京都観光のガイドブログです。定番の楽しみ方から特別拝観、さらには年に1度の御開帳まで。
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京都市の生まれ育ちで、50歳男性です。
京都市在住なのに?京都の神社仏閣めぐりに魅せられています。 第9回京都検定で、1級に合格しました。 さらに余談ですが、僕はMENSA(メンサ)の会員です。 |
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2012 11/23の拝観報告12(厭離庵)
写真は、書院前の紅葉
宝筐院から西へ向かって歩きます。
この途中で南北朝話から飛び火して”キケンな戦国談議”に野郎3人が陥ってしまいました(笑)。
3人とも話が止まらない、茶花さまボー然。
ついには厭離庵への入口の路地を10m程通過した時点で、僕が通り過ぎていることに気づき戻りました(笑)。
厭離庵(えんりあん)は路地の奥にある小さな庵です。
通常は非公開ですが、11月から12月上旬の紅葉時は公開されます。
内部の詳細は下記の本編で。
・厭離庵
ここは日当たりが悪いためでしょうか、紅葉の赤さが今一つ鮮やかではないですが、山中の庵という雰囲気が満点です。
ここも20分程度いた後、本日ツアーの最終目的地に向かいます。
アンケートを実施しています。
左サイドバーにあります。
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コメント ( 29 ) | Trackback ( )
« 2012 11/28の... | 2012 11/28の... » |
人が少ないのと、落ちた紅葉が厭離庵の雰囲気にあっています。
昔、少し早めに行ってしまったときは「今年は木が傷んでるのか?」とかなりビックリしました。
散りもみじ見頃ピーク時は庭園の周囲をカメラマンさんがぐるりと取り囲んで、地面に向けて真剣にカメラを構えてるので、けっこう面白い光景なんですよね~。
しかしキケンな戦国談議って(笑) 聞いてみたかったです。
>キケンな戦国談議って(笑) 聞いてみたかったです
では、僕の気分転換に!?少しだけ。
最初は毛利3兄弟(隆元、元春、隆景)の話から、4男で異腹の穂井田元清へ。
そしてその子供が関ヶ原に参陣した毛利秀元である。
また8男の元総が小早川家を継いで小早川秀包になった(その後横槍が入って金吾中納言
秀秋へ)。
ちなみにこの小早川家が面倒をみていたのが、大徳寺 黄梅院です(雲谷等顔の)。
さらに僕の好きな三好4兄弟(長慶、義賢、冬康、一存)の話になり、十河一存(4男)の
後を継いだ十河存保は、一存の実子ではなく2男 義賢からの養子である。
一方で一存の実子は、三好本家を継いで三好義継となった。
これもちなみにですが三好義継は、大徳寺 聚光院の開基です。
とかいう話です・・・。
止めときゃよかったでしょうか(笑)。
もしついて来ることができるようでしたら、super-meteorさまとともに
“京都のおすすめ”宗、“戦国”派(最小派閥か)を結成しましょう(笑)。
冬康が淡路、一存が四国東部を押さえてるんですね。
三好が好きなら松永久秀は嫌いなのでしょうか?
でも、傍でそんなマニアックな話をしてる方達がいたら、理解はできないとしても、興味津々、私の耳はダンボになってしまうでしょう。
まさに“類は友を呼ぶ”ですね(笑)。
秀包は9男でした。
最盛期は5男から8男も覚えていたのですが、
8男が末次元康で、後は名字が椙杜・・・出羽・・・、名前が元秋、元倶かなんかですね(ガチで調べていません)。
もう京都検定の前なんで調べません(笑)。
今こんな知識を整理している場合ではないので。
っていうか、amaさまここに出てる暇ないでしょー(私もだ)。
京極堂さまなんてもう本職ですし、他の文系の方はゼロ点出発ぐらいでしょうか。
そう思えば、僕、2級のほうさま、あんとんさまなどは理系ですからね。
ハンデを背負った後方からの出発のようなものでしょう。
よく頑張っているんじゃないでしょうか(笑)。
京都検定ですが、もはや
「ジタバタするなよ♪」って感じです。
世紀末はとうに過ぎましたが(笑・・・WANさま、super-meteorさまなどの20代は、この”出典”が分かるのでしょうか?)
まあなんとかなるか・・・ならないか(笑)。
> まあなんとかなるか・・・ならないか(笑)。
なるでしょう~。。。。たぶん。
お話はマニアック過ぎてついていけませんが。
試験前になるとミョーに関係無い本を読みたくなったり、掃除したくなることを思い出しました。
とありますので
残り数日、頑張ってください(^^)
あの日は、小早川家について熱くなりましたねw
毛利を支えた両川の話について
毛利元就はは勢力を伸ばすために自分の息子たちを有力国人衆の送り込み家を乗っ取ります。その代表例が吉川、小早川です。(他は割愛w)
その後、時代を経て後継者のいなかった毛利輝元に同じことを仕掛けようとしたのが、豊臣秀吉なのです。その話をふってみた相手が、僕が大好きな小早川隆景(元就の子、後の五大老の一人)なのです。
隆景としては絶大な権力者:秀吉からの申し出を無下にすることもできない、かといって、受け入れるわけにもいかない(毛利の血に豊臣の一族を入れたくない)
そこで、一計を案じます。毛利輝元(元就の孫:隆景からみれば甥)には確かに後継者もいなかったが、秀吉には「発表はされていないが、毛利家内で内定している。元就の4男穂井田元清の息子秀元を養子として後継にする」と伝え、輝元には経緯を事後報告w…輝元は事態を知り、口合わせをしたわけです。
話はここでは終わりません。
主家筋としての毛利家を守ることができた隆景ではあったが、秀吉が毛利家を警戒していることをヒシヒシと感じとり、その警戒心を解くために輝元の養子にと打診されてた秀吉の養子である「金吾(後の秀秋)」を小早川家の養子としてもらい受ける申し出をしました。
ここに≪小早川秀秋≫が誕生するのです。
隆景のおかげで毛利家は守られたといえましょう。
隆景は1597年にこの世を去ります。
その後、秀吉は1598年に、そして、豊臣政権の重臣中の重臣前田利家も1599年に亡くなります、、、着々と運は徳川家康に向きますね。
そして、1600年関ヶ原で天下分け目の戦!!
ご存じのとおり、関ヶ原の勝敗を決定的に分けたのは小早川秀秋です……西軍の大将として出陣した毛利は領地を大幅削減されてしまいます。
その後、立役者の秀秋も3年もたたず病死…小早川家は断絶
・毛利が歴史の表舞台に出てくるのは幕末を待たねばなりません。 このような悔しさがあったからこそ、維新の原動力になったとも言えますが。
歴史の因果の妙を感じます。
「もしも」シリーズであるのなら、是非「小早川隆景」を望みますね! 彼が、秀吉の死後どのようにふるまうのか興味がありますし。足並みのそろわなかった毛利勢力をどのように取りまとめるか見てみたいからです(+_+)
web上で再現するとこんな感じです。
最後に、、熱くなって本当にすいませんでした!!
こんな、会話が現実に厭離庵付近でされていたのですから、たいていの人は「引きます」、正確には身の安全wを考えて「退きます」よね??
もっとも、あの時異質な空気を出した三人wは歴史ロマンに満ちて各々武将という“楽器”を「惹きます」状態でしたw
>西軍の大将として出陣した毛利は領地を大幅削減されてしまいます
この関ヶ原の後の論功行賞が実に面白いんですね。
豊臣恩顧の福島正則は、最初から東軍で
尾張清州20万石→安芸広島50万石に加増、
西軍を裏切って、東軍を勝利に導いた小早川秀秋は、
筑前名島35万石→備前岡山51万石に加増になりました。
一見良さそうですが、ここに家康の”罠”があります。
福島正則の新天地の前領主は・・・そう、毛利輝元です(毛利は安芸広島120万石→周防長門37万石に減封)。
長らく毛利の本拠地であった領民が、正則を歓迎する訳はないでしょう。
正則も”イチマツ”の不安を感じたハズです(super-meteorさまは、このネタ分かりますよね(笑))。
そして小早川秀秋の新天地 備前岡山の前領主は、宇喜多秀家、五大老の1人にして西軍の主力です。
「お前のせいで、我らの殿さまは負けたんじゃ!」って思われる只中に放り込まれた訳です。
宇喜多秀家は幸い死罪は免れ、八丈島に流罪となり80歳ぐらいまで生きたハズです。
さすが”福から産まれた子”です(笑)。
そして
>秀秋も3年もたたず病死…小早川家は断絶
大谷吉継が関ヶ原で切腹する際に、小早川秀秋に対し「人面獣心なり。3年のうちにたたりをなさん」と言ったとか言わないとか・・・。
すいません。
僕も止まりませんでした(笑)。
時代が時代なので、久秀が悪い訳じゃないないです。
嫌いな戦国武将って・・・いないような・・・(笑)。
>欲しけりゃ 迷わず すがりつけ!
そうでした。
おっしゃる通りです!
確かに試験直前って、時間が貴重過ぎて、何がベストか分からずについ部屋の整理とかしたくなります。でも、気分転換は大事ですし、今はオーバーヒートした脳を休めるのも大事かもしれません。そういう意味では、戦国ネタはいいかもしれませんね。何はともあれ幸運を祈ります。
人も少なく、しっとりしてひなびた感じがとてもよかったです。
あともう少し頑張ってください。
吉報を待ってます。
平蜘蛛の茶釜もどんなのだったのでしょうね、ロマンです(笑)。
最近は、『筒井』や『荒木』、『泪』を見ましたが、戦国武将茶道具巡りも楽しいですよ(笑)
因みに、信長墓の阿弥陀寺にあった弾正の書状は『お前が言うなよ!』って笑ってしまいました。まあ、三好側の方が責任の比重が高そうですが。
あと、筒井も誰か語ってください(笑)
「洞ヶ峠」と「元の木阿弥」が筒井家からきてますよね
木阿弥は順慶の父の順昭だったかな?
あと、島左近が元々仕えてましたよね。
私、兵庫県民なので、何方か「荒木」も語っていただけませんか(笑)
現在の日本史の学力は、情けなくも、多分、中学生レベル。
皆様の貴重なお話しを、都より遠く離れた地で、有り難く拝読しております。
Amadeus様、日本列島の天気は大荒れの様相を呈していますが、
御健闘をお祈りしています。
Amadeus様
>正則も”イチマツ”の不安を感じたハズです。
さすがの市松も浮かれてはいられませんね。というよりは、貧乏くじを引いたとも思ったかもしれません。
こっからは、僕の妄想ですw お許しをw
市松の家康への本音
「おいおい、家康さんよ!あんたが秀頼公を盛り立てるって言うから、関ヶ原で井伊やあんたの4男坊忠吉と先陣争いまでして、功を天下に示したんや。 確かに、50万石越えはうれしいけど、なんで、清州を離れなあかんの? 尾張周辺で余ってる土地くれたらええやん」
狸家康の内心
「正則に尾張任せられるか!お前がおったら、大坂を攻める時、、めっちゃ障害やないか~!、つべこべ言わんとさっさと西に行かんかい!そもそも、わしの望みはお前のような武辺者は関ヶ原で運よく西軍と討死してほしかったんや。そしたら、後々手間が省けたのに。」
妄想はストップですww
京都検定に役立つ「かもしれない」情報をというか、基本レベルな話だとしたら申し訳ないですが、 等持院の客殿は福島正則の建てた妙心寺海福院の本堂を移築したものといわれていますね。(1811年)
ちなみに海福院の現・本堂は韶陽院(桂春院の向かいにあった塔頭…秀吉側室三の丸殿の名w…)の庫裏を移築・改造したものです。
文化財関連でいうと、狩野探幽は妙心寺の法堂の雲龍図を書く際、この寺に滞在しており、酒を飲んでいたずらで書いたといわれる「猿回し図」なんてのもありますね。
・宇喜多秀家について…もうこれ以上踏み込んでいいのか分かりませんw
秀家の父直家は権謀術数に長け、戦国を生き抜くすべをもった人でしたね。「梟雄」という名がふさわしいですね。父を亡くした時、秀家はまだ若く、秀吉は才能を買って養子として育てます。なんたって、秀吉が最もかわいがった養女『豪姫』(前田利家の娘)を娶らせていますから、その期待ぶりをうかがえます。ちなみに、秀吉はおねね宛の手紙で「豪姫は男なら★関白★にしたい」と言っていますw
おっしゃる通り、秀家は関ヶ原の戦い後、島津にかくまってもらったけど、結局は八丈島に流されます。そして、豪姫は実家の兄前田利長の元へ行きます。
そして、豪姫は秀家を気遣い、医者や従者を秀家に付き添わせ、さらには、食料などの物資を送り続けます(当然、加賀藩負担)。
実は、嘘か本当か、秀家の血は八丈島で続き、加賀藩は明治になるまで、物資を支援し続けました(ー_ー)!!らしいですw
秀家はこれにて終了w
>>私、兵庫県民なので、何方か「荒木」も語っていただけませんか(笑)
・最後に、≪くろ様≫の荒木要望に若干答えます。
理由は大河で必ず出てくるからです。(黒田如水が監禁される、長政が奇跡的に生き残る)
松永久秀の平蜘蛛もろともの、意地の爆死(1577/10月10日)から1年と11日後、荒木村重も有岡城(伊丹市)で織田信長に謀反します。信長は惜しいと思い、使者を送り説得しますが、失敗し(黒田如水は軟禁)、攻めることに、、、そして、信長包囲網の中にあった信長はすかさず本願寺と和睦し、有岡城を包囲・・・毛利水軍頼みの村重は1年粘りますが、城は陥落。
村重は城外に脱出します。その時の格好は背中に、兵庫壷という茶壷を背負い、腰に鼓(つづみ)をくくりつけていたといわれます。
→ そう、彼は久秀と同じく茶趣味であったのです。まぁ、利休十哲(七哲+3人)に数えられる人ですから。命と茶器を同等と考えたのでしょう。
*悲劇だったのは一族です。信長は有岡城の開城の条件に「城内の命を助ける」という約束しますが、反故して全員を皆殺しにします(+_+) よっぽど、信長にとって村重謀反は悔しかったのでしょう!
その後、村重は各地を転々とし、追撃を逃れ…あと以下略(笑)…秀吉ののお伽衆となり、芸術家として1586年に亡くなります。
村重の謀反理由はいまだはっきりわからないですね。優遇されてましたし、そもそも、村重の謀反に計画性は目ないですからね。
ちなみに、信長によって、荒木家は根絶やしにされたと思われますが、実は…子孫はいますね★ 江戸時代初期の浮世絵の祖ともいわれる『岩佐又兵衛』です。彼は落城時は数え年2歳で、乳母に助けられ、後に母方の姓を名乗ります。
ものすごい、コメントになってしまいました汗汗 ただ、心は晴れ晴れとしていますw
京都検定頑張ってください★
失礼しました。
荒木さんの件、私も“又兵衛”でしょうと思っていました。そうなるとベタですが、もう1人似た様な絵師がいますよね。ここまで来たのだから誰か繋いで下さい(平伏)。
貴方のコメントに私も熱くなり、書き込んでしまいました。楽し~いっ!
最後らへんに『目』が余分についてます~
京極堂様
みなさんを熱くするのが目的なんですw 見事にかかりましたね^_^
信長は有岡城の開城の条件に「城内の命を助ける」という約束しますが、反故して全員を皆殺しにします
の部分
反故してではなくて、開城しないので見せしめ的に
なのですが。
といっても、私の知識はゲームの影響からなので、主人公(信長)はあまり悪くならないのですが。
延暦寺を焼き討ちしたのは信長になっています。
東大寺大仏殿は久秀になっています。
信長は尼崎城の開城の条件に「城内の命を助ける」という約束しますが、開城しないので見せしめ的に
ですね。
村重は有岡城から脱出してるので、開城要求は尼崎城に対してではないでしょうか?
JR奈良駅近くにある重文裸地蔵で有名な伝香寺(筒井の菩提所としても有名です)にいくと、そのことがとても詳しくわかります!
猿まわし図は、確か海福院にありましたよね。暗くていまいち見えにくかったですが。
有岡城跡は、JR駅前すぐ近く(すぎるぐらい)にあり、便利なところでした。ただ駅前にもかかわらず、夜はちょっと薄気味悪かったですね。
岩佐又兵衛は、そういう背景も含め気になる一人なのですが、伝又兵衛も含めあまり出会わないんですよね。最近では、細見美術館で出会ったぐらいかな。今見たいのは、徳川美術館のです。
因みに上記で挙げた、徳川美術館所蔵の銘『泪』の茶杓は軽い秘仏的扱いをされていますよ(笑)
京極堂様、もう一人似たような絵師って誰ですか?海北友松はまた違うだろうし、残念ながら思いつきませんでした。
あと、日本の美術の件はおっしゃるとおりですね。
因みに、他の世紀の仏像本もありますよ。鎌倉時代仏は地域別であったぐらいです。
少し迷いましたが蜜寺散華は買っていません(笑)
手持ちの日本の美術、最新号は488中世の真宗美術で、バックナンバーリストには、件の書目が見当たらないので、益々興味が湧きました。好き云々と言う割には、この体たらくですから、休刊の原因を作った一人と言えますね。
日本の美術、結構世紀別仏像の巻があったと思うのですが、もしかしたら勘違いしてるかもしれません。m(__)m
少し話が京都から離れすぎましたm(__)m
気分的には、京都から大津・奈良ぐらいまで離れた感が・・・(笑)。
1.訂正です。「有岡城」ではなく『尼崎城(大物城)』ですね。maybe様のご指摘通りです。ありがとうございます。
時系列だけ整理しておきます。
荒木謀反(有岡城籠城)→ 説得(黒田如水監禁)→村重、脱出(尼崎城籠城)→ 「例の約束」→有岡城開城→ 村重脱出 → 尼崎城陥落 → 一族抹殺
例の約束の内容は、信長と有岡に残された荒木の重臣との約束で「村重の降伏と、尼崎城の開城を条件に、現在、有岡城内にいる者の命を助ける」というものですね。 内容の正確さに欠けてすいませんでした。
2.「見せしめ」なのか?
上記のことを考慮すれば、信長は「約束」を破ってないですね。なぜなら、荒木の重臣たちは村重の降伏説得に失敗して、結果的に村重は尼崎城を脱出してますから。
つまり、「約束」違反は説得失敗に終わった荒木側にあったことになります。
約束が守られなかったので、結局前言通り、一族全員抹殺された、、、maybe様のおっしゃる通り「見せしめ」の要素が色濃く出てきますね。
(ここからはぼやきw)
となると、疑問が出てきます。
村重は自分が降伏しないと一族が抹殺されるのを分かっていたが、なお、応じなかった・・・
自分の命を一族の命を天秤にかけたことになります。
自分で謀反しときながら(敗れれば死)、なお、自分の命を選んだ理由が、彼の後の人生に照らしてもはっきり分かりません。
というのは、逃亡後は、牙の折られたかのように、茶人として余生を送ります。
「茶人」として人生を全うしたければ、謀反などせず、隠居という形をとればいいですからね。
毛利は水軍が鉄甲船で破れたこともあり(攻められないための)時間が欲しかったのではないかなと。
有岡城から脱出はおそらくなかなか来ない毛利家への直接の援軍要請(茶道具は手土産)だったのではないかなと。
なぜ茶人にか、はわかりませんが自刃しないで生きたのは信長の行く末を見届けたかったのではないかなと。
全部、「~かな。」です(^^;