ラティハン日記

ラティハンと人生の散歩道

ラティハンのもう一つの説明・2

2016-06-08 | 日記
さて、まずはバパのトークの引用から見ていきましょう。

「神の力」というのは「ロホ イロフィ」であるということ・・・の記述

77・9・17 モントリオール

しかし、常に私たちの誰にも宿っているこれらの物質力の影響を受けずに、神を礼拝するために、神はアダムにロホイロフィ、つまり神の力 をお与えになりました。
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神が人間の内部に置いたのはロホ イロフィであること。

ラティハンはロホ イロフィの働きによる、と言うこと。

77・7・20 オスロー

皆さん、要するに、皆さん自身すでに経験されたスブドの霊的ラティハンについて、バパが今まで話してきたことは、決して新しいことではありません。

これは人類の誕生以来、宗教が始まって以来ずっとあることなのです。

と申しますのは、皆さん、これはまことに神の御意志であり神がお創りになった被造物のすべてに対する神の御命令によるものなのです。

特に人間には、同じく神の御命令によって、思考や知性を所有するほかに、生きている間、与えられ、伴わせられ ているものがあります。

それは人間生活に対して指導指針を与える生命力であります。

そしてこの人間生活にとって指導・指針を与える生命力は、キリスト教では聖霊と呼ばれるものであり、イスラムではロホ・イロフィ、即ち導きの生命力と呼ばれるものです。


皆さんが本当にハートを静めることができ、忍耐と信仰と誠実な服従を以て神に服従することができる時、この生命力は起り、現われ、皆さん自身でも感じとることになるのです。

これは亦宗教で教えられることでもあります。

皆さん、そこで明らかなように、皆さんが受けて行う運動や行動は、神の創造物全体を導き指揮する生命力によって起されているのです。

そうして神の創造物全体がそれに従うことができ、その生活に伴う低次の諸力の影響からの分離を受けることができるのです。
・・・・・・
それは皆さんが、私達みんなが受けてきた霊的ラティハンの本性に基づいています。

これらのことが、人類の存在の始めよりこの方、ずっと人類に伴ってきたのは全く真実です。
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69・9・12 東京

つまりその時期には、赤ちゃんはまだ神の力に極めて近いところにいるからなのです。

赤ちゃんのジワはまだとても活き活きとしていますから、赤ちゃんが泣いたり、悲しい顔をする時は、そのジワ、その内部の霊性が何か悲しみを味わっていることを示しているのです。

しかし、この赤ちゃんが成長し年令を加えてきますと、だんだん現世とそのあらゆる影響を受けて、ついにはジワが 神の力との接触を完全に失ってしまうようになるのです。

ですから、年をとると、思考は物質力によって完全に支配され、世的影響が充満してしまうのであります。
・・・・・・・
今、あなた方が感じているラティハン・クジワアンは何か新しいものではないのです。

人類が生存しているのと同じ長さで存在しているものなのです。

あなた方は、これを何か奇妙で新しいことなどと感じることはないのです。

あなた方が生まれた時から既に、あなた方には贈られているものなのです。  

長い間、あなた方の中にあった大切なものを放っていたので、遂にそれが恰も、何か新しいものであるかのように感じるに到ったのです。

あなた方は、過去に於て、確かにそれに気付いていたのです。

あなた自身がそれを経験していたのです。

しかし、そのことは、この世に生まれ出てからは忘れ易く、記憶が薄れ易いようです。
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これらのトークは何をいっているのでしょうか?

「あなた方はだれでも生まれた時はラティハンを知っていたのですよ。」といってます。

当然そうなりますね。

「初めの人間」にイロフィが贈られたのですから、そのあとは順繰りに続いていきます。

さあそれゆえに、「ラティハンは人種、思想、信条、宗教をこえている」のです。

「思想、信条、宗教」は生まれた後で、自主的か環境的かは別にしても、「ラティハンより後で獲得したもの」だからですね。

ですので皆さん「オープンされればラティハンが始まる」とこういう仕組みであります。


以上が「ラティハンのもう一つの説明」の具体的な内容でありました。<--リンク

要約いたしますれば、バパ曰く

「神の力」というのは「ロホ イロフィ」であるということ。

ラティハンはロホ イロフィの働きによる、と言うこと。

神はアダムにロホ・イロフィを与えた。

したがってそれ以降、人類にはロホ・イロフィが常に伴っている。

赤ん坊の時にはまだこのつながりを認識しているが(ラティハンを体験しているが)、外界の認識がはっきりするのと引き換えに内部のこのつながりはぼんやりとしてくる。

子供が言葉を習得し、「私」なるものが登場するに及んではこのつながりは完全に忘れ去られる。

しかしながら、バパの登場により「私」が存在するようになった後でも、我々は希望すればこのつながりを再接続しラティハンを体験できるようになった。(そして、これは歴史上の事実であります。)

以上のようにして「7つと2つのロホが織りなす生命世界」という記述と、「赤ん坊はラティハンを知っている」という記述は結局一つのものに統合されるのでありました。


ちなみにキリスト教には「赤子のようにならなければ天国には入れない。」というコトバがあったかと思います。

そういう訳で、ここにもまた思いもかけず、奇妙な一致が見られるのでありました。

PS
ロホ・イロフィについては、「ロホとナフスの物語(その4、バパ独自の7+2 ロホシステム)」にも説明があります。<--リンク

PS
当然のことながら、ラティハンを初めて受けようと思う人は「ラティハンのソース(source:起源、みなもと)は何ですか?」という疑問をもち、質問します。

それに答えてバパは「この人間生活にとって指導・指針を与える生命力は、キリスト教では聖霊と呼ばれるものであり、イスラムではロホ・イロフィ、即ち導きの生命力と呼ばれるものです。 」と答えます。

インドネシアのイスラム教徒の約半数程度の方と(世界中の)キリスト教徒の方にはこの説明は一応は理解されます。

それらの方々が使うボキャブラリーの中にあるコトバで説明がなされているからであります。

しかしながら、世界中のイスラム教徒の多くの方とそれ以外の宗教の方、そうして宗教をお持ちでない方にはこの説明では到底理解されません。

自分たちが知らないコトバで説明されているからであります。


あるいは次のように誤解します。

「ラティハンというものはキリスト教関係の、そういう種類の一神教と関係したものなんだ。」

「だから、ラティハンというものはキリスト教徒ではない自分とは関係がないものなんだ。」とね。

そうして、このような誤解は致命的であります。

ラティハンというものは今ある自分から出発して、本当の自分にたどり着く道でありますから。

そして、本当の自分というものが自分とは関係がない、、、などという事は、誰にとってもありえないことなのでありますから。


さてそれに先立って実は「ラティハンのソース(source:起源)をコトバで説明できるのか?」という問いがあります。

バパが主張していることを注意深く読んでみますと「そんなことは不可能である。」ということがわかります。

でも「あなた方がそうやって質問するので、一応の、当面の、あなた方の心が落ち着くように、安心してラティハンが受けられるように、これらの説明を与えます。」と言っておられます。

そうして、それらのコトバで与えられた説明に固執するならば我々は我々の心のなかに「イメージで作りあげたアイドル(idol:偶像)」を持つ事になるでしょう。

ちなみにネットによれば、「idolの意味や和訳。 【名詞】【可算名詞】1a偶像; 聖像.b偶像神,邪神.2偶像視[崇拝]される人[もの], 崇拝物,アイドル.」とあります。


それでは本当の意味で我々がラティハンのソースを知るのはいつでしょうか?

それは我々が「私というものの始まりを知ったときである。」というのがバパの答えであります。

そうしてそれは、「父母によって生み出される前の、私の状態がどのようであったかを知ったとき」でもあります。


さて、そのような状態を知るために我々はラティハンを修するのです。

逆にいえば、そのような状態を知っているならば、ラティハンをする必要はないでありましょう。

ですから、ラティハンを始めるにあたって「ラティハンのソースはなにか?」という問いはそもそもがその時点では「回答不可能な問い」なのです。

なんとなれば、その問いは「事の最初に出されるもの」ではなく、「ラティハンが一応の目的を達成したあかつきに我々に示されるもの」であるからです。

PS
以上のような個人的な説明に対して、一応公式な説明では、例えば以下のページなどが参考になります。

THE SPIRITUAL PRACTICE OF SUBUD<--リンク

以下は上記ページからの訳になります。
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スブドの霊的修練(ラティハン)

ラティハン クジワンとして知らスブドの霊的修練は、生命の神聖な力との新たな接触の結果です。

それはそれを求めるすべての人の中に発生する自然なプロセスで、彼または彼女自身の性質に応じて、彼または彼女自身のペースで行われます。

時々、我々はひっそりと静かな時、または意識の異常な高まり状態にある時に、私達はこの深い生命が継続していることに突然気付くことができます。

ラティハンのプロセス(過程、経過)は、自分自身よりも大きな何かを私たちに再接続し、そしてこの特別な意識を生命を持った活動的な状態で保持します。

ラティハンは、プロセス(過程)であり、受けることであり、教えではありません。

誰も何かを信じることは期待されていません、ただ彼または彼女が経験するものを認識し信頼するだけです。

異なる宗教の人々はそれぞれ自分たちの信仰が深まることを見出し、そして特定の宗教的な相性というものなしでお互いに調和したままラティハンを練習することができます。

ラティハンの本質は、内からの自発的な内部の動きを許し認め、従うことです。

それは取扱い説明書(ノウハウ集)や儀式とは関係ありません。
それは各人各様に異なっています。

多くの人々は穏やかな感覚を感じ、その人が好む用語に応じて、たとえば知恵、より高い自己、聖なるもの、あるいは神との自然なつながりが深まるのを感じます。

ラティハンは、自分の個性(あるいは性格)の発達を導き、それがその人の日常生活を導くことができる、そうなる為の触媒です。

それは、直感や内部にある人を導くもの(内部の先生)につながる感覚を強化することができます。

通常、変化のこのプロセス(進行)は漸進的で自分の人生の実用的な要件に統合されています。
(訳注:要するに自分の人生で次第に役に立つようになる、、、と言いたいらしい)

スブドという名前は三つのサンスクリット語:スシラ ブディ そしてダルマ:を短くしたものです。

スシラ ブディ ダルマ(スブド)というコトバは、内部の聖なる力が真の人間の資質につながるような内部の変化をもたらすできるように、内部の聖なる力に譲り任せる(全托する)という人間の可能性を表しています。

協会が寄付に依存しているもののラティハンは、無料でご利用いただけます。
一般的に、入会前までの3ヶ月の待機期間があります。

この期間はラティハンで人々が経験することになること、そして手順についての情報を
得るための機会になります。

スブドはインドネシアのムハンマドスブーSumohadiwidjojoによって設立されました。
彼は通常、尊敬する年上の男性のためのインドネシア語の「Bapak」としてスブド会員によって呼ばれています。

ラティハンは突然予期せず、啓示として彼に来ました。
彼は他の人にそれを渡すことができた、それは今83カ国で何千人もの人々によって実践されています。

スブド組織は世界的です。
国内および国際役員や委員会があり、人々が一緒にラティハンの練習を満たす地元のグループがあります。

協会は1947年に東洋で設立され、1957年に西洋でも設立、そうしてポジティブな利益のために世界の中で働いています。
究極のビジョンは、世界に広がった文化を思いながら、人々の心を開くことに貢献することであります。
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