人は、ふるさとびと

お帰りなさい と迎えて
下さる神様は、私達の
ふるさとなんです。

(記事はリンクフリーです♪)

(漢詩)無 題(三十二)

2011-01-21 14:28:38 | スピリチュアル
神対目上歎語又可也神之
愛之歎計知可也


 神にむかいて目を上げ、言葉をもって
歎くも又可なり。
 神の愛の計難きを知るべきなり。


 神にむかって怨みつらみをいうことも、
神はゆるされている。そこを通って
本当の進化ができることを知って
おられるからだ。
 人は、神の愛の計りがたき迄に
深いことを知るべきである。
 すべてのことはゆるされて、あなた方は
本心へと上がってゆくのである。

心のながれについて

2011-01-21 14:21:25 | スピリチュアル
 我々が毎日誰よりも親しく付き合っているものというのは、
考えてみますと、心ではないでしょうか。
 朝起きて、さわやかに目覚めることが出来たとか、あるいは、
ちょっと睡眠不足で体がだるいなあとか、そういうことを感じる。
 覚知して、そしてくたびれているにしろ何にしろ、起き上がる
というのは、それはやはり気持ちの働き、心の働きであります。

 我々はよく自問自答なんてことを申しますけれども、自分に
問うて自分に答えるというのは、毎日毎日自分で無意識でも
やっている訳ですね。自分で考えて、ああお茶を飲みたい、
誰かに会いたい、こういう予定がある、というのはそれは記憶
ということもあるけれども、それをしたいとかしたくないとか、
面倒くさいなあとか疲れたなあとかということも含めて、
それは自分の気持ち、心と対応し続けながら、毎日肉体を養って
いる訳であります。
 親兄弟というのは絆が深いとか申しますけれど、私なんかに
言わせると、親兄弟よりももっともっと自分の中で深い
関わり合いを持っているのは、自分のそういう自分自身を覚知する
心でありますね。
 ところが、いつも申しますように、心というものはずっと奥の
深いところで神様と繋がっている。

 神様の世界なんていうと、この世とあの世という遠いかけ離れた
ところのように思う。ある宗教の信者さんだと、極楽に行くとか
地獄に墜ちるとか墜ちないとかね、あるいは、聖書などで
ゲヘナの火とか何とかいうけれども、しかし、そういう何か
想い焦がれるとかいう世界じゃなくて、厳然として、あの世
というか霊界と申しますか、そういう所はある訳なんですね。

 向こうの世界とこっちの世界というのはずっと繋がっている。
 一つづきになっている。だから、霊界移行という言葉を
申しますけど、それは実際に移っていくのであります。
 我々自身がこの肉体を脱ぎ捨てて、向こうの世界に移って、
そしてさらに自分の生命を豊かにしていく。そういう為の移り住み、
それが霊界移行、死なんだと。だから、この世の誕生と向こうの
往生というのは、これは二大祝賀行事であると私がいつも
申しますのは、そういうことなんですね。

 この肉体は食べなきゃ我々は死にます。飢えれば大変なことに
なりますね。その為に働かなきゃなんない、お金を得なきゃ
なんない。そういう想い煩いが霊界に移行すると、一回こうすっと
抜けるもんだから、色々な痛みや煩いがないぶん、余分なものが
なくなって働きやすくなるわけね。
 で、働きやすくなるというのはもっと厳密にいいますと、これは
素のまんまになる。素直になる。その人の本心が現われて
くる。そういうことなんですね。我々世界人類というのはですね、
人間一人一人というのは神様の御心の分かれなんです。生命の分かれ
なんですけれども、その御心と心を一つにしていく、本当のところを
いえばそうですね。それで生きてる。神様の生命を貰って生きてる。

 生命を生き生きとさせる。心をひそめてずっと自分の心の流れを
みていくと、本心に連らなっているから、その連らなっている
自分自身というものが、先程も申しました様に、非常に大きく
深いものなんですね。そうしてその人間の心の流れというものは、
自分の中の例えば、これが飲みたいとかあの人に会いたいとか、
そういう欲求とかいうものだけじゃなしに、もっともっと
深い深いところで繋がっていて、実は、深いところから
我々の肉体を養なう、例えば、暑いとか寒いとかそういう
色々な欲求が出て来る訳ですね。

 今こうして世の中で生きる為の、必要に応じたものがちょっちょっと
こう出てくるけれども、しかし、本当を言えば、本来心の深いところ
からの声というものを聴く、その為に我々は生きている。あるいは、
もっというと、その目に見えない程の世界、奥の奥の体というのは常に
そういう本来の深い声を聴いてる訳ですから、我々の肉体が覚知
しようがしまいが、その霊の生命を聴いて心を受けて生きている。
 そういうものが我々の肉体の実は養い親になってるし、肉体を
養ってる元になってるいうことを想いますとね。
 キリストが言ったね、「何を食べようかとか何を飲もうかとか
想い煩うな」というのがありますよね。「あの空の鳥をみるがよい」
という風なことを言いますね。それは何かというと、黙ってても
棚ボタにお金が入ってくるとかじゃないんです。

 人間の生命というのは、神様の霊的なそういう健やかなところからの
流れが来ないと止まっちゃうんです。
 生命というのはね、神様の分かれだから。だから、神様の方で、
この人間を何かの形でまだまだ生かして、器として動かしてゆかなきゃ
と思うかぎり、我々は死にたいと想ったって生きていかなきゃいけない。
 死ぬことを許されないわけなんですね。霊界移行をかってに
できないようになっている。

 例えば、お金がない、明日からどうしようという所までいっても、
そこで、あれっと思うところで道が開けてくる。
 神様なんだから、お金でも何でも自分の思うままに湧かせることが
出来るんじゃないかとか、色々あるんですけれどもね。
 ただ人間の生命というものは前生も前々生も生きてここに
こうして存在しておりますから、色んな借金がえしがありますね。その
借金返しを済ませるというのは大変なことなんです。何が大変か
といったら、人間にはまず欲があるんですね。欲が絡んで人間関係が
拗れるとかというのは、これは一番やっかいな訳ね。

 例えば、前の世の中で喧嘩別れして、もう絶交だとかあるいは
生命のやりとりをやったとかね。あんまり穏やかではない話だけれども、
そういう相手ともう一回、守護の神霊が後でくっつけて、それで何とか
この世の中でしようと思ったって、相手が猛烈な金持ちでこっちが
それ程お金持ってないなんていう、そういう極端な環境の中で合わせた
としたら、これはなかなかねー。僻み根性というんですかね。
 例えば、片っぽが1000万持ってる、片っぽは50万位しか持ってない。
50万対1000万じゃね。この世の中でパッと見はですね、1000万の方が
多いから、50万の方は萎縮しちゃうわけね。

 ですけれど、その50万をどう生かすかなんですね。今手許に
あるものをどう生かすか、自分の生命をどう生かすか、ね。それに
よってお金というのは増えもするし減りもするんです。その1000万
というのは、私から言わせますとね、つまり、その人の努力の賜物
でもあるかもしれないけれども、前の世の中からずっと積善を
しましてね、陰徳積んで貯金を増やして来て、それで現われてきた
環境の中の1000万かもしれない。そうしますと、その1000万の上に
あぐらをかくと、1000万なんてお金はたちまちに消えてなくなる。
 なくなった時にどうするかというのは、その人の心の現われに
なる訳なんです。

 そこで本心を輝き出させるということがこれは並大抵の事じゃ
ないんです。人間生きていかなきゃいけませんので、なかなかそれが
大変なんですけれども、でも出来るだけ素直にね、任せ切る
なんていうことはなかなか出来ることじゃないけれども、でも、
「すいませんよろしくお願いします」と言ってしまって、
祈って祈って祈っていきますとね、そうするといつの間にか、
ああこういうお金が入ってきたなあとか、ああこういう人に会って
助けられることになったなあとか、そういう何か援助がね、まわりに
ついてくるんですよね。その辺が、自分には1000万あるから大丈夫
だと思ってあぐらをかいてしまって何にもしない人。しない人
というのは、いわゆる心やさしくまわりに対しても自分に対しても
気配りをしない人。それでこの世の中を渡ろうとしてしまう。欲で
渡ろうとしてしまうと、これが一番駄目なことなんですね。
 私に言わせれば、さっき言ったように、人間の生命というのは
神様の分生命(わけいのち)ですから、神様の光を一瞬でも
滞らせちゃったら、これは生きていけないんです。人間というのは。

 だから、器としてどういう風に用いられるか分からないけれども、
その用い方は皆違うんだけれども、しかし、この人間はまだ
この世に用があるという場合は絶対に御用済みにならない。今日
目覚めて、そして生きてるということがわかったら、あーこれは
生かして下さってるんだ、生きてるんじゃない、生かして
下すってるんだと。

 だから、自分がどういう風に器となっていくか分からないけれども、
全身でですね、お任せします。宜敷くお願いしますと言って、
守護霊さん守護神さんに言い続けてごらんなさい。あるいは、
五井先生に言い続けてごらんなさい。そうすると、実際に、
食べる為に着る為にあるいは住む為にね、仕事でもお金でも
入ってきますよ。肉体を養うにはね。何故かといったら、霊の生命
だけじゃこの世の中はやっていけないから、この世の中で、
神様の為に働かせる為に、神様が必要であれば生かしていく
ということは、肉体を養っていかないと生かしてゆけない訳だから。
 そうすると、この人間には何が必要であるか何が必要でないか
というのは、向こうの方でよくご存知ですから、そこで、絶対に
自分が生かされていくんだという、そういうことですね。

 私は何にも取柄がなかったけれども、とに角任せてしまったね。
 そうして、何もかもゼロ以下になって、それでも、人間というのは
神様が養なって下さるから生きてゆけると、その位の素直さだけ持てた。
 そうしたら、貧乏にもならずに何とかこの世の中生きて、子供も
授かって孫も授かってゆけた。その時その時、私はこうして下さい
と言って望みはしなかったんですね。色んな夢とか希望とかいうのは
別にして、是非ともこうならなくては困りますという風には
望まなかった。そうすると、自分が想い描くよりももっと以上のものを
神様は与えて下すった。そういうことなんです。

 つまり、自分の本心の中へ、自分の本心の中へというのは、神様の
心の中へですね。その心の中に一致して、一致させて祈り言を
いってゆくと、世界人類が平和でありますようにとずっと祈りつづけて
ゆくと、そこで神様というのは、その一人一人の人間にとって
一番大事なものを下さる訳なんです。
 ですから、そこを信じて私共は世界平和の祈りを成し続けてゆきたい
と思いますし、又成し続けていらっしゃるように、私はこちらから
光を送り続けてまいりたいと思っています。

 昭和63年6月13日
                   五井昌久

平和な心(前篇)

2011-01-21 12:44:49 | スピリチュアル
 私共にとって、心を平和にするということはなかなか出来ることでは
ありません。それは何故かと申しますと、一日の間にでも、色々
悲しい事が起ったり、厭なことが起ったり、悔しい事が起ったりして、
心の中を平和に保つということは、まことに難しい事だからであります。
 が、それをどういう風にすれば平和にできるかと思って、人間
というのは、例えば、芸術方面で、美術を鑑賞したりあるいは書道を
やったりお花をしたり、色んな心を和ませる様なことをして、そうして、
自分の中の雑駁なものを取ろうと取ろうと思って、一所懸命やるんだ
けれども。
 でも、花に向かい合ってる時には平和であっても、人間関係の
ギスギスした現場へ戻って来ると、その平和であった穏やかであった
心が元へ戻ってしまって、元の木阿弥になってしまってね、それで
どうにもならなくなっちゃう。こんな事では、いくらお金を使って
お稽古事をやったって、何かもう自分の中のちょっとした気慰みにしか
過ぎないじゃないかという風な事で、そういう人が溜息ついたり
するのを聞いてますとですね、自分の内の色んなゴタゴタを
じゃあ何処へ捨てたらいいのかというので、今、とっても悩んでる人が
沢山いる訳ですね。

 例えば、山登りの好きな人など山に行くけれども、山の頂上に立って、
ああいい気持ちだなあ、人間は小さいなあ、と思う。その想った瞬間は
いいけれども、又こっちへ帰って来て駄目になる。その繰り返し
なんです。
 それで、その慰めというか、もっともっと人間のその生命(いのち)の
萎びている状態をなんとかしなきゃというので、何が出て来たか
というと、文学が出て来たり色々なものが出て来たりするけれども、
結局落ち着かない。落ち着かないというのは、人間の肉体というのは
何時も申しますように、我でもって汚れている。そうして、色んな人の
言うことなどが気になって、自分の評判はどうだろうとか、自分の
仕事は旨くいくだろうかとか、そういう心配や不安、不平やら不満など
ですね、色んなものがこう重なって檻みたいになってるもんだから、
なかなか自分の心を落ち着けるというところまでいかない訳なんです。

 それで、もちろん、レンブラントだとかミレーやゴヤだとか、東西の
色んな良い芸術家がおりますけれど、そういう人達、その天心を
現わした人達というのは、本当に導き手ではあっても、我々凡人が
その人達と一緒の心になれるかといったら、そうはいかない。それで、
芸術なんかと同時に、慰め以上のものとして、やっぱり、釈迦だとか
孔子だとか、それからキリストだとかですね、色んな人が出て来て、
そうして道を説いてる。何を説いてるかというと、祈るということに
ついて説いてる訳です。

 私は、祈りというのは、キリスト教などでは絶対者に対する全託と
いう風なことを申しますけれど、それは真実ではありますけれども、
この今生きてる人間が肉体人間のままで、じゃあ天父のごとく完全に
なれといったって、そんなに完全になれる訳はないのですから、
この在りのまんまで、神様のみ心の中へ入れちゃう。任せてしまう。
 弱いまんまでいいんですね。

 不平不満を抱いているまんまでいいわけ。そうして、生命の洗濯と
いうものを本当にしていただいて。その為に祈りのエレベーターに
乗って、神様を呼んで、そうして、自分の中の本来のほがらかな生命の
元の根っこのところを見つめてですね、その根っこのところというのは
これは宇宙神とつながっておりますから、その宇宙神とつながっている
そういうところを見ていると、これは光明そのものなんですから、
光明そのものの自分を見るということにもなる訳なんです。

 宇宙神だけが光明じゃないわけね。自然の中も、それからありと
あらゆる息しているものね。動物にしろ植物にしろすべて
生命あるものね。
 それから、鉱物にしろ何にしろ、我々からすると、言葉をもたない
無機物という風なものでも、ちゃんと守護する神様がいて、そうして
それを導いていく、そういう用命を持ってる神霊方がいる訳で、
それは皆光明を持ってる訳なんです。
 この宇宙の宇宙子というものは皆光明を帯びてる。その光明を
帯びてる同志が、奥の生命でもって呼びかけ合って、大調和と愛と平和
というものが宇宙の根本の精神にもなり、それから秩序を保ってる。
 そういうものにもなってる訳です。

 ですが、その中で地球は、宇宙人がいつも幼ない兄弟と申して
おりますように、霊妙な光明波動というものがなかなか届いてこない。
 人間というのは、自分の我でもって生きるから、自分が光明そのもの
だなんて思えないけれども、しかし、ずーっと日常の中で悩んだり
苦しんだり悲しんだりしている中で、自分をお任せして、そうして何か、
本来の生命の中に自分を入れていきますとね、そうしますと、自分が
光であること、人も光であること、それからこの自然全体の中に
とけ入ってる生命の一部であること、自分自身がですね。そういう
ことが分かる訳です。
 そうして、もっともっと奥を見つめていくと何が分かるかというと、
神様が愛であるということが分かってくる訳ですね。
 例えば、世の中不公平なんで、才能がある人と無い人とある。
 それから、お金持ちな人とそうじゃない人とある。色んな環境の違い
というものはあるけれども、しかし、それは皆想いの現われなんですね。
 あるいは、人間の生命というのは、何時も申しますように、今だけの
生命ではない。ずーっと前生、前々生からずーっと生き通して来ている。
 そこで獲得してきた色々な環境の末に、今の想いが重なって、今の
環境が出来てきている訳です。
 ですから、順境にしても逆境にしてもですね、一番難しいのは、心を
豊かにしてそうして愛深く、自分にも愛深く人にも愛深く生きるという
ことがなかなか難しい訳です。

平和な心(後篇)

2011-01-21 12:44:27 | スピリチュアル
 ですけれども、自分にも人にも愛深く接していって、そうして、
不完全な自分ではあるけれども、それを一回お願いしますといって
神様の前に投げ出してしまった時に、神様がよしと引き受けてですね、
引き取ってね、光を与えて、今までより以上に光を与えてですね。
 そうして本当に、その時には心が平和になってくるわけ。

 祈りの根本というのはそうなんですけれども、南無阿弥陀仏にしろ
南無妙法蓮華経にしろですね、主の祈りにしても他の祈りにしても、
皆祈りというものは、そういう奥深いものをもってる訳ですけれども。
 じゃあ南無阿弥陀仏といったって、なかなか今先入観があって、
極楽浄土のことしか浮んで来ないわけね。南無妙法蓮華経といったら、
日蓮宗のことしか浮んで来ない。じゃあ日蓮宗だけ信じていれば、
他の所は全部駄目なのかというと、そうじゃない。

 人間というのは、神様の生命の分かれですから、皆神の子ですから、
そういうものではない訳なんです。そういう所から見ますとね、
生命の奥の祈りのもっと奥の光明そのものに辿り着くその道筋
というのは、色々あっていいんだけれども、しかし、人間が本当に
この世に今現代に生きてる我々が、ああそうだなあと納得ができる、
つまり、理論的にも納得し共感が出来て、そうして愛を呼び起す祈り
としては、世界人類が平和でありますようにという祈りが一番心を
落ち着かせる。静かにさせる祈りである。と私は思う訳ですね。
 この光明心というものをずーっと散蒔いていきますと、自分自身も
浄まっていく、まわりも浄まっていく。別に宗教家になったり
しなくっても、要するに、これをやっていれば菩薩行を
やっている様なことになる訳です。皆知らない内にやる訳ですね。

 いつも何時も、私は繰り返しこのところ申し上げていますけれども、
何時の間にか心が落ち着いていく。何時の間にか心が静かになる。
 そういうことが大事なんです。心を平和にしよう平和にしようと
思って、何か落ち着かせよう落ち着かせようとするとですね。例えば、
胸がドキドキすると、ドキドキするのを何とか治めなくちゃあと
思うけれども治まらないと、興奮したり緊張したりすると、ますます
顔が赤らんだり心臓がドキドキしたり、それと一緒でですね。平和に
しよう平和にしようと思ってる間は、本当には平和にならないんですね。
 今、自分の心は平和じゃないけれども、しかし、すいません、この
ままでよろしくお願いしますと言ってしまいますと、もう神様
というのは、こちらから見てて、もう完全に抱きとって愛して
赦しとってですね、そうして何時の間にか落ち着かせるように、
気持ちを持っていって下さる訳です。

 自分の心は自分がよく知ってると言いますけれど、我々の中で
知っているように思うのは、それは感情なんでしてね。肉体人間の
中の我の一番上の部分、氷山の一番見えてる部分しか分からない。心
というものは、ずーっと奥に行きますと本来心があって、本来心の奥は
宇宙につながって、宇宙の奥は神様につながってる訳なんです。
 非常に距離が遠いように思うけれども、キリストが言いますね、
「汝らの内に神あり」と。あれと一緒で、人間の奥の奥には神様と同じ
生命の流れがあるから、自分の中の神様と話をしようと思ったら、
自然に祈りに入っていけば神様の声が聴こえるというか、神様が
こう望んでいらっしゃるんだな、人間の生命というのはこう進んで
行くもんなんだな、あるいは、世の中の運行というものは本当の
意味では公平なんだなということが分かって来るんですね。
 あるいは、もっとはっきり言ってしまえば、奥の体というものが
それはもう分かってる訳なんです。  
 ですけれども、我々何十年か生きてまいりまして、やっぱり、
それなりの社会的な地位だとか今の立場だとか、結婚してるとか結婚
してないとか、色んな此の世的なとらわれがあります。こだわりも
あります。
 そのとらわれとかこだわりを無理にとってですね、そうして、じゃあ
皆同じ様に宗教の道へ入れといったって、それは無理な話だから、その
こだわりはこだわりとしてそれを一見大事にしながら、本当に子供
みたいに祈っていくと、道というのは開けていくものなんですね。

 だから、目の前の表面的な現われてきた環境だけに把われて
いると、本当のことというのは分かりにくい。そして、その奥のこと
というのは本当に人間には分からない色々なものがある訳なんです。
 例えば、生死にしましても、何十年も健康でやっていけるだろうと
思った人が、ポックリ心臓で死んでしまったりとかですね、こんなに
一杯病気持ってる人がという人が、何十年も生きちゃったり、そういう
こともある訳です。
 だけれども、それは神様の側から見ていれば、本当に大宇宙の中の
大きな流れの中の一滴として、人間の生命を器を使う。公平に使う
ということが大大大奥にはある訳ですけれども、そこまで
いかなくてもね、祈りの階段を一歩づつ登るというのは、取り敢えず
今の私をそのまま正直に神様の前にさらけ出して、そして、
「すいませんお願いします」と言ってお祈りをする、続けていく。
 そうすると、いつの間にか平静になって、心が平和になって静かに
なって、自分で力むのでもなく、まわりから色々な援助が来たり、
あるいは、人の為に祈る気持ちが起ったり、親切にする気持ちが
起こったり、われしらず喜んだりする訳なんですよね。

 心というものは放ったらかしておくと、本当に喜びたがるもの
なんですね。それに、この世の色んな枠なんかで、我々が色メガネで
世間というものをみて、自分の心というものを見てしまいますと、
それはもう我の世界と同じ様に見えてしまう。そうではなくて、心
というのは神様と繋がっているものですから。
 そういう心を我々はいただいて、そして平和に生きるようになってる
ものなんですから、平和にならないという方が、本当は原則から言えば、
普通ではないおかしいんです。
 ですから、本当は私の心は元々平和なんだなと思って、今の不安なり
不満なりをこちらに預けて下さったら、こちらの方でちゃんと浄めて
光を送って、そして、後で考えてみたら、あああそこで迷って悩んで
立ち止まって、お金は失くなったけど、あそこで宝を貰ったなあ、
とかということが5年たったり10年たったりすると分かるようになる。
 そこまで連れていくのが私の仕事なんでして。喜びそうな事言って
五井先生は連れていくというけれども。

 そうじゃない。やっぱりこの世の中に生きることというのは、非常に
辛いことが多い訳です。その中で、世界人類が平和でありますようにと
言ったってですね、自分の気持ちが平和にならなければ、とてもじゃ
ないけれどやりきれない訳ね。人の為に祈るなんて、そんな気持ちに
なれない人がこの世の中に一杯いる訳なんですよね。そういう時には、
祈れと言ったって祈れませんから、すいません私は今祈れません
よろしくお願いしますと、もうとに角預けなさい。銀行じゃないけど、
預けて預けきったら、そこでふっと何だか訳の分からない道が開けて
くる、という風に私は言う訳なんです。その時に、預け切って
しまいますと、必ず自分の生命の奥にある愛念というものがふーっと
静かに昇ってきましてね、誰を愛するとかいう理屈じゃなくって、何か
心を一滴平和にする様なものがポッとおきる訳です。そこで、
ああそうだ、それじゃあもう任せてしまおうという気持ちになる。
 法然さんとか親鸞さんはそういう気持ちになって南無阿弥陀仏を
唱えたし、キリストというのはそういう気持ちになって神様を説いた。
 我々だって、そういう気持ちになって祈りを続けていけば、やって
いけないことはないんです。

 自分がやると思うからとっても大変なんですね。自分は何にも
出来ないです。自分の生命も何もかもこれは借りものなんですから、
いただいてるものなんですから、自分のものというのは体の中に一本も
ない訳ですね。
 足の一本も造って生まれて来た訳じゃない。全部神様からいただいてる
ものです。それで、私はこういう風に生きたいんですとこちらで自分の
人生を設計して、そうして、どうでしょうかと見取図を出す。
 そうすると、神様の方で見て、ああここはちょっと道が曲がってるよ
なんていうことになると、ある計画がストップになったりですね、
こっちで折角何かしようと思ってるのにうまくいかなかったり、そういう
形で現われてくるかもしれないけれど、それは向こうの方が危ないと
思ってるからストップをかけてる、というのが私には分かる訳ですね。
 ですから、個々色んな場合に色んな背景があるとは思いますが、
それをひっくるめて、とに角祈って祈って祈り抜いて行く。祈ること
即ち行なんです。行というものは光に繋がる訳ですね。

 とに角何でもかまいません。べつに、世界人類が平和でありますように
でなくとも構わないんです。何にも宗教を信じていない人でも、太陽を
拝んで、ああ今日も一日ありがとうございましたと言ったら、その時
その人は光明になっているんです。
 そのように人間というのは赤ん坊みたいに、無邪気に明るく生きて
いければいい訳なんです。ただ私は、その立場立場のその方達の心の
本心を開くお手伝いをする。それが五井昌久の天命ですから、そういう
事を白光の方々も心がけて、そうして、ただ五井先生を拡めるとか、
これが一番いいお祈りですよとかいうのではなくて、その人の世界の
言葉でしゃべる。その人の世界の言葉でこちらから語りかけて、
そうして、頑なになってる心であればそれを抱くようにする。その時には
私もそばに居ますから。

 決して自分がするというのではなく、何か大きな神様の愛があって、
その大きな神様の愛によって我々は生きているんだということを、
しっかりそこだけを間違わないで、そうして、お浄めでも何でもさせて
いただく様になればですね、その人自身の余分なものは離れていくし、
それから、自分自身も浄まっていく訳ですね。
 そうして、この世の中の生活というものも大事ですから、その生活の
中で出来る時に祈って行けば、いつの間にか、そうだあの人と喧嘩を
していたっけという様な、そういう心になっていく訳なんです。

 それは今、平和にしよう平和にしようと思っても出来ない。出来ない
けれども、努めていくとね、何も努力しないでいいというんじゃない、
努力をしていくと、そういう風に余分なものを取っ払って下さるのです。
 その取っ払いの役が色々あるんですよ。守護霊さんとか守護神さん
とか私とか、色々あるんですよということを、世界人類が平和で
ありますようにという何の把われもない言葉の中に全部込めて、
語り込んである。祈り込んである訳なんです。だから、あれを祈ると
心は確かに平和になる訳です。

 色々な宗派の方がおられると思うし、俺は無宗教だという人もいると
思うけれども、しかし、世界人類が平和でありますようにの中に
込められるようなそういうひびきでもって生きていかなければ、今の
世の中、もう光明化していくということは出来ない。
 ですから、色々な宗教や、あるいは宗教の立場じゃない人達とも
一緒に生きる、共に生きるということを目ざしていく為には、自分の
生命というものを一回神様に返してしまって、預けてしまって、
それから無になって祈る。そして、祈っていく事を毎日の朝夕の
日課にする。そういうところからやっぱり、励みになって、光
というのは出て来る訳なんです。

 もちろん、祈りというものは肉体だけではない。その奥の体でずっと
祈りづめに本当は祈ってるんですけれどもね。肉体がそれをちゃんと
自覚をする為には、どこかで時間を決めて祈るという、一つの形という
ものがいる訳です。私から見ていると、形というものは全く無意味と
言ったら何ですけれども。
 でもやっぱり統一会などで世界平和の祈りを致しましょう。ね。
 私などが導師になってやる。あるいは村田さんなんかがやる。昌美が
やる。というのは、そこで心を一つにして祈る。時を同じくして祈る。
 覚えて祈る。ということによって、本心の中にスーッと入っていく、
自分の中の本心にスーッと入っていって、人間の本来の生命と出会う。
 というそこを目指している訳です。ですから、朝夕にその人が
祈りやすい時間でいいんです。朝起きて寝起きが一番自分は緊張して
よろしいとかですね、色んな人がいると思います。その人のその立場に
よって祈ってゆけばですね、気持ちというのは段々落ち着いて静かに
なって平和になっていく、しーんとして本当に平和になった瞬間と
いうのは、実は、我々は個々にいて本当は分かっていないけれども、
宇宙の中の平和の元、根元と一体になってるんだ。

 だから、我々の生命は個の生命であると同時に、人類全体の中の
一つの一滴の生命であって、そして、人類というものを支えているんだ。
 もっと言えば、宇宙神の御心を支えているんだ。
 そういうつもりで生きていっても構わないんです。ただそれを
あんまり声高にいいますとね、じゃあ我々だけが御心をやっていく人間
なのか、これは字面だけをとりますとね、何といいますか、傲慢無礼と
いいますかね、そう聞こえてしまう。

 ですけれども、本当のところ言えばやはり、個人だけの生命じゃない
訳ですね。人は一人では生きられないと言うけれども、何かこう
気持ちが寂しがる、心が寂しがる。そして、例えば、アメリカと日本に
離れていても、知らない人とある日であうことがあるかもわからない。
 それと同じように、実は我々は霊的には皆知り合いなんですね。この
世の中に生きてる人達というのは皆、今の時代に会う人も会わない人も、
皆知り合いなんです。
 ですから、ここで我々が祈り心でもって何かする。心を落ち着け
静かに働いていく。質実に自分を高めていく。そういう事をしていると、
それが人類全体のひびきになっていく訳ですね。

 いつも私が申し上げたように、色んな天災だとか、テンサイと
言ったって凡才天才のテンサイじゃないですよ。そうじゃなくて
天変地異ね。大雨や雪などの天気というものね。天気というものは、
今悲しいことに、人間の業によって大水が出たり何だかんだで
浄めなければいけない、そこまで来ている。
 つまり、業がそれだけ空気を汚れさせている。人類の心の空気を汚れ
させている。だから、世界平和の祈りというのは、そういうのを
光明波動でもってサーッと掃除をするというのはあるけれども、とに角
我々一人一人が誠実に自分の持場でずっとやっていると、それが自分
一人だけのことに返って来ないで、そのひびきがずっと全体にまわって
いって、そうして、宇宙そのものからも光明がくる。

さっき私が申し上げたようなああいう順序で真理が花開いていくと
いうのは、これは真実なことなんですね。
 そこまで人間というものは大きくて深い。自分の身の丈何尺何寸とか
昔いいましたけれどね、今で言えば、160とか170とか、
180センチになったら高い方だとかいいますけれど、人間の大きさと
いうのは本当はずっと宇宙まで貫いていくみたいな、それ程大きな
光明体なんですね。
 ですから、本当に深い人を霊視しますと、もうこの会堂いっぱいとか、
この家いっぱいでは足らなくなる。もうずっと貫いて天まで
いっちゃうんですね。それは特別な人じゃなくって皆がそうなんです。
 皆が光なんです。
 ですから、その光を集めて、そうして何かやったらこれは
すごいことになる訳です。

 だから、我々がやってる世界平和を祈る運動というのは、世界人類が
平和でありますようにという祈りを国と国も、人と一緒にやる。
 そうすると、その人達の言葉を、外国人であるとか英語であるとか
独語であるとかいう言葉の壁を超えて、本心のひびきで祈る
もんですから、その人の本心と私の本心とがひびき合って、そうして、
そこから愛と平和というものが生まれてくる訳なんです。
 私共の目指している平和というものはそういうものなんでして、そして
それは絵空ごとでも何でもなくて、人間というものを真実に深めて、
じいっと見つめてみつめ直してゆくと、そういうすごい素晴らしい働き
というものが人間の中にはあるんだということね。それは霊肉が
一致してやっていける。

 昔は即身成仏といって、生きたまま仏になるということを目指して
生きた。だから、飢えてそのまま死んじゃったりした人がいますよね。
 お坊さんでもね。本当に無になって死んでる人もいるけれども、
いつかのミイラの話じゃないけれど、即身成仏のミイラのそばに
いったら、食べたくて食べたくてしようがなくなった人がいる。
 それは、食べたい食べたい食べたいと想いながら、一方信仰心で
押さえて死んじゃったもんだから、その食べたいという餓鬼道の餓鬼の
ようなああいう心がね、誰か幽体の広い人にとっついて、それで、その
人は食べて食べて、祈ってもらってやっと食欲がおさまったなんて話が
あるけれども、あれはやはりどこか自然なものじゃないですね。不自然な
ものなんですね。
 人間というのは、霊が非常に大きいからといって皆自殺する訳には
いかない。皆、この肉体をもって辛いことがあっても、家族と
ぶつかろうが何をしようが、やっぱり生きていかなきゃいけない。それは
何の為かといえば、自分の生命の為なんです。

 自分の生命というのは、明るい朗らかなものなんだから、本当は、
だから、本当に明るい朗らかなものを導き出して、そして、
抱き合う為に我々は何をするかといえば、祈る訳ですね。
 とに角、祈ることによって生命を宣り出す訳ね。自分の中にある、
明るい何ものにも把われないね。生命を宣り出す訳なんです。その為に
我々は心を合わせて祈る訳なんですね。

 だから、一人だけでポツンと祈ってるようにみえてもね、目に見えない
世界で、誰も会ったこともないような人達の霊体なんかがすっと
あなたのそばに来て、霊的に言えば、うしろでこう支えて一緒になって
世界人類がーとやってる。あるいはアーメンとやってる。そういう
ことは、私なんかの目から見ますと、いっぱい見えることなんですね。
そういう、私は一人ではないんだというね、つまり、皆共に生きてる生命
であって、そして、その生命であるということを確認するんだ、それが
世界人類が平和でありますようにという祈りなんです。

 世界中の人と友達であるかないかなんていうのを確かめる為に、
世界旅行に出るなんてことはできません。それを、霊的にも色んな
意味で、深い意味で確かめるにはあの祈りしかないんですね。
 世界人類がということを口にしただけで、あーと思えるというのは、
本当にあーそうだ、私は世界人類の一人なんだなと、その時には、
国とか民族とか家族とか柵とかというそういう余分なものはもう
取っ払っています。もっと大きな視野に立ったところから自分を
見ています。個を見ています。そうして全体を見ていくものなんですね。
 ですから、そういう祈りに抱かれて我々は生きていくんだと
いうことをみますと、ここで平和になるということがそれ程絵空ごと
でもなく、力むでもなく、自然にやっていけるようになるということが
わかると思います。

昭和63年6月13日                                                        五井昌久