ラティハン日記

ラティハンと人生の散歩道

スシラ ブディ ダルマ・7章の2 人の世界から動物の世界に落ち込む事

2018-09-02 | 日記
第8章 キナンティ 45節~51節(動物力の章:一部要約あり)
『45、なぜなら人生において当然重要だとされるべきことは、単に食物を得ることだけではない。
確かに食物は必要ではあるが、完全な人間の生命(the life of a perfect human being:ロハ二Rohaniと呼ばれる段階の生命)についての洞察を得る事は私たちの取っての本質的な義務であり、その義務を果たそうという願いをもつ事は必要な事である。

46、なぜなら、そのような洞察を得る事によって、私たちはすぐに魚、つまり動物力が自分の内部でどのように働くのかについて確実に気が付く様になる。
そうして、自分の内部にある種々の(低次の)力を区別する事ができるであろう。
(注:ただし実際の所、この状態についての会員からのレポートは見たことがありません。
つまり、いろいろな生命力を見分けること、というのは、我々にとっては通常はそれほど簡単ではない、と言う事であります。)

47、私たちは又それらの力を秩序づけ、正しい方向に流してやることが出来るであろう。
それは、これらの力をそれぞれの伴侶に結びつける事で満足感を抱かせる事になぞらえる事ができる。
(注:我々が食べている食物に付随している生命力は植物力と動物力になります。
それで、生まれた時に親から譲り受けた4つの低次の力、それはこの世で人間が暮らしていく事を可能にする力でありますが、その中に植物力と動物力があります。
我々が食事をする、という事を生命力の相互作用という観点から見ますれば、外にある、食事によって取り込まれた生命力が、元から内にある(親からもらった)生命力と出会う、そうして正しく出合えれば、良い結果、つまりは体は健康になり、精神も良好に健康になるという結果をもたらす訳です。
そうであればその時に我々は「うまい」と感じ、食物に感謝する感情を感じるはずであります。
それは実に動物力と植物力が人間に対して持つ事になるであろう感謝の感情の反映でもありましょうか。
さて、この辺りの事を扱った以下のような記事もありますので、ご参照の程をお願いします。
・バパの魂(jiwa)あるいはロホの概念・3 植物の魂(植物力)-1<--リンク
・バパの魂(jiwa)あるいはロホの概念・4 動物の魂(動物力)-2<--リンク)

48、このようにして動物力を満足させるならば、人はさらに進み、被造物の長(おさ)としての彼の立場をより高める道が開かれる。
(注:動物力レベルの内部感覚Rasa diriや内部自我Diri Pribadi、ジワJiwaというレベルから人間本来のレベルであるジャスマニJasmaniと呼ばれるレベルへの向上が期待出来る様になる。)

49、言いかえれば、人間のこの行為は、もっぱら(他の低次の生命力に:それは植物力と動物力であるが)援助を与えるという性質のものではあるが、だからと言ってそれが人間の内部自我(Diri Pribadi)に利益をもたらさない訳ではない。

50、しかし、今述べた様な仕方でこれらの力を秩序づける事が出来なければ、彼らの道は暗く、闇の中で生きる事になるであろう。
(注:本来の人間としてのあるべきレベル(ジャスマニJasmaniレベル)に到達する事はできない、と言う事。)

51、このような暗闇の中では、人間の内部感覚Rasa Diriは混乱状態におちいり、人間としての(本来あるべき)地位にふさわしい前途はまったく失われてしまうと言う事ができる。
(注:生きている時に動物力の世界に飲み込まれた人は、その人生の最後に至ってはやはり動物力の世界に飲み込まれる、というのは妥当な話となる。)』


第9章 シノム 21節~25節、32節~34節(動物力の章:一部要約あり)
『19、実際には、動物力が私たちの人間的な自我の全てを左右する事は容易にはできない。
人間の性質の多くの部分は、人が注意を払いハート(Hati)の貪欲な要求に従わない限り、まだたやすく動物力によって影響される事はない。
(注:貪欲のナフスNafsu、それはアルアマAluamahスピアSupiahでありますが、その要求にずうっと従い続けてはならない、という警告になります。<--リンク)

20、はっきりいえば、人々が動物力に影響されるのは不注意からであり、それと同時に時折、人間としてあるべき様に行動しない傾向があるからである。
・・・
そして、まさにそのように行動することで、彼らの自我(Pribadi)は動物力によってさらに影響され、ついには本当は間違っている自分の行動をすべて正しいと感じ、(あるいは仕方がないものと感じ)、それが正常な状態であると思うのである。

21、このような誤った行動は動物力に何をしても良いというような活動の場所を与える事になる。
それが長く続くと動物力はますますはびこるが、その人は間違いなく(人間本来のあるべき姿)万物の長(おさ)としての地位を失う事になる。
(注:欲望にただただ従っていく事の結果はこのようなものである、というバパの主張です。)

22、もし人が道を誤り続けるとこのような事が起こります。
さらに(死後において)ひとたび動物力の世界に落ち込むと、人間の名残りをとどめたその存在は動物の生活を経験し、それが幸せと苦しみの両方に満ちた生活である事を見出すであろう。
(注:要するに動物もそのレベルにおいて幸せと苦しみを経験している、それは人の生活がその様であるのと似ているのだとバパは言います。)

23、動物の世界では、かつて人間であったというこのような存在は、もはや動物と人間の世界を区別する事ができないであろう。
なぜなら、そのための能力を(記憶と感覚Rasaを)持たないからである。
動物の世界では、彼等はすでにその世界に属する生き物のように感じ理解するであろう。
(注:このあたりの記述は、人が物質力の世界に落ち込んだ時にどうなるのか、というものと相似的であります。<--リンク)

24、これがもっぱら強欲の情熱(ナフスnafsuアルアマAluamahとナフスnafsuスピアSupiah)に導かれた人が誤った行動をする事で何が起こるかの説明である。
それゆえ、このような行動の仕方をやめ、動物力があなたの感覚(Rasa)を支配しあなたの進歩を妨げない様にする事が必要である。

25、それに失敗すると、単にあなた方は将来(生死を問わずに)道を失うばかりでなく、今ただちにそのように道を失うことになる。
そして、そのことによってあなた方の子孫が低いレベルの魂(ジワJiwa)を持つ事になりかねない。
(注:ここではバパは両親の行動の結果がその子供のジワのレベルを決める、という「バパのカルマ論」に言及しています。<--リンク)
・・・・・
32、このように似ている為に、感情に動かされやすく、その上人間としての自分の個性を意識する訓練(ラティハンの事)を全くした事のない人は、いとも簡単にこの動物力に影響され支配されてしまう。
もしそうなってしまえば、そのような人たちは(人生の)最後が来た時に間違いなく動物力の世界に落ち込む事になる。

33、真実を言えば、まさにその通りなのである。
しかし真実にまだ目が開かれていない人たちは、人間段階(ジャスマニJasmani レベル)よりはるか下に落ちるという可能性に気がつく事ができない。

34、だがそこまで深く落ち込んだ事の結果に苦しむのは、(この世での)最後の瞬間だけではない。
まだ人間のからだを持って生きている間ですら、彼等はもはや人間の様にはふるまわない。
これが転落の結果である。
従って実際は役割が逆転してしまう。
人間(力)は狭い生活の場を見つける事になり、一方で動物(力)はその反対に、例外的な広い活動の場所を見つけます。

35、こうした状況下では、動物力はますます強さを増し、なんでも望む事を行う事ができる。
それゆえ、動物力で満たされた人はハート(Hati)の強欲さ(ナフスnafsuアルアマAluamahとナフスnafsuスピアSupiah)だけに従いたがる、という傾向をもつ事になる。』

PS
動物の世界に落ち込んだジワJiwaのその後の運命、成り行きに関してはスシラ ブディ ダルマの中では何も記述されていません。

但し、関連する記事(63BCL7.8(ブライアクリフ))地球に定められし時、それから雑記帳36・人間力の階層が7つの内部階層を持つ事についてにはこちらから入れます。<--リンク

さて、バパは「ジワは死後も存続する」といいました。
しかしながら各自の「自己 プリバディPribadhi」 やそれに含まれる「内部感覚 ラサディリRasa diri」がどうなるのか、不明確な所が残ります。

それで、この件につきましては今後の検討課題としていきたいと思います。

PS
人間力以下の4つのロホの生命世界、それはバパ流の「輪廻転生の世界」となります。
それは地球上を舞台とし、どうやらこの現世にオーバーラップして存在しているかの様であります。
その世界を支配しているのは、従来の教説によればカルマなのでありますが、バパの説明ではカルマにはそのような働きを認めてはおりません。
たとえば、仏教によれば「人は六道を輪廻し、それぞれの世界で定められたカルマが消失する事でまた人として転生する。」とされています。
そうして「人という存在形式の時のみに解脱という事が、輪廻の輪から離れる、という事が可能になる。」と説かれています。
しかしながら、バパの説明の中のカルマにはそのような働き、機能はない様であります。
(バパのいうカルマは単に「人間が犯した誤りである」という扱いになっています。)

バパが述べている「輪廻転生の世界」からの解脱、あるいは離脱は「ロハ二世界への旅立ち」という形でトークの中に表れています。
それは本来の人間のいるべき場所であり、アダムが地上に降りる前にいた場所でもあります。
そこに到達する為には、当然のことながら普通の人間の段階、ジャスマニJasmaniと呼ばれる段階に到達し、そこからさらに上に行く事が必要になります。
そうしてまた、このロハ二の世界はこの地球上の世界ではない、というのもバパの説明であります。

しかしこの旅立ちの時に邪魔をする者達があり得ます。
それが人間力以下の4つの低次の諸力です。
現世の生活においてこれら4つの諸力との間に、合意、調整、清算、統御が完了していない時には、それぞれの諸力が旅立ちの邪魔をする、とバパは言います。
そうやって、ロハ二ではなくこの地球上のどこかの世界に引き込まれる、そう言う事の次第になるとトークでは述べられています。
・・・・・
以上の事に関連する記事、「バパのリンカネーション論(輪廻転生論)」にはこちらから入れます。<--リンク


連載「スシラ ブディ ダルマ」にはこちらから入れます。<--リンク


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スシラ ブディ ダルマ・7章の1 人の世界から物の世界に落ち込む事//

2018-07-24 | 日記
第3章 キナンティ 19節~20節、39節~51節(物質力の章:一部要約あり)
『19、あなたが自分にとっての正しい仕事をすることで、自動的にあなたの神への礼拝、これは人間としてのあなたの内部自我Diri Pribadiが要求している事ではあるが、それが減ずるということは無くなるであろう。
まことにこれは最善の道である。
なぜならその時人は世的な目的の為に働くことのみならず、神への礼拝もまた捨てられなくなるからである。

20、ここに述べた事を行う事により、あなたはこの世での生活のみならず、死後においても真の平和と幸福とを味わうであろう。
・・・・・
39、物質的関心が実際に大きな利益を生み出すとなれば、なおさらのことである。
さらに大きな利益を求めて、彼らは身を粉にしてでも働くであろう。

40、すること、なすこと全てがもうけを生むという喜びの為に、財産に対する愛は彼らの中で際限なく深まってゆき、ついには家族や親しい友人を愛する以上に財産を愛するに至る。
・・・・・
42、とりわけそれが当てはまるのは、常に成功し、何をやっても儲かる人たちである。
もしも彼らが自分の内部自我Diri Pribadiを顧みないと、物の世界の深淵に落ち込むであろう。(注:後述 第5章 メガトルフ 29節~45節 参照)
・・・・・
44、物体の内部にある力の作用というものは、このようなものである。
これらの物質力は人をしてもはや死後の生活、死後も続く事になる人間の存在様式を信じさせなくなる程に強い影響を与える。
だからそのことに気が付いていなさい。
(注:リンカネーションをみとめるバパでありますから、死後も続くことになる人間の存在は大前提となります。)

45、別の言い方では、注意していないと物質力の作用によって(この世で生活している間に)、その人の性格が変化してしまうということである。
そのようなってしまうと、自分のジワJiwaの事を認識する事が一段と難しくなってしまう。
・・・・・
48、そのようになってしまうと(この世で生活している時にすでに)人間というレベルから物質というレベルにまでその存在レベルが落ちてしまう事になる。
そうなった人は、(財産を持っていない、というだけで)豊かでない人達を物同然に扱う様になる。
・・・・・
51、しかしながら、ある人達が、物質力を理解していない、統御していない、という事で貧しい生活をしいられているとしたならば、それもまた間違いである。
そのような人たちはこの世の生活でも不幸であり、そうしてまた死後の生活でも不幸である。
(注:だからラティハンをやって自分の運命、天命をしり、人間としての生活が出来るようにしなさい、とバパいうのです。)』


第5章 メガトルフ 25節~28節、物質力の章:仕事に取りつかれる事(雇主に雇われて働く人の例)
『25、そして雇い主に目をかけられている為に、自分が働いている部署では権力者になった様に感じ、同僚に対して横柄にふるまう者も出てくる。

26、こうした状況の中で、彼はいとも簡単に仕事にのめりこみ、ハート(Hati)や頭脳はもはや真の自己をかえりみる時間的余裕も与えられない。(注1

27、昼夜、彼等は自分の仕事のこと以外は考えない。
そしてついには彼らの内部生命(inner life)も同様に影響を受けて、仕事以外の事は何も意識しなくなるのである。

28、それゆえ、外面的にも内面的にも自分の仕事に専念するのだが、その結果、人生の最後になって死を迎えた時に、彼らが引き寄せられるのはその方向に向かってである。
(注:つまり地球上の特定の場所に引き寄せられる。
つまり、生前に彼がこだわりを持って意識していた、常に考えていた場所に引きつけられる、ということです。
そして、それを通常は地縛霊と言います。
あるいは浮遊霊という場合もあります。
そしてバパの言い方ではそれは「物質力の世界に引きこまれたジワJiwa」という事になります。)』


第5章 メガトルフ 29節~45節、物質力の章:物の世界の深淵に落ち込むこと
物には物質力という一番低いレベルではありますが、生命力を認めるのがバパの世界観になります。
そうして、そのような物質力レベルのジワJiwaが集い、生活している世界としてスシラ ブディ ダルマでは以下の様な「物の世界」を記述しています。
しかしながらそのような世界を我々は通常は認識できません。
そうしてスシラ ブディ ダルマからその記述部分を引用してもただ単に我々は空想を刺激されるだけです。
くわえて、そのような世界の事を認識できなくてもラティハンを続けていく上では何の支障もない様です。
それで以下、その部分の記述は概要のみにとどめて、興味のある読者には原典にあたっていただく事にしたいと思います。

以下、第5章 メガトルフ 29節~45節の要約
『29、・・・物の世界の有様は我々の世界の様であり・・・

30、・・・この現世での我々の生活から見れば、そのような物質というものには生命がある様にはみえない。
それは我々が自分たちの生活の為に加工し便利な道具として使用する物としかみえない。・・・

31~32、・・・物のレベルで神との関連をもつ、それを礼拝といってもいいかもしれない・・・

33、このような訳で物は自分の地位を自分と比べてより高い段階である人間のレベルに引き上げてもらおうとして、人の思考に結び付く事を切望している。
(注:このような訳で人は自然を理解でき、それを自分たちの生活に役立てる事が可能となっている、というのがバパの主張です。)

34~35、37・・・このようにして物は人の世界に入り込み、人が生きている間、その人の望みに従い続ける。

36、それが物に定められた生き方である。
人はそのことを理解し、物質力の影響を理解し、それを統御できるようになる必要がある。

38~43、しかし実際には反対の事が起こっている。
つまり人間が物に仕えるのである。
そのために物の段階を引き上げるのではなく、人間が(死後に)物の世界に沈み込んでしまう。

39~42、死後、物の世界に落ち込んだ人はこの世にいた時に持っていた人としての記憶と感覚(Rasa)をもはや維持できない。
そして、物の世界を「当然の事」として受け入れる。

(このような状態は人の本来あるべき死後の生活の状態ではない。
しかし人間自身の行動の間違いによって物の世界に落ち込むならば、そうなってしまう、というバパの主張、警告であります。
そうして、そうであるとすればこの世の生活というのは人間にとっては本当にテストになっている、自分のレベルを改善し向上させるも、低次の諸力の欲望のままに降下させるもその人次第である、という事になります。)

44、(それまでその人に仕えてきた)物にとってみれば、この事(人を物の世界に連れ込む事)は正当な代償に見える。
なぜならば、これらの人々は(彼らが使っていた物に対して)借りがあるからである。・・・

45、しかしながら、その人にとって見ればそのような状況というものは、単に「悪い」というもの以上の事である。
それは人間にとっては「大いなる過ち」である。
人間は物に対して秩序を与えることが出来る存在であるのに、その事に完全に失敗しているからである。』

注1:ハート(Hati)や頭脳
ハートやマインド、あるいは感情心と思考心の様に訳される事もあります。
それで、現代の我々の考え方では「感情も思考も頭脳が作り出すもの」という様に理解しています。
ですから、この部分の訳は我々からすれば、
「ハート(Hati)や頭脳はもはや真の自己をかえりみる時間的余裕も与えられない。」というのは単に
「頭脳はもはや真の自己をかえりみる時間的余裕も与えられない。」とすればよい事になります。
しかしながら、バパの時代では「感情、想像、白日夢を抱く場所というものは肝臓(Hati)である」とされていました。
従って「心、感情、ハートと思考心が具体的に生み出される所」としては「頭脳」というだけでは足らず、「Hati(肝臓)と頭脳」と言わなくてはならなかったのです。
(Hatiについての、このような理解は、1959年5月3日のトークの注釈からの引用となります。)

PS
物の世界に落ち込んだジワJiwaのその後の運命、成り行きに関してはスシラ ブディ ダルマの中では何も記述されていません。

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スシラ ブディ ダルマ・6章の1 カルマとオープンとラティハンの進み方

2018-05-07 | 日記
さてそれで、スシラ ブディ ダルマのそもそもの書き出しが何とカルマについての記述から始まっています。
そうしてこれらの文章の意味は一読しただけではよく分からないのですが、詳細に読み進めると分かってきます。
そういう訳で以下、第1章 シノム 3節~11節から引用、検討していきましょう。

『3、まずここから説明を始めよう。
オープンの結果、頭脳が考える事を止め、思考が感覚(Rasa)から切り離されると、直ちに生命のバイブレーションが感じられる。
それは広がって全身を被い、まもなく心にとっては非常に奇妙に思える動きを引き起こす。(注5)

4、この状態は実際、心にとってはまことに奇妙なものである。
なぜならそれは思考で作り出せるようなものではなく、思考の影響をもはや受けていないある感覚(Rasa)によって受け取られ直接確認される事実だからである。(注5)

5、この事実を受け確認したならば、引き続き自分の内部で実際には何が起こっているのかをよく感じるようにせよ。
そうすれば正しい道への指針が得られよう。
さらには、真の内部自我(Diri Pribadi)の本来の姿が明らかになるであろう。

6、それゆえに、あなたは自分がこれまで常にどのような欠陥を荷ってきたかを知るであろう。(注1
それは子供を授かる以前にあなたの両親が行ってきた行為によって生じてきた欠陥である。(注2

7、この状態はまことに驚くべきものである。
なぜなら人間としての地位(注:ジャスマニJasmaniと呼ばれるレベル)にふさわしい特性の中で、あなたに欠けているものが何であるかが示されるからである。
それらの特性が欠如している為によりたかく昇る、つまり完成の領域(注:ロハ二Rohaniと呼ばれるレベル)に達する可能性は微々たるものになっている。

8、子供であるあなた方ははっきりとこれらの欠陥に気がつくが、しかしどうする事もできない。
自分の内部自我(Diri Pribadi)にふりかかった事をただ受け入れる他はない。(注3
また深く考えるならば、これは少しも例外的な事ではない。
それどころか誰もが経験する事である。
何故なら第一に、ほとんどの人はこれから起こる事柄を前もって知る事は出来ないし、
第二に何と言おうと人間は人間でしかないからである。
人間の状況はたやすく変化し、感情をかきたてる状況によって容易に影響を被る。
それゆえ、欠陥の出所が確かに親にあるとしても、子供が親を責める事は何の役にも立たない様に思われる。(注2

9、親の中には、身の処し方を完全なものにしようと懸命に努めている人たちがいるかもしれない。
将来、自分の子供たちが優れた性格を持ち、人生に立派に対処していけるようにと望んでのことである。
しかし、努力が誤った方向へ向けられている為に、彼らの希望は叶えられない。(注4

10、従ってそのようなやり方をしない方が良い。
とりわけ、望んでいるものを作り出す為に、もっぱら意思を強め集中するような仕方であれば、なおさらである。(注4
なぜなら、得られる結果は、ハート(Hati)から生まれた空想の産物以外の何物でもないからである。

11、それゆえ親にとって何よりも必要な事は、多少なりともジワ(Jiwa)に関する事(クジワアン:kejiwaan)を意識することである。
そうすれば後に子孫から非難の的にされる様な事にはならない。』

(注:kejiwaanはke(接頭語)+Jiwa(名詞)+an(接尾語)という合成語で、Jiwaに関連したもの、という意味になります。
ついでながら、クバティナンkebatinanとはジャワ的な神秘主義にジャワ人が与える名称であり,「内」を意味するアラビア語からの借用語バティンbatinを語根としている。
このコトバもke(接頭語)+batin(名詞)+an(接尾語)と分解でき、「内」batinに関連したもの、という意味になります。
これを意訳するなら「内面の道」とでもなりますか。)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

注1
さて最初からいとも簡単に自分の真の内部自我(Diri Pribadi)、これは真我とでもいうべきものであり、生まれてからこの方獲得してきた人格、ペルソナではなく、いわゆる「本来の自己」のことなのですが、「それが分かる」とバパは言うのです。
しかしながら実際の会員の状況はそう言う様には推移してはいない様です。
ラティハンの道は下り坂ではなくのぼり坂であって、少なくとも自分の欠点を見つめてそれを正そうという気持ちは必要でありましょう。
そしていわゆる「自分の欠点」に気がつく、それに対して自覚的になる、ということはそれなりの時間が、ラティハンの積み重ねが必要になっている様です。

注2
バパは「それらの欠点の出所は両親の行為の結果である」としています。
これがバパが主張するカルマ論の基本になります。
そうであれば、「これから両親になるであろう人たちをラティハンで浄化しなくてはならない」というのがバパの最終目的の一つとなるのです。
これがバパが提唱する「よい子供が生まれる事により、良い人類が誕生し、地球に平和がもたらされる。」という人類救済のストーリーにつながっていく事になります。
又それはバパにとっては「人類がつみ重ねてきたカルマを逆回転させて消し去る」という壮大な計画の表明でもあります。

しかしながら他方でバパは「全ての人はリンカネーションしている。」という立場をとります。
そうすると、生まれてくる子供のJiwa(魂)のレベルというのはその子供が前世までの生活で到達したレベルである事になります。
そうしてそれはまさにその子供の責任であり、その子供の行動の結果によって決まったものです。

そうしてその子供のJiwaがどのようにして生まれてくる事になる人体に宿るのか、ということについてはバパは「両親の内部感覚のレベル、それは両親のJiwaのレベルが決めるものでもありますが、それに見合った子供のJiwaが引き寄せられて宿るのだ」と主張されます。<--リンク
そうなりますと、確かに両親の行為によって決まるであろう両親たちのJiwaのレベルがありますが、他方で子供自身がもっている子供責任によるJiwaのレベルもあります。
そうして人が生まれる、ということは両親と子供、その2つのJiwaのレベルの一致によるものでありますから、一方的に「両親の行動の結果によって子供のJiwaのレベル、内部感覚の状況、そこに発生している間違いの総量(カルマ)の受け渡しが決まる」という事にはならないと思われます。

このようにその状況を詳細にみていきますと、そこには両親と子供の間に一種の相互依存関係があることが分かってきます。
そうであればバパが言う様に一方的に「子供のJiwaのレベル、内部感覚の状況は全て親の責任である」とは言えなくなります。
つまり「子供は今いる状況、一定の間違い(カルマ)を背負っている責任を免責されない」ということです。
しかしながら、そうなりますと議論が複雑になります。
それでバパはここでは一応子供に対しては「親の責任ではあるが、仕方ないものとして現状を容認せよ」、「そうしてそこから歩き始めよ」という立場をとります。

それに対してリンカネーションを認め、「子供のJiwaのレベルは前世までのその子の責任である」としても、子供はいずれにせよ「今ある所から歩きだす他に道はない」のでありますから、最後の結論は結局のところバパの言及と同じことになりそうです。

注3
『子供であるあなた方ははっきりとこれらの欠陥に気がつくが、しかしどうする事もできない。
自分の内部自我(Diri Pribadi)にふりかかった事をただ受け入れる他はない。』

そのようにスシラ ブディ ダルマは言うのですが、なぜ自分では取り除けないのか、どうする事もできないのか、という事を説明したトークがあります。
それで以下は(3月13日,1965)トークからの、カルマとその解消についての引用になります。
『・・・・・
この先祖から別の者に、また別の者に、そして最終的にあなたに届いた間違い。
だからあなたの現在の状態はそういうもののすべての継続です。
そのように作られた間違いは繰り返し起こり、まだ限界に達していません。

そしてそれらがあなたに届く時には、それらの間違いあなたの個性に浸透し、それはしばしばカルマと呼ばれますが、それらはあなたの元々の自己の一部であるかのように感じられます。

それは砂糖とその甘さのようなものです。
あなたが甘さを砂糖から取り除くなら、それはもはや砂糖ではありません。
この場合、あなたの外観は砂糖ということですが、あなたの存在に浸透した間違いはその甘さになります。

それで、あなた自身の力であなたの存在における過ちを取り除きたいなら、それはあなた自身の自己を取り除くことを意味します。
そうして、それは死ぬことを意味します。
・・・・・
私たちがしなければならないことは、私たちの個性の中に入ったそのような間違いを取り除くことです。
そうすれば 私たちの個性は、最初にあったように元に戻ります。
つまり、それは再び完全な人間の個性になります。
しかし、もしそれを強制するなら、私たちは死ぬでしょう。
・・・・・』

さてそういうわけで、「そのような間違いを安全に、かつ速やかに解消するにはラティハンによるしかない。」というのがバパの主張になります。

注4
ジャワの伝統のなかには「人は努力をすることによって、良い子孫を得る事ができる」というものがある様です。
しかしながら、バパはそのようなやり方には賛成しないのです。
それはGumelaring Jagad(宇宙の重層性)です」の第44節と第47節の1を参照してみてください。<--リンク
以下はそこからの引用です。
『(44)節
良い行動を持つ人々 - 世界中のすべての人々が良好な行動を取っているなら、誰もが幸せになるはずです。
これは「良い子をどうやって生み出すのか」という方法の問題に帰着します。
生命の種は、チピタ cipta(感情の頭)からプラマナPramana(最高物質)までの父親からのものであり、性交渉中の父親の感情によって、母親の子宮に生命の種子が落ちる。
父親のチピタciptaは新しく生まれた子供の基本的な性格になるので重要です。
父親のチピタcipta/マインドが平和で神聖なときにカップルが性行為をすることができれば最高です(ジャワ語で Lejar)。
・・・・・
子供は良い性格を持つべきであり、常に神を崇拝することを熱望していなければなりません。
性交渉の時間も重要です。最高のものは、深夜から日の出までです。
あなたの魂を浄化し、性行為をする前に祈ることが賢明です。
・・・・・
(47)節
・・・・・
真夜中、多くの人が眠っているとき、あなたは荘厳に彼を崇拝する。
あなたの体は清潔で、あなたの体はきれいで、あなたの心ははっきりしており、平穏です。
あなたはマット/床に座っています。
心の集中によって体の9つの穴を閉じます。
全てをわすれ、そこには彼しかいない。
厳粛に瞑想し、静かに吸い込んで呼吸することによってあなたの呼吸を制御してください。
あなたは鼻のピークを見ます。
彼に全面的に降伏させる。
あなたは少なくとも1時間真夜中にそれを行うべきです。
うまくいけば、神秘的なシグナルやメッセージ(sasmita gaib)があります。
・・・・・
(注:彼とは超越者、あるいは「唯一の神」とジャワで呼ばれている存在のことです。
ちなみに「唯一神」はトークでは「Tuhan Yang Maha Esa」と書かれています。<--リンク)』

さてバパは「やり方がまずい」といっているのであって、
『良い行動を持つ人々 - 世界中のすべての人々が良好な行動を取っているなら、誰もが幸せになるはずです。』
というジャワの伝統的な考え方には大賛成なのであります。
そうして、そのためには従来の方法ではなくラティハンによるべきである、というのがバパの主張になります。
そうであれば第1章シノムの9節、10節は「ラティハンへのいざない」と取るべき文章となります。

注5
3節と4節はオープンとそれに引き続いて起きてくる事柄についての説明です。
『オープンの結果、頭脳が考える事を止め、思考が感覚(Rasa)から切り離されると、・・・』と簡単に書かれていますがまずは頭脳が考える事をやめる事などは、他の方法ではそんなに簡単には実現できない事です。
それは「無心」と言われる様な状況であって、瞑想を実習する人たちが何年もかかってようやく到達する心理的な状態でしょう。
どうしてそんな事がいとも簡単におこるのか?
それがラティハンの秘密であり、神秘であります。

まあしかし、今話したいのはそこではありません。
注目すべきは『思考が感覚(Rasa)から切り離されると、』という記述についてです。
ここで言っている『感覚(Rasa)』は五感のことではありません。
もともと五感というのは思考とは別物であります。
そうして思考と五感がくっつくとしたら、それは幻覚の世界でありましょう。
正常な状態とは思えません。

さてそれで、Rasaというのはインドネシア人にはなじみ深い表現なのでしょうが、英語にも日本語にも相当するコトバがなく、仕方なく翻訳者は feeling 感覚と訳しています。<--リンク
そうしてより正確にはRasa Diri 内部感覚という表現になります。
以下上記リンク先より引用します。

『もともとrasaというコトバはネットによれば、[名詞] (インド美学で)味わい,風味,情緒,情感:古典音楽,舞踊,詩などの基本的属性.[語源]1799.<サンスクリット語 rasa 樹液,流動体,本質、、、となっており、diriについては「diri 自分を,自らを,自己,」となります。

そうしますとrasa diriは直訳で「自分の感覚・情感」というところでしょうか。
こうして今では単に「五感ではなく、人が内部で感じる感覚」程度の意味に翻訳されています。

しかしながら、たとえばバパのトークでは以下のように説明されていたりします。
「感情、思考、知力、利巧さ、性格、想像力、観念、野心、欲望などの心の性質と感覚」。
これであると単に五感といわれる外からの刺激を受け取る感覚ではない、「人の内部に存在する感覚」という程度のものではありません。

実際バパの説明によれば、rasa diriは諸力によって、あるいは自分自身の魂(ジワ:Jiwa)によって、知、情、意あるいは思考、感情、欲望が発生する場所であるとされています。
そうして、人として妥当な思考、感情、欲望を持っているかどうかは、rasa diriを満たしている生命力の種類、あるいはレベルによるものとされています。』

そういう訳でここは「内部感覚の中に起こっている思考がオープンによって止まり、思考の影響が内部感覚の中から消えると・・・」という様に理解されます。
こうしてスシラ ブディ ダルマに書かれている文章の意味を理解する、ということはなかなかに骨の折れる、難しい事である、というのが分かるのであります。

さてそうではありますが、そのような難しい込み入った話などはオープンを受けてラティハンを始める事に当たっては、「まあ知っていても損は無い」くらいの話であります。
そのような「知的な理解」にはかかわりなく「全托する事」によってオープンは起こり、ラティハンは始まるのでありました。

追記
feeling を「感覚」と訳している内はいいのですが、「感情」の訳をあてている所が日本語訳で多く見受けられます。
「情感」であればまだましですが、「感情」の訳は違うと思われます。
「感情」はRasa(Feeling)ではなくHati(Heart)の働きでありましょうから。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

以上の内容に関連したカルマKarmaについての記事にはこちらからも入れます。<--リンク

連載「スシラ ブディ ダルマ」にはこちらから入れます。<--リンク


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スシラ ブディ ダルマ・5章 人間力とナフスmutmainah

2018-04-21 | 日記
さて人間力によって発生するナフスはmutmainah(ムトマイナ)であるとバパは言います。

まずはコーランの記載から。
「(善行を積んだ魂に言われるであろう。)おお、安心、大悟している魂よ、」
   [Q 89: 27](“nafs muṭmaʾinna” 該当部分)

スーフィー マスターのナジュムッディーン・クブラー(Najm al-Dīn Kubrā, d. 1220)、彼はナフスを三段階に分け、ルーフとスィッルとを合わせた五段階のラターイフ論を展開するのですがそこでは
「安寧の魂(nafs muṭmaʾinna)」
となります。<--リンク

Wikiより世界標準の7つのナフス(Nafs)によれば、<--リンク
4. ナフス・ムトマインナ     an-nafs al-muṭmaʾinnah 平和の魂

そしてワヤン(Wayang)での4ナフスシステムからは、<--リンク
4、白はムトマイナ mutmainah すなわち、トゥハン(Tuhan:インドネシア伝統の唯一の神)から与えられる全てに対する感謝を象徴する。

あるクバティナン流派での分類では、<--リンク     
第四がムトマイナmutmainahつまり徳への欲望である。

Gumelaring Jagadの第41節・4つのナフスから<--リンク
4.ムトマイナMutmainah、色は白です。
場所は骨の中にあり、扉は鼻の中にあります。
肉体は常に良いことや禁欲的なこと(タパ ブラタ tapa brata)をやりたいと熱望しています。

そうして、最後はあるトークでのバパの説明からは、<--リンク
スクマ(sukma、精妙体)の色      対応するナフス(nafsu)
第四は白                mutma'inah 気づき、平安

そうして、バパは多くのトークでナフス・ムトマイナ nafsu Mutmainahについて語っています。
以下はそこからの引用になります。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

7月20日、1957 バパ
4番目のナフスは霊的な言葉ではムトマイナと呼ばれ、その光は白です。
4番目は降伏するナフス、良いナフスです。
それは良いのですが、その本質はナフスのもので、欲望のものでもあります。
それは、ナフスであり、良い事か正しい事を望む願望です。
人間は、意志と望みを強め、仕事をし、自分が注目することをするために、これらの4つのナフスを持っています。

9月29日1957 バパ
そして4番目はムトマイナmutmainahであり、それは自分が最も賢明であることを望む心の性質です。

8月7日1959 バパ
第四番目はムトマイナmutma'inahであり、ムトマイナはk'esedaranまたは、平和ketenanganでありそれは意識です。
(別訳では・・・
第四番目はムトマイナmutma'inahであり、ムトマイナmutma'inahは、意識(気が付いている事)や平和です。)

12月18日、1959 バパ
第4の生命力は、人に適切に属するものであり、「ジャスマニアJasmaniah」と呼ばれています。
この力が人間の内面に支配されるとき、彼はアラビア語でいう所の「mutmainahムトマイナ」という性格を持ちます。
つまり、彼は人間として行動でき、誠実であり、仲間を喜んで彼を助けることができます。
彼は仲間の人に思いやりを感じます。
ただ彼は依然として、神の存在を信じず、自分への贈り物である知的な力とそれらの卓越性を非常に高く考えています。
そして自分とその賢さのみを信じて、それが自分の神になります。
言い換えれば、彼は自分自身を神とみなし、神があるとは考えません。
彼は自分自身を神とみなし、神によって創造されたと信じることを拒否します。

3月5日1963 バパ
4番目の情熱はジャットミカjatmikaです。
(注:ジャットミカとは礼儀正しく、優雅な状態を表すインドネシア語で形容詞。ここではムトマイナというアラビア語由来のコトバの代わりに使われている模様。)
ジャットミカjatmikaの意味はすべてを受け入れる情熱です。
それはシンプルでいる事であり、奇妙なことを望んでいないことを意味します。

それどころか、あなたは平和になりたいのです。
あなたは平和で意識的な人生を望みます。
あなたはまた、自分の心に平和をもたらす優しい言葉を聞きたい。

あなたは神を崇拝することを覚えておいて、この世のあなたの人生が全能の神によってあなたに与えられたに違いないことを認識しています。
だから、この情熱は以前に言及された3つのものよりも優れています。
なぜなら、それは情熱ですが、それは真実を覚えており、人間が唯一の神を崇拝する絶対的な義務を覚えています。

しかし、あなたにとても良いこの第四の情熱は、あなたの内部感覚にはほとんど影響しません。
というのも、前に述べた3つの情熱が常にそれを追い越して、まずあなたに到達するからです。
(注:ここで言う3つの情熱とはアマラ、アルアマ、スピアである。)

9月13日1963 バパ
第四の願望のインドネシア語はムトマイナmutmainahです。
この願望が人に動機を与えると、それは彼らに優しい性格を持たせ、降伏し、何でも受け入れる [以下録音欠如]。

彼らはまた、全能の神が存在する事を覚えています。
第4の欲望、ムトマイナmutmainahは、人間に忍耐を感じさせ、平和を感じ、受け取る権利があるものを受け入れるために(注)、良い欲望ではあるのでが、それは依然として心と思考によって動かされた欲望であり、人間の中にある低次の諸力によっても操作されるものです。

しかし、この欲望によって人々は良い状態になるでしょう。

というのも彼らは食糧を提供することと、彼らがこの世で彼らの人生のために必要とするものに加えて、神を礼拝し、この人生を超えて人生の継続を理解するための良い道を見つけることが人生における真の責任である事を感じることができるからです。

12月5日1970 バパ
普通の人間の生命力から生じるナフス nafsuはムトマイナmutmainahです。
・・・・・・
あなた方がナフス ムトマイナnafsu mutmainahなしで暮らしていたなら、男性は女性に引き寄せられないと感じ、あるいは女性は男性に引きつけられません。
そしてあなたは、他の人間を世界に誕生させるという生命の働きのなかでの、あなたの役割を果たす事が出来なかったでしょう。

8月23日、1971 バパ
男と女が性的合一することで、ナフス・ムトマイナnafsu Mutmainahがその二人(の中)に現れます。
これは人にふさわしいナフスであり、彼はこの世に生きている最高の生き物であることを認識し理解することができます。
すなわち、あなたを内からもそして外からも囲っている神の贈り物を受け取ることができる人間です。
したがって、ナフス・ムトマイナは、ナフスと呼ばれるが、特に良いものであり、聖なるものです。
それは人間のレベルのナフスであり、ワヤンの伝説ではプンタデワ(Puntadewa)またはウィドゴカンコ(Widjokangko)が所有していました。
・・・・・
前にBapakが言ったように、夫と妻の性的合一は、受けること、あるいはある種のラティハンです。
だから既に結婚している男性は、自分の妻と性的合一にあるときに、生命のラティハンllife latihanを行います。

夫と妻の性的合一の特徴が喜びであると感じたり、受け入れたりしないでください。
それでは正しい方法を見つけることを妨げるでしょう。

夫と妻の組合は、本当にあなたがムトマイナmutmainahと呼ばれるナフスnafsuを持つことを可能にする生命のラティハンllife latihanです。
そしてそのような性的な合一はあなたが行う神の礼拝をたやすくします。

あなたの気持ちは純粋になり、あなたは仲間の人に思いやりと同情を持ちます。
あなたがそのようになることができれば、他の人たちはあなたのために思いやりを持ち、あなたが会うすべての人に愛されるでしょう。

その様な人は世間では非常に尊敬されています。
・・・・・
その理由から、夫と妻の性的合一が満足感の手段であるとは信じてはいけません。
生命を知る方法、それであなたがナフス ムトマインナnafsu mutmainahを持つ事を可能にする方法であると感じてください。

10月13日、1976 バパ
nafsu alwamahナフス アルアマ、amarahアマラ、supiahスピア、mutmainahムトマイナがあります。
ナフス ムトマイナnafsu mutmainahはそれらの中で最高です。
それはナフスと言えるものの、それは自己利益から解放されているからです。
(あまりエゴ的ではない唯一のナフスがムトマイナです。)

8月13日、1977 バパ
私たちが豊かになり、たくさんのお金を儲けても、私たちは貧しい人たちを助けることを覚えています。
私たちは自分自身と同じようには知的ではない人たちを助けることを忘れません。
我々は、仲間の人間のニーズを見据えることを忘れません。
そして、これはナフス ムトマイナnafsu Mutmainahとして知られているものです。
つまり、本当に良いナフスは、社会の残りの部分と調和して生きて、他の人と何かを共有したいと思っています。

4月23日、1981 -バパ
しかし、悔い改めるナフスはナフス・ムトマイナと呼ばれ、正直であるのですが、4つのナフスの中でそれを持つ人はほとんどおらず、そうして使われることはめったにありません。

6月18日1981 バパ
シンプルで誠実なナフスnafsuであり、受け入れる事ができる唯一のものがナフス・ムトマイナnafsu mutmainahです。
どのくらいの人がこのnafsu mutmainahを持っており、あるいはどれくらいの人がそれを受け入れられるか、誰が正直であり、誰がそのようにできるのか、もし彼らが一万ドル持ち、誰かがそれを求めたら、それを与えるのですか?
(そのように出来るのが)ナフス・ムトマイナnafsu mutmainahです。

あなたの周りの誰もがナフス・ムトマイナnafsu mutmainahの影響を受けているなら、それはとても良いことです。

6月9日1985 バパ
それはもうすでに十分難しいのですが、まだ来るものがあります。
なぜなら、ここにはこれらの4つのナフスnafsuがあるのですから。
アマラamarah、アルアマaluamah、スピアsupiah、そうしてムトマイナmutmainahです。

今我々はナフス ムトマイナnafsu mutmainahに来ました。
それはあなたが仲間の人間と常に形成している関係の中に現れます。
あなたが仲間の人間との関係を持たなかったならば、どのようにあなたは国を経営することができ、どのようにあなたの人生をやってゆくことができますか?
それが普通の人間の生命力であるロホ ジャスマニアroh jasmaniahの働きです。

6月24日1985 バパ
ナフスの第4番目の種類はナフス・ムトマイナnafsu mutmainahであり、それは「理解したい」というナフスnafsuです。
物事の理由を理解するのが好きな人は、問題を比較検討します。
「これは正しい方法です」とか、「これは間違った方法です」とか、それは良いとか悪いとか、などなど。
・・・・・
男性と女性。
それから私たちは人間の生命力、ロホ ジャスマニroh jasmaniに来て、それはナフス・ムトマイナnafsu mutmainahを生み出します。
そして、これは、夫と妻の関係、または男と女 - 男性と女性の交流から来るものであり、あるいはそれによって現れるものである。

もう一度、あなた方はそれを取り除こうとすることができます。
しかし、男女間の関係を無視したり横にどかしたりした結果は、あなた方は人類と言うものを作り出す事はないでしょう。
あなたが人間を創造するのはその関係を通っているからです。

しかし、もう一度、あなた方は慎重でなくてはならず、あなた方は良い男性と良い女性を会わせる必要があります。
言い換えると、善良な男性は、適切な、それに相応して良い女性を見つけようと努めるべきです。
それはカップルの中にあるものはすべて共有されるからです。

だから純粋なジワjiwaを持つ男が純粋ではない女性と結婚すれば、彼は彼女の不純物が何であれ半分を得るでしょう。
そして同様に、純粋な女性が純粋でない人と結婚した場合、彼女は彼の中にある何らかの問題やミスの半分を何であっても得る事になります。
それが「一緒になった(結婚した)」と言われたときのことです。
彼らはすべてを共有します。

ここで言われているように、彼の妻は彼について天国に行き、しかし、もし彼が地獄に行くならば、彼女は彼と一緒に引きずり下ろされます。
彼らはお互いにそのようにする以外に選択肢はありません。
従ってパートナーの選択は非常に重要であることは明らかです。

今、あなたが間違った選択をしたと仮定します。
あなたはあなたが仲良くやっていくパートナーを持っていないと仮定すると、あるいはあなたはパートナーが間違っていると感じた時に、だったらあなたはどうしますか?
あなたは神に向かう、変えることができるのは神なので、神は壊れているか適合していないものを改善し、変更し修復することができます。

しかし、人々はこれを理解せず、Subudの人々はオープンされた後、非常に頻繁に彼らはすぐに言うのです。
「オー神よ、私は間違った妻を持っていることが今分かりました。私は行って、正しいものを探す方が良いでしょう。」

彼らは彼らがスタートラインにいる事を理解していない。
そこから彼らは働かなければならない。
彼らは彼らがいる状況を改善しなければなりません。

したがって、男性だけでは不完全であることは明らかです。
完全であるためには、男性には女性が必要であり、または女性には男性が必要です。
しかし、本当に完全であるためには、彼らはまた、子供が必要です。

実際、子供がいないカップルは不完全です。
実際には、自分自身がどのように創造されたかを理解し経験することができるのは子供を持つことによってのみであり、それによって彼らは生命の創造を目の当たりにして経験することができます。(注2

6月25日1985 バパ
そしてナフス・ムトマイナnafsu mutmainahは、人間の「関係を持たなくてはならない」という必要性に基づいており、ひとは彼の仲間の人間との関係を持たなくてはならず、そしてこのナフスnafsuは特に男女の関係に基づいています。

7月2日、1985 - バパ
この世界に住んでいる私たちのために、一番上にあるのがナフス・ムトマイナです。
それは結婚や、人と人の関連において働くようになっています。

12月16日1999 イブ
そして白いものはナフス・ムトマイナNafsu Mutmainahである。

7月12日2001 イブ
白いものは認識したいと思っているので、常に注意を払って行動します。
それは慎重に行動します。

2月28日2002 イブ
白いものは、あなた自身の自己を評価することができるとき、それはあなたがあなたの存在に意識を持っていることを意味します。
白いものはムトマイナmutmainnahと呼ばれています。

3月10日2002 イブ
白いもの、ムトマイナmutma'inahは、自己評価の能力を持っているので、それは人に注意の感覚を与えます。

11月25日2002 イブ
mutma'inahと呼ばれる4番目のものは、自分自身を評価する能力を人々に与えるので、人々がどのようにしたら慎重になれるかを知るようになる。

2月25日2005 イブ
最後の情熱はムトマイナmutmainahです。
それは人間が正しくて何が間違っているのかを判断する事を引き起こします。

だから、これらの欲望をもって、兄弟姉妹の皆さん、あなた方の日常生活を見るにつれて、躊躇したり慎重に感じるかもしれません。
あなたが感じる、私はこれを行うべきかどうか?
これは私のために良い事であるかどうか?
そのようにあなたは賢明に行動し、あなたを危険にさらさない道を選ぶ必要があります。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
上記バパのトークの部分についての英文からの引用は以下を参照願います。
Susila Budhi Dharma・Chapter 5 Human force and nafsu mutmainah<--Link
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
注2
結婚そして性的合一、その結果生まれてくる子供、それらについては通常は意識されない霊的な意味があります。
それらについての詳細な記事にはこちらから入れます。<--リンク
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
PS
二代目はここでも人間力とナフス・ムトマイナの関係については一言もふれません。

したがって、バパがムトマイナの説明で従来の伝統にはない「人と人との関係の必要性の為のムトマイナ」という新たな事柄を加えたのですが、その事については一切の言及がありません。

6月25日1985 バパ
そしてナフス・ムトマイナnafsu mutmainahは、人間の「関係を持たなくてはならない」という必要性に基づいており、ひとは彼の仲間の人間との関係を持たなくてはならず、そしてこのナフスnafsuは特に男女の関係に基づいています。

こうして「二代目の説明はバパの説明のすべてを参照していない」と言う事が分かるのであります。

PS
8月23日、1971年のバパのトークでは
『男と女が性的合一することで、ナフス・ムトマイナnafsu Mutmainahがその二人(の中)に現れます。』
と表現されていますが、単に男女が性交渉をもてばそこにムトマイナが現れる訳ではない事には注意する必要があります。
その表現は、「すでにジャスマニレベルに到達している男女に限られている」と理解するのが妥当であると思われます。

植物力によって生じるナフスはアルアマaluamahですが、このナフスは性欲をもたらします。3月5日1963<--リンク
加えて動物力によるナフスはスピアsupiahですが、このナフスもまた性欲をもたらします。12月5日1970、11月26日1972<--リンク

さてそうすると人が性欲を感じる時、異性を求める時にそこで働いているナフスはアルアマaluamahですか、スピアsupiahですか、それとも望ましい事にムトマイナmutmainahなのでしょうか?
結局はそれが重要な問題、重大なポイントなのであります。

PS
ご参考までに。
Sedulur Papat Limo Pancer(4人兄弟、第5は中心)より引用<--リンク
『ムトマイナ muthmainahの欲望は、良心につながる欲望です。
この欲望は、人体の創始者でもある水の性質によって影響を受けると言われています。』

PS
以上、述べてきた様にムトマイナの欲望には全く良い事だらけで、「なぜこの欲望が人の死に及んで邪魔をするのか?」という様に我々、この地上で暮らす人間には思えてしまいます。
しかしながら、「この地上で暮らす為に与えられた能力、欲望である」という事自体が、この地球暮らしに対する執着心の別の形の表現でもあり、したがって「地球を離れる」と言う事がバパの言う様に「死後の本来の人の在り方である」とするならば、やはり「邪魔をするもの」と言う事になってしまいそうです。
そして、もしその執着心に固執するならば、それがリンカネーションを引き起こすであろう事は想定可能な事であります。


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バパのリンカネーション論(輪廻転生論)/

2017-11-30 | 日記
バパはどうやら輪廻転生、リンカネーションを認めていた様です。

そうしてそれはある特定の人について、たとえばダライ・ラマのような人についてだけ、というものではなく、すべての人に対してのものでした。

そうであればそれはまるでヒンドゥー教や仏教が認識している「生まれ変わり、死に変わりして生命(ジワJiwa:Jiva)が継続してゆく」という教えそのものであります。

さてバパは多くのトークでリンカネーションについて語っておられました。

そして今まではその事はあまり表には出てきていませんでした。

バパがイスラムであったせいか「これほどヒンドゥー教や仏教に近い認識を持つことはあるまい」という先入観があった為かと思われます。

しかしながら、そのような先入観はどうやら間違っていた様です。

そういう訳で、以下、バパのトークから関連する部分を引用します。

引用したトークのリスト
October 8, 1957 - Bapak
November 11, 1957 - Bapak
November 22, 1958 - Bapak
June 30, 1959 - Bapak
August 7, 1959 - Bapak
March 28, 1960 - Bapak
Q&Aの編集 1971 - Bapak
February 3, 1974 - Bapak
October, 16 1977 - Bapak
October 20, 1977 - Bapak
December 11, 1977 - Bapak
Febuary 3, 1980 - Bapak
April 8, 1984 - Bapak
April 21, 1984 - Bapak
July 8, 1984 - Bapak
June 11, 1985 - Bapak
2月27日 2015-Ibu
2月5日 2016 -Ibu
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
October10月8日, 1957 - Bapak
だから、完璧に達した人間は、神の恵み、神の贈り物を受けた人は、死ぬ時に死ぬことはなく、むしろ生きることが始まったと言われています。

あなたが忘れることのない例として、私の子供たちよ、それはキリスト教の中で語られています。
そこではイエス自身が預言者です。
預言者イエスが死ぬことはありませんでしたが、彼は終わりのない生命を生き続けました。
これは単なる例です。
(そしてそれは)バパが言っていることが真実であるかどうかを判断する際に考慮できる点です。

しかし、まだそのレベルに達していない人、またはバパが言っているように、彼らが死んだときに欲望の体(nafsu)を持っている人は、事実を全く理解できません。
その人は死んだことに気付かないでしょう。
これは、そのような人の内部は彼らの起源に戻り、本来の人間のレベル(ロハ二)に戻らないのです。
もともとその人はそのレベル(ロハ二)より下から来たからです。
その結果、彼らの欲望(ナフス)と共に残された人間は、想像していたものの中をさまよい、彼らが地上にいたときに彼らが多く考えた事柄の中でさまよいます。
(注:幽霊といわれる存在になる、とバパは言います。)

それはそうです。
それが、仏教において、生まれ変わり(reincarnation)が事実であると言われている理由です。
確かにそうです。
しかし、それは神への道に迷った人、または完璧への道に迷った人にのみ適用されます。

このため、仏教には以下の教えがあります。
人間はすでに高いレベルに達していれば、その人は輪廻転生から自由になり、この世界から自由になります。
これは、彼ら(仏教徒)が少し前にバパが生命力と呼ぶ精神(ロホ)の本当の性質を理解しようとする理由です。
それは物質的物体、植物、動物、および普通の人間存在に由来するものです。

これらの力についての知識が不足しているため、(真の)人間の魂やそのような高レベルに達していない人の魂は、その魂よりも強い力(注:4つの低次の諸力)が働く場所では簡単に迷うことがあります。
これが生まれ変わりです。
しかし、私たち自身が望むことは、可能な限り、もし神がそれを許せば、 もし神が私たちにこの贈り物をもたらせば - これ(輪廻転生reincarnation)を体験しません。

私たちは真の人間のレベルよりも低い場所に私たちが戻って行かないように神に願います。
言い換えれば、私たちが本当にどこに帰るべきかを知りたいと思っています。
そしてそれは完璧な人間の起源の場所です - 人々が通常それをインカンカミルinsan kamil と呼ぶような、それは完璧な人間、私たちが現在生きているこの世界からは分離している人間を意味します。
私たちは、死後、私たちがこの世に再びではなく、本当のこの世の後の生命を経験することを願っています。
(注:そのような魂のレベルに上昇する為のこの世の生活のやり方、すごし方が重要であるとバパは言います。)

この世界はこの世の後の生命世界ではありません。
このため、人々は通常、天国を語ります。

我々は、人間以下の力(4つの低次の諸力)により圧迫される事なく、そして私たち自身の欲望(ナフス)から自由になった後、これらの天の領域に入ることができます。
そしてこれ(ナフス)は私たちのレベルよりも低いレベルのこれらの力(4つの低次の諸力)との関係を絶えず利用しています。

訓練(ラティハン)では、私たちはどんなものでも、自分たちの欲望や、私たちより下のレベル、そして過去に人間によって創造されたもの、つまり言い換えれば、願望の力によって作られた、「イズム(~主義)」、またはスピリチュアリズム(心霊主義)、またはそのように呼ばれる創作物との関係を持ちません。

これは、これらの欲望が、奇妙な能力を持つ人、他の人の力を上回る力を持つ人と見なされることを可能にすることを除いて、それ以外の目的はなく使い道はないからです。
このようなことの結果として、人は人間以下の力(注:4つの低次の諸力)に強く縛られ、非常に緊密に拘束されるようになります。
最後にそれら(注:4つの低次の諸力)が完全に道を塞ぎ、そうして完全な人間のために準備された天の領域に入ることができなくなります。

そういうものなのです。

November11月11日, 1957 - Bapak
このトレーニング(ラティハンlatihan)はそれとは対照的です。
これは崩壊し、内部から流出するので、あなたは徐々に人間の領域外の状態と接触しそれを知る様になります。
最終的にこの訓練(ラティハン)で、あなたはこの地球の外のものを知ることができます。

もう一方は、バパが言ったように、すべての種類の混乱を内部感覚にもたらします。
バパが似た様な例をあげるとするならば、すべてを自分の中に持っていくことは、あなたの家から物事がどのようになっているのか見る為に(外に)出て行くのではなく、家の中に入って自分を閉じ込めるようなものです。
それで、あなたが知っていることはすべてあなたの家にあります。

それが違いです。
ある日、あなたがそれを受け取ることができれば、あなたは自分自身で知り、この違いに気がつく様になります。
あなたはあなたの家から出て、この地球を包囲する生命の偉大さを知ることができます。
また(その時にはあなたは)この地球を越えるので、あなたは生まれ変わりの対象にはなりません。

私たちは長い間ここにいました。
私たちは疲れています。
それで、もしできるならば、出口を求めています。

もう一つのものは、瞑想の練習(注:バパが体験したもの)、そして自分自身を黙らせることは、本当に外に出る道を探しているのではなく、ホール(穴)への道を探しているのです。
バパが人間の自己(プリバディ)の内部のホールや家を指しているとき、バパは人間の自己(プリバディ)の中にあるものすべてを意味するのです。
人間の下にある諸力は、物質的または悪魔的、野菜または植物の力、動物、そして人間です。
(注:4つの低次の諸力の事)
これらのために、生まれ変わりがあります。

あなたがあなたの家の中だけにいて、後で死ぬと、あなたはここにいるかもしれません。
植物のレベルにいるかもしれませんし、動物レベルにいるかもしれないし、人間のレベルにいるかもしれません。
言い換えれば、ここに戻ってきます。(注:この地球という世界に戻る)
そしてあなたは正しい形ではなく間違った形で戻ってきます。

(しかしながら)あなたが受け取ったものはそうではありません。
それは内部からきれいにしていきます。
もちろん、きれいにする事は家の中に何があるかによって異なります。
すべての種類のものが積み重なっていて、家の中に猫、ねずみ、犬、牛、水牛、花の鉢が並んでいるなら、当然のことながらきれいにするには多大な労力が必要です。

November 22, 1958 - Bapak
人間の内部にある魂の病気をどうやって表現することができますか?
魂は人間の中の内的な内容です。
それは人間が思考し、感じ、行動し、それを行うことを可能にする内容です。
しかし、人間のこの内容が本当に(完成された)人間の魂である、ということは決して確かな事ではありません。

これは、非常に高度なレベルで学んだり、すべての種類の資格や地位を持っているにもかかわらず、少なからずの人たちは、無意識のうちに、人間の行動規範に反して違反する行為を行うのであり、賢明な人ではないという証拠があります。
その理由は、自分たちの存在の内容、すなわち魂は、本当に神への約束を守ることができる(完成された)人間の魂ではないということです。

それは間違った低い魂で満たされています。
彼らの過失のために、彼らの強要され、妨害された行動のために、彼らの存在の中には間違った内容や魂、すなわち(完成された)人間(のレベル)に至っていない魂があります。

これは仏教で言及されています。
それは彼らが生まれ変わりと呼ぶものです。
つまり、人間の魂にはレベルがあり、人間の状態がまだ完全ではない場合、彼はおそらく上昇することはできず、また生まれ変わります。

ですから、これは重要なことですが、私たちを再び生まれ変わらせるブロックは取り除かなければなりませんが・・・(聞き取れない)・・・この世のものよりも万能です。

さて、なぜイスラム教とキリスト教には、生まれ変わりのようなものはないのでしょうか?
その理由は、キリスト教とイスラムという名前が「完全な人間の状態」を意味するからです。

しかしながら、これらの宗教に従う人々はまだ(完全な人間ではありません)。
したがって、宗教は本当に生まれ変わりを好みませんが、かといってその信者は自分の宗教が必要とするものを常に完全に行う、と言う事ができている訳ではありません。
(注:つまり死に臨んで輪廻の輪から逃れられるかどうかは定かではない、、、と言う事になります。)

June6月30日, 1959 - Bapak
物質から人間まで - レベル1から4まで - 私たちは、思考の心、私たちの感情心、そして欲望を静めることによって、これらの4つの力を実際に見極めることが可能です。
これらの力は依然として人間の意志と結びついているからです。
だから、人々がまだ感情心と頭脳の力を利用している限り、彼らは元に戻って再び人間になる必要があると言われています。

これについてはあなたが読んでいるかもしれないのですが、生まれ変わりと呼ばれるものです。

しかし、あなたが神によって祝福され、より高いレベル(普通の人間より高貴な第5レベル)に上がることができるなら、あなたはこの世界に戻って再び人間になることを望まないでしょう。

実際には、人間は皆、あなた方もそうですが、満足感を持っていません。
あなた方に触れるすべてのものの影響を受けるからです。
たとえば、あなた方は寒さの影響を受け、冷たいものによって影響を受けます。
熱によって、熱いものによって、あなた方はこれとその影響を受けます。
あなた方はまだこれとそれに苦しんでいます。

August8月7日, 1959 - Bapak
物質力からロハ二まで、それらが働いた時に、それらが影響を内部感覚に与えた時にどのようになるかを感じ取る。
その世界に引き込まれた時にどうなるかを前もって知る事ができる。

このような仕方で私たちは、これらの力のそれぞれの世界に住むこと、その世界に滞在する事は、どの程度に心地よいかという真実を感じ、知る事ができます。
またこのような仕方で、あなた方はそのうちのどれが他のものと比べて、自分にとってより心地よく幸せであるかを間違いなく選ぶ事ができるでしょう。
ですからじぶんでは気がつかない内にある物体に、ある植物に、ある動物に、またはある人間に強制的に生まれ変わらせられるということにはならないでしょう。
その代りにあなた方は人々が完成した人間の世界と呼んでいる、あの祝福された世界(ロハ二)に帰還する事ができるでしょう。
(注:ロハ二の力を感じ取るには、その人がすでにロハ二 レベルに到達している事が前提となります。)

March3月28日, 1960 - Bapak
すべてがきれいで良ければその場合のみ、私たちはロハニ精神(ロハニ スピリット)を見つけることができます。
その場合のみこの精神が私たちの内部感覚に現れ、私たちがまだこの世にいる間に、我々は実際に私たちの人生がどのようであるのか、この世界についてだけでなく、死後に私たちの人生がどのようになるのかを体験することができます。

だから、一般的な人々の場合、あなた方の様に、まだ清潔ではなく、依然として欲望、感情心、思考心によって非常に支配されている場合は、ロハニの力を受け取り、感じることは本当に非常に難しい。

あなたがまだ低次の諸力、すなわち物質的、植物的、動物的、身体的な人間の力の影響を受けている限り、あなたが死ぬときにあなたは上ることができなくなります。
あなたが死ぬと、あなたが上ることは不可能です。
あなたはまだここに戻らなければなりません。

そしてここに戻ってきたら、あなたが人間として戻ってくることは確かではありません。
たとえばあなたは物質的な物体、植物、動物として戻ってくるかもしれません。

だからこそ、ここ(カルカッタ:インド)や他の場所で、動物は特別な扱いを受け、聖なるものとみなされます。
登ることができず、この地球に戻って動物の体に入った人の精神によって動物が占領された可能性があるからです。
これは通常、生まれ変わりと呼ばれるものです。

多くの人がいます 。
バパは彼らを非難しているわけではありませんが、まだ石を崇拝する人がたくさんいます。
彼らは自分の想像力で石を描き、それらのことを考え、自分たちよりも高いと考えます。
それで彼らは石を礼拝する。
それはそれらの(崇拝対象となっている石の)祝福、恵み、恩恵、祈りを求めることを意味します。

これはなぜですか?
登ることができない人が石の中、物質的な物の中に戻ってきたことが本当に起こったからです。
その石にはある種の力があります。
しかし誰が石を強力にするのですか?
かなり単純に(言えば)、人々自身です。
特に偶像(石や金属、木材でできた聖なる者の像)の場合。
毎晩あなたはそれの前に自分自身を伏せ、花と香を置く。
毎晩あなたが眠りにつく前に、あなたはこれらのことを行い、結局それはあなた自身よりも強力になります。
・・・・・
それが、宗教において、神が使徒たちに、人々がそのように行動すべきではないという指示を授けた理由です。
彼らは人間としての自分自身のことにもっと注意を払うべきだということです。
人間の生死は自分の体の中にあります。

だから、あなたの体を外側から内側に、内側から外側に向けて見ないと、あなたの自己(プリバディ)は、人間の目にも、神の力の前にも、何の価値もありません。
だから、私たちの内部感覚の観点からすれば、この人体はまったく役に立たないという事になります。

そして、この世界において、物質的なもの、植物、動物、そして人々自身の身体的な生命力よりも賢明で、より能力があり、より知性的なこのような完璧なからだ持つ神の創造物という人間存在を作り出した意味がなくなります。
これらが、なぜこの世界の一部の人々の生活が暗くなっているのかの理由、そしてなぜ彼らがこの世で生きて幸せになるかについて、彼らが失敗しているのかの理由です。

実際、人間は知性と良心を持つ存在としてこの世界に創造されてきましたが、これは私たちがより多くのことを成し遂げることができ、他の存在よりも崇高な性格を持つことができるということを意味します。
他の存在とは、すなわち、物質的な対象物、植物および動物の事です。


Q&Aの編集 1971 - Bapak
A Compilation
生まれ変わりとラティハン

バパはあなたがラティハンで受け取ったような経験が実際に協会に存在することを確認します。
インドネシアや海外の多くの兄弟も同様の経験をしています。
これは我々のラティハンが非常に幅広く、すべてが自分の本性と合致することで満たすことができるからです。

あなたがすでに知っているように、ラティハンでは我々は、全能の神の力によって動かされます。
そしてラティハンの本質は、粗い部分から細かい部分へ、それからジワまで、全体を生き生きとさせることです。
それは最も低い位置から始めて最も高い位置に達します。
これは、私たちの体、粗い部分と微細な部分の両方が良好になることができるように、また私たちの欠点のために(本来あるべき位置から)陥落したジワdjiwaの為にも必要です。

私たちの生命の発展から、上記のように神から進んで、私たちは自動的に完成に向かって自分自身の変化と改善を体験します。

例えば、私たちがラティハンの中で受けたのは、以前は私たちが王、司祭、非常に豊かな人などとして住んでいたことがあれば、 あるいは以前は象、牛、蛇、虎、猿など動物としても生きていたと言う事です。
これらのすべては、私たちの内面的な性質が完璧な状態に改善できるように、きれいにされ、修理される必要があります。
そして最終的には私たちは過去の様に(昔生きた姿で)再び生きる必要はありません。

生まれ変わりについて教える宗教的な社会がありますが、生まれ変わりは実際には段階に過ぎません。
なぜなら、それは言われているように、もし人が美徳の段階にまで達したなら、彼は全能の神によって必要とされない限り、人として再び生まれ変わらないでしょう。

このすべてから、転生の問題は協会のラティハンに存在するが、以下の違いがあることは明らかです。
協会での生まれ変わりは、人間の生命過程であり、人間の欲望ではなく、神の力の働きで行われます。
それで、私たちは自分自身で簡単に浄化と改善を体験することができます

これの証拠はすでにラティハンで与えられている。
(ラティハンの中で)多くの兄弟たちが司祭、富豪、有名な男、貧しい男性、愚かな男性などとして自分自身を表している。
そして野生動物であったり、飼い慣らされている動物として(自分自身を)表している人たちもごく少数ではありません。

これらはすべて霊的な経験であり、本当に浄化される必要があります。
そして最終的には完璧な状態に達することができます。
それはすべて私達が今受け取ったラティハンに関連して目撃するかもしれない生まれ変わりの主題に関するものです。

したがって、あなたがこの問題のあなたの経験を(他の人に)説明したいのであれば、そうして下さい。
但し、それらが経験のみで構成されていることが明らかにされている場合に限ります。


February2月3日, 1974 - Bapak
古代史では、化身(incarnated)と呼ばれるものがこれに似ています。
しかし協会では、化身は固定的な確実性ではありません。
いいえ。この化身は現実に存在する必要がある種類のものではありません。
したがって、化身の性質は落ちる可能性があり、上昇する可能性もあります。
何故ですか?
この種の化身は自分のカルマによって引き起こされるからです。

(他方で)ラティハンでは、それはカルマのためではなく、自分の欠点のためだと(主張します)。
(通常の状態では人は)人を覆っているもの(ナフスnafsu)から分離して受け取り、感じることは決してできません。

October,10月16日 1977 - Bapak
たとえば、ブッダ。
仏教では天国に行く人の事は誰も聞いていません。
あなたはブッダが天国に行くという事は聞きません。
仏教で経験していることは、あなたがこの世界に再び帰ってくることです。(注1)
これはまた、生まれ変わりとも呼ばれるものです。

したがって、アンワスと感情心と思考心と自分自身の力を使いたい人が達成したことは、常にこの世界に限られていることは明らかです。(注2)

しかし、アンワルの子孫はまったく異なっています。(注2)
なぜなら、彼らは全能の神の意志によって本当に天国に行くことができたからです。
そして天は想像上のものではなく、彼らが体験できる本当の天国でした。

例えば、イエス・キリストです。
3日後に十字架につけられた時、彼は大きな輝きと大きな光を経験しました。
これには誰もが見ることができる出来事が伴いました。
地球が揺れ、激しい嵐が起きたのです。

October 20, 1977 - Bapak
神を礼拝する際に彼らの感情心と思考心を使って得たものは本物ではなく真実ではありませんが、逆にそれは人間の内部自我に損害を与え、人間は悪魔の世界に失われます。
そしてそれは物質的な生命力の世界です。

これはそういうことなので、兄弟姉妹の皆さん、バパはあなた方にそのような影響が及ばないようにあなた方に思い出させるだけです。
これらは物質的な影響、物質的な力の影響です。

それが仏教徒が生まれ変わることを望む理由です。
彼らはまだこの世界に戻ることを望み、そうして彼らは、彼らが望むすべてを持っている人のような、豊かな人のような、権力を持つ優れた人々として戻ってくることができます。(注3)

December12月11日, 1977 - Bapak
私たちのラティハンは、この世に存在するものを超えて、この世界を超えてあるものを目指しているものです。

ラティハンでは、感情心と思考心がこの世界に限られており、それを超えて行くことができないため、私たちは感情心と思考心の不活性化を経験します。

バパがあなたに説明したサン ヒヤン シスSang Hyang Sisと同じように - 彼は自分が望むものを得たにもかかわらず、そして非常にすばらしい、非常に強力で非常に輝かしいものになったが、それはすべてこの物質世界の中のものでした。(注2)

これが彼の足跡と彼の方法に従う人、サン ヒャン シスに従う人が常に生まれ変わりを必要とする理由です。(注5)
彼らはいつもこの世に戻ってくる必要があります。

これは、例えばチベットで新しいリーダー、新しい王または新大祭司、あるいはダライラマと呼ばれる方を探しているとき、彼らはいつも最後のダライ・ラマが亡くなったその時刻に正確に生まれた赤ちゃんを見つけようとするのです。
そうやって、ダライラマの精神や魂の生まれ変わりの果実を得ることができるのです。(注6)

これが私たちが受け取ったものとの違いです。

それはもちろん、インドでも同じです。
彼らは、人々は常に良い人生を送るべきだと常にアドバイスしています。
彼らはこの世で禁欲主義と自己否定を練習し、夜には断食と祈りと覚醒を続け、本当に「ミカMika」である人になるかもしれません。(注4)
ミカになった人は死んだ時に、この世界を離れることができます。

しかしそれらが意味することは、彼らがこの世界に戻ったときに彼らが行く場所を選ぶことができるという立場にあるということです。
彼らは自由に選ぶことができます。
だから次回は、この世では非常に裕福になるか、非常に成功する、あるいは非常に高い地位になる、あるいは多分王になることが運命づけられているような、赤ちゃんや胚、あるいは彼らが見ることができるものならなんでも、そういうものを選びます。(注4)

しかし、当然のことながら、今日は多くの王がいないので、大統領になるか、そういうような人になるだろう。
だから、いつも生まれ変わりに頼ってこの世に戻ってきます。

例えばイスラム教やキリスト教、あるいは他の宗教では、それはまったく異なっています。
生まれ変わりはありません。
イスラムは生命を意味します。
私たちが知っている宗教は、イスラム教やキリスト教のように、生命を意味します。
(注:ここでバパが言っている宗教とは、アブラハムの宗教と言われている系列のものの様です。)

つまり、理論的には(そういう事になっています)。
宗教は永遠の命ですが、そしてそれはまだ実践されていますが、多くの人々はそれを実践する方法を知らないのです。
彼らは理論にとどまるだけで、バパが今説明したように、彼らはまだ普通のやり方で物事を実践しています。
(注:ここは「それぞれの宗教に従う多くの人たちには、しかしながら現実が伴っていない」という主張になっています。)
・・・・・
それは、神の力が実際には「感覚ラサrasa」であることを思い起こさせることです。
「感覚ラサrasa」の中に、あるいは「感覚ラサrasa」を通じての感覚フィーリングです。
そして、これは今私たちが全能の神の恵みによって受けたものです。
つまり、このラティハン・クジワワンで神の意志によって神の力との接触を受けました。

そして、この目的は、神の力との接触を感じることができること、私たちがジワjiwaの生命を感じること、つまりこの世界でまだ生きている内に感情心と思考心の影響から解放された生命の振動を感じることです。
なぜでしょうか?
その目的は、この世界での私たちの人生に対するこのような理解をジワに移すことができるということです。
その結果、私たちが死ぬ時、感情心と思考心がもはやそこになくなる時に、ジワが奇妙に感じることはありません。

(注:人が生きてきた記憶をジワに転写し保持できる、つまり死後も個性が保存される、という主張です。)

それは(ジワが)この世界での経験やその人生の現実を得ているので、(死に臨んでも)私たちは依然として意識を持ち、気が付いている事ができます。
(注:通常の場合は人は死に臨んだ時に、無意識に落ち込むか、あるいは意識がなくなります。)

Febuary2月3日, 1980 - Bapak
しかし、人々が夢を見て努力して達成することは、これらはイスティジラットistijratです。
したがって、人々が超自然的な力を身につけ、不死身になることそれはイスティジラットistijratです。

彼らが死ぬと、これらの人々は次の世に行くことができません。
彼らはそれをすることはできません。
そのような人々はこの世界に属します。
彼らが生まれ変わったのはそのためです。

したがって、バパの場合、バパの受けた事によると、バパは死んだときに生まれ変わることはありませんが、(生命は)継続します。
・・・・・
神の意志であり、神があなたを導いているなら、起きているか眠っているかを問わず、あなたがしているすべてのことにおいて、すべてのあなたの活動、すべての行動において、あなたは全能の神の導きと指導を感じるでしょう。
あなたは、神の力が本当にあなたを内側と外側の両方で囲んでいるという証拠を得るでしょう。

人々が通常は「人生の危機」とみなす死は、そのような人々にとってはそう感じることはありません。
そのような人々とは唯一全能の神からワヒュー(wahyu:恩沢)を受け取った人々です。
死後の世界は、すでにこの世界と一つになっているので、それらの間には何も立っていないでしょう。
(注:死後の世界とこの世はひとつづきである、障害物はない、という主張です。)

April4月8日, 1984 - Bapak
宗教では、絶望する人は醜い、罪深い、神を信じない人とされるために、人間は絶望することが許されていないとすでに説明されています。

例えば、彼はこれを探してそれを見つけることができない、彼はそれを探してそれを得ることができない、彼はこれで働きたい、そして彼はできない、彼はそれで働きたい、そして彼はできない。

だから彼は言う。
「私はもう死ぬかもしれません。なぜなら人が言うように、あなたが死ぬとそれが終わり、私たちの人生の話の終わりだからです。」

全く違います!
イエスは自分自身でこう言いました。
「死は生命の継続です。」
だから、死は終わりではなく、生命は続くということは明らかです。

問題は、どの道にそれが行くのか?です。
それは後ろ向きに行くのか、それとも先へ進むのでしょうか?
それは上向きになっていますか、それとも下向きになっていますか?

これも仏教において説明されており、それは「生まれ変わり」と呼ばれています。
(他方で)イスラム教にはそのようなものはありません。
イスラムは生まれ変わりを望んでいない、彼らはもし可能ならばそれを避けたがっています。

しかし、イスラム教徒がバパがちょうど述べたように、彼らは同じ宗教で同じ人種であるにもかかわらず、お互いを殺し合っているのであれば、誰が最後に彼らを上げることができるでしょうか?
そこには、そのような人々のための余地はありません。
地獄は天と呼ばれるものに比べて小さいが、それでも多くのものを含むことができるほどの大きさはあります。

だから悪い人、醜い人、貧しい人は金持ち、知的な人、学部長である人よりもずっと多いということは大事です。
それが神の定めです。
それにもかかわらず、兄弟姉妹の皆さん、神は人にそのような運命を離れさせることを可能にします。
あなたが神の助けを受けるならば、その場合のみあなたがそうすることができるということを忘れないでください。

April4月21日, 1984 - Bapak
私たちは裸で生まれました。
後で私たちが死ぬ時、私たちが帰る時、再び裸になるでしょう。
そして、私たちがこの世界を離れるとき、私たちは何も持っていけません。
それでも、オランダの諺にあるように、死はまさに人生の継続です。

それは私たちが間違いを見て死ぬ時にそうなります。
私たちは物質にこだわって、野菜にこだわって、動物、人間につかまった。
なぜ私たちは物事に取りつかれ、食事をしたり、他の人との関係につまずきましたか?
人生に付随すると思われるまさにその力(4つの低次の諸力)を避けることによって得る結果は強みではなく弱みです。
意図した通りこれらの力(4つの低次の諸力)よりも上に上がるのではなく、(死後に)それらの下に落ちます。
(注:この部分はバパの禁欲主義的な修行方法への批判になっています。)

そしてそれは、兄弟姉妹の皆さん、私たちの間違いの結果として、生まれ変わりと呼ばれるものが起こるのです。
(注:これがバパの生まれ変わりに対する結論の様に見えます。)

化身(incarnated:肉体化)とは、インドで起こると言われているものを意味しています。(注9
インドでは、人間の魂を持つ牛がいると言います。
彼らはそこに「その牛は人間の魂を持っている」と言っています。
しかし、人間の魂が牛だけに生息するだけではありません。
木はまたその中にそのような魂を持つことができます。
物質的な物も(魂を持ちうる)。
これはインドに関連するものです。

それはアラジンAladdinの(魔法の)ランプの物語のようなものです - ランプをこする人は悪魔の住居に吸い込まれます。
なぜ?
人間自身の間違いのために。

なぜこれはすべて起こるのですか?
思考、感情心、思考心を間違った方法で使っているからです。
これが、バパがあなたにある事を伝えたい理由です。
バパが最近ジャカルタ外のメンバーに言ったことですが、ここ(チランダ)でも繰り返す価値があります。
少なくとも、他の人を傷つけたり傷つける心や意欲を持たないでください。
復讐感や憎しみをはるかに少ないように。
これは絶対に許可されていません。

神聖なコーランの詩では、それは言われています。
イスラムの人は、別のイスラム教徒に対して嫌悪感や復讐感を感じてはいけません。
恨みの気持ち、恨みの抱きしめ、復讐の意志は、その気持ちを持っている人が、復讐する人、場所、物に、つまり、彼が憤慨しているまさにそのような人へと肉体化(incarnated)されることを意味します。
これが現実です。

あなたが男であり、あなたが結婚していて、あなたの妻が妊娠して子供を運んでいる場合、あなたが誰かを憎むようになったら、あなたに生まれる子供は、あなたが嫌う人のようになります。
はい。あなたが軽蔑する人が知的で親切で美しいものであっても、(あなたが持つ子供は)知的ではなく、親切ではなく、善良でもありません。

そのように登録されます。
そしてこれ(間違い)はすべて人間自身が作り上げたものです。

July7月8日, 1984 - Bapak
この世においては、我々は尚、食物を必要とし、人々が私たちを好まない場合にはそれが気にさわります。
私たちは尚、自分たちが何かを作り、人々がそれをけなしたならば腹が立ちます。
何故ならば、私たちは尚、この世にあるものと結び付けられているからです。
そして若しも、私たちがずっとそういう風に結び付けられたままでいれば、最後には古代のジャワ人のようにバパが前にも話したような存在となってしまうでしょう。
つまり、彼等は尚もこの世に住んでいます。
彼等は尚ここに居てそして働いています。
(注:通常、我々が幽霊と呼ぶ存在の事)
何故なら、この世に存在するものとの結び付きの故であります。
これが生まれ変わり、或は、転生と言われているものです。
これが輪廻転生へと人々を導くものです。  

イスラムにおいては人々は輪廻を好みません。
彼等はそれを好まないのです。
けれどもしかし、 どうしたらそれを脱することができるかを理解していません。
問題なのは、殆どの宗教が尚、フアンタジーであるということです。
というよりは人々の宗教に対する信仰が尚、フアンタジーの領域にあるということです。  

丁度、それは回教徒がこう言っている場合のようなものです。
あなた方は一日の断食が明ける時にナツメヤシを食べますが、その度ごとに、つまり、あなた方がより沢山、そうやってナツメヤシを食べる度に、そのナツメヤシは来世に植えられて、そしてあなたは天国に行けるのですよと。
そして、あなたは自分が断食をして、その断食明けに食べたナツメヤシの数だけ、天国でナツメヤシの木を持つことになるでしょう。
ですから、できるだけ多くのナツメヤシを食べなさいと、こういう風に言います。

人々は勿論、この話は単にアラビヤの輸出を推進するためのものであることを知らないのです。
そしてこれは、単にイスラムを広めた人々の関心事であって、宗教とは何の関係もないことを知りません。

June6月11日, 1985 - Bapak
ラティハンの性質は、私たちの起源を示すことです。
私たちがどこから来たのか、私たちの祖先はどこか、私たちの内的な内容はどこにあるのかを示すことです。
象や牛、ヤギなどが何であれ、そういうものが私たちの中にいるかどうかがわかります。
これらはすべて本当のものです。
そして象やヤギのようなものなら、少なくともあなたはそれを見ることができるので、それはそれでいいのですが。
しかし仮に、あなた方が 一匹の蚊であるとしたら、あなたの経験の中には実体らしいものが何もないということになります。
ですから皆さん、あなた方が一つの階段から次の階段へ、物質から植物へ、そして動物へ、そして人間へと行くということ、つまり、生まれ変わりがあるというのは本当に真実のことなのです。

そこで、次のようなことが重要だということになります。  
さて、あなたは今人間のレベルにいる。
少なくとも後戻りして、牛やら山羊やらにならないようにしなさい。
仮に前に進むことができないにしても、少なくとも今あるままに留まるように努めなさい、ということです。(注7)

2月27日 2015-Ibu
まあ、それは起こる。
彼は影響を受ける傾向があります。
彼の祖先は彼に影響を与えます。

実際、協会では、生まれ変わりは適用されません。
しかし、まだ(神によって)受け入れられていない霊があります。
ほとんどの場合、誰かが協会にいる場合、浄化は十分です。
彼らは再び生きる必要はなく、また戻ってくることもありません。(注8)

2月5日 2016 -Ibu
「協会にはいっていれば、私たちはみな天国へ行くだろう」などと言わないで下さい。
なぜあなた方はそのように考えるのですか?

「バパが私たちをそこへ連れて行ってくれるでしょう」
そんなことはありえません。
バパはあなた方を天国へ連れて行くことはできません。
あなた方各人がその努力をしなくてはならないのです。
バパは単に方法を提供しました。
バパはあなた方をおんぶして天国に連れて行くつもりはありません。
あなた方は自分で努力する必要があるのです。
(注:これがラティハンと宗教でいう所の「神との契約」との違いになります。)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
上記バパのトークの部分についての英文トークからの引用は以下を参照願います。
・Bapak's Theory of Reincarnation Part 1<--Link
・Bapak's Theory of Reincarnation Part 2<--Link
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
注1
仏陀は天国にはいかなかったかもしれませんが、転生はしませんでした。
輪廻からの解脱者としてmokṣa(モークシャ)あるいはニルヴァーナ(梵: nirvāṇa, 涅槃)に上ったと言われています。<--リンク

そうしてこれが良く知られているように、仏教の目指す所であります。
仏教ではバパが言うように「良い暮らしをするために現世に戻るのが目的」とは言っていない様です。

注2
アンワス、アンワル、サン ヒャン シスSang Hyang Sisについてはこちらの記事を参照ねがいます。<--リンク

注3
仏教ではこの世を「苦」とみます。
そうして、この世からの離脱、輪廻転生からの離脱を希望するのです。<--リンク

そうであればどのような理由をもってバパは「仏教徒は現世に戻りたがる」と言うのでありましょう?
そのような主張をするバパについては理解に苦しむものであります。

注4
ミカ(Mika)については探しましたが、分かりませんでした。
現時点では詳細が不明なコトバです。

加えて「インドでも、アンワスの道は行きわたっています。」というのがヒンドゥー教の事をさすのであれば、「良い暮らしをする為に現世に戻りたがる」という指摘は誤解でありましょう。
ヒンドゥー教の生まれ変わりについてのスタンスはこちらの記事を参照願います。<--リンク

その記事にあるように『輪廻転生からの解放を達成し、ブラフマンの不滅の世界に入り、彼らが最高自己Supreme Selfとの統一の状態で永遠に解放される』のが目的である事が分かります。

注5
ここでバパは仏教やヒンドゥー教がサン ヒャン シスと呼ばれる事になったアダムの孫にあたるアンワスが起源である、というジャワの伝説、あるいは神話をもとにした話をされています。
しかしながらそれはジャワにイスラムを広めるために作られた話の様であります。

この件、内容詳細につきましては注2のリンク先の記事を参照願います。
(但し、バパはアンワスといいますが、多くの記録ではアンワルがサン ヒャン シスになったとしています。)

注6
ここの文脈ではダライ・ラマが「サン ヒャン シスの道に従う人」で「権力を持つ優れた人々として戻ってきている人」の例の様に扱われています。
さて、この指摘は本当でありましょうか?

ダライ・ラマの「輪廻転生制度」については以下の様にHPで説明されています。

・14世ダライ・ラマ法王発見の経緯と輪廻転生制度<--リンク

あるいは、次の様な記事もあります。
ダライ・ラマ14世「私でダライ・ラマ制度は終わりにしたい」<--リンク

転生を繰り返すダライ・ラマをHPが主張するような「菩薩行」とみるか「今の地位を求めて常に現世に戻りたがる人,良い暮らしを求めて転生する人」と見るかは、読者の判断にお任せしたいと思います。


他方で、チベット仏教では仏教徒は現世に戻りたがっているのでしょうか?
チベット仏教で特徴的な「死者の書」からその様子が伺われます。<--リンク

そこから分かるのは、やはり「輪廻からの解脱をめざいている」という事でありましょう。
そうしてこれは個人的な認識ではありますが「解脱ができないならば、せめてまた人に生まれ変わること。」がチベット仏教では次に希望されている事であると理解しています。

注7
ここでのバパの立場は「輪廻転生から離脱出来ないのであれば、せめて人として転生するようにしなさい」というものであります。
これはリンカネーションを認めるバパでありますれば、当然そのようなアドバイスになるかと思われます
そうしてまた、このスタンスはまったくチベット仏教徒のスタンスと同じであるようにも見えます。

注8
『ほとんどの場合、誰かが協会にいる場合、浄化は十分です。
彼らは再び生きる必要はなく、また戻ってくることもありません。』

ここでは2代目は「8割~9割がたの会員は輪廻を離れる」と主張されているように見えます。
そうして、「輪廻を離れるのはロハ二に到達した会員だけ」とするバパの説明からすれば、我々の協会の8割の人はロハ二レベルだと言う事になります。
しかしながら、そのような事はどうやら現実ではない様です。
とするとこれは会員へのリップサービスかな、とも思ってしまうのでありました。

注9
ネパールでの化身(incarnated:肉体化)の例です。
ご参考までに。
・生き神「クマリ」に選ばれた3歳児、儀式経て任命 ネパール<--リンク

まとめ

バパがトークで「Tuhan Yang Maha Esa」(唯一の神)と言います。<--リンク
それを英訳者が「God Almighty」と英訳します。
そうして和訳が「唯一全能の神」となります。

バパは「イスラムだ」といます。
我々はそれを「バパは(オーソドックスな)イスラムだ」と理解します。
しかし実態はバパのイスラムはジャワ・イスラム(ジャワ伝統的イスラム)です。<--リンク

バパがアダムの話をします。
我々は「バパは旧約のアダムの話をしている」と理解します。
しかし実態はバパはイスラムでのアダム、そうしてジャワにある伝説・神話としてのアダムの話をしているのでした。<--リンク

さて、そういう訳で我々は「イスラムであるバパが仏教やヒンドゥー教が言っているような輪廻転生を認めるはずがない。」と自分たちで勝手に判断します。
しかしながら実はバパは輪廻転生を認めており、多くのトークでその事を語っていました。

論点整理(バパが言った事)

・輪廻転生は存在する。
・全ての人は輪廻の輪の中にいる。
・カルマによる転生(化身?)もある。
・バパは「人は自分の間違いによって転生する。」と主張している。
(注:間違いとは・・・地球上で使う力のみしか知らず、その結果、自分を地球と強く結びつけてしまう事)
・いままで積み重ねてきた間違い(カルマ)はラティハンによってきれいにできる。
(注:但し我々がラティハンによる浄化の邪魔をしない、という条件がつく。<--リンク)
・ラティハンによってロハ二 レベルまで到達すれば輪廻から離れる。

・四つの低次の諸力は地球上のみに限定されている。
・したがってそれらを主に使った修行方法では地球を離れる事は(輪廻を離れる事は)できない。
・サン ヒャン シスというのはそのような道の象徴である。

・仏教徒、ヒンドゥー教徒は輪廻からの解脱を目的とせず、常に良い暮らしのできる人間に転生する事が目的である。
(注:これはバパの誤解であると思われる。)

・四つの低次の諸力しか知らず、それだけを使い、人生を過ごした人が輪廻から離れる事はない。

・イスラム、あるいはキリスト教、あるいはそれ以外のアブラハムの宗教は輪廻転生を好まない。
・しかしながら、それらの宗教に従う人たちはどのようにしたら輪廻から離れられるのかをしらない。
(注:したがってそれらの宗教に所属している人たちが輪廻を脱するかどうかは確実ではない。)

PS
こうしてバパの中では「唯一の神」という存在と「輪廻転生」という事柄が何の矛盾もなく共存しているのであります。

そうして実際にそれは、我々の常識的な考え方、あるいは広くよく知られている考え方とは違いますが、それにも関わらず、この二つのものが同時に存在する事はできない、とするような合理的な、あるいは妥当な理由はどこにも見当たらない様に思われます。


さて、ラティハンは性別、人種、思想、宗教を差別しません。
そうであればその先にある「天の領域」もまたそうでありましょう。

バパはそこをロハ二 レベル以上のジワ(魂)の行く先としました。
そうして人々はいろいろな名前でそこを呼びます。

いわく、天国、ロハ二のジワの天の住み家、輪廻から離れた魂(ジワ)の行く先、mokṣa(モークシャ)、ニルヴァーナ(梵: nirvāṇa, 涅槃)等々。

バパが言うように、ジワが永遠のものであり、なおかつジワが輪廻転生をするのであれば、その輪廻を離れたジワが行く先も一つでありましょう。

そうして、その行く先の名前について言いあらそってみた所で、得るものはないもない様に思われます。


そうしてラティハンというものは人間のカルマを浄化し消滅させることにより、輪廻から離れる事を可能にするような、具体的で自然な、そうして強力な手段、方法であると見なす事ができそうです。

少々補足すれば「具体的である」というのは人間の想像力や集中力を使って人が何かを作り出す、何かを達成する、という必要はなく、ラティハンそのものが実体的であり人に求められる事は「それを受け取る」と言う事だけである、という意味になります。

「自然である」と言う意味は、ラティハンが本来の自分を目指すものであって、自分と違うものになる事を目指していない、という意味になります。

そうして「自然でありながら強力である」と言う事は、ラティハンが目指している方向、ラティハンがもたらしてくれる浄化の方向を自分が進むべき方向である、として認め「その方向でよし」とするならば、ラティハンは最終的にはその人を解放にまで導くほどに強いものである、という意味になります。

しかしながら、「いいやその方向は違う」といって自分の現状の姿を「是」とするならば、ラティハンが浄化したものを、また自分で元に戻すならば、そこで浄化は足踏み状態となり、ラティハンがそれ以上の浄化を強制的に行う、ということはないという事になります。(注10

つまりラティハンの道行きの中では「人の自由意思は尊重される」ということであり、一切の強制力は働きません。


余談になりますが、この事はこの世の成り立ちに深く関係している様にみえます。

つまり、輪廻転生というものはつまるところ自己責任での転生を認める、という世界構造であり、その大前提は「人の自由意思は尊重される」という事であると思われます。

注10
もちろん我々が感情心や思考心、あるいは通常ペルソナと呼ばれているような自我によって欲望される、あるいは希望されるような方向にラティハンの浄化の方向を導くという様な事は基本的に不可能です。
それゆえにラティハンの浄化、あるいは進歩を早めようとして、「よかれ」と思って我々が能動的に行う「すべての修行行為」は無駄であり、それどころかラティハンの邪魔をする、という結果に終わってしまうであろうとバパは言うのであります。
(但しこの内容は、ラティハンと切り離して行う、ラティハンの浄化や進歩とは関係を持たずそのような意図を持たない、精神的なあるいは身体的な練習、訓練、エクササイズの実習を妨げるものではないと思われます。)

PS
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ジワJiwaとスクマSukmaの物語(その2・インド哲学、ヒンドゥー教各派での扱い)//

2017-08-30 | 日記
以下「ジワJiwaとスクマSukmaの物語(その1・バパと二代目の認識)」から再掲示します。<--リンク

『スクマSukma、ファイン・ボディー(微細体)
インドの哲学と宗教における本質的な教義である三体論は、特にヨガ 、 アドヴァイタヴェーダーンタとタントラで重要です。
そうしてヒンドゥー教の教義の中にある三体論の Sarira Trayaによると、人は
1、Karana sariraカラナ サリラ - 因果体 causal body
2、Suksma sarira スクスマ サリラ - 微妙な体 subtle body(サンスクリット語:sūkṣma śarīra)
3、Sthula sariraストゥーラ サリラ - 肉体 physical body
の3つの体を持つとされています。<--リンク

これがまさに二代目がトークで示している以下の文章に見事に対応しています。
「私たちの中には3つの要素があります:
魂Jiwa(Soul)があり、
スクマSukma、ファイン・ボディー(微細体)があり、
そうして物理的な肉体があります。」

こうしてインドネシア語にSukmaとして吸収されたコトバの語源がSuksma(サンスクリット語:sūkṣma )であるという事が分かります。』


次に5つのコシャkosha(鞘:サヤ)について話したいのですが、一番簡潔にまとまっているヨガでの説明を引用します。
ヨガ101:コシャスkoshas<--リンク
『ヨガでは、私たちの存在の層をkosha(鞘:サヤ)と呼んでいます。

私たちの個性を構成する5つの徐々に微妙なボディは、 Taittiriya Upanishadと呼ばれるヨガのクラシックに記述されています。

・身体:皮膚、筋肉、靭帯、関節、骨、重要な器官(Annamayakoshaアナマヤ コシャ)
人間は、食べ物から作られた肉体で構成されています。
この身体を気遣う人は、宇宙そのものに栄養を与えられます。

・エネルギー体:息切れ、熱、脈打つ、ストリーミング、うずき感(Pranamayakoshaプラナマヤ コシャ)
これは生命のエネルギーで作られた別の体です。
それは物理的な体を満たし、その形を取る。
この生命力を神として扱う人は、このエネルギーが身体的な生活の源であるため、優れた健康と長寿を経験します。

・パーソナリティボディ:思考と感情、感覚刺激と環境への直接的な反応(Manomayakoshaマノマヤ コシャ)
生命力の中には、もう一つの体があります。
これは思考のエネルギーでできています。
上記の2つの体を満たし、同じ形をしています。
精神的な身体を理解しコントロールする人はもはや恐怖に悩まされません。

・知恵の体:直感的な意識としても知られている非批判的な観察者(Vijnanamayakoshaビジュナナマヤ コシャ)
深いところはまだ知性で構成された別の体がある。
それは上記の3つの体に浸透し、同じ形をとる。
ここで彼らの意識を確立する人々は、不健全な思考や行動から自分自身を解放し、
目標を達成するために必要な自己制御を開発する。

・至福の身体:光、透明、内なる平和、無条件の愛(Anandamayakoshaアナンダマヤ コシャ)
それはまだ純粋な喜びで構成された微妙な体です。
それは他の全ての体に浸透し、同じ形を共有します。
それは幸福、喜び、そして至福として経験されています。』

そうして前述の3体論との対応は以下の様になります。

1、Karana sarira - 因果体 causal body<--至福の身体:(Anandamayakoshaアナンダマヤ コシャ)

2、Suksma sarira - 微妙な体 subtle body<--エネルギー体:(Pranamayakoshaプラナマヤ コシャ)+ パーソナリティボディ:(Manomayakoshaマノマヤ コシャ)+ 知恵の体:(Vijnanamayakoshaビジュナナマヤ コシャ)

3、Sthula sarira - 肉体 physical body<--身体:(Annamayakoshaアナマヤ コシャ)

以上の対応関係はインド哲学、ヒンドゥー教各派の中では一応の合意がありそうです。
そうして上記の2番と3番についてはバパと二代目もこまかな所に目をつむれば、まあそれなりに合意できる分類かと思われます。

:複数の層が重なり合った構造体として人のカラダを考えるのは、ヒンドゥー教でもバパの人体観でも同じです。
そうして、より微細なものがより粗いものに浸透し満たしていく、という考え方も同じです。
但しヒンドゥー教では無条件にこの浸透が起きているとしていますが、二代目の見方では「ジワJiwaが肉体の各部分に浸透する為にはラティハンの実習を重ねることが必要である」とされています。
そうして、そのようになってようやくジワJiwaを使いながらの日常生活が出来るようになる、ラティハンの一応の達成点に到達した事になるのでありました。)

それで問題は1番のカラナ サリラKarana sarira - 因果体 causal bodyの内容ということになります。
それが魂(Jiwa:Soul)なのかどうか、ということになります。
しかしながらそれは逆に魂(Jiwa:Soul)というコトバで我々が、あるいはバパ、そうして二代目が何を表そうとしたのか、示そうとしたのかにかかわる問題になります。

アートマンAtmanを不変で普遍な自己(Self)とするならば、そこには個別性、パーソナリティーは認められませんから、基本的にアートマンはKarana sariraを超えている、というのが一般的な認識の様です。
そうなりますと我々がジワJiwaを「個別性と普遍性を併せ持つ自己(Self)」として認めるならば、(この立場はバパの立場に近いように個人的には考えていますが)それはカラナ サリラKarana sariraと重なる部分があるととらえる事ができます。

以上の準備をしたところで、以下インドネシアにイスラムが展開される前におよそ一千年の間に渡って、その場所で受け入れられていたヒンドゥー教の世界観を概観していきます。
とは言いながら、この記事では主にジワJiwa(Jiva)とスクマSukma(Suksma)に関連している内容に限定しているものの、ヒンドゥー教でそれらについて言われている事の全てに言及できている訳ではない事には前もってお断りする必要がありそうです。


カラン シャリルKāran sharirあるいはKarana sariraカラナ サリラ - 因果体<--リンク

『ヒンドゥー教は私達の魂の周りのカラン シャリルKāran sharirを記述しました。
それは、魂のカラン シャリルは、ヒンドゥー教を除いて、他のどの宗教によっても以前に記述されていないようです。
カラン シャリルは因果体なのですが、因果体から解放されず、分かれていないような魂の次の誕生において、(その魂が宿る事になる)肉体と微妙な体を作り上げる唯一の原因(それゆえに因果体と呼ぶ)となっています。

因果体は、以前の出生の間(生きた期間)に取得された情報または知識を運ぶ。
世俗的な目的や快楽のための興奮と強烈な、あるいは深い欲求は、それに含まれます。
魂はこの因果体またはカラン シャリルにしっかりと取り付けられています。

カラン シャリルKāran sharirはマヤMāyā(幻想)を基本的に構成しているので、マヤMāyā(幻想)のすべての特徴を持っています。
それは、anādi(始めと終わりなし)、avidy(本質的に無知)、anirvāchya(記述不可能または不可解)のような属性を持つと記述されています。

死に至ると、ストゥーラsthulとスクスマsukshmaのボディーは「ほこりのほこり」や自然の物理的要素の一部になります。(地球に帰ります。)
しかし、魂が完全に切り離されたり解放されたりしなければ、死後の因果体あるいはカラン シャリルは、解放されていない魂(māyānvit マヤンビットはmayaマヤで覆われたという意味)に移動します。
魂がMāyāマヤでできた因果体から完全に切り離されると、それはBrahmdhāmと呼ばれる神の住居に行きます。


アートマンAtman、それはヒンズー教の永遠の魂soulまたは自己Self<--リンク

『ヒンドゥー教徒は、魂の存在を信じます。
魂は、永遠で、目に見えず、不滅で、不変であり、心と感覚を超えて存在します。
ヒンドゥー教徒はそれをアートマまたはアートマンと呼んでいます。
それは、内部に深くあるものの呼吸であり、起こる事すべての証人です。

これは、呼吸を意味する "an"というルート単語から派生したものです。
Atmanは呼吸するものです。
Atmanはajobhagaであり、存在の生まれていない部分(Rigveda)であり、身体や心とは異なり、身体や心とは混同しないで下さい。

ヒンドゥー教によれば、人は自己の真の性質を認識している範囲で、進化しているか自己認識している。
無知な人と自己実現した人を区別するのはこの意識です。

ヒンドゥー教の魂は、アブラハムの宗教の魂と同じではありません。
前者は、性格や特性がないため、互いに区別できません。
したがって、彼は一般的に魂soulというよりもむしろ自己Selfと呼ばれています。

魂や自己に関する適切な知識を持つことが重要です。
・・・・・
それらはVaishvanara、覚醒状態、Taijasa、夢の状態、Prajna、深い睡眠状態、そして最後にTuriya、超越状態へと続きます。
最後のものは、自己専念の状態で、心と感覚が眠っている時、そうして知識と知性の二重性がない時に生じます。
その状態で、人は本物の自己real selfを経験する。
:夢のない眠り、そうしてそれを超えた所にある超越状態、そこまで降りていかないと本物の自己real self.は体験できない、という主張です。
さて、通常は人は夢見の状態までしか意識を保っている事はできません。
夢見は少なくとも夢を見ている意識がそこにはあります。
しかし、夢が消えたら通常はそこには意識がありません。
我々の意識はいつも「~に対する意識」でしかないからであります。
ところで、夢のない眠りでも、脳波は発生しています。
つまりそこには「何か」が存在はしているのですが、動いているものはあるのですが我々はそれを知りません。
そのような我々がそこを超えてさらにその下にある超越状態に至る、ということは、これは至難のわざなのであります。)

個々の魂individual soul と普遍的な魂universal soulは同じ現実の2つの側面です。
個々の魂がネイチャー(自然)に出会い、マヤMāyā(幻想)の網に入り込むと、彼女はそのマテリアルを周囲に織り込み、それらを体系に結びつけます。
魂のために、身体が畑になる。
身体はグナ gunaの影響を受けているので、欲望の激しい行動に巻き込まれ、カルマkarmaと誕生と死のサイクルに縛られます。
具現化された魂はまた、自然の現実または修正(tattvas)である自我(ahamkara)の影響を受ける。
自我は、分離感と個性(anava)を作り出します。

人類は非常に貴重です。
なぜなら、人間だけが、解放を達成し、ブラフマンの世界に到達するために、創造全体において特権と機会を持っているからです。
神々でさえ、そのような特権を享受することはできません。
神々が解放を望むなら、人間として生まれなければならない。
これは、ヒンドゥー教に従う魂の概念です。』
;ヒンドゥー教で解放とはモークシャに到達すること。カルマを終わらせ、輪廻の輪から離れることを意味します。)


体の中の魂の存在<--リンク

『それぞれの魂は、自然の構成要素(タッタバスtattvas)で構成されたフィールド(身体)の内側に包まれています。
そして身体は、サトヴァsattva、ラジャスrajas、タマスtamasのようなグナgunasの影響がしみ込んでいます。
これらの3つの特性は、私たちの思考と行動にとっての責任になります。

体内では、魂は証人意識のままです。
それは何も変わることはありませんが、それは心と体の不純物によって包まれています。

魂の質の反射は自我egoです。
それは、魂のアイデンティティ(個別性)を仮定し、その主な欲求に応じて行動します。
これは、体に存在する支配的なグナgunaによって引き起こされます。

それらの影響力の下で、自我egoあるいは存在(ジバjiva)は世界の対象物に結び付けられ、誘惑と嫌悪を経験する。
自我egoは現実ではなく自己 self を反映しており、欲望と愛着に従って行動するため、欲望の激しい行動に耽り、その行動の影響を受けます。

これはカルマkarmaです。
存在がカルマkarmaを連続的に蓄積するにつれて、彼らは出生のサイクルに縛られ、限りある生存という生命形体を繰り返します。』


ヒンドゥー教と転生の信念<--リンク

『ヒンドゥー教によれば、魂は完璧になり、それと再会するまで、地球上で何度も生まれ変わります。
この過程で、魂は多くの体に入り、多くの形態をとり、多くの出生と死を経る。
この概念はBhagavad gitaの以下の詩で簡単に説明されています:
「人が疲れた服を捨てて新しい服を着るのと同じように、魂は疲れた身体を捨て、新しいものを身に着ける。 (2.22)」
ヒンドゥー教によると、存在は多くの人生を過ごし、完璧に到達する前に多くの経験を経て、神と一つになる必要があります。

ヒンドゥー教の創造論は、個々の魂が未分化のものから分離されると創造が始まることを示唆している。
それは、物質の生命と意識の進化が段階的に進行するにつれて続きます。
このプロセスの間にいくつかの魂は、彼らには隠されたまま、そして縛られたままなっている問題、あるいはプラクリティPrakritiを変容させる事を通じて、その源である神に帰ることができます。<--リンク
(注:これがヒンドゥー教徒の望んでいる姿
残りの魂は、その存在を継続し、最終的には彼(源である神)に帰ります。
しかしそれは変容によってではなく、各時間サイクルの終わりに起こる大きな破壊を通してなされます。
(注:これは望ましくない姿
したがって、創造の大きなサイクルは、何百万年もの間にわたって伸びており、論理的な終わりに達しています。
(注:この様に考えるのがヒンドゥー教の宇宙観:世界観になります。)

創造的なプロセスが始まると、個々の魂が引き出され、ジバjiva(生き物)と呼ばれる偽の性格に結びつく。
このジバjivaは、人間だけでなくすべての生きものを表しています。
具体的には、具体化された自己embodied selfまたは要素的自己elemental selfとしても知られています。
それは内側の微妙な体と外側の肉体を持っています。

魂soulは微妙な体の中に閉じ込められています。
微妙な体(linga sariraリンガ サリラ:スクスマ サリラの別の呼び名)は、微妙な感覚、微妙な心、息、自我と知性で構成されています。

肉体(総体:全体 gross body)は全体的な心gross mind(動物の心)、基本的な身体とその器官から構成されています。

それぞれのジバjiva(存在)は、知覚、知識、思い出、欲望、愛着、そして多様性と分離という概念から生まれる自我感覚(anava)または自己意識self-senseを持っています。
自我感覚のために、ジバjivaは真のアイデンティティについて無知なままで、暑さや寒さ、痛みや快感などの対立するものに対して、妄想(moha)、二重性(dvanda)、引力(raga)、嫌悪(dvesa)を経験する。

付着物(パッサpasa)と妄想の結果、ジバjivaはあたかも「自分以外の創造物と自分は違うものである」という様に自己利益的に行動します。
そうしてエゴイズム、欲求不満な行動、利己主義のために、彼らは驚異的な世界で絶望的につかまれ、苦しみにたどり着きます。

技術的には、身体は刑務所であり、物理的な自己physical selfの罪のために囚人として魂がそこに保持されています。
死の時、肉体とその心は地球の要素に戻ります。
しかし微妙な体の一部は生き残り、魂を次世代に引き継ぐ。

彼らの過去の行為の性質と、彼らが成長させた微妙な身体の程度に応じて、ジバjivaは祖先の天国(pitr lok)に上昇するか、地獄に降下する。

内在する精神を中心に隠しながら、微妙な存在は、その良い、あるいは悪い行為の成果が完全に尽きるまで、これらの世界にとどまります。
(カルマが尽きるまでその世界にいる。)
カルマが尽き、新しいレッスンを学んだ後、それは再び生まれ変わり、その過程を繰り返すために地球に戻ります。

こうして、ジバJiva(生きているもの)は寿命のある生き物という世界で無数の出生と死を経る。
彼らは欲望と愛着のために死の定めのある世界と自然の法則に縛られたままです。
死は地上の苦しみから一時的な救済を与えますが、悲しみと苦しみの深い深層に落ちる危険にさらします。
そしてそれぞれの(次の)出生は新しい挑戦をもたらし、彼らを善と悪の両方の無限の可能性と機会に開放します。
これは、解放を達成し、ブラフマンの不滅の世界に入り、彼らが最高自己Supreme Selfとの統一の状態で永遠に解放されたままになるまで続きます。
(注:これがヒンドゥー教で言うところの解脱)

仏教を創設したブッダbuddhaは、神の存在について沈黙していて、永遠の魂が存在しないことを提案した。
それにもかかわらず、仏教を設立したブッダbuddhaでさえ、生まれ変わりを否定していませんでした。

彼は、永遠の不滅の魂のようなものはなかったと説いた。
誕生から次の誕生で生まれ変わったのは微妙な体だけであり、一時的な構造物の形で存在する痕跡、または常に変化する個々の人格または性格の残余、そういうものがある出生から別の出生に移ったのであり、八正道による正しい生活と、法Dharmaの実践によって、それらのすべての変化の終わりが来ます。
・・・・・
聖句は、原子の大きさを持つそれぞれの魂が、受胎時に母親の子宮の中の新しい体に入って、その転生を開始する方法を説明します。
提案された復帰旅行は、月に位置する先祖の天からの雨滴とともに、個々の魂が地球に落ちることから始まります。
:亡くなった人の魂はお月様の食べ物、、、という話、聞かれた事はありませんか?
どうやら元ネタはインドの紀元前の話の様ですね。)
彼らが雨とともに地上に落ちると、それぞれの魂は雨水に含まれる形で大地に沈着します。
そこで彼らは(根から)吸収される水を通して植物や樹木に入り、樹液の一部になります。

これらの植物や樹木が人間や動物によって消費されると(食べられると)、それらの魂はそれぞれの自分の体に入る。
動物の体に入る魂は動物としての誕生を取るか、人間によって奪われて(食べられて)自分のカルマに従って、人間としての誕生をとるまで待つかのどちらかです。

前述の過程を通じて魂が男性の体に入ると、その人が父親になることが運命づけられていれば、それは彼の精液(リタスretas)の一部となる。
魂は彼女が母親になることが運命なら、そこから性交渉を通じて女性の体に入り、その転生を待つ受精卵を抱く子宮に落ち着く。
(:上記の様な説明では、当該の性交渉によって受精卵が誕生し、その受精卵が子宮に確実に着床する事が前もってわかっていないと、男性の精液の一部として魂が女性に受け渡される、という事は出来ないという事になります。
つまりこの部分は「当該の性交渉の時点で魂は精液と一緒に女性に入るのだが、その後に起こる受精から着床のプロセスの成否はすでに性交渉の時点で決定されている」という「強い運命論」になっていると解釈されます。
そして、そのような運命論というのは、基本的には「各自の主体性を認める、各自の努力を認めるカルマ論」とは相いれないものであります。)<--リンク

ヒンドゥー教、仏教、ジャイナ教、シークヒンドゥーに共通する生まれ変わりという概念は、アブラハムの宗教を習う人にとっては馴染みのないものです。
生まれ変わりは西側世界ではほとんどが誤解され、あやまって判断されています。
それは部分的には無知のために、あるいは一部は迷った道に沿った宗教的信仰を盲目的に追求する人達、あるいは独断的な宗教に従う人達はある種の固有の精神的ブロックを持つのですが、そしてそれは自然な事ではありますが、それが誤解の原因になっています。

それは、過去に多くの論争をもたらしました。
なぜなら、それは一回のみの誕生、1つの神、1つの天国、そして審判の日という西洋の概念に直接挑戦するからです。
・・・・・
ヒンドゥー教は、人類がただ一度の人生でその不完全さを克服し、解放された魂として創造者のもとに戻れるという前提を受け入れていません。
それは魂が無数の出生および死亡を経験した後という、格別な状況でのみ起こる可能性があります。

創造は神によって、自身の喜びのためにのみ制定された神の劇です。
彼は彼がプロデュースする世界で楽しくさせるものであるだけでなく、それ自体を楽しんでいるものです。
(注:行為者であり、その結果を受け取る者でもある。)
彼は拘束力のある人、拘束されている人、苦しんでいる人、自分自身が苦しんでいるのを見ている人、同時にそのような流転と騒ぎの影響を受けない人です。

したがって、人生はその時間の終わりまで、定められた道に沿って続けなければなりません。
この期間中に各人(Jiva)は、道を見つけて不滅の世界に入るというメリットを得るまで、試行錯誤しながら奮闘し、努力しなければなりません。
各人は完璧に達する前に、無数の出生と死のサイクルを通して徐々に進化しなければなりません。

不活性で控えめなものから遅いものまで、
身体の意識、そしてそこからダイナミックで微妙な意識に至るまで、
完全な無知から部分的な意識に至るまで、そしてそこからインテリジェントな自己認識に至るまで、
付属物から感覚を持つものへ、世界的な喜びから分離へ、そしてそこから完全な自由へ、
妄想から分別まで、そしてそこから真実と現実まで、
暗闇から夜明けまで、そしてそこから光まで、
限りある存在から不死まで、これは創造における「生命は前に進む」という動きです。

これらのすべては、一回の人生で、または数百年程度の生まれ変わりでは起こることはありません。
その魂は、その不純物を落とす為に知識と禁欲行為の火の中で焼かれなければならず、そうすればそれは完全な光輝をもって再び輝きます。
(注:これがヒンドゥー教のある宗派の解脱に到達するための手段、方法になります。)』
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

・一応のまとめ
バパはジャワの人でありました。
そうして、やはりジャワの文化の中にはイスラムが到達する前に栄えていたヒンドゥー教(や仏教)の影響が色濃くその根底に存在している様です。

そうでありますから、バパはジワ(Jiwa)とスクマ(Sukma)の事を語り、5人兄弟の事、生まれ変わり(リンカネーション)やカルマ(Karma)の事、クリシュナやビマ(Bima)やワヤン(Wayang)の事を当然の事のようにジャワ人として語るのでありました。<--リンク

それに加えてジャワ・イスラムというジャワで独自の発展をした『ワリ(Wali)達のイスラム』にも帰属しています。<--リンク
そうであればまたイスラムの用語でも語るのです。
いわく、ロホ(Roh)やナフス(Nafsu)そうして唯一神(アッラー)と信仰告白、アダムとムハンマドとジン、審判と天国と地獄であります。

そういうものが混然一体となっているのがバパのトークでありますから、それを解釈する、理解する、納得するということは、それほどたやすい事ではないのです。

追記1
ヒンドゥー教的、仏教的なものもジャワの文化に同化されている為に、特に何の断りもなくジワ(Jiwa)とスクマ(Sukma)というコトバが普通にトークで使われています。
それらのコトバはジャワの文化圏に暮らしている人たちにとっては改めて説明する必要がないのです。

しかしながら、異なった文化圏の人たちには、それゆえにそれらのコトバを理解することが難しくなります。

他方でバパはよく「イスラムでは・・・」というコメント付きでイスラムで使われているコトバを引用します。
その場合は少なくとも我々はコメントがない場合の様に混乱することはありません。

追記2
バパはヒンドゥー教的、仏教的な事柄をまとめて「仏教では・・・」と言われます。
そうして、「ヒンドゥー教では・・・」というコメントは見た事がありません。
つまりバパの中ではヒンドゥー教も仏教もそんなに違いはなく、「仏教」というカテゴリーに分類されている様です。

ですからバパのあるトークについて「それは仏教ではなくヒンドゥー教の事では?」と疑問を投げかけられる事になり、それに対して二代目が「バパはイスラム教徒でした。(だから仏教の事は専門外です)」と答える事になったものと思われます。

PS
上記本文中にある様に仏教では基本的にジワ(Jiwa,Jiva)というような「実体としての魂の存在」を前提としていません。

しかしながら、輪廻転生は認めているのです。

そうでありますので、「ジワでないとしたら、いったい何が転生するのかね?」という質問に対して仏教は難解な答えをする事になりました。


ジワJiwaとスクマSukmaの物語(その1・バパと二代目の認識)」にはこちらから入れます。<--リンク

PS
「ジワ(Jiwa)と転生の物語」にはこちらから入れます。<--リンク

PS
文字サイズはページ右上で変更できます。

ラティハン日記 目次 にはこちらから入れます。<--リンク

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バパの魂(jiwa)あるいはロホの概念/・4 動物の魂(動物力)-2

2017-06-13 | 日記
P110
・・・・・
さらにバパは、他人が苦しんでいることに喜びを感じる人々は動物の魂を持つ人であるとしている。

もし相手を(戦闘中や他の方法で)敗北させた場合、彼(勝利者である、動物魂を持つ人)はより暴力的になるでしょう。

このような行動は、心の喜びだけで関係を築いた夫婦の関係においても時には見られます。

これに関連して、バパはカルマを信じているようですが(注1)、バパはこれらの否定的な結果は(直接的に)関係する人に限定されているだけでなく、彼の子孫にも影響を与えるということを免れ得ないだろうといいます。

両親が誤った行動をすると、自動的にその子供たちが影響を受けます。

この部分の結論としてバパは、人間の全身が動物の魂によって充満され、欺かれているときにこのような問題が起こると言います。

したがって、本来は美しさと完璧なものである彼の体は、動物や他の劣等な魂の道具としての意味しか持たないものなります。

バパの使う専門用語はイスラム、あるいはむしろアラビア語なのですが、ここでもまた、動物魂の概念はイスラム教よりもインドネシア先住民の信念によって影響を受けているという推測に我々は導かれるのです。

P111
たとえばAl-Jurjaniがアル・ルーフ アル・ハヤワニ(al-ruh al-hayawani)について話すときには、「心臓に由来し、神経を通して体全体に広がる微妙なもの」を意味します。

ほぼ同じ表現を使用しているイブン アル アラビーIbn al-'Arabiは、動物の魂は「心臓(肉体的な心臓)に座っている微妙な蒸気である」と言います。

他のスーフィー達(Sufis)はそれをbahimiとかshahwaniと呼んでいます。(注4

スーフィーにとって、動物の魂はすべての人の中に常に存在する可能性となります。

彼らによると、それ(動物の魂)は神と人の間にあるすべてのベール(注3)の中で最大のものになります。

それ(動物の魂)はammarah bi al_su(注2)の可能性を秘めています。

しかし動物の魂が働くか働かないかということについては、バパが明確に推測しているような「動物の肉を食べるから」、とか、「食べないから」、というような事とは何の関係も持たない事なのです。


先に指摘したように、インドネシアへの世界宗教の浸透と影響がある以前には インドネシアにおいては食べたり飲んだりすることによって魂が増減するであろうと信じられていました。

これは食べ物の中にある「魂の成分」が人によって吸収されるのだと言われていました。

したがって、食べられることが推奨された植物、あるいは動物に由来する特定の食品があり、そうしてまた一部は食べることが禁止されていた。

例えば、鹿は臆病者であると考えられていたので、その肉は禁じられていました。
(訳注:それを食べることで「人に臆病がうつる」とされていた。)
P112
従って逆にライオンやヘビの肉が推奨されました。
(訳注:それを食べることで「人に勇敢さや強さがうつる」とされていた。)
・・・・・
動物力はここまで、英文はこちらを参照願います。<--リンク


注1)バパはカルマを信じているようですが、・・・

魂のゆくすえについての考え方は大まかにいって二通りあるようです。

一つは「あの世ではこの世での行いの審判を受け、それに応じた賞罰が与えられる」というもの。

そうやってこの世での行いの清算が行われるとするものです。

もう一つはカルマ(karma)による考え方です。

「人はこの世での行いの結果としてそれぞれ固有のカルマをもち、そのカルマによって次の転生が決まる」というものです。

この考え方ですと、「この世での行いの清算はカルマによって次の人生で行われる」ととらえることもできます。

そうして、この場合のカルマとはその人に固有のもの、その人の魂に固有のものであって、決して両親から引き継がれたものではありません。

そのように考えるのがサンサーラ、解脱(モクシャ)、そうしてカルマの一般的な体系である様です。<--リンク

それに対してバパの言われている「カルマのようなもの」、両親の行動の結果がその子孫に影響を与える、違う場所での主張では「両親の行動がその生まれてくる子供の魂のレベルを決める」とも表明しているのでありますが、それは通常のカルマの考え方には合致しません。

ですのでここでの本文の主張、「バパはカルマを信じているようですが、・・・」というのはカルマというものに対する拡大解釈であると思われます。

ちなみにバパは「全ての人はカルマによるリンカネーションをしている」という主張には同意されていません。(2月3日1974)

しかしながらある条件が成立した場合、「そのような人は転生する」という認識は表明されています。<--リンク

追伸(2018.6月)
訂正します。
バパの基本的な立場、それは「全ての人はリンカネーションしている」でありました。
バパのリンカネーション論(輪廻転生論)<--リンク

それからイスラムにおいては一般的には「生まれてくる赤ちゃんが罪を背負ってくることはない」という認識であります。<--リンク

追伸
「バパのカルマ論」についてはこちらにも記事があります。<--リンク

注2)ammarah bi al_su
コーランに記述されているナフス・アマラnafs ammarahの正式(?)な呼び方。

it is named "the soul that enjoins evil" (al-nafs al-ammara bi al-su')…

それは「悪を命ずる魂」(al-nafs al-ammara bi al-su ')

そして上記本文からすれば、スーフィーにとっては「動物魂」がナフス・アマラnafs ammarahに対応するもの、、、という認識の様です。

ちなみにバパは「動物力」に対してはナフス スフィア(nafsu supiah)を対応させています。

そうしてバパにとってはナフス・アマラnafsu ammarahに対応するものは「物質力」なのでありました。

注3)ベール
人の視線を遮断して中身を隠すもの。

ここでは「神と人との間にあり、それを隔てる邪魔なもの」という意味で使われていると思われます。

注4)shahwani
Lust ( Shahwah )
つまり欲望(あるいは性欲)をあらわすアラビア語がShahwahである模様。

ご参考までに、「ラターイフ」より以下、引用します。<--リンク
『・・・・
特にティルミズィーは、ジャアファル・サーディクの三区分を身体と対応させた。
すなわち、ナフスを腹部、カルブを胸部、ルーフを頭部に対応させた上、これらが順に肉欲(shahwa)、叡智(maʻarifa)、理性の中心となると考えた。』

PS
動物のレベルになると人に近くなる為に通常は「人に魂が考えられるならば、高等動物にも魂があるのではないのか?」と言う事が問題になります。

しかしながらここで言われている「動物魂」という概念はそのような個体性に基づいたひと固まりの存在の事ではなさそうです。

そうではなくて、しいて言うならば「動物の体全体に存在している生命のエッセンス」というイメージの方が近いと思われます。

そうでなければ我々が口にする一片の肉片のなかに上記で言うところの「動物魂」が存在する事は不可能であるからです。

あるいは高等動物にも個体性に基づいた魂というものがあるとするならば、それは「死の瞬間に肉体から分離する」と考えるのが妥当でありましょう。

そうして、そのような霊的存在の魂は決して「包丁でこま切れにされることはない」と思われるのであります。

追伸
以下、ご参考までに。
・愛する犬猫が「極楽往生」できるか否かの大論争勃発<--リンク

キリスト教では動物にも魂を認めている様でもありますが、聖霊は人のみの模様で、従って動物は天国には行けない模様です。

イスラムではコーランに記述がない様ですので、「あるなしを言わず」、と言う事になります。

以上、詳細はこちらを参照ねがいます。<--リンク

PS
植物力、動物力と話が進んできましたが、この二つの力はとにかく「食事に関連したもの」であります。

そうしてバパによりますれば、「我々がこの世の生命を終えて次の世に旅立つ時に、あるいは希望するような天国に向かおうとする時に、いままで世話になってきた4つの諸力とはちゃんとお別れする事が必要ですよ」と言われます。

そして植物力と動物力には食事をする度ごとにお世話になっているのですから、そうしてその度ごとにそれなりの植物性食品、動物性食品をたべるのでありますから、何もしない、ただただ食べるだけというのでは、それはもう「膨大な負債があること」になってしまいます。

そのような負債、植物力や動物力に対しての「借り」があると上手にお別れする事ができません。

そうでありますので「食事の度ごとに口にした食べ物のエッセンスをそれぞれの天国に送り届ける責務が人間にはある」とバパは言われます。

そうしてこのラティハンというものは、そのような状態になる為のラティハンでもあります。


ところでクリスチャンは食事の前にはお祈りをします。

たとえば、「食前の祈り」として<--リンク

『父よ、あなたのいつくしみに感謝してこの食事をいただきます。

ここに用意されたものを祝福し、わたしたちの心と体を支える糧としてください。

私たちの主イエス・キリストによって。アーメン』


あるいはイスラムの作法では<--リンク

ムスリムはあらゆる行動の前には神の御名を唱えて開始しますが、食事もその例外ではありません。

預言者ムハンマド(神の慈悲と祝福あれ)はこう言っています。

“あなた方が食事をする際は、神の御名を唱えなさい。

始めに神の御名を唱え忘れたのであれば、こう言うのです:

「(この食事の)始まりと終わりのどちらも、神の御名のもとに。」”


いずれの教えでも感謝する対象としては超越者であるところの「父」あるいは「神」になります。

しかしながらバパの主張はもっと個別的で具体的なものになっています。

実際に我々が口にする、自分の口の中にある食べ物に対して我々がどのようであるのかがそこでは問われています。

そうしてこのような態度と言うのはキリスト教的、イスラム教的というよりはむしろ仏教的な態度に近い様に思われるのでありました。

PS
ご参考までに。
著名なウラマーにしてスーフィーマスターであるガザーリー(al-Ghazālī)が食事について述べたものです。<--リンク

・ガザーリーにおける二つの欲望<--リンク

PS
これもまた食事に関連したことですが、バパは熱心に断食を勧めました。

そしてイスラムであったバパにしてみれば、断食とはもちろんラマダンの事であります。

しかしながらラマダンに限らず、キリスト教の中にあるレントの断食でもよいとされました。

いずれにせよ食事の量を制限する事で、通常の食事をすることによる植物力、動物力の影響をよりはっきりと認識できるようになる、というのはその目的の一つであった事は明らかな事であります。

つまり、「食事をとる事でそれが結果的にナフスの増加につながっている事を体験する事」が一つのポイントとなりそうです。

しかしながらここでも「食事をとることによる血糖値の増加の効果」というファクターと「食事をとると元気になる。<--植物力、動物力が補充される為である。」という説明方法とは同相的であり、この二つの効果を分離する事は難しい様に思えます。

PS
スシラ ブディ ダルマの世界というのは物質的な形態の向こう側に、あるいはオーバーラップする形で霊的な存在を認め、それと人が物理的に接触することで、人の内部感覚に影響が及ぶ、という世界観になっています。

物質力の場合は「物理的な接触」というのは、「今この地球上に目覚めて存在している」という意識状態を作り出すもの、「人の周りを取り囲んでいる周囲環境からの物理刺激(光、音、匂い、風など)の感覚器官への入力」ということになります。

そうして我々の場合には、意識が目覚めると同時に「内部でのつぶやき」、要するに思考力が働き始めるのです。

植物力、動物力は食品の形に加工された植物性食品、動物性食品が「口の中に入る」という状況が「物理的接触」になります。

さらに消化、吸収器官での食物と我々の体の接触もその中に含めて良いかと思われます。

さて、そうしますと人間力の「物理的な接触」というのはなんでありましょうか?

目で見て、声を聞いて、相手にさわる。

まあそれもそうではありますが、一番直接的な「物理的な接触」は「子作りの行為」であります。

そうしてこの場合はお互いに相手が人間でありますから、相互に内部感覚に影響を与えあう、、、という構造になります。

というわけで、詳細はつぎの「人間力の章」にて、、、。

あるいは、子作りに関連してこんな話もあります。

ご参考までに。

・シェリーン・エルフェキ: ほとんど語られないセックスと官能の物語<--リンク

追伸
物質世界に取り囲まれている場合は、我々は意識を保って、目覚めている事が可能です。

しかしながら、死後の世界においてはそのような物理的な刺激はどこからも入力されません。

さてそうなりますと、意識が存在したとしてもはたして目を覚ましている事が可能なのかどうか?

もしかすると「意識の凍結保存」のような状況におちいるのではないか?などど妄想する事もできます。

さてそういうわけでバパが言うように、「ラティハンでジワを鍛えておかなくてはならない」のであります。


PS
「バパの魂(jiwa)あるいはロホ(Roh)の概念」一覧にはこちらから入れます。<--リンク


PS
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ラティハン日記 目次 にはこちらから入れます。<--リンク

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ロホとナフスの物語(その5、ロホ+ナフス システムの誕生)

2015-06-24 | 日記
インドネシアでのロホとナフスの合流の経緯

ジャワ           中東      <--発生場所
(4人兄弟)       (クラーン)   <--概念の起源
ナフス            ロホ
  |             |
  |             |        ナフス ロホ共に
デワルチ     マルタバト・トゥジュ<--一応の完成
  ↓              ↓
   →→→→   ←←←←
         ↓
1802~1873年   R.Ng.ロンゴワルシト(Ranggawarsita)
   「Bima Suci Wirid」で「インサン・カミル」の誕生を語った。
   「Wirid Hidayat JatiDari 」でナプスとロホ(napsu,roh) を語った
         ↓
1923年  KRT ウレクソディニングラト Wreksadiningrat
   「スラット・ランパハン・ビモロドロ Serat Lampahan Bima Rodra」を書く
   4つのナフスの名称の明示
         ↓
1936年  Tjan Tju An
   スラット・ビモ・ブンクスで9つのロホと4つのナフスを語る。
         :
         :
1952年  バパ(Bapak)
   スシラ ブディ ダルマ(susila budhi dharma)を語る。


ビモ・ブンクス(Bima Bungkus)は本来はデワルチの主人公であるビモの誕生の物語でした。

でもTjan Tju Anさんはこの物語を借りて「人間の誕生」、違うコトバでは「アダムの誕生」を語ったのです。

そうして、もともとスーフィズムの中の一つの流れであった「マルタバト・トゥジュの教え」では「アダムの誕生」は「完璧な人間(Insan kamil)の創造」として語られていたものでした。<--リンク

ですのでここでのTjan Tju Anさんの仕事は「マルタバト・トゥジュの教えにそった形で4つのナフス(nafsu)をアダムに付け加えた」ということになります。

こうして目出度く別々の進化をしてきたナフスの流れとロホの流れが一つになれたのでした。


さてビモ・ブンクス(Bima Bungkus)でのナフスとロホの人への入り方の説明です。

マルタバト・トゥジュの教えに従ってゼロから人間が順次作りだされていくのですが、その過程でまずはナフスが順次付与されます。

そうして次ぎに9つのロホが一度に付与されて「物理的な体を持った人間」の完成、アダム、あるいはインサン・カミル(Insan kamil)の完成となります。

このあたり、詳細は「Bima bungkus」 を参照願います。<--リンク

但しこのページの記述ではスフィア(supiah)の記載が抜けていますがこれは記述ミスです。

うまく見れる様でしたら「SERAT ”BIMA BUNGKUS” KARANGAN TJAN TJU AN 」をどうぞ。<--リンク

こちらがミスがないのですが、広告表示が邪魔をしますのでご注意ください。(うかつにOKとかYesはクリックしない方がいいですよ)


それで次はバパによる説明ですね。

即ち地上に降される前の彼(アダム)の存在は、まだロホ(スピリット)又は生命力のエッセンスという状態でありました。

なぜならば、まだ人間として形成されていなかったからであります。
・・・・・・・・
彼が人間の形の容器に作られ、素材的・植物的・動物的及び普通の人間的生命力を与えられた時、彼の人間としての性質が生じたのであります。

このことはすべて彼が地上に降された後で起こりました。

なぜならその時始めて、 素材的・植物的・動物的そして普通の人間的生命力から生ずるナフスを所有したのであります。  

そして素材的生命力から生ずるナフスはアマラー(nafsu amara)、植物的生命力から生ずるナフスはアルアマー(nafsu aluama)、動物的生命力から生ずるナフスはスピアー(nafsu supia)、普通の人間的生命力から生ずるナフスはムトマイナー(nafsu mutmina)であります。
・・・・・・・・
70・12・5 チランダ


以上の説明から分かる様に「4つのロホを与えられると同時にナフスが備わった」というのがバパの説明でありました。

まあ、Tjan Tju Anさんの説明とは順序が前後しますが、いずれにしても「人としての完成」あるいは「アダムの誕生」の直前の出来ごとであったのは同じであります。


さあそれでかなりユニークなことはバパは「4つのナフスと4つのロホを対応させた事」であります。

この対応付けは「従来の伝統的な流れの中には見当たらない、バパ独自のもの」の様に見受けられます。

但し、現代のジャワイスラムでも「ロホ ロハ二は4つのナフスをコントロールできるもの」とするとらえ方があることには注意が必要ではありますが、、、。


こうやってインドネシアでは理解するにはまことにやっかいな「ロホ+ナフス システム」が誕生してしまったのでありました。

PS
バパのトークで気をつけなければいけない点、それはナフスを上げる順序です。

物質力にはアマラー(nafsu amarah:赤)が、そうして植物力にはアルアマー(nafsu aluama:黒)がいつも対応しています。

ですので4つの諸力の順番にならべる場合は1、アマラーamarahーー>2、アルアマーaluama ・・・となります。
(70・12・5、72・11・3、85・6・25、85・7・2 etc)

しかしながら単にナフスの事を述べる場合(諸力との関係を言わない場合)はインドネシアの伝統にそった順番になります。

つまり1、アルアマーー>2、アマラー ・・・と順序が逆転するのでありました。
(57・9・29、59・8・6、59・8・7、63・9・13、81・6・18 etc)

そうして、二代目の並べ方は常に後者であります。
(99・12・16、01・7・12、02・2・28、02・3・3、03・2・14 etc)


そういえば2代目のトークではスシラ ブディ ダルマであつかわれている物質力から始まる4つの諸力についての言及がほとんど無いようであります。

そうして、この4つの諸力を介して我々は世界と、社会と、文化と、人々と相互作用をするものでありますれば、この事に注目しないということと、2代目の内向きの態度と言うものの間にはなにやら関係がありそうな気がいたします。(16.10.1)

追記
残念ですが植物力にアマラーamarahを、あるいは物質力にアルアマーaluamaを対応させているトークが見つかりました。

ですので、上記の対応関係は基本的にはそうである、という程度にご理解願います。

そしてこの件につきましては、ページを改めてまとめたいと思います。(16.10.8)

PS
上記と同じ内容を別の表現で、つまりJiwa(ジワ)とSukma(スクマ)を使って説明したトークもあります。ーー>(59OSL3:59・8・7オスロー)

・・・ですから、JiwaはSukmaを満たし、目覚めさせ、命を与える生命力です。

それによってSukmaは本当に働くのです。

そしてSukmaはこの粗い肉体の精妙体です。

実際にはSukmaは一つではなく五つあります。・・・

そうして「バパは人の形をしたバパ自身のSukmaを見たことがあります。」・・・と続きます。

5つのSukmaはジャワの5人兄弟の教えに対応しており、その内の4つが4つのナフス(Nafsu)に対応していることは前述した通りです。<--リンク

それから、Jiwaについてはこちらを参照願います。<--リンク


対応関係を整理すると、Jiwa≒Roh 、Sukma=Nafsu ということになります。

この対応関係のキーはジャワに古くから伝わる「4人兄弟+主人公=>5人兄弟の教え」です。

この教えを媒介にしてSukmaとNafsuが結びつき、その結果JiwaとRohの対応関係が生まれたように見えます。


JiwaとSukmaはもともとサンスクリット語が起源の様です。

つまり、生まれはインドということになります。

そうしてヒンドゥー教や仏教とともにジャワに伝わったのでしょう。

RohとNafsu(語源はNafs)はアラブで生まれ、イスラム教とともにジャワに伝わりました。

そうやって伝わった4つのコトバが最終的にバパの中で結び付けられました。

そうして、この多様性、複雑さはジャワという土地ならではのもののように思われます。


PS
Nafsu mutmina(ナフス ムトマイナー)には注意が必要です。

上記70・12・5 チランダ ではムトマイナーは「普通の人間的生命力」と結び付けられて説明されていますが、63・5・13 サンチアゴ では「普通の人間力」(ジャスマニ)ではなく「完成された人間力」(ロハ二)に近いように記述されています。

そうしてムトマイナーをそのように「高級な欲望」として他の3つの欲望から区別して扱うやり方はジャワ神秘主義(クバティナン)においても見ることができるものであります。

こうして、ジャワの伝統とイスラム神秘主義との融合を試みたバパの説明ではありますが、やはりそこには多少とも無理をした様な跡が、時と場所によっては違う説明内容と受け取れるものになってしまう様な事がある様であります。


PS
バパ独自の世界観をもう一つ。

7層の生命世界の構造はすでにお話した通りであります。

しかしながらバパはそれに加えて「それぞれの生命世界はまた7層の内部構造をもつ」と説明しています。

これではお話が非常に複雑になってしまいます。

そうして、もちろん伝統的な考え方には似たものがありません。

という訳で、詳細は原典を参照ねがいます。-->(63・3・30 AKL)

追伸(2018・9月)
バパはなぜ「7層の生命世界の構造はすでにお話した通りであります。
しかしながらバパはそれに加えて「それぞれの生命世界はまた7層の内部構造をもつ」と説明しています。

それは現世に生きる人間の中のジワがその7つのどのレベルにも存在可能であるから、と言うのが理由の様です。
つまり物質のレベルからラバニと呼ばれるレベルまでです。

人間力以下の4つのレベルには人間が4つのナフスを使う事もあり、そのいずれの世界に対しても人は親和性を持つようです。
そうして、実際にバパに言わせれば「人間力レベルのジワを持つ人はほとんどいない。」という事であり、良くて動物力レベルのジワ、多くは物質力レベルのジワの持ち主である、とされます。

さて、そのようである我々が死後に向かう事になる世界、死後の生命世界はどこになるのでしょうか?
たとえば、一番多いとされる物質力レベルのジワを持った人が亡くなりました。
その人のジワはどこに行くのでしょうか?

ロハニでない事だけは確かです。

それで、考えられる可能性は2つ。
そのようなジワの状況でもジャスマニレベルの世界にとどまる、という可能性が一つ。
もう一つは物質の世界に落ち込んでしまう、という可能性があります。

まずは人間の世界にとどまって、しかしそのジワの状態は物質力レベルと親和性が高いという状況が一つ、考えられます。
このようなジワは多分物質力レベルにあるジワをもつ2人の男女の性行為にひきつけられる事になるでしょう。
つまり「人としてリンカネーションする」という事になりそうです。

他方で、本当に物質力にのみ目を向けてそれを追い求めた場合はどうなるのでしょうか?
そのようなジワはジャスマニの世界、人間の世界をはなれて物質の世界に入り込むことになると、そのようにスシラ・ブディ・ダルマは言うのであります。<--リンク
そうして、そのようなジワがまた人間として再誕生する、という事の可能性はゼロではないものの、なかなか難しいという事は明らかな事なのであります。
(まずは物質の世界から抜け出して人の世界に戻らなくてはなりません。
人の世界に戻って、しかしながら物質力と親和性が高いジワである、という状況にまで移動する必要があります。)

さてそういうわけで、ジャスマニレベルの生命世界にも動物力レベルから物質力レベルの内部構造をもつ、という事が明らかになるのであります。

ちなみに、現世にはジャスマニレベルのジワで生まれたが、ラティハンによってロハニレベル(聖人レベル)、あるいはラフマニレベル(預言者レベル)に到達する方もいるでしょう。
そうであれば、現世の人間のジワのレベルは7つのレベルのいずれにも存在可能である、と言うのであります。

PS
ワヤンの演目からの参照。
16. Bima Bungkus<--リンク
  ビモ・ブンクス

 このラコン(Lakon演目)はラコン・パクムに属し、アスティノ王妃デウィ・クンティがバトロ・バユを迎え、第二子を誕生させることが語られる。 

 その赤子は厚い皮に覆われた固まりで誕生した。様々な武器がその表皮を破る為に使用されたが成功しなかった。
ブガワン・アビヨソの命により、包まれたままの赤子はガジャ・セノ象の前に運ばれた。

その時、バトロ・バユが聖なる象の体内に入り、踏みつけられ、牙に突かれて、赤子のえなが破れた。

 そのときまた、えなの中にはバタリ・ウモが入り、バユ専用の衣服、カムプ・ポルン・バン・ビントゥル・アジを着せた。
えなから出た赤子のビモは既に衣装を整えていた。

 破れると共に竜巻が起こり、えなをシンドゥ・カランガン国へ飛ばした。
かくてビモのえなは、ブガワン・スムパニの膝元に落ち、ジョヨドロトという武将となった。

 このラコン・パクムはわりと有名で、しばしば演題に昇る。


PS
ワヤンとその登場人物 マハバラタ 第31章
1976年11月28日  ユダ・ミングさんのジャワ神秘主義によるビモ・ブンクス解説<--りんく

31. ウルクドロは自分自身と邂逅し合一したが、責務を負うサトリアとして生きた

●ブンクス〈羊膜〉を破る
 ビモはブンクスに包まれたままこの世に生まれた。(ビモはウルクドロの別名で、デワルチの主人公:引用注))
彼をこの世に出現させることができるのはシヴァ神だけであった(バタリ・ウモとして表される)。

これは、すべての人間が『現前』(生まれ出る前の世界)、つまり『空』なる世界にあるとき、宿運を負った世界に現れる以前に彼に触れることのできる力を持つのはマハ・ガイブ Maha Gaib 〈大いなる神秘の神〉のみであることを表す(ウモはシヴァの超能力を象徴する)。

数年間ビモのブンクスはセトロ・ゴンドラユ Setra Gandalayu 〈バタリ・ドゥルゴ(ウモ)の支配する精霊界〉に止めおかれ、誰もそのブンクスを破る(赤子を産む)ことはできなかった。

 ビモ・ブンクスを破ったのはガジャ・セノ Gajah Sena (シヴァの息子)という象であった。
ブンクスを破った後、ガジャ・セノはビモと一体となった。
かくてビモはブロトセノ Bratasena 〈セノの創りし者〉と名付けられた。

というわけで、ワヤンの時代にも帝王切開のできる外科医がいたのである。
その時代、メスはなかったが象の牙があったのだ。

どうして象牙が『外科医』のシムボルとなったのか?
それは多分、バトロ・ゴノBatara Gana 〈シヴァの息子ガネーシャ。象の頭を持つ〉が『知』、『知識』の象徴であり、その『牙』〈象牙〉が『力』、『鋭さ』の象徴とされたからであろう。


 現世に現れたとき、セノは何も知らない状態だった。(セノはビモの別名:引用注))
なぜか?
厚い障壁(ワラナ warana またヒジャーブ hijab〈覆い〉)が自身を覆っていたからだ。

ワラナとは何か?
ワラナと呼ばれるものは、『人間の欲望』に他ならない。
ビモのように、『強欲、欲望を退ける』ことのできる人だけが自分自身、つまり自身の真の姿デウォ・ルチ Dewa Ruci と邂逅し、『彼の方』〈唯一神=トゥハン〉と一体となることができるのである。


 宗教は教えてくれる、自分自身を知る者は、誰あろうとかならず『トゥハン』を知るであろう、と。
『彼』を知ることは人間を知るようには容易ではないが、真摯に、平静に、強く、確固として迷い無く「行」を為せばかならず知ることができる。

ウェドトモに言う。
 『 Ngelmu iku kalakone kanti laku, lakune lawankas, tegese kas nyantosani, setya budya pangekese dur angkara. 』

 『英知(マーリファト)は真摯なる「行」(タリカット)を続けて生きる者が、平穏、すなわち悪しき欲望を退ける手立てとしての認識に対する平静さを得て初めて実現し得るものである。」


 詩節プチュン Pucung では、マーリファトのレベルを導いてくれる『行 laku 』を説明している( tur wus manggon pamucunging mring ma'rifat )。
先に挙げたシノム Sinom 詩節の最終連にある声明は、マーリファトへと導いてくれる『行法 tata laku 』以外のものではない。

この「行」はイスラーム・クバティナン〈クバティナン=ジャワ土着の信仰〉の教義において、タリカットと呼ばれるものであり、ウェドトモにおいては『スムバ・カルブ sembah kalbu 』と呼ばれる「行」である。

 であるから、『行 laku 』、『タリカット』、『タオ tao 』(支那のクバティナン〈道教〉)とは、神秘主義者、スーフィーがマーリファト、また『ウジュン/プチュック ujung / pucuk 』のレベルに到達するために通らなければならない道のことである。


スーフィーが通らねばならないこの道は容易なものではなく、ひとつのマカーム maqam すなわち段階 stasion に何年も費やす必要のある困難で険しい道である。<--リンク

 そして努力したとしても、自動的に『彼』と邂逅できるわけでもない。

人が『彼』にいたるには、『彼』を求め、『彼』へのリドー Ridho〈神への愛〉を保ち、神の恩寵を待つしかないのである。


●自身との邂逅
 人間は神〈トゥハン〉と出会うことができるのか?
答えはできる、である。
聖書に言う。
 『おお人間よ、真摯に神を求め続けるなら、きっと『彼』に出会うことができるだろう』(S.84;6)〈所出不詳〉

 『あなたがたはわたしを尋ね求めて、わたしに会う。もしあなたがたが一心にわたしを尋ね求めるならば、』(Jer.29; 13)〈エレミヤ書29章13節〉

 ビモ・セノもまたそうであった。(デワルチの主人公:引用注)
年月を惜しまず自分自身を求め、彼は現世の師であるドゥルノ Drona に尋ねた。

師の命令であれば、どれほど奇妙でも、不合理でも、不可能と思えることでも従わねばならない。
これこそがタリカット、「行」、「タオ〈道〉」なのだ。
師に背くような弟子はタリカットをなし得た自身を見出すことはけしてできないのである。
・・・・・・・・

 その方法は真摯なる努力であり、かくてミスティカル・ユニオン mistical union (神秘的合一)に到達する。
それはウェドトモの72と76詩節によればこのようである。

 『 Krasaning urip iku, Krana momor pamoning sawujud [ mystical union ], Wujudullah sumrambah ngalam sakalir, Lir manis kalawan madu, Endi arane ing kono. 』(ガムブ 76)

 「生の感覚とは、宇宙にあまねくトゥハンの意志、その意志との合一に由来する。
蜂蜜の甘さのごとき甘き感覚。
その名を誰が知ろうか。」

1976年11月28日 ユダ・ミング著

PS
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バパの語りしトークなど

2014-06-19 | 日記
記事一覧  バパの語りしトークなど

・バパのリンカネーション論(輪廻転生論)

・ジワJiwaとスクマSukmaの物語(その1・バパと二代目の認識)

・ジワJiwaとスクマSukmaの物語(その2・インド哲学、ヒンドゥー教各派での扱い)

・バパの”人間の種( human seed:biji manusia)と子作りの論”・生まれ来る時

・バパの結婚と礼拝の論

・スシラ ブディ ダルマ・3章 ナフスamarah(怒り)とナフスaluamah(貪り)

・バパのカルマ論

・スシラ ブディ ダルマ・はじめに

・バパの魂(jiwa、Daia)あるいはロホ(Roh)の概念・1

・バパの世界観とラティハン 1

・バパのカリスマ性

・インドネシアのクバティナン事情1

・ジワJiwa Jivaの論

・「バパのイスラム」とは何か

・ロホとナフスの物語(その4、バパ独自の7+2 ロホシステム)

・トークの解釈

・唯一神への信仰

・始まりの物語(インドネシア独立の歴史とバパの歩み

・ラティハンは家を建てる為の技術

・バパ、トークで間違える

・未来は決められているのか?

・バパ、100年先を予測する。

・スシラ ブディ ダルマ・5章 人の内部性質と4種類の土地

・iPad(アイパッド)

・月をさす指

・トークは「教え」か

・トークと宗教

・健忘症

・生まれ変わり

・トークの読み方

・知る者は言わず、言う者は知らず

・時の中でバパを想う

・バパが受けたもの


・ラティハン日記 目次に戻る。<--リンク

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ラティハンとは何か

2014-06-10 | 日記
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ラティハンの説明

・ラティハンの説明

・ラティハンの説明・2

・ラティハンのもう一つの説明

・ラティハンのもう一つの説明・2

・「翻訳する」ということ

・雑記帳6・ラティハンからの照明

・インドネシアのクバティナン事情5

・雑記帳1・ラティハンが到来した意味2017/8/23

・雑記帳30・ラティハンの目的

・雑記帳15・バパの平和論、あるいは人類救済計画

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ラティハンという道 その1

・等価交換則あるいは修行論

・無くて七癖

・ラティハンを3年でわかれば天才

・自由というもの

・ごっつんこの数

・ラティハンの進歩

・ラティハンだけよくすることはできない

・神秘的体験とラティハンと

・雑記帳32・ラティハンと信仰心

・唯一神への信仰

・唯一の神( Tuhan Yang Maha Esa)

・オープンをお考えのあなたに。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ラティハンという道 その2

・バパのリンカネーション論(輪廻転生論)

・バパの”人間の種( human seed:biji manusia)と誕生論”

・バパの結婚と礼拝の論

・バパのカルマ論

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ラティハンの普及

・ラティハンの普及を阻害するもの

・入口におかれた石ころ

・名目成長率

・ラティハンの広がり(検証結果)

・ラティハンとその宗教別人口比率(2

・ラティハンとその宗教別人口比率(1)

・雑記帳8・ラティハンと宗教

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地球に定められし時

2012-12-07 | 日記
やがて太陽は中心温度が上昇し赤色巨星になり膨らみ始めます。

曜日はわかりませんが、今から50億年後あたりでしょうか。

地球の公転軌道を超えて膨らみますので、見事に地球は蒸発、
太陽に吸収され消滅します。


ジャイナ教ではサンサーラといいます。

仏教では輪廻といいます。

西洋ではリンカネーションといいますかね。

バラモン教やヒンドゥー教にも記述があります。

生まれ変わり、死に変わりして地球に住み続けることです。


我々がこの世に来るときには「泣きながら」来るくせに、一度暮らして
馴染んでしまうと「住めば都」でもう帰りたがりません。

それほどこの世の生活は煩悩具足の我々には吸引力があります。

このあたりの情景は先達がたの問答にも出てきますね。

「浄土は良いところだと聞いてはいますが、何故か今すぐ行きたいと
いう程でもありません。」という訳です。


さて、地球が消滅したらどうなるのでしょうか?

バパにいわせると「ようやく解放される」と。

それまでは地球の魅力に引きずられての長い長い地球暮らしでした。

でも地球がなくなれば頼るものがなくなりますね。


でもそれで地球から解放されるのでは少々遅すぎます。

地球を構成している物質レベル、元素レベルとおんなじですもの。

そうなる前にちゃんと予定の場所に行っていなくてはいけません。

そういうのが人間だと。

そうなる為のラティハンだと。

バパはそう言っているように思われます。


57CSP8.14

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雑記帳31・「バパのイスラム」とは何か・2(7つのロホ)

1987-09-02 | 日記
バパの説明が我々に分かりにくい、という主な理由は単に情報量が不足している、と言うだけの事の様である。
バパの常識と我々の常識が違う、という事である。

それゆえ、我々が「神秘的だ」とか「初めて聞いた真実だ」などと感じていた事が、ジャワでは単なる常識に過ぎなかった、という事になる。
これではまるで「笑い話」である。


まあそれはさておき、7つのロホについて、「それはイスラムですでに言われている事だが、、、」とバパが認めているトークがあります。
そうであれば、「バパのイスラム」はそのようなイスラムであって、主流派のイスラムとは内容が違うものである事がここでも分かるのです。

実際、ジャワにはスーフィーズムの影響を受けた多様なイスラムが存在しています。
そうして、バパのイスラムもそのような多様なイスラムの中の一つであったと思われます。
(このあたり、日本における仏教諸派の存在と相似的です。
しかも、日本で「仏教」と呼んでいるものはいわゆる「日本仏教」であり、このあたりの風景もジャワにおけるイスラムが「ジャワイスラム」と呼ばれているという事と重なりあうのであります。)

3月18日、1983年 バパ
『オープンは、神の御心によって神の力が人にもたらされる瞬間です。
この私の生命の中に、それを取り巻く別の生命があります。
そして人間はそれを感じることができます。

あなたの生命は人間の孤立した生命だとは思わないでください。
そうではありません。

人間としてのあなたの生命は、以下に述べるようなあらゆる種類の生命で満たされています。
それらはイスラムの中では次のように言われています。<--リンク
物質の生命力、あるいはロホ ライワニ Roh Raiwani、
植物の生命力、あるいはロホ ナバティ Roh Nabati、
動物の生命力、あるいはロホ へワ二 Roh Hewani、
人間の生命力、肉体の生命力あるいはロホ ジャスマニ  Roh Jasmani、
そうしてロホ ロハ二 Roh Rohani、見ることができないが、本当にあなたの生命を強くする生命力があります。

もしそうだとすれば、次の様にに言いたい人がいます。
ロホ・ロハニ Roh Rohani は、信仰に篤い者、本性がイスラムの人々です。
それでも、人類が調和していることを望むなら、実際にはこれらの言葉を使用することは許されません。
それは単に次のように言うのがより良いのです。

それは素晴らしいロホ、今日では「モラリティー:道徳性」と呼ばれる、身につける様に努力し、従っていくのにふさわしいものによって満たされているロホであります。

その上に、まだ他の生命力、すなわちロホ ラフマニ Roh Rachmaniがありますが、それはより高く、より幅広く、より包括的なロホです。
ロホ ラバニ Roh Rabani、それを我々が "高い"と言うならば、それは他のものの上にあるように見えるのに対し、実際にはそれはそれらを包含するものです。

これが意味する事は実際には最も低い生命力である材料の生命力は実際には真中にあり、その上および下には野菜、動物、人間、ロカニ rochani、ラクマニ rachmani、ラバニ rabaniがあることになります。
(注:上及び下とありますが、実際には低次のものを包み込むようにそれより高いものが存在している、という、これはバパの説明によく表れるイメージです。)』

PS
さて、上記のように7つのロホ、あるいは生命力はバパが言及する前にすでにジャワイスラムでは周知の事として扱われていました。

そうなると、一体バパのユニークさ、独自性は何なのだ、という事になります。

従来の言及ではそれら7つのロホは人の体の中に存在し、いろいろな機能を果たしている、というものでした。<--リンク

しかしバパはそれら7つのロホを、人の体の内部に存在するもの、というだけではなく、それぞれのロホが帰属する天、生命力の7つの世界が人の存在を超えてその外部に存在するのだ、と主張しました。

そうして、人間力以下の4つの世界はこの地球上に限定されて存在し、ロハニ以上の世界はこの地球を超えた所に存在する、と規定しました。

加えて、人間力以下の4つの世界が地上でのリンカネーションの舞台であり、それを超えたロハニという世界が人間の魂(ジワ)が本来住むべき場所、天国であるとしました。
・・・・・
とまあ、そういう事の様であります。


さて、バパに言わせれば「ジワは永遠のものである」という事になります。

つまり「死を体験することは無い」のです。

そうであれば我々は死なないのでしょうか?

いいえ、我々の生物学的な、生理的な頭脳に起因している事による自我意識、思考心と感情心は死によって消えてしまう、とバパは言います。

しかしながら、その時までに自分のジワが目覚め、ロハニレベルまで到達したジワは自分の名前を持つ、とされています。

そのようなジワにとっては「死は存在しない」という事をバパは言っているのです。

そこまで到達しないジワはどうなるのでしょうか?

そのようなジワはリンカネーションの対象になります。

そうして、そのようなジワは自分の名前を持ちませんから、「前世の記憶はない」のです。

これが通常、我々がこの世に生を受けた時の状況になります。


さてバパの主張と、通常、他の宗教やスピリチュアリズムで言われている事の最大の相違はこのジワ(魂)の性質、挙動、中身についてであります。

通常は何もしなくても「魂は目覚めて活動している」とされます。

しかしバパは、「もはや我々の時代では魂は眠りこけている」としています。

それを目覚めさせるのがラティハンになります。

正式名はラティハン・クジワアンと言います。

直訳は「魂の訓練」とでもなりますか。

眠っている魂にはまずは起きてもらわなければならない、という事になります。


そうやって起こされた魂(ジワ)が体の各部分に浸透していく時に「意図しない運動」が起こります。

バパが世界で最初に体験し、オープンする事で新しい会員が体験するものがこれになります。

この理由を持って「通常は魂(ジワ)は眠っている」と主張する事になります。


ちなみにこの状態は心理学の用語で普通は「解離」と呼ばれている状態に似ています。<--リンク

そうしてこのような主張をする方も会員の中にはおられます。<--リンク

しかしながら、最初は「自分の意思でもないのに体が勝手に動き、泣いたり、笑ったり、声を出したり、、、」と言う様な状況の奇妙な感じは時間がたつにつれて、ラティハンの経験をかさねるにつれて、無くなっていく様です。

それをバパは心(思考心、感情心、ナフス)とジワが並行して働く、協調して働くようになる、と表現しています。

二つがオーバーラップしてこの世の生活を体験していくのです。

そうなってようやくジワ(魂)がこの地球上の出来事を記憶するようになり、自分が誰で、どのような名前を持っているのかが自覚できるようになる、とバパは言います。

さてそういうわけで先は長い、道は長いのでありますから、寄り道などをして遊んでいる暇はない事になります。

追記
ご参考までに。
「バパのイスラム」とは何か <--リンク

PS
「雑記帳・目次」にはこちらから入れます。<--リンク


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雑記帳28・バパの「私」構成論と欲望(ナフス)統御論

1987-08-26 | 日記
バパのトークを読んでいく上で特に難しいのは「私」という概念である。

これはバパが使っているモデルが通常の我々が使っている心理学的なモデルと異なっている、というのがその理由になる。

もう一つの理由は、「人間についての説明モデル」がバパの中には何種類もあって、それが十分に説明されることなくトークの中で使われる、という状況に由来している。

そうして、それらの事は結局のところ、そのような多様なモデルを説明してみた所で、それらは思考の対象になるだけで、ラティハンの進歩には結びつかない、というバパの思いがある様に見受けられます。

したがって、「説明は必要最小限で、、、。」というのがバパの方針の様で、そうであれば後日バパの考えていたことを再構成するのはとても大変な作業になってしまうのでした。

その事は「バパの説明のまとめ、あるいはラティハンの説明というのはとても難しい」ということと相似的な状況であります。


さて、人体講成論としての「三体論」は二代目によって割と多く語られたので、それをまとめる事が可能でした。
「三体論」1<--リンク
「三体論」2<--リンク

この三体論はJiwa-Sukma-肉体という3層構造を人の体の構造と見るものです。

しかしながらこれはもっぱらのところ、JiwaがSukmaを満たし、Sukmaが肉体にエネルギーを与えてその結果肉体が動く、というようなモデルであります。


そではなくて、もう少し心理学的な、心の構成についての話はないのか、ということで完結した話にはなりませんが、以下1963年7月25日 ブライアクリフ トークから、関係のありそうな所を引用しておきます。

『・・・あなた方の内部には3つのものが存在します。
一番目のものは神の力であり、それはあなた方がオープンを受ける時に現れます。
(注:これはロホ イロフィのことと思われる。)
二番目のものは、あなた方の内部に植えられた完成した人間の魂です。
(注:これはロホ ロハ二のことと思われる。)
そして三番目はあなた方の既存の中身、あなた方の魂(Jiwa)ですが、それは各人異なっているので、バパはそれを表現することができません。
さて、ラティハンを通して、この三番目のものは今いる場所から動かされ、もともといるべき場所、あなた方の人間的な魂(Jiwa)が占めるべき場所へと戻るでしょう。』

「この三番目のものは今いる場所から動かされ、もともといるべき場所」に戻るでしょう。

この一文がラティハンの説明になっています。

さて「今いる場所」というのはどこでしょうか?

それは物質力レベルであったり植物力レベル、あるいは動物力レベルであったりします。

そうして幸運であれば人間力レベルでありましょう。

しかしながらそこが最終目的地ではなく、最後にたどり着くべき所はロハ二 レベルなのであります。

その場所が我々のJiwaが「もともといるべき場所」と言う事になります。

さて上記の様な説明方法ですと、あたかも場所の移動のように表現されていますが、状況はそうではなくて、各人のJiwaがそのように成長する、小さなJiwaから大きなJiwaになっていく、低いレベルから高いレベルになっていく、そういう事であります。


『・・・それゆえ低次の諸力に支配されることについて心配しないで下さい。
それらは確かに障害物ではありますが、それらの力は実はあなた方自身なのです。
従って、あなた方の邪魔をするこれらのものをあなた方が取り除きたいと願うのであれば、それは、あなた方自身を取り去る事を意味します。
それは困難な事です、皆さん。
自分に準備が出来ていないのに自分自身を取り去ろうと努めれば、あなた方は死を体験するでしょう。
本当の死です。
しかし、あなた方がそのような事をしなければ、あなた方は死にはせず、魂(Jiwa)の変化、自分の内部の中身の変化という形の死を経験するでしょう。
それゆえ、低次の諸力を取り除こうという努力をする必要はないのです。
ラティハンをするだけで十分です。
そうすれば、すべては自然に生じるでしょう。』

自分に準備が出来ていないのに自分自身を取り去ろうと努めれば、あなた方は死を体験するでしょう。

飲まず食わず、眠らず、そうやって自分自身の身体的な欲望、欲求を殺していった人たちが実際に存在します。

しかしながらそのような形の「即身仏」をバパは認めないのであります。

そうではなくて、それらの諸力はバランスをとって統合してゆくものである、というものがバパの主張であり、そのための手段がラティハンなのであります。

その結果が「Jiwa(魂)が本来のレベルに戻る、本来の場所に帰る。」とバパは言うのであります。

そうして、その場所はリンカネーション(輪廻転生)からは自由になった場所であります。

(続く)

PS
『ラティハンをするだけで十分です。
そうすれば、すべては自然に生じるでしょう。』

このメッセージは難しいものです。

単に「ラティハンをやっていれば全てうまくいく」というような誤解、それは今となれば「明らかな誤解」であることは明白なのですが、そのように受け取ってしまう状況がありました。


自分の体を「即身仏」にしてしまうのは間違いでしょう。(たぶん)

しかしながら「ラティハンをやっていればそれでOK」というのも間違いです。

そのあたり、こちらの記事を参照願います。<--リンク

PS
心の働きについて知、情、意という心理学上の分類方法があります。

これは英語ではマインド、ハート、そしてモチベーション、あるいは欲望(desire)でしょうか。

それをバパが使うコトバでいえばマインドは思考力、ハートは感情でしょうか。

そうして欲望、あるいはモチベーションはナフスと言う事になりそうです。

バパによればナフス(Nafsu)は思考力やハートを駆動させるもの、エネルギーを与えるものという位置づけです。


他方でジワ(Jiwa)あるいはロホ(Roh)はそのナフスにエネルギーを与えるもの、ナフスを駆動するものという位置づけです。

このような構造の中で、ラティハンはジワあるいはロホを訓練することにより、4つの低次のロホの間には調和をもたらし、他方でジワには成長をもたらすものになります。

こうして調和に到達した4つの低次のロホによって4つのナフスの間にも調和がうまれ、それと同時にジワが成長してロハ二レベルに至る、というのがその道筋になります。

これが従来の欲望の制御、あるいは欲望の消滅をめざして行われるさまざまな修行方法との著しい相違になります。


バパのモデルによれば意思による欲望の制御というのは、ある一つの欲望(意思)でほかの欲望を押さえつけるようなものであります。

他方でラティハンによる欲望の制御は、欲望を支えている、それにエネルギーを与えている4つのロホ、4つの生命力を整える事によりますので、より基本的な、根本的なところからの改善によるものになります。

したがってそれは一つの願い、意思によってそれ以外の意思、衝動、欲望を押さえつける、という方法ではなく、願いや欲望を支えている、それにエネルギーを与えているものを改善する事により欲望を統御するものなのであります。

それゆえにそれは「ラティハンを継続してゆくことにより、加えてラティハンの指し示す方向に自分を添わせることにより、欲望が自然に統御される状態になる」と表現されるのであります。


注1:自我(Pribadi)というコトバについて
インドネシア語でPribadi、ネットで調べると「個人の,プラベートな」と形容詞的な訳がのっています。
それを名詞的に使うとすると「個人」あるいは「一人の人格」程度の意味かと思われます。

それで協会の英訳では「Self」、和訳で「自我」となってます。
Diri(内部)をつけてDiri Pribadiで内部自我、英語でinner self となります。

さて、バパが使うコトバ、そして当然スシラ ブディ ダルマの中にも登場してくるキーワードで日本人と西洋人になじみがないのが以下のインドネシア語になります。
ジワJiwa(Soul,魂)、
プリバディPribadi(Self,自我)、
ラサディリRasa diri(inner feeling,内部感覚)。
ここでは当面この三つに注目します。

最初はジワJiwa(Soul,魂)についてです。
旧版のスシラ ブディ ダルマの冒頭では「人間の内部自我の霊的な中身である力」とあります。
ロホRohもそうですが、ジワJiwaも「力」という側面と存在としてのかたまり、しいていえば「霊」というような側面と二重の意味を持たせている様です。
「力」という意味は「これによって人は動く」という事です。
あるいは「これが意思し希望し要求し欲望する」という事です。
ですから単に(Soul,魂)というのとは違っていますが、ほかに妥当なコトバがないのでその言葉をあてている、と言った所でしょうか。

そうして、この存在、ジワJiwaが転生の主体であって、永遠の存在である、とバパは言います。
あるいは、人に関連した中では一番神の力に近い存在であるような記述もあります。
しかし、この存在にはいわゆる「人格」というものは無いかの様です。
その人格という側面を表すのがプリバディPribadiというコトバになる、つまりJiwaとPribadiは一つレベルが違う様です。
そして、ジワJiwaについてはこちらの記事も参考願います。<--リンク

さてそれでプリバディPribadiですが、この中にラサディリRasa diri(内部感覚)とハートと頭脳(思考)が含まれる、というのがどうやらバパの想定している人間の心理学的な構造の様です。
そうでありますから「私」というのがまさに「プリバディPribadi」という事になるかと思われます。

ラサディリRasa diri(内部感覚)についての詳細はこちらの記事を参照願います。<--リンク
通常の我々が目にする心理学の用語の中にはもちろんラサディリRasa diri(内部感覚)に相当するものはありません。
したがって我々がこの言葉を理解するのはなかなか難しい事になります。

さて、以下はスシラ ブディ ダルマのなかに出てくるプリバディPribadi関連の部分です。

第5章 メガトルフ 47節~49節
『47、もしハートや頭脳に従えば、あなたにとって必要な神への礼拝に割く時間を見出す事は生涯ないであろう。(注:ここで言っている「神への礼拝」とはラティハンのことです。)
なぜなら、ハートや頭脳は、常に実体のない事柄に関心を抱くからである。

48、これこそ、まさにあなたが克服しなくてはならない状態である。
そうすればあなたの思考はもはや自我Pribadiを妨害しなくなるであろう。

49、さらに思考が障害とはならなくなった時、すなわちハートや頭脳がもはやあなたのラティハンを妨害しないようになれば、あなたの行動はより確固とした成熟したものになる。
そして、ハートと頭脳は、真に自我Pribadiの召使い、あるいは従僕となるであろう。』

第7章 ダンダングラ 16節
『16、これらはすべて、人間の内部感覚Rasa diriや頭脳が、さまざまな力(物質力やら植物力やら)によって満たされてしまい、人間の自我Pribadiの内部で猛威を振るうこれらの力の意思だけに奉仕する道具になってしまった為である。』

以上をまとめますと、人の霊的な部分を示すのがジワJiwaというコトバであり(この部分は通常は我々は認識できません)、それと関連を持ちながら通常我々が認識できる心理学的な部分、それがプリバディPribadiですが、この中にラサディリRasa diri(内部感覚)とハートと頭脳(思考)が含まれる、そういう事になります。

そうしてそれが肉体の中におさまっている、という3層構造をバパは、そうしてスシラ ブディ ダルマは前提としている様です。

ちなみに、この3層構造の別の観点からの説明はこちらの記事を参照願います。<--リンク

PS
とはいえプリバディPribadiの定義はなかなかに難しいのです。
それはまさにインドネシア人の、インドネシア語の、我々の目には「あいまいさ」とみえる性格によるものの様に思われます。

第3章 キナンティ 38節
『38、自己Pribadiの真の存在にすでに気が付いている人にとって、正しい道というのはこのようなものである。
その為、外側では(注:世の中の生活では)自分の頭脳を精一杯使って、あらゆる種類の仕事をしていても、彼は頭脳と内部自我Diri Pribadiとの境界線を意識している。
物質的な物事にだけ関心を持っている人々の場合は、そうはいかない。
(注訳:人間の中にはジワJiwaと呼ばれるレベルの存在がある、ということを体験し認識していない人々の場合はそうはいかない。)』

この章句では内部自我と頭脳とを並列の存在として記述している様です。
まあそのぐらい「自由に」コトバを使って行くのが詩編:スシラ ブディ ダルマなのであります。


PS
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ジワ(Jiwa)と転生の物語

1987-08-16 | 日記
・ジワ(jiwa),ジーヴァ (jīva)の論<--リンク
「転生がある」とバパはいいます。
「全ての人は輪廻の輪の中につかまっている」と。
そうしてその場合、死ぬことがなく、永遠に転生し続ける主体がジワ(jiwa)になります。

・健忘症<--リンク
人は2度物忘れをします。
一回目は生まれ来る時に。
そうして二回目は死にゆく時であります。

生まれ来る時の物語
・バパの”人間の種( human seed:biji manusia)と誕生論”<--リンク
人はこのようにして新たな人生をスタートするという、そういうお話です。

人が死にゆく時の物語、そうしてまた再び地上に転生します。
・生まれ変わり<--リンク
・バパのリンカネーション論(輪廻転生論)<--リンク

インドにおけるJiwa(ジバJiva)と転生のお話です。
・ジワJiwaとスクマSukmaの物語(その2・インド哲学、ヒンドゥー教各派での扱い)<--リンク

・バパのカルマ論<--リンク
通常のリンカネーション論ではカルマが原動力となって輪廻転生が起こると説明されています。
それに対してバパはカルマの存在を認めるのですが、それは輪廻転生を引き起こすものではない、と主張します。
そうして、輪廻転生を引き起こすものは我々の間違い、この世の生活へのあこがれ、地球に対する執着心であるといいます。


おまけ
・人間は死んだらどうなるか<--リンク
・地球に定められし時<--リンク
・日本人の魂(jiwa)の極楽(天国)<--リンク
・雑記帳23・アブラハムの宗教に従う人たち<--リンク



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雑記帳18・まとめ方で180度変わるもの

1987-08-04 | 日記
バパのトークを参照、引用しながらガイドブックが何冊も作られてきました。

しかしながらそれらのものはすべて「バパはイスラムであるから、このラティハンはアブラハムの宗教の系列に属するものである」という暗黙の了解のもとに編集されていました。

何の話をしているか、といいますと、バパが認めたであろうリンカネーションについて、詳細に論じたものがそこには見当たらない、ということであります。

つまり、アブラハムの宗教の系統では「リンカネーションは存在しない」ということに、一般的にはなっており、これらの、今までのガイドブックはすべてその考え方の下で作られています。

しかしながら、これはバパの考え方、認識を著しく誤解したものです。

さてそれで我々はそのような「予断的な偏見」にとらわれることなく、バパのトークを読み、理解し、納得してゆく必要があります。
(2017,9,23、記)

PS
この話、協会の中での仏教とヒンドゥー教の復権につながるか、という期待があります。

そうなれば、いまのアブラハムの宗教系列に偏ったラティハン人口分布も是正されるというものであります。

そうして名実ともに「協会は宗教、宗派を問わない」と言える状況への第一歩となるでありましょう。

是非ともそのようになりたいものでありますなあ。
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