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五条天神宮


写真は、本殿

祭神の1人少彦名命が薬の神さまであたっため、医家の祖神として信仰されています。

場所は、西洞院松原のバス停の目の前です。
もしくは堀川高辻からでも徒歩圏です。

拝観は無料ですが、非常にこじんまりした神社です。
正面の鳥居をくぐると、本殿です。
周囲に摂社が少しあります。

こちらでは節分の日だけ、日本最古と言われる「宝船図(ほうせんず)」が授与されます。

牛若丸と弁慶は一般には五条大橋(今の松原橋)と云われていますが、この社の近くで出遭ったともいわれています。

またこの一帯には、かつて“天使の杜”という広大な森がありました。
豊臣秀吉の都市改造により、天使の杜を削り、突き抜けて町が拓かれました。
その道は今でも天使突抜通(てんしつきぬけどおり)といいます。

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コメント ( 6 ) | Trackback ( )
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コメント
 
 
 
見間違い (tsumuji)
2013-09-03 16:27:57
何でこんなとこにホウキ?と思ったら、鈴緒でした。
 
 
 
かつての五条通 (hyt)
2013-09-03 17:54:22
今の松原通がかつての五条通だったのは聞いたことがあります。清水寺に通じている道ですね。
大体、今の四条通と五条通の距離が600mほどで、五条通と六条通の距離が200mほど。
松原通からは、四条通も六条通も400mほどで、本来の五条通だったわけですね。
江戸時代に変わったと思っていましたが、変わったのは秀吉のときだったんですね。
 
 
 
hytさま (amadeus)
2013-09-03 19:34:58
>五条通・・・変わったのは秀吉のときだったんですね。
読み違えておられますね。

由緒の1行目と、2行目以下は全く別の話です。

天使突抜通りが出来たのは、秀吉の時代としか上には書かれていません。

今の五条通になったのは、太平洋戦争中に防火のため道を拡張して以降です。
 
 
 
天使突抜の由来 (2級のほう)
2013-09-04 18:27:11
私も豊臣秀吉の都市改造で作られた道で、秀吉嫌いの京の町衆が皮肉の意味を込めて「突抜」と名付けたのだと聞きましたが、別の説もあるようですね。もともとの天使社の鎮守森に、天使の宮まで長く細く突き抜けるような参詣道があったことが由来だという話も見かけました。秀吉説が優勢になってしまったのは、京の町衆の秀吉嫌いに原因があるのでしょうね。
 
 
 
五条通 (京都人)
2020-02-05 13:53:39
今の松原通は昔の五条通です。昔の六条坊門通(五条と六条の真ん中の通り、他の各坊門通も同じ位置にあります)が今の五条通です。
で、なぜそうなったかですが、秀吉の平安京改造計画の一環(たとえば寺町通、寺之内、御土居、間之町通など縦の細かい通りの新設)なのですが、五条通りについては少々特殊です。
東山(の今の京都国立博物館辺り)には秀吉の作らせた京の大仏がありました。秀吉は作っている途中で(地震で大仏は倒壊、再建は秀頼)死んでしまいましたが、亡骸はその裏の阿弥陀ヶ峰に葬られ、麓には豊国神社が作られました。家康がそれを真似たのが日光東照宮です。
その参拝のために①正面通り新設と②五条通移設を行いました。秀吉は鴨川の橋も作り替え、三条大橋(石造)と五条大橋(木造)を作り、いずれも御所や市中と繋ぐ参拝道としての狙いだったそうです。
戦前、五条通は堀川通や御池通同様に延焼を防ぐために家屋を撤去し、3~4倍に拡幅されました。
 
 
 
京都人さま (amadeus)
2020-02-05 19:28:51
五条通の変遷についての歴史、ありがとございます。
非常に参考になりました。
 
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