湯めぐり四方山話

湯めぐりは 人・風物との出会い

青谷上寺地遺跡・展示館

2023-06-07 | 歴史街・史料館・名所

浜村温泉「旅風庵」に泊まった翌朝、近くの「青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡・展示館」を見学した。

山陰自動車道を西に向かって走り、浜村温泉I.C.から一つ先の青谷I.C.で下車した。

この遺跡は、今走った「山陰自動車道の建設工事中」に、偶然発見された弥生時代の遺跡だ。

青谷I.C.をおりて最初の信号機を真っ直ぐ進み、次の交差点で左折、橋をわたって左手に展示館はあった。

(そのまま行くとJR青谷駅に向かう道)

もしかして、この簡単な造りの建物?が「青谷上寺地遺跡・展示館」??

どうやら、そうだった!!

中に入ると、

発掘調査中の航空写真。

貝塚の跡地(地層)も発見された。

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高取峠の早かご像

2022-04-23 | 歴史街・史料館・名所

「飛脚」はご存知だろう。 更に「早かご」は、ご存知だろうか?

下の写真は「高取峠(たかとりとうげ)の早かご像」

「高取峠」は、国道250号線を相生から赤穂へ向かう途中、「西あいおい」から「坂越(さこし)」の間にある。

「赤穂浪士」「忠臣蔵」の話は、ご存知だろうか? 

江戸時代・元禄14年。赤穂藩主の浅野内匠頭が、江戸城・松の廊下にて吉良上野介を突然、刀で斬りつけた「殿中事件」に始まる。神聖な?江戸城内での唐突な?殺傷事件。事態は、大変重く扱われた。浅野内匠頭は即日、切腹を命じられ、翌朝には自害させられた。同時に、赤穂蕃の取り潰しも即刻決まった。しかし当時は、この「青天の霹靂事件」を地元・赤穂蕃に、正確に、瞬時に、知らせる方法がなかった。(今なら、電話、メール、ファクス、LINE、電報、速達と、様々な方法があるも・・)余りに特殊な?唐突な?出来事なので「事の次第を、より速く、より正確に地元・赤穂藩の家老に伝える必要性」があった。それで、取られた方法は★最も信頼出来る江戸勤めの赤穂役人・二人体制。二人は、それぞれに「早かご」に乗り、自らの口で地元にいる赤穂藩の家老「大石内蔵助」に、「事の次第を抜かり無く、直接説明する方法」★「早かご」は、一昼夜ずっと走らせる。途中、次々に「早かご」の乗り継ぎをする。そして、休むことなく連日走らせる。

江戸から赤穂まで、ぶっ続けに走って、早かごで「4日半」かかった。

「高取峠の早かご像」を見て、改めて、赤穂藩にとって大変な事件だったことを肌で感じた。

一人の城主が起こした「殿中の殺傷事件」。それは、多くの家臣・城下の人々の人生を変えてしまうんだな!!

今、起こっているウクライナでのロシアの侵攻。多くのウクライナ人、ロシア人、周辺国の人の人生、世界中を変えてしまうんだろうな~!! たった一人の独裁者の為に、流され続ける血、失われる多くの命。

多くの人生を、一人のトップの行動で、奪っていく!!変えてしまう!! 理不尽な話だ。

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「味原通り」・・・浜坂・風情ある街並み

2017-05-23 | 歴史街・史料館・名所

5月の浜坂

きょうは、風があり波がいつもより高い。
この景色、いつもながらワクワクする。

(上の写真の上半分にある黄色い建物は「図書館」)
浜坂には、加藤文太郎記念図書館という立派な図書館がある。
宿のチェックインまでの時間、かならず行く場所だ(木曜日は休館)

図書館の横にはのどかな水田が広がる。

今回は、近くのスーパー「ナカケー」に買い物があり 図書館から歩いて行った。
途中の道は、自然が一杯

目的地のスーパー「ナカケー」

帰りは、違う道を通って図書館まで戻ることにした。

川の傍に、いい雰囲気の道を発見!!

この道は「味原通り」というらしい。
川の名前「味原川」にちなんだ名前で歴史ある通り。























猫ちゃんとのひと時







図書館が見えてきた

図書館の横を流れる川が「味原川」で、
今まで歩いてきたこの通りを「味原通り」というらしい。

のどかな5月の午後~浜坂の風景

「とんび」が悠々と飛んでいる

それにしても立派な図書館だ

自然環境にも恵まれ、素晴らしいの一言!!

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河合継之助の記念館(福島県)

2017-02-01 | 歴史街・史料館・名所

奥只見にある「河合継之助・記念館」(山塩史料館)

我々が行った日は、秋の時雨か?急に大雨になった。
「え~!!この雨の中を ざわざわ歩いて、捜しながら行く必要があるの?」
と夫に尋ねた覚えがある。

「河合継之助・記念館」(山塩史料館)は、只見川沿いにあった。

川沿いの幹線道路に案内表示が出ていた。

そして、同じ道路沿いで川とは反対側にある鉄道踏切を渡って行く。
踏切に「塩沢(しおざわ)踏切」とあった。
ここ只見町「塩沢」は「河合継之助の終焉の地」なのだ。

「塩沢(しおざわ)踏切」を渡るとすぐ「河合継之助・記念館」の表示が再び出ている。

「記念館」は すぐ近くで、
道路からみたら、少し小高い丘の上にあるとわかった。

「河合継之助・記念館」の建物

「八十里 腰抜け武士の 越す峠」
河合継之助は、終焉の地「塩沢」で、この時世の句を残した。

そもそも「八十里」って何のこと?
「八十里峠」(地名)のことらしい。

新潟から会津に抜ける険しい峠の名が「八十里峠」だった。
継之助が越えた八十里は、古来より会津と越後を結ぶ交通の要衝で、
現在は一部が登山道として残っているが、大部分は深いブナ原生林の下に眠っている。

「河合継之助・記念館」の中









1- 河井継之助の生涯
幕末の英雄河井継之助は幼少より学問を好み、江戸や西国への遊学を通じて様々な師に出会い
黒船来航に揺れ動く全国の情勢について知見を広めた。

2- 長岡の戊辰戦争
戊辰戦争に当たっては武装中立を主張した継之助。
河合は交渉相手として長州代表・山県有朋か薩摩代表・黒田清隆を希望していたが
出てきたのは土佐藩の若輩・岩村精一郎であったため、
「調停役」という高度な政治交渉が出来るはずもなく決裂。

その後は、長岡の人びとを守るため、当時日本に3門しかなかったガトリング砲で応戦。
河合は軍事総督として藩軍を指揮。
当初は新政府軍と互角に渡り合うが、作戦中に河合が負傷。
これ以後、長岡藩は総崩れとなる。
河合は負傷がもとで、命を落とすことになる。
負傷後、同盟藩の会津に逃れる途中に越えたのが「八十里峠」
険しい「八十里峠」を必死に越えた後に、
あと一歩で会津という只見町「塩沢」の地で亡くなった。

会津藩領であった「只見」も戊辰戦争に巻き込まれ、郷兵隊を組織して西軍と戦う一方、
長岡から落ちのびてきた継之助一行を温かく迎え入れ、必死の看護を行った。

只見の人びとの尽力も空しく、継之助はここ只見町塩沢で息を引き取った。
この記念館(終えんの家)は、継之助か亡くなった村医矢沢宗益の家を移築したもの。
                        ~記念館に展示されていた資料より~

記念館を出て、只見川沿いの道を車で走りながら

戊辰戦争で武装中立を主張した継之助なのに・・

長岡の交渉に来たのが、土佐藩の若輩・岩村精一郎でなく
もっと年配の度量の大きい人物だったら・・

「河合継之助」は無駄に命を失わなくて済んだのでは・・
残念な・・無念な気持ちになった。

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関川・歴史ある街並み(新潟県)

2017-01-25 | 歴史街・史料館・名所

最近、2年続けて行った新潟県「えちごせきかわ温泉郷」
ここには道の駅「関川」がある。

一昨年は、道の駅から近い「上関の湯」(共同湯)入って、夜は道の駅「関川」で車中泊した。
その時「上関の湯」のお湯があまりに素晴らしく感激した。

それで、昨年も秋にまた関川に出かけた。
昨年は「えちごせきかわ温泉郷」の中の「湯沢温泉・共同湯」に入り、
宿は高瀬温泉「古川館」に一泊した。もちろんお湯は今回もバッチリよかった。

道の駅「関川」の裏には、歴史ある関川の街並みがあるらしい。
高瀬温泉「古川館」に泊まった翌日、行ってみた。

道の駅「関川」の中を歩いて行くと、裏の歴史街並みに行けるらしい。
道の駅の建物の裏側には、変わった妙な?建物が建っていた。

この建物は、隣に建つ関川の旧家「渡辺邸」をイメージして現代建築家が建てたものらしい。

この建物のモデル「渡辺邸」は「屋根に石を載せている特徴」があるとか・・。



この大きな板塀と堀は、その「渡辺邸」のものらしい









道の向こう側には「関川村役場」の建物があった。
村役場だけは、現代的に鉄筋建てだった。

村役場の前には昔からの街並みと、先ほど横を通ってきた「渡邊邸」が見えてきた。
「渡辺邸の塀の屋根に、石が載せてある」のが確認できた。



正面から見た「渡辺邸」
確かに「渡辺邸は母屋の屋根にも石を載せている」とわかった。





「佐藤邸」







続いて見えて来た茅葺屋根

「津野邸」



医院の建物も昔風の木造

バス停も古風な木造











なかなかいい歴史街並みだった。
「渡辺邸」もいいが・・茅葺の「佐藤邸」や「津野邸」もナイスと思った日

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「清川」・・・・「清河八郎の出身地」と「芭蕉・上陸の地」

2016-11-05 | 歴史街・史料館・名所


最上川沿いに車を走らせ「清川」という地に立ち寄った。

「清川」は、幕末の志士「清河八郎」の生まれ故郷であり
江戸時代の俳人・松尾芭蕉が最上川を舟で移動した際に上陸した地。

最初に、町内にある「清川神社」に向かった。

神社の境内には「清河八郎」の座像があった。

同じく境内に「清河八郎記念館」があった。

記念館の前には「清川」の歴史を紹介する案内板が建っていた。

案内板によると、町内への入り口に「芭蕉・上陸の地」があるようだ。
次は、そちらに行ってみた。





「五月雨を 集めて早し 最上川」の句が書かれた石碑

芭蕉が上陸した当時からある「井戸」




「芭蕉・上陸の地」は 小学校の校庭の片隅に、ひっそりとあった

★芭蕉・上陸の地「清川」データー★
・最上川の対岸に「観音湯」が見える場所。「観音湯」への橋を渡る手前、国道47線の右側(右下)にある。
 そこには、芭蕉像と句碑がある(小学校の敷地で、校庭の隅)
 すぐ近くに「清河八郎記念館」もある★

車は、再び「最上川」に沿って上流へ向かう




















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「石見銀山(世界遺産)」・・・・・・・・・・ 島根県大田市大森町

2016-09-24 | 歴史街・史料館・名所

大森の町から「五百羅漢」まで戻り

今度は、反対方向(山側)に行く

と・・
見えて来たのは「山吹城」の跡地

「石見銀山」の争奪戦は、戦国時代から始まっていた。
その拠点になったのが、この「山吹城 」跡地だ。

「石見銀山」は、時の権力者たちの争奪の的だったようだ・・
江戸時代になり徳川氏がここを直轄地にするまでは、もちろん!!天下人、豊臣秀吉が治めていた。

続いて目的地の「龍源寺間歩」(鉱山の跡)に向かう















「龍源寺間歩」を出て
地元ボランティアガイドのお話しを聞く

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「風の丘」史料館(ポート赤碕)

2016-06-16 | 歴史街・史料館・名所

「風の丘」の下にある「史料館」

中に入ると・・
朝鮮半島から赤碕に船で流れ着いた人達(現在の韓国)が、赤碕港で助けられた事実があり
そのときの様子が展示されていた。

























この綱引きの綱の結び方・・

これは、三朝町陣所の祭りで引く綱引きの綱の形(結び方)だが・・
その昔、赤碕港に流れ着いた人たちの故郷・韓国に今も伝わる祭りの綱引き綱と
結び方が、とてもよく似ているという。

昔から、なんらかの影響を受けていたものと思える。


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「風の丘」日韓友好交流公園②(ポート赤碕)

2016-06-16 | 歴史街・史料館・名所

旅行年別にパソコン画像を整理していたら・・
思わぬ発見!!

「ポート赤碕・風の丘」の写真が他にバッチリあったのです。
それも2009年に道の駅・ポート赤碕に行った時のが・・

うれしくて早速記事のUPをします。




































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浜坂温泉・古い家並み (兵庫県新温泉町)

2016-05-15 | 歴史街・史料館・名所

浜坂の「加藤文太郎図書館」の近くには旧家が集まっている場所がある。

図書館の駐車場の右に、いつも見えている旧家

そこへ行くと

小さい堀があった。

小さい木橋を渡る



堀に降りる石段があった。

お寺を発見

行ってみる



短い間だが、落ち着いた雰囲気がある家々が並ぶ

ちょっとした小道・・

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「豊前温泉街」NO,2  熊本県山鹿市

2016-03-31 | 歴史街・史料館・名所

山鹿温泉「巳喜」旅館に泊した翌朝

「豊前街道」を もう一度歩いた。

というのは・・昨日は
菊池川の船着き場が「豊前街道」の突き当りにあるのを 見逃していたから。

しかし昨夜は 夜半から天気が荒れて明け方まで大雨だった。
そのため 翌朝は 温泉街の石畳が濡れていた。
昨日 街歩きした時 全く気が付かなかった模様を醸し出していた。

石畳は こんな模様だったんだ。

改めて感動して見入る。

そして「豊前街道」へ出ると
ここも 雨後の街並みは、また昨日とは違う印象。



そうそう 早朝の温泉街に見とれていないで・・
「筑後川の船着き場」へ行く目的だったのを思い出す。

昨日は行かなかった「筑後川」が見える方向に「豊前街道」を歩いたら~

船着き場跡もあった!!









ここから多くの物資が船で運ばれていたんだ。
やっと納得した日

菊池川の景色

対岸の景色・・大きな川だ

しばし、見とれる。

さて、「船着き場」も見つけたし
再び「豊前街道」に戻ることにする。





「豊前街道」にあったマンホールも昨夜の雨できれいに洗われ くっきり見える。

昨日は 全く気が付かなかった。雨もいいね・・
全く違う雰囲気の温泉街が楽しめて・・
二度お得な気持ちになれた山鹿温泉街の街歩き・・

この右側の建物も なかなかいい~

この二つの建物の間に「巳喜」旅館に入る路地がある。

温泉街のいいところは
「路地」も また趣きがあるところ・・

この路地 すっかりファンになってきた。
雨上がりは更に渋い~山鹿温泉・路地の景色~

そして「巳喜」旅館に着く

あれ~??「巳喜」旅館の玄関マットって「くまモン」だった??

これも 昨夜の雨できれいに洗われて くっきり・・

ここは 熊本県山鹿温泉ですよ~

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「豊前街道」・・山鹿温泉街  熊本県

2016-03-31 | 歴史街・史料館・名所

山鹿温泉には「豊前街道」という歴史的な街並みがあるらしい。

旅館「巳喜」から「さくら湯」そして「八千代座」まで続く「豊前街道」を歩く。

まず「巳喜」から「豊前街道」までの路地は

この路地も なかなか趣きがある


いよいよ「豊前街道」へ出る。
やはり さっきまでの路地とは違う雰囲気だ。

気になるお店が・・
どうやら酒屋さんらしい

お雛様が道からも見える

やはり「酒屋さん」だった

他にも古い建物が・・









「さくら湯」が見えて来た













「八千代座」への道



ここでおり返す







昔懐かしい焼きまんじゅう屋だ

あ~煎餅屋だ・・

沢山 歩いて お腹が減ってきたのか?
食べ物屋ばかりが目に付き始めた頃・・

見覚えのある「巳喜」旅館への路地を見つけて入る

あたりはすっかり夕刻になっていた~

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「秋月」へ   福岡県

2016-03-31 | 歴史街・史料館・名所

「秋月の乱」で知られる「福岡県朝倉市秋月」へ行ってきた。

と言っても 
本日の宿泊「花立山カルナパーク」のチェックインまで 少し立ち寄った・・
これが正直なところだが・・


田んぼの中の道をしばらく行くと

小さい川に沿った道になる

しばらく行くと川に沿った「秋月」の街に入る



いい雰囲気の石橋がある。

一通り城下町を走る





町営の駐車場は どこも300円と割高だったので 車で街中を走るぬけた。
再び街の入り口に戻り
城下町の入り口・石橋の近くにパン屋があった

そこの駐車場は無料だったので そこに停めた。
そして改めて さっきの気になる「石橋」の撮影タイムになる。





川の水は澄んでいて「クレソン」が生えていた





「石橋」の撮影も終わり・・
さきほどのパン屋で買い物をする。

ここのお勧め・人気ナンバーワン商品 揚げカレーパンを購入。

後日 帰宅して このブログを書いた後で わかったことだが・・

私が歩いた(車でゆっくり通過した)のは「秋月の城下街」ではなく
「城下町のはずれ」の部分だったことだ・・

本当の「秋月の城下街」は車での通り抜けができないほど狭く
あの一見高いような300円の町営?駐車場に車を止めて・・
徒歩でしか行けない狭い道で、城下町の風情が満載の通りらしかった。

今回、秋月に行ったのが、
宿泊予定の「花立山カルナパ-ク」に入るまでの1時間ほどであった・・
本当なら もう少し きちんと調べて行きたかったなあ~
 
さらに 
夫は あらかじめ「正式な秋月の城下街」を写真や資料で知っていて・・
「そこへ行こうか?」「車から降りて 城下町を徒歩で行こうか?」
迷ったらしいが・・町営の駐車場代が300円と比較的高かったのと
「花立山カルナパーク」のチェックインが迫っていたので
徒歩での散策に必要な十分な時間がないから?
今回は あえて行かなかったと言う・

なんとうこと!! もう二度と行けないかもしれないのに・・
勿体なかった日・・

でも「秋月の石橋」は印象に残った日・・

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山中温泉 こおろぎ橋

2015-11-23 | 歴史街・史料館・名所

松尾芭蕉が弟子の曽良と入湯したという山中温泉。

「奥の細道」の旅で、
芭蕉に同行してた曽良は、
この北陸道に入ってからは
とかく健康がすぐれず苦しんでおったという。
二人の旅は終わりのほう近く
山中温泉までたどり着いたら、
曽良は、これまでの長旅の間、
ずっと師の体をいたわってきた心労と
暑さがたたったのか、弱ってきた。
さらに、ここに来て激しい腹痛にまで襲われたらしい。

芭蕉もさすがに心配になり
この山中温泉で10日間ほど二人は静養したという。

「山中や 菊は手折らぬ 湯の匂い」

芭蕉が残した句である。
意味は・・
「むかし、中国では慈童が菊の露を飲んで長寿を保ったと
言われたが、この山中温泉は効能が顕著であるので
菊を手折るまでもないことだ。
あたりには、すばらしい湯の香りが一面に漂い立ち込めている。」
このような内容だという。
「延命の花とされる「菊」など必要としないほどの
効能がある湯(山中温泉の湯)」と言っているのだ。

現在ある山中の外湯「総湯 菊の湯」は
芭蕉のこの句にちなんで後に名付けられた湯名だろう・・
ともかく、この山中温泉は
開湯1300年、当時から湯座屋と呼ばれていた湯で
芭蕉ゆかりの地である。

画像の「こおろぎ橋」は、
山中温泉の鶴仙渓とよばれている渓谷に
掛かっている橋の一つである。、
ここは、山中温泉の名所となっている。

街中なのに「深山幽谷」の風情がある。
芭蕉の時代に、
今 掛かっているような立派な橋があったとは
とても思えないが・・・
でも谷の底のあたりに小さい木の橋があったには違いない。
ここを通らないと 芭蕉といえども
次の目的地の福井から敦賀にはたどり着けない。





多くの旅人が通る必要があるのに
「行路が危険」「行路危(こうろぎ)」と
夜になると虫の「こおろぎ」がいい声でたくさん鳴く
ので「こおろぎ橋」とかけているらしい。
今でも木々や草の鬱蒼とした、深い渓谷だ。

私は
この「こおろぎ橋」の周辺の景観のよさに
すっかり魅せられてしまった。
様々な角度から「橋」の画像をとったが
この場所からみた「こおろぎ橋」が一番気に入っている。





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「藤沢周平」記念館 (鶴岡城 跡地)

2014-11-01 | 歴史街・史料館・名所

「武士の一分」「蝉しぐれ」「隠し剣 鬼の爪」「秘太刀 馬の骨」「たそがれ清兵衛」
いずれも「藤沢周平」の作品がもとになっている。

山形県鶴岡市にある「藤沢周平記念館」に行った。
鶴岡城の跡にあるという記念館・・
どこから入るのか??わからず 何度も鶴岡城の周りを車で回って・・
「鶴岡城の堀」



やっと、入り口らしき所を発見

この白い洋館への出入り口から入るとよかった。

城跡の一部に「藤沢周平記念館」の建物は融合していた。





館内に入ると

藤沢周平が、執筆活動をした机(当時のままの状態)が残してあった。

「鶴岡城」が好きで鶴岡の街並をこよなく愛した「周平」
彼の作品には、この鶴岡の自然、街並み・・それらが脈々と流れているという。

城内



今は公園になっているようだ。





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