ラティハン日記

ラティハンと人生の散歩道

間違いを正すのは誰でしょう?

2014-12-15 | 日記
例によって2代目のトークであります。(14CDK7.21チランダ)

事実誤認が1件。

そうして「入口に邪魔物を置く行為」が1件。

相も変わらずでありますね。


まずは「バパが作った組織が成長し続けている」とのコメント。

「15年でー12.5%」という「マイナス成長の事実」を全くご存知ない様です。<--リンク


さて物事の基本は事実確認ですね。

そうして事前の予測と合っていれば「行動は間違っていなかった」という結論になります。

当然ながら「予測と反対の結果」であれば「行動を修正する」のは当たり前のことです。

まあいずれにせよ「結果としての事実はどうなのか?」と言うことであります。

事実を見ないで、憶測で物事を言ってはいけませんよねえ。

それでは「さすがの2代目さん」でも「失敗すること」は避けようがありません。


そうして次は大好きな「アブラハムの宗教の預言者列伝」のお話。

このお話は最後にバパが「(全人類の)父でご登場」で決まりです。

そうして無邪気にこうおっしゃいます。

「全ての宗教に従う人が入ることができます。」とね。

こういう一連の発言、「アブラハムの宗教に属していない人が聞いたらどう思うか」などと言うことには思いが至らない様であります。<--リンク

それから同様にジャワイスラムでない他の国のムスリム達の事も「眼中にはない」様でありますね。


そしてまたこうも言うのです。

「(我々は)宗教ではありません」と。

でも1600はあるというバパのトーク、「それを読んで理解しなさい」とおっしゃいます。

それではまるでバパのトークは「経典」の様であります。


そうして新しい人には「バパのトークを引用して説明しなさい」とのおおせであります。

そうやって多くの「ミニバパ」を作るのが狙いなのでしょうか?

いいえラティハンは「ミニバパ製造機」ではありません。

ラティハンは「本来のあなた」を作るものであります。


そうして「ミニバパ」をいくら作ってみてもそれではけっしてシンフォニーにはなりませんよ。

そこにあるのは単一の音色しか持たないモノトーンの景色であります。

誰が口を開いてもそこにあるのは「単なるバパのトークのコピー」ですね。

そこには特段、「あなた」がいる必要はない様です。


それで「良し」とするならばそれは「あまたの宗教がやっていること」と全く同じではありませんか?

まあもっとも「唯一の神を信仰します」といいながら「宗教ではありません」というのですから、このくらいの事は「朝飯前」なんでしょうか。<--リンク

でもそれは「一人ひとりが全く別の旋律を奏でながら全体としてはシンフォニーになっている集団ラティハンの現実」とは似ても似つかない世界でありますね。


PS
千年単位で継続できる組織というものは常に「反省して改善し続ける組織」でありますね。<--リンク
変化を恐れるならばそれは「終わりが近い」ということであります。

PS
一度出来上がった「神話」というものは本当に強固なものであります。

そうしてその神話」の間違いを認める為にはあれ程の犠牲を払わなくてはなりませんでした。<--リンク

本当に「人間の思い込み」というものは「頑丈なもの」でありますね。


PS
レビューポイントはこちらです。<--リンク


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

我に従え

2014-12-10 | 日記
結局のところ2代目の14年3月15日のトークはそう言っているのでありました。

「リアリティーを体験した私はあなた方を導く事が出来る」と。

その意味では2代目は完璧な「経験主義者」であります。

ただしこの経験主義はご自分の経験のみを「正しいもの」と認めているかの様であります。

それは「けっして現状に批判的な人達の経験を、そうして提案を認めていない事」からもわかります。<--リンク

それでその経験の結果として最強の「バパ主義者」になっておいでの様です。

「バパの言った事、作った組織は絶対普遍である」と。


でも世の中はうつり変わってとどまるという事を知りません。

その結果として「会社寿命30年説」があるくらいです。

「同じ事を30年やっていたら会社はつぶれる」という説ですね。

「いや、それは会社の事だろう」、、、ですって。

いいえ世の中に存在している組織やルール、決めごとの寿命は大抵そんなものです。

で、バパが亡くなってから今年で27年すぎました。

従ってそろそろいろいろと手を入れる必要性がありそうです。


さてバパも「経験主義」を推奨していました。(注1)

「バパのコトバでも自分で体験してから信じなさい。」

「自分の足で立ちなさい。」と繰り返しのアドバイスであります。


そういう経験を積み重ねる為の「ガイドライン」の設定であります。

「一応ガイドライン、作っときますからね。」

それを超える時は本当に注意しなさいよ。」という事であります。<--リンク


そしてそれはけっして「教義」や「戒律」ではありません。

「~しなさい。」、「~してはいけません。」ではないのです。

そうしてそれが「ラティハンは宗教ではない。」という意味であります。

そういう訳で「ガイドライン」は宗教のようには「責任」を取ってはくれませんね。

どこまでいっても「責任」は、そしてそれゆえに「行動の自由」は独立した個人としてのその人に属するのでありました。


注1 経験主義
たとえば57CSP6、14とか57CSP8、14あるいは65(バンドン)5,22など参照願います。

PS
ガイドラインは保護を与えるものです。
そうしてそれは別の見方では制約を与えます。

さて、どうしてバパは制約を与えなくてはいけなかったのでしょうか?
それは「オープンすればその瞬間に完成する」訳ではないからですね。

オープンは単に「スタートラインに立っただけ」であります。
そこから少しづつ前に進まなくてはいけません。

そうして、寄り道をしていたらそれだけ進み方は遅れます。<--リンク
あるいは「逆戻りの可能性」すらそこにはあります。

そういう訳で初心者にはある程度の制約はどうしても必要なのでありました。

それではその制約から自由になるのは何時でしょう?
それは「あなたの内部にガイドラインの代りが出来上がった時」でありますね。

PS
かつてバパは2代目の体験を承認されました。
これが2代目が2代目として認められることになる「事実上の2代目指名」でありました。

さて2代目はそれにならって「事実上の3代目指名」をするのでしょうか?
もしそうされるとするなら、それはもはやバパが希望された「民主制」ではなく「世襲制」に限りなく近い制度になってしまいますね。

でもそうしないと「我に従え」の「我」がいなくなってしまった時に困ってしまうのは、「従っていた人たち」なのであります。

それとも2代目は「我なき後はデジタルバパに従え」とでも言い残すのでしょうか。<--リンク
でもそれではなにやら「出来の悪いSFアニメ」の様でありますね。

追記
85CND6.11(チランダ) バパトークより引用

『さて、これはスブドのラティハン・クジワアンの過程についての話であります。
しかし実際には、私たちはただラティハン・クジワアンと言ったほうがいいのです。
スブドと言うべきではないのです。

なぜならば、そういう言い方をすれば、まるで神の恩寵を受けることができるのは、神の導きを受けることができるのは、あるいは、神からの啓示を受けることができるのは、ただスブドの中においてだけであるという風に聞こえるからです。

それは正しくありません。  
事実は誰であれ、忍耐と受容とそして誠実さをもって本当に神に全託すれば、その人はラティハン・クジワアンを受けるのです。
これはスブドの専売特許ではありません。

そして私たちがこのことに気付くこと、つまり神には限界がなく、誰でも神に対して苦情を申したてることはできないのだということを知ることは非常に重要であります。
若しもそれを理解すれば、それは私たちを心の広い寛大な人間にしてくれるでありましょう。
他の人々を受け入れることができるようにしてくれるでありましょう。
私たちは自分を特別の者だとか何かそういう風には思わないでありましょう。

そしてこれが実際のところラティハン・クジワアンの目標であります。
ラティハン・クジワアンの目標は私たちをノーマルに、当たり前にすることであります。
そして私たちの存在の内部での神の力の働きに慣れ親しんだ人間にすることであります。
 
ノーマルでない人間、何か特別のようにみなされ得る人たちはラティハン・クジワアンをしている人たちではありません。』


PS
レビューポイントはこちらです。<--リンク



  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする