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2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

【佐藤優】「暴君」のような上司のホンネとは? ~メロスのビジネス心理学~

2018年01月30日 | ●佐藤優
 ★太宰治「走れメロス」(『女の決闘』、河出書房、1940、所収/『走れメロス』、新潮文庫、2005、ほか)

 (1)小説家は誰も「小中学校の教科書に長い間載るような作品を残したい」という欲望を秘かに抱いているのではないか。
 太宰治が現在もっともよく知られた作家であるのは、教科書で「走れメロス」に触れた人が多いからではないか。
 「走れメロス」は、古代ギリシャ神話とシラー(19世紀ドイツの詩人)の詩を元にしている。翻案で評価される小説を書くことは、まったくの創作よりも難しい。もっとも、人生に対して後ろ向きの作風を売りにする太宰としては、人間の善意を表面から評価する小説は、翻案の形でしか書けなかったのかもしれない。

 (2)書き出しから、読者を作品の中に引き込んでいく技法は見事だ。
 <メロスは激怒した。必ず、かの邪智暴虐の王を除かねばならぬと決意した。メロスには政治がわからぬ。メロスは、村の牧人である。笛を吹き、羊と遊んで暮らして来た。けれども邪悪に対しては、人一倍に敏感であった。きょう未明メロスは村を出発し、野を越え山越え、十里離れた此のシラクスの市にやってきた>
 しかし、街の様子がひどく暗い。
 <路で逢った若い衆をつかまえて、何かあったのか、二年まえに此の市に来たときは、夜でも皆が歌をうたって、まちは賑やかであった筈だが、と質問した。若い衆は、首を振って答えなかった。しばらく歩いて老爺に逢い、こんどはもっと、語勢を強くして質問した。老爺は答えなかった。メロスは両手で老爺のからだをゆすぶって質問を重ねた。老爺は、あたりをはばかる低声で、わずか答えた。
「王様は、人を殺します。」
「なぜ殺すのだ。」
「悪心を抱いている、というのですが、誰もそんな、悪心を持っては居ませぬ。」
「たくさんの人を殺したのか。」
「はい、はじめは王様の妹婿さまを。それから、御自身のお世継ぎを。それから、妹さまを。それから、妹さまの御子さまを。それから、皇后さまを。それから、賢臣のアレキスさまを。」
「おどろいた。国王は乱心か。」
「いいえ、乱心ではございませぬ。人を、信ずる事が出来ぬ、というのです。このごろは、臣下の心をも、お疑いになり、少しく派手な暮らしをしている者は、人質ひとりずつ差し出すことを命じて居ります。御命令を拒めば十字架にかけられて、殺されます。きょうは、六人殺されました。」
 聞いて、メロスは激怒した。 
「呆れた王だ。生かして置けぬ。」

 (3)この小説は、「新潮」の1940年5月号に発表された。太平洋戦争の1年半前だ。日中戦争の泥沼から抜け出せず、暗くなっている日本と作品の中のシラクスの街が二重写しになる。

 (4)メロスは、ディオニス王の前に引き出される。王は、人間は信用できないと言う。メロスは、人を疑うのは恥ずべきことだと反論する。メロスは処刑されることになったが、シラクスで石工をしている親友のセリヌンティウスを人質として王のもとにとどめおくことを条件にして、妹の結婚式を行うために3日間の猶予を乞う。王は、メロスが死ぬために戻って来るはずはないと考えるが、セリヌンティウスを処刑して人を信じる事の馬鹿らしさを証明してやると考え、メロスの願いを受け入れた。

 (5)クライマックスは最後の箇所だ。
 <最後の死力を尽くして、メロスは走った。メロスの頭はからっぽだ。何一つ考えていない。ただ、わけもわからぬ大きな力にひきずられて走った。陽は、ゆらゆら地平線に没し、まさに最後の一片の残光も、消えようとした時、メロスは疾風の如く刑場に突入した。間に合った。(中略)「私だ、刑吏! 殺されるのは、私だ。メロスだ。彼を人質にした私は、ここにいる!」と、かすれた声で精一ぱいに叫びながら、ついに磔台に昇り、釣り上げられてゆく友の両足に、囓りついた。群衆は、どよめいた。あっぱれ。ゆるせ、と口々にわめいた。セリヌンティウスの縄はほどかれたのである。「セリヌンティウス。」メロスは眼に涙を浮かべて言った。「私を殴れ。ちから一ぱいに頬を殴れ。私は、途中で一度、悪い夢を見た。君が若(も)し私を殴ってくれなかったら、私は君と抱擁する資格さえ無いのだ。殴れ。」
 セリヌンティウスは、すべてを察した要するで首肯(うなず)き、刑場一ぱいに鳴り響くほど音高くメロスの右頬を殴った。殴ってから優しく微笑み、
「メロス、私を殴れ。同じくらい音高く私の頬を殴れ。私はこの三日の間、たった一度だけ、ちらと君を疑った。生れて、はじめて君を疑った。君が私を殴ってくれなければ、私は君と抱擁できない。」
 メロスは腕に唸りをつけてセリヌンティウスの頬を殴った。「ありがとう、友よ。」二人同時に言い、ひしと抱き合い、それから嬉し泣きにおいおい声を放って泣いた。
 群衆の中からも、歔欷(きょき)の声が聞こえた。暴君ディオニスは、群衆の背後から二人の様を、まじまじと見つめていたが、やがて静かに二人に近づき、顔をあからめて、こう言った。
「おまえらの望みは叶ったぞ。おまえらは、わしの心に勝ったのだ。信実とは、決して空虚な妄想ではなかった。どうか、わしも仲間に入れてくれまいか。どうか、わしの願いを聞き入れて、おまえらの仲間の一人にしてほしい。」>
 
 (6)ディオニス王が、本当に悪人だったならば、この程度の出来事で心を動かされたりしない。潜在意識において、王は人間的信頼関係を確かめたかったのだ。その実例を知りたかったのだ。
 一見、暴君のような上司が、潜在的には信頼に飢えていることがある。そういうときには、「走れメロス」型の演出が意外と効果をあげることがある。

□佐藤優「「暴君」のような上司のホンネとは? メロスのビジネス心理学 ~名著、再び ビジネスパーソンの教養講座 第26回~」(「週刊現代」2017年2月25日号)
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