散日拾遺

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三日

2019-11-17 11:19:57 | 日記
2019年11月17日(日)
 ヒゼキヤの物語、中高生達を相手につい話が長くなってしまった。
 与えられたのは列王記20章1-11節で、「日時計の影を十度戻す」という平清盛まがいの箇所だが、10代の彼らを見ているうちに連想はグレタ・トゥンベリの国連演説に飛んだ。
 ヒゼキヤがバビロンからの使者に対して、短慮にも国情をすべて明かす愚を犯し、これを受けてイザヤが王国滅亡を予言した時、ヒゼキヤは何と言ったか。
 「あなたの告げる主の言葉はありがたいものです」 ー 彼は、自分の在世中は平和と安定が続くのではないかと思っていた。(列王記下 20:19)
 グレタさんが世界の指導者を告発するのは、目の前にいる中高生達がこの自分を糾弾するに等しい。それに対してヒゼキヤと同じく返す言葉がないというのは、胃の腑に鉛の塊を抱える気分である。

 とはいえ、ここに不思議がある。(列王記下 20:5-9)

 「見よ、わたしはあなたをいやし、三日目にあなたは主の神殿に上れるだろう。」
 「わたしが三日目に主の神殿に上れることを示すしるしは何でしょうか。」

 そこで日時計の影の話になるのだが、問題は「三日目」である。新約で「三日目」といえばキリストの復活にかかる枕詞のようなもので、それ自体が復活の希望を暗示するキーになっている。ヒゼキヤの物語はそこから7世紀あまり遡るものだが、既に三日目が奇跡の生還の標徴として用いられている。むろん、旧約の中で準備されてきたシンボルを、福音書記者が正しく活用したというのが歴史的な順序であろうが、それはこの不思議の意義を少しも減じない。
 ヒゼキヤは15年の余命を与えられたが、結局は寿命尽きて死んだ。ならばここで与えられたのは15年分限定の恵みかと問うなら、「否」というのが裏の(=真の)メッセージである。この15年は、永遠を指し示す手付けの15年であったはずだ。
 三日目を望んで忍耐すること。怯え怒る船員らに三日の猶予を請うたコロンブスは、一日半後に陸地の影を目にすることになった。
 三日、三日、たったの三日。

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