語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

【佐藤優】組織の非情さが骨身に沁みる ~新田次郎『八甲田山死の彷徨』~

2018年01月07日 | ●佐藤優
 (1)組織の非情さを見事に描いた作品だ。しかも、ノンフィクションではなく、あえて小説としたことによって、作品の奥行きが深くなっている。
 1902(明治35)年1月に、日本陸軍第8師団の(a)青森第5聯隊と(b)弘前第31聯隊が、来たるべき対露戦争に備えて雪中行軍を行った。
  (a)第31聯隊37人と東奧日報の従軍記者1人は、弘前から出発し、無事に行軍を終えた。少数精鋭で、しかも現地の事情に通暁した案内人を雇って行軍した。
  (b)第5聯隊210人は、青森から出発し、199人が死亡した。大所帯で、中隊長の神田大尉の指揮下で行軍するはずが、同行した大隊長の山田少佐も指揮した結果、混乱が生じ、しかも案内人を雇わずに雪山を彷徨することになり、大きな犠牲をもたらした。
 軍事的観点からは、第5聯隊の犠牲が重要な教訓となった。この点を新田次郎氏は見事に描いている。

 (2)(a)第31聯隊が無事に雪中行軍を終えることができたのは、工夫をこらしたのと、幸運に恵まれたからであった。ただ、実戦においては、第31聯隊のような少数精鋭部隊での活動は想定できないし、ロシア軍との戦いが想定される満州(中国東北部)で現地の事情に通暁した住民の協力を得ることは難しい。
 むしろ(b)第5聯隊の200人規模の移動訓練の方が実戦に近いので、得られる教訓も大きいのだ。
 だが、(b)第5聯隊も無事に任務を果たしたならば、軍は装備を改良する必要を感じなかっただろう。その結果、日露戦争で防寒態勢が整わずに大きな犠牲を出すことになったかもしれない。見方を変えれば、第5聯隊も第31聯隊も、実戦に備えた人体実験をされたようなものだ。

 (3)この作品は小説の形態をとっているので、史実では現れないであろうが、状況をよりリアルに描写する表現を盛り込むこともできる。その一つが、(b)第5聯隊の長谷部善次郎が見た夢だ。
 (a)第31聯隊に所属する兄の斎藤吉之助が軍服の袖に軍曹の階級を示す2本の黄色い線が光っている。いつ昇進したのか、雪中行軍で手柄をたてて特進した、というようなやり取りがあって、(b)第5聯隊の神田大尉を助けた功がその手柄であることを長谷部善次郎は知る。そして、当の長谷部善次郎は死んでいた、と兄は言うのだ。
 これは正夢になった。長谷部は凍死する。ただし、神田大尉は、遭難の責任を感じ、舌を噛んで自決する。
 作品の中に夢を入れることによって、今後起きる悲劇の頭出しを新田氏は行っている。熟練した作家にしかできない表現だ。

 (4)この作品が優れているのは、沈着冷静で、優れたリーダーシップを発揮した(a)第31聯隊の徳島大尉を過度に英雄視していないところだ。命をかけて隊員らを案内した民間人に対する徳島大尉の冷酷な対応についても仮借なく描いている。
 諸君らは5聯隊の遭難に出会ったことは誰にも言うな。下手なことを喋ると、一生暗いところに入れられるかもしれない。命が惜しければ、親兄弟にも言うな。わが31聯隊と同行したことも、言いふらさない方がいいだろう。うろうろしていないで、さっさと汽車に乗って帰れ、云々。
 国策に協力して、雪山を命がけで案内した住民に対し、与えたのは一人に50銭という端金で、しかも「命が惜しければ黙っていることだ」というような恫喝を加える。
 <徳島隊を案内した熊ノ沢の案内人の7人は、徳島大尉に絶対言うなと口止めされたまま、長い間、沈黙を守っていたが、昭和5年になって苫米地吉重氏によって初めて事実が明らかにされた。『八甲田山麓雪中行軍秘話』がこれである。7人の案内人の一人が、もう話してもいいだろうと言って口述したものを収録したものであった。これら7人の案内者のほとんどは凍傷で手の指や足の指が曲がり、農業や山仕事をするのに不自由な思いをした。徳島隊を案内して、雪中行軍を成功させたことがかえって彼等に一生つらい思いをさせることになった>
 有能で情に厚いが、必要となれば平気で人を恫喝する徳島大尉のような人は、現在の霞が関(官界)でもときどき目にする。国家に仕える軍人や官僚の思考を知るうえでも、本書は有益だ。

□佐藤優「新田次郎『八甲田山死の彷徨』 -組織の非情さが骨身に沁みる- ~ベストセラーで読む日本の近現代史 第40回~」(「文藝春秋」2017年1月号)
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