリスへ無事帰国し、サーの称号を与えられるほど有能な外交官として勤め上げました。
1996年、彼は自らの人生を「マイ・ラッキー・ライフ」という一冊の自伝にまとめました。その1ページ目にこう書かれています。
「この本を私の人生に運を与えてくれた家族、そして私を救ってくれた大日本帝国少佐、工藤俊作に捧げます」と。

フォール卿は、工藤艦長への感謝の念をずっと忘れませんでした。だからこそ、自分が死ぬ前に、誇り高き日本人である工藤艦長にぜひお礼が言いたいと、日本を訪れたのです。

しかし、2003年10月に訪れた時には、工藤艦長の消息はつかめませんでした。
実は工藤艦長が別の船の艦長になった後の1944年、「雷」は敵の攻撃で撃沈、全員が死亡しました。
そのショックからか、終戦後、工藤艦長は戦友と一切連絡をとらず、親戚の勤める病院で手伝いをしながら、ひっそりと余生を過ごしました。
そして1979年1月4日、77年の生涯を終えました。
自らのことを一切語らずに亡くなった工藤俊作。この物語は、フォール卿が来日しなければ誰にも知られることはなかったのです。

工藤艦長をはじめ「雷」全乗員の行為が、敵兵を感動させ、フォール卿によって、世界に広められた「武士道」。フォール卿は次のように語ります。
「敵を敬う、という日本の武士道の考え方を、私は子供や孫たちにも話しました。世界の人々が仲良くなるきっかけになればと思います。」

第二次世界大戦で日本は敗戦しましたが、日本軍の勇敢な戦いによって、多くの国が独立を果たしました。日本に恩を感じている国は多いと言われています。世界に「武士道」を広めた日本に誇りを持ち、日本の素晴らしさを改めて見直す時期が来ているように思います。(横)

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お金

2012-05-24 10:10:18 | 日記
先日、私は北海道へ出張しました。
北海道での求人状況や業界傾向などの調査及び会社アピールが目的で行ってきたのだが、数ヶ所まわるだけで高い高い。
営業活動なんて、一度いって何かを得られるというものでもないので、継続して行かなければいけませんが・・・さすがに金銭面的に厳しいな・・なんて私みたいな人でも感じてしまいました。

そんな時に考えたのが、お金ってそもそもどういうものなのでしょうか。
なくても殺されはしないけど、生活ができず、しまいには生きていけなくなってしまいます。
そういった意味で、お金にはとてつもない力があります。

そんなお金を普段なにげなく使っている訳ですが、その存在について考えたことがある人なんてそうそういないのではないでしょうか。
小樽へ訪問したときに、ある職人さんと出会いました。『若いやつは、お金さえ出せばほいほいと何でも買えると思っている。けしからん。』と言っていました。

お金は、現代の人々が失いかけている何か重要な意味合いを持ち合わせています。
そこで、お金の起源とかを振り返りながら、色々模索してみようと思います。

そもそも、お金のない時代でも物のやり取りは物々交換で自分の欲しいものを取引するという手法で行っていました。
もちろん、人により価値というものは千差万別のため、例えば、山に住んでいる人なら魚なんてとても貴重な物で、海の近くに住んでいる人なら魚なんてあまり価値のない物です。
そんな画一的な価値がない時代ですから、マグロと柿の実が同じ価値の物として交換していたなんて今ではありえないことだってあったはずです。
それでも、彼らは自分の価値に従い、相手にありがとう!という感謝の気持ちを持ってやりとりをしていたはずです。

時代が流れ、価値に共通の基準をつけよう!とお金が誕生。
現在は公平な価値を基に我々は物をやりとりしているわけです。

今は価値というものがお金という物で存在するため、価値を貯蓄することができる。
そのため、ビジネスとしてもよくありますが、運用するといった新しい手法ができるようになりました。

私はここに問題があるのではないかと思います。

運用することによって、自分に有利な方向でいこうという傾向が良くも悪くも普及してしまい、相手への感謝という部分がなくなりつつあるのではないでしょうか。
きっと職人さんも、魂を込めて作った商品の価値を分かち合い、感謝してくれる人に手渡したい。きっと、そう思っていたのではないでしょうか。

かつての物々交換していた時代の素直な感謝の心。
これを我々も忘れずに生きてゆけば、また違った素晴らしい生活を送れるのではないでしょうか。なんて思っちゃいました。(大)

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