語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

【佐藤優】テロリズム思想の変遷を学ぶ ~沢木耕太郎『テロルの決算』~

2018年02月27日 | ●佐藤優
 (1)百年後も読み続けられることになるノンフィクションの古典。書き出しから作品の世界に引き込まれていく。
 <人間機関車と呼ばれ、演説百姓とも囃されたひとりの政治家が、一本の短刀によってその命を奪われた。
 それは立会演説会における演説の最中という、公衆の面前での一瞬の出来事であった。
 凶器は鎌倉時代の刀匠「来国俊」を模した贋作だったが、短刀というより脇差といった方がふさわしい実質を備えていた。全長一尺六寸、刃渡一尺一寸、幅八分。鍔はなく、白木の鞘に収められていた。
 その日、昭和35年10月12日、日比谷公会堂の演壇に立った浅沼稲次郎には、機関車にもなぞらえられるいつもの覇気がなかった。右翼の野次を圧する声量がなかった。右翼の妨害に立ち往生する浅沼の顔からは、深い疲労だけが滲み出ていた。委員長になって以来、さらに激しくなった政治行脚を、もうその肉体は支え切れなくなっているのかもしれなかった。しばらくの中断の後、浅沼は再び演説を始めた。
「・・・・選挙のさいは国民に評判の悪いものは全部捨てておいて、選挙で多数を占むると」
 そこで声を励まし、さらに、
「どんな無茶なことでも・・・・」
 と語りかけようとした時、右側通路からひとりの少年が駆け上がった。
 両手に短刀を握り、激しい足音を響かせながら、そのまま浅沼に向かって体当たりを喰らわせた。
 浅沼の動きは緩慢だった。ほんのわずかすら体をかわすこともせず、少し顔を向け、訝し気な表情を浮かべたまま、左脇腹でその短刀を受けてしまった。短刀は浅沼の厚い脂肪を突き破り、背骨前の大動脈まで達した。
 少年はさらに第二撃を加えたが、切先が狂い、左胸に浅く刺さったにすぎないと察知すると、第三撃を加えるべく短刀を水平に構えた。
 浅沼は驚きだけを表した顔を少年に向け、両手を前に泳がせた。そして、四歩、五歩よろめくと、舞台に倒れた。>
 17歳の右翼少年、山口二矢(おとや)に浅沼稲次郎・社会党委員長が殺害された瞬間がリアルに描かれている。山口は現行犯逮捕され、警察の取り調べを受けた後、練馬の少年鑑別所に送られた。そこでシーツを引き裂いて縊死した。
 山口は、大義のために自分の命を捨てる覚悟ができていた。だから、他人の命を躊躇せず奪うことができたのだ。
 人間は観念を持つ動物だ。どの時代にも過剰な観念を抱き、それに殉じる人たちがいる。この観念が、人びとに受け入れられ、政治的に勝利するならば、観念に殉じた人は英雄として顕彰される。政治的に破れた場合は、テロリストとして断罪される。
 このような政治的断罪を沢木耕太郎は拒否する。そして、具体的な接触は数十秒しかなかった山口と浅沼の生涯をたどることによって、観念に取り憑かれた人びとの魅力と悲喜劇を浮き彫りにすることに成功した。

 (2)当初、山口の軌跡を中心に作品を作ろうとしていた沢木氏の関心は、徐々に浅沼に移っていく。庶子に生まれたコンプレックスを封印し、激しい弾圧には耐えぬくが、二度も精神に変調をきたした浅沼は、政治の世界に生きるには線が細かったのだろう。社会党右派である浅沼が、1959年3月に社会党訪中使節団団長として北京を訪問した際、
 <「台湾は中国の一部であり、沖縄は日本の一部であります。それにもかかわらずそれぞれ本土から分離されているのはアメリカ帝国主義のためであります。アメリカ帝国主義についておたがいは共同の敵とみなして闘わなければならないと思います」>
 というエキセントリックな演説をしたのも、浅沼の信念に基づくというよりも、北朝鮮から中国に来ていた黄方秀という朝鮮人の入れ知恵だった。浅沼がこの工作に乗ってしまったのは、社会主義者でありながら、戦争に協力してしまったという自責の念からであろう。

 (3)人間的良心に付け込むのは共産国インテリジェンス機関の定石だ。
 このような北朝鮮の工作がなかったならば、浅沼は山口の標的とされることもなく、別の人生を送ったはずだ。インテリジェンス工作が人間の運命を変えてしまう典型例だ。

 (4)この作品は、偶然の結びつきから物語を紡ぎ出している点でも優れている。
 <山口二矢は浅沼稲次郎を一度、二度と刺し、もう一突きをしようと身構えた時、何人もの刑事や係員に飛びかかられ、後から羽交い締めにされた。その瞬間、ひとりの刑事が二矢の構えた短刀を、刃の上から素手で把んだ。二矢は、浅沼を刺したあと、返す刃で自らを刺し、その場で自決する覚悟を持っていた。しかし、その刃を握られてしまった。自決するためには刀を抜き取らなくてはならない。思いきり引けばその手から抜けないこともない。しかし、そうすれば、その男の手はバラバラになってしまうだろう。二矢は、一瞬、正対した刑事の顔を見つめた。そして、ついに、自決することを断念し、刀の柄から静かに手を離した・・・・。>
 沢木氏は、この話が伝説でないことを、この刑事を診察した外科医を取材することによって確認する。
 <掌に刀疵のある刑事は、浅沼稲次郎が日比谷会堂で刺された時、とっさに犯人の山口二矢に飛びかかり、素手で刀を?み、奪い取ったのだ、と医師に話した。掌に疵は残ったが、その功により警視総監賞を貰うことができたともいった・・・・。>
 後に神経性の高血圧で二矢の父、山口晋平がこの医師の治療を受ける。世の中は実に狭い。
 現在、世界的規模で「イスラム国」(IS)をはじめとするイスラム教原理主義過激派が、無差別自爆テロを行っている。自らが正しいと考える理念のために自分の命を捧げる覚悟をし、他人の命を奪っていいという信念は山口もISも同じだ。
 しかし、山口は、無差別テロは考えていなかった。テロリズム思想の変遷について学ぶ上でも本書は有益だ。

□佐藤優「沢木耕太郎/テロルの決算 テロリズム思想の変遷を学ぶ ~ベストセラーで読む日本の近現代史 第38回~」(「文藝春秋」2016年月号)
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