1歳半になる孫が、これがまたよくしたもので太鼓が好きだ。
キリギリス家族の系譜をみごとに受け継いでくれたと、とてもうれしい爺である。
娘夫婦が柚子採りを手伝いに来てくれていたのを幸いに、日曜夕方の子ども太鼓教室へ母子を誘った(といっても赤子のほうに拒否権はないが)。
孫はといえばノリノリで、太鼓のリズムに合わせながらアチラコチラと歩き回り、すぐそばまで近づいていたのを気づかないわたしの振ったバチが当たってしまい泣き出してしまう、というハプニングがあったりしたが、ご満悦で帰路についた。
我が家に帰る道すがら、おもむろに娘が言う。
「あの子ら、お父さんのこと、おじちゅう(こわがっている)ね」
「え?そんなことないやろ。オレ、昔と違ってめったに怒らんし、やさしいやろが」
「いやいや、あんな顔して子どもに接する大人は今どきそんなにおらんキ」
ふむ、そういえば、と自分自身の顔を思い浮かべてみた。
当然のごとく、太鼓を教えるときのわたしは真剣だ。そんなわたしの眼や表情や態度は・・・・、うん、そうだな、たしかに小学生が気安く接することができるようなもんではないかもしれないな。と、思い浮かべてそして顧みる。
で、再度ささやかな抵抗を試みた。
「けど、今日みたいな稽古なら、昔のオレやったら泣くばあやっちょったぞ。今はそんなことせん」
「いやいや、こわいって。子どもの態度を見たらわかるもん」
ははあ、と思い当たるフシがないではない。
オジさんは打ち解けているつもりで冗談を言うが、その冗談がよくスベるのだ。オヤジギャグが理解されない?もちろんそれもあるだろう。だが・・・
ひょっとしてわたしは、「支配」しようとしてはいなかったか、と自問自答してみる。
たしかに、そういう部分はなきにしもあらずなのだ。
自分を表現できるようになってほしい。気持ちを前に出せるようになってほしい。チームワークを学んでほしい。うまくなってほしい・・・・などなどの色んな想いを持って子どもたちと接してはいるが、知らず知らずのうちに「支配」しようとしていることがある。
もちろん、自分では優しいつもりの先生が、結果として強面として受け取られていることについては、さして悪いことだとは思わない。そして、我が娘の「今どきそんな大人は」という指摘は、(たぶん)悪い意味ではない。
だが、それもこれも含めて、「支配」から何かを得ようとする方法がどこかに見え隠れしていたとしたら、それは明らかに今のわたしの本意ではない。
そうそう、そういえば、ちょうど2年前の今ごろ、こんな本を読んだ。
深美隆司著
図書文化社
主体的な姿であれ、依存的な姿であれ、教員は子どものあり様を受けとめ、子どもたちに返していく(フィードバックする)必要があります。そのためには、子ども一人一人を受けとめつつ、全員を包み込んでいく(子どもをホールドする)ことが大切になってきます。(P.178)
子どもをホールド(hold)するとは、「子ども(の心)をつかむ」「子どもを抱きしめる(ように受けとめて、フィードバックを返す)」ことを表します。(P.178)
「子どもをホールドする」ことは、子どもの心を開き、人間としての力を発揮させていくことであり、子どもに押しつけたり、コントロールするものとは無縁なのです。(P.179)
もとよりわたしは、深美先生のようなプロフェッショナルの教員ではなく、一介の素人太鼓打ちに過ぎない。だが、袖触れ合うも他生の縁、せっかく縁あって教え教わり教わり教えの間柄となったんだもの、「よかれの思い込み」だけで彼彼女たちと接していていいはずはない。
太鼓のリズムの洪水に、すこぶるつきで機嫌がいい孫の顔をながめつつ、そんなことなどを思った日曜日。
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