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語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

【佐藤優】天皇制を作った後醍醐、天皇制と無縁な沖縄~網野善彦『異形の王権』~

2016年06月21日 | ●佐藤優
 (1)網野善彦(1928-2004年)は、日本中世史研究に民俗学、民族学、図像学(イコノグラフィー)の成果を学際的に取り入れて、新解釈を提示した。傑出した知識人だ。『異形の王権』は、南北朝時代の後醍醐天皇(1288-1339年)に焦点を定め、その時代を読み解いたユニークな作品だ。
 『異形の王権』は、深刻な問題以外に、知的好奇心を満たすエピソードがたくさん盛り込まれている。その意味では、読者サービスについてもよく考えて書かれた作品だ。
 <例>中世において、女性の一人旅が多かったが、想定されるリスクに対して、どう対処していたのか。・・・・この謎を網野はこう解き明かす。
 <こうした女性の一人旅に当たって、当然おこりうる危険を、彼女たちはどのようにして乗り切っていたのか、という疑問が直ちに生じる。それは時代を遡れば遡るほど、一層大きかったに相違ないからである。これに完全な解答を出すことはたやすくないが、私はこうした一人で旅をする女性の場合、性が解放されていたのではないか、と考える。『御伽草紙』の「物くさ太郎」に「辻取とは、男もつれず、輿車にも乗らぬ女房の、みめよき、わが目にかゝるをとる事、天下の御ゆるしにて有なり」とあることは周知のとおりである。道を行く女性に対する女捕、辻捕は『御成敗式目』をはじめ法令でしばしがきびしく禁じられているにもかかわらず、一方では天下の公許ともいわれているのである。これは伴もつれず、輿にも乗らないで道を歩く女性--一人で旅する女性が、男に「捕られる」ことをむしろ当然とする慣習があったことを前提にしなくては理解できないことではなかろうか。もちろんそれが強姦になり、付随する騒ぎがおこれば、さきの法令が発動したであろうが、圧倒的に多くの場合は、問題にされることもなく打ち過ぎたに相違ない>
 旅の女性に対する「女捕」が、半ば公認され、旅行中のセックスに対するタブー感が稀薄であったので、女性の一人旅が可能であったと結論づける。

 (2)本書で考察の中心となる後醍醐とは、いったいどのような人物か。網野によれば、
 <たしかに後醍醐は異常な性格の持ち主であった。佐藤(進一、歴史学者)はその性格の特徴を「既成の事実を観念的に否定する」点に求めつつ、「不撓不屈と謀略、したがって多分の柔軟性をもった目的主義を身上とする」と評している。目的のためには手段を選ばず、観念的、独裁的、謀略的で、しかも不撓不屈。まさしくヒットラーの如き人物像がここに浮かび上がってくるが、このような異常な性格の天皇を時代の表面に押し出した14世紀の日本列島の社会の激動する状況を、その深部から明らかにすることなしに、またその中で後醍醐を突き動かした、前近代において恐らくは最も深刻な天皇の地位の危機の実情を解明することなしに>
 南北朝時代の前後で日本の社会構造が変化したことを理解できないのである。

 (3)日本の特徴は、政治と社会と文化に天皇が埋め込まれていることだ。
 天皇制という言葉は、そもそもソ連のモスクワに本部を置いていたコミンテルン(共産主義インターナショナル)が作成した「32年テーゼ」によって普及した概念だ。天皇制という言葉の中に、制度であるから改変可能であるという前提がある。しかし、日本人の社会と文化と天皇(皇統)は深く結びついており、人為的に改変することは不可能だ。
 このように天皇が日本の社会と文化に深く突き刺さり、容易に変更できるメカニズムではなく、改変不能なシステムになったのは、後醍醐によるところが大きい。
 この点について、網野は以下の指摘をする。
 <その「権威づけの装置」の一つとして、儀礼を「家業」としつつ、天皇は江戸時代を通じてその地位を保ちつづけた。なぜそうなったか、南北朝から戦国の動乱の中でなぜ天皇が消滅しなかったのか。これはなお未解決の問題といわざるをえないが、それがさきの権威の構造の転換の仕方に関わっていることは間違いなく、さらにまた後醍醐による「異形の王権」の出現と、その執念が南朝として、細々とではあれ存続しつづけたことに多少とも規定されていることは否定できない。室町幕府がついに南朝を妥当し切ることができず、北朝との合一という形で動乱を収拾せざるをえなかった事実を、われわれは直視する必要がある。室町期以降、天皇家が生きのびた直接の出発点がここにあるとすれば、そこに後醍醐の執念の作用を認めないわかにはいかないのである>

 (4)南朝と室町幕府によって支援された北朝の力関係を比較すれば、軍事的にも経済的にも北朝の方が圧倒的に強かった。万世一系という観点からも、北朝の天皇も、持明院統という正真正銘の皇統に属する。
 にもかかわらず、室町幕府は南北朝の統一という形で、王朝分裂を収拾しなくてはならなかった。後醍醐は、死を前にして「玉骨はたとえ南山(奈良県吉野山)の苔に埋もるとも、魂魄は常に北閥(京都)の天を望まん」と述べた。天皇の御陵は南向きに建てられる事例が多いが、後醍醐の陵は、後醍醐の遺言に従って京都を臨む北向きに建てられている。権力の正当性に死後も固執する後醍醐の姿勢を、室町幕府は無視することができなかったのだ。

 (5)後醍醐が果たした社会的機能について、網野はこう述べる。
 <後醍醐は、を動員し、セックスそのものの力を王権強化に用いることを通して、日本の社会の深部に天皇を突き刺した。このことと、現在、日本社会の「暗部」に、ときに熱狂的なほどに天皇制を支持し、その権力の強化を求める動きのあることとは決して無関係ではない、と私は考える。いかに「近代的」な装いをこらし、西欧的な衣裳を身につけようと、天皇をこの「暗部」と切り離すことはできないであろう。それは後醍醐という異常な天皇を持った、天皇家の歴史そのものが刻印した、天皇家の運命なのであり、それを「象徴」としていただくわれわれ日本人すべても、この問題から身をそらすわけには決していかないのである。
 天皇と天皇制の問題は、こうした形でいまもなおわれわれの前に存在しつづけている。その意味でかつて「皇国史観」が後醍醐に与えた「中興の帝」という評価、あるいは近年村松剛が強調する「後醍醐帝なくして明治大帝なし」という評価とは全く逆の視点から、天皇史上、特異な位置を占める後醍醐の果たした役割については、さらに徹底した学問的追究がなされなくてはなるまい>

 (6)網野の言説は、日本人が普段、意識するよりもはるかに深い位相の所に天皇が突き刺さっているということを明らかにした天で画期的な意味がある。
 網野が『異形の王権』の初版を刊行したのは1986年だった。あれから30年が経ったが、日本社会の「暗部」にとどまらず、ヘイトスピーチを含む「行動する保守」という表象で「ときに熱狂的なほどに天皇制を支持し、その権力の強化を求める動き」が強まっていることは間違いない。

 (7)(6)と同時に、網野が見落としていた要素が、日本の国家統合に深刻な危機をもたらしている。それは沖縄問題だ。
 「天皇と天皇制の問題は、こうした形でいまもなおわれわれの前に存在しつづけている」と網野は強調するが、厳密に言うならば、これは沖縄以外の日本に存在し続けている問題だ。
 沖縄人の圧倒的多数は、天皇信仰を日本人と共有していない。むろん、沖縄人にも日本に過剰同化している人びとが、ごく一部だけ存在し、その人たちは日本人以上に日本人的に振る舞おうとする。もっとも、こういう人たちが、日本人から同等のパートナーと認められていないという体験をすると、無気力になるか、あるいは極端な沖縄独立論に振れる。
 南北朝時代を通じて明らかになったのは、日本では王朝交替が起きないという現実だ。
 これに対して、沖縄人の心には天の意思が変われば、地上の王朝も変化するという中国流の易姓革命思想が深く焼き付いている。『異形の王権』の言説では、沖縄を理解できないということを頭の片隅に置いておくと、沖縄問題の構造が見えてくる。

□佐藤優「網野善彦/異形の王権 ~ベストセラーで読む日本の近現代史 第34回~」(「文藝春秋」2016年7月号)
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