いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

<悪い共同体>の<悪い心の習慣>

2011年09月04日 12時33分46秒 | 日本事情


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Amazon: 竹田恒泰、『原発はなぜ日本にふさわしくないのか

■宮台真司 X 飯田哲也、『原発社会からの離脱』(Amazon)をみる。

宮台真司なんか、「社会学者」ではないと一所懸命言っている人がいる。確かにそうなんだろう。別に宮台センセも、端から、厳密に学問的に裏付けられた言説を彫琢したいわけではないだろう。その場、その場で気のきいた<鍵概念>(キーワード)を蓮発して、ひたすら現状を語る。ジャーナリスティックな才能はすごい。そしてその変わらない藝の真髄は;

ぁーぁーぁー 私は以前から言ってたんですよ」

である。これはBOX96様のブログ記事「宮台真司はいつから反原発になったのか」からのパクリである。いい点突いている。

●そして、今回のキーワードが、<悪い共同体>、<悪い心の習慣>だ。これはどうみても、椹木野衣の「悪い場所」からのバクリ転用だろう。

でもそんなことも特に気にしない。おもしろかったよ、宮台真司 X 飯田哲也、『原発社会からの離脱』。

もう宮台からみたらぬっぼんは田吾作コッカで救いようがないという現状へのぐち。先の大戦の敗戦の繰り返しという嘆き節。こういう宮台が糾弾する「反知性主義」ってのは、旧来の文明開化以前的組織にのみ認められるわけではない。むしろ、ぬっぽんえすたぶりっしゅめんとには普通に観察できる。アカデミズムやジャーナリズムにおいてでも遍く存在しいることが、今回の震災に伴う原発事故で露わになった(⇒ 愚記事:ゆでガエルなんだなぁ~、無自覚性洗脳障害、あるいは、幇間古新聞)。

でも、「菅首相が狂っていても、原発止めれば大変な功績」という発言こそ、典型的な「反知性主義」的なものだ。なぜなら、根拠や実証こそが重要だと宮台真司 X 飯田哲也、『原発社会からの離脱』で強調されているからだ。

以下、抜き書きや、おもいつきメモ;

■宮台の対談者、飯田哲也はもともと原子力ムラのエリートで、<家出息子>らしい。宮台による飯田の経歴の<まとめ>がある;

宮台 (飯田哲也は)京大に入り、神戸製鋼に入社したのは、さしたる必然性がなかったというお話でしたが、興味深いのは、神戸製の部署が小さな原子力関連のチームだったので、一人何役もこなさなくてはならないことがスキルアップにつながり、とりわけその後、電力中央研究所に行かれてIAEAの原典を熟読するという経験をつうじて、IAEAの背後にある安全思想や、さらにその背後にあるヨーロッバ流の哲学的な物の考え方に触れられた。
 それと同時に、対照的な「却下、却下」の枝葉末節な議論しかしないムラ的な作法にさんざん触れられて、なにがベーシックなレイヤーで、何が枝葉なのかということを一切見極めないような議論がわんさかある日本的コミュニケーション環境を身に染みて経験される。それは「電力幕藩体制」とでもいうべき不合理な仕組みであるがゆえに、「こんなところに一生いられるか」と思い、原子力に関する八〇年の国民投票が行われたスウエーデンに行くことになる。その前には、書物をむさぼり読み、今後どうしたらよいのかという考え方のバックボーンを創り上げた、そういうことですよね。
飯田 はい、そうですね。   
 p75

宮台 その背後には、山本七平が言うように、日本人の多くに、自分たちの生活形式がどういうものであるかということを反省的に理解する、宗教社会的習慣がないことがあります。ユダヤ教やキリスト教やイスラム教は唯一絶対神を掲げる宗教だから、生活形式が神の意志を裏切っていないかどうか絶えず関心を寄せます。だから生活形式を変えることも変えないことも自覚的です。(中略)生活形式の変化を照らし出す不変の宗教的存在はありません。だから、モノだけではなく、生活が、ギミックだらけになってしまうのです。
 

宮台 <悪い共同体>の習慣ゆえに、僕たちは、流さに呑まれ、しがらみに呑まれやすい。同調圧力(ピア・ブレッシャー)に負けると、という言い方は「本当は自分たちにはやりたいことがあるんだが、負ける」という印象です。でも、飯田さんがおっしゃっているように、日本では「自分がやりたいことはそれだ」ということになってしまう。周囲の人々の欲望が自分の欲望になってしまうので、アメリカ人がいう同調圧力とは少し違う。
 政策の問題というよりも、たいていの日本人のマインドセットとか、日本社会の形の問題です。僕は<悪い共同体>における<悪い心の習慣>と呼んでいますが、それが解決しないと、共同体自治と言っても新しい村社会、別の原子力ムラをつくって終わりです。


飯田 私がスウエーデンで感じたことですが、あの国は社会が変わることを国民全体が前提としています。その上で、どう変わるかについて国民全員がコミットし、ルールややり方を絶えず積み上げながら、社会を営んでいる。
 日本は社会が変わらないことが意識では自明になっている。しかし、現実は激しく変わっていくわけです。それなのに意識の上では変わらないので、現実を変えていくためのルールであるとか指針、原則に無自覚な社会になっている。アドホックに、賽の河原のように、その場をしのいで、こなしてしまえば、また次の日常がはじまる、そして、それは変わらない日常なのだ、と、そう錯覚しているのではないでしょうか。

 7章 ―すでにはじまっている「実践」

サムソ島とまほろば事業

飯田 次に、地域レベルでエネルギー事業をやろうという取り組みが始まったのが二〇〇四年のことです。長野県の飯田市から、「平成のまほろば事業」という環境省の事業に応募したいので、協力してほしいという申し込みがありました。もう少し地域を軸にした、自然エネルギーの開発拠点を作ろうという企画でした。
 これも歴史があります。二〇〇二年にヨハネスブルグサミット(WSSD)があり、環境省の審議官が、行き帰りを利用して、私が『北欧のエネルギーデモクラシー』で取り上げているサムソ島(デンマーク)に行きたいと希望があり、私がアレンジしました。
 サムソ島の仕組みを説明します。行政と環境NGOと環境ベンチャーを足して三で割ったような役割を果たす「環境エネルギー事務所」と呼ばれる組織が、デンマークそれぞれの地域にあります。そういった軸があるので、地域主体で環境エネルギーへの移行は進むわけです。(中略)
 これを手本にして、翌年の二〇〇三年に環境省が概算要求で「平成のまほろば事業」という環境の町づくり事業予算を出しました。これは三分の二補助で、それを三年間支援するという仕組みです。
(中略)
 それが今や日本を代表するエネルギーの地産地消プロジェクト「おひさま進歩エネルギー株式会社」を生み出すことにつながります。いま。一六二ヶ所の太陽光発電所と、グリーン電力事業を展開して、全国から視察団が訪れるまでになっています。
 ただ、付け加えるならば、「つくばの回らない風車」という大スキャンダルに発展した事業を生み出したのも、
「平成のまほろば事業」です。(略)


(⇒これだ; 
ドン・キホーテさえ襲わない いかサマ 風車

 飯田市は今でも事業としてきちんと回っています。次々に事業を発展させて、いまや飯田市がひとつの共同体モデルになっています。
 結局、この二つの例から、中心に顔の見える「人」がいないとだめだということが判ります。同じような反証に「バイオマス・ニッポン」という農水省の事業があります。二〇〇二年から一〇年間行われた二〇〇あまりの事業を、総務省の行政評価局が検証したのですが、「ひとつとして成功している事例がない」「数千億の税金の無駄遣いだ」と評価している。

●そもそも日本が<悪い心の習慣>が蔓延る<悪い共同体>は、唯一絶対神の意志に背かないように思考、行動しているわけではないので、原発の新規設置が不可能となった"原子力ムラ"が衰退しても、 「クリーン」な発電方法を開発するという新しい食税発電ムラができて、繁殖するだけだ、という結論が、『原発社会からの離脱』から得られる。

もっとも、日本を変えるべしという宮台の熱いお気持ちはわかるが、日本が変わる契機が、理論的には、ない。なぜなら、ユダヤ教やキリスト教やイスラム教は唯一絶対神を掲げる宗教だから、生活形式が神の意志を裏切っていないかどうか絶えず関心を寄せます。だから生活形式を変えることも変えないことも自覚的です。(中略)生活形式の変化を照らし出す不変の宗教的存在宗教的存在がないからである。

それでも、宮台は、教育などで日本が変わりうると信じているらしい;

宮台 先ほど、飯田さんが日本と西洋、特にヨーロッバの政策的知性との差がいかに開いているかという話をされましたが、今年、フランスのバカロレアという高校卒業時の試験で出された問題で印象的なものが二つありました。
 ひとつは「正義と不正義はたんなる約束事に過ぎないのかを論ぜよ」。(略)
 もうひとつ面白かったのは、「言葉はコミュニケーションの手段に過ぎないのかを論ぜよ」です。
(略)
 僕が申し上げたいのは、高校三年でこういう問題を解けるような思考訓練をしなさいという課題が与えられれば、日本みたいにあらかじめ決められた座席表のなかでの席次争いをするための受験勉強から、ずいぶん変わると思う。そういう本質的な、知識の獲得自身が世界観を変えるような教育を、日本では学生にさせていない。

関連愚記事; 「教育」、っていいな、....

■おいらの言いたいことは、
「一方、おいらは以前から、書いている。その成因を無視した文明・文明を安易にパクッて、ぬっぽん列島で安直に使うと悲劇るって。」
に尽きる。ポスト・原発電力供給も、
その成因を無視した文明・文明を安易にパクッて、ぬっぽん列島で安直に使うと悲劇に、あるいは喜劇に終わるに違いない。ちなみに、スウエーデンの人口は924万人である。東京より少ない。

・おいらの中長期的提唱は、少子化、電力消費量削減である。

・5年後、女川原発は稼働していると思う。のど元過ぎて熱さ忘れる。たまらなく、ぬっぽんずんだから。

・われらが石原都知事さまが、「フランス人に出来て、なぜ日本人に出来ないのか!」(google)と愚痴ったらしい。そんなの簡単な問いかけでしょう。 ぬっぽんずんが、まぬけだからです。

おフランスに「水俣病」・有機水銀中毒公害ってありましたっけ?

ぬっぽんえすたぶりっしゅめんとサマは、 土下座すれば済むと思って、なめてマネジメントをしているからです。

▼でも、すんぱいすんな。

いつか、奈落に叩きつけられ、砕け散り、細(さざれ)石となる。そして、また堆積、変成して、巌(いわお)となるだろう。そうすれば、苔が生(む)すことも期待できる。

あわてるな、ぬっぽん。 ~苔の生すまで、~ 千代に八千代に~。

(愚記事:ホントだぜ、2年前の話さ、写真をみてくれよ ! 移り変わりの激しい rock'n roll business 

おとといは、全国紙各社にこんな両面全面広告がでたらしい。ネット界でも驚いた!との声多数(google)。
 - あわてるな、ぬっぽん。 ~苔の生すまで、~ 千代に八千代に~、ってことだ。-


左下には「ダグラス・マッカーサー財団の許可を受けています」という意味の小さな英文が載っている、だって。

関連愚記事;
・60年経っても「マッカーサーへの手紙」 


シカゴ・アヴェニュウーと呼ばれた日、あるいは、they shall return 

■同テーマ言及ブログ記事;

「悪い共同体」の「悪い心の習慣」を直す

原発社会からの離脱 自然エネルギーと共同体自治に向けて

・ゲイトマウス・カフェ通信
>>この本は、日本が何故遅れているのか、日本社会は何故ダメなのかという点に、焦点を合わせているのだが、少々、議論が前のめりになっているような気がしないでもない。遅れている、ダメであるという根拠をもう少し丁寧に主観ではなく、客観的なデータで示して欲しかった。<<  

そうですね。でも、自分のまわりを点検すると、データはすぐ集まりそう。まぬけであることの客観的データが。


 




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