人は、ふるさとびと

お帰りなさい と迎えて
下さる神様は、私達の
ふるさとなんです。

(記事はリンクフリーです♪)

短 信(34)

2019-07-31 13:41:43 | スピリチュアル
真理というものは、一つであります。
その真理とは、私たちを生かして下さって
いるのは、神の愛であって、この神の愛は、
永遠であり、無限でありということで
あります。

私たちは、この真理を身にも心にも
沁み込ませるために、日々祈りをし、愛を
求め、やさしさを追ってゆくのであります。
ですから、真理を求める心とは、愛を求め、
やさしさを求める心にほかなりません。
この愛とやさしさには、同時につよさが
加わっております。
それは、神様から、また、守護の神霊から
加えられるのであります。
どういうつよさかと申しますと、この世の
現実を、一たん受け留め、見据えるつよさ
であり、我人のこころのなかにあるもの、
奥にあるものをみつめて、愛でつつむ
つよさであります。

私たちの心は、この愛とやさしさとを、
求め、追わずにはいられないのです。
なぜなら、私たちは、神の無限の愛、
やさしさという真理の樹に連なる枝
であるからであります。
愛とやさしさによって、私たちの
いのちはやしなわれて いるからであります。
愛とやさしさこそ、私たちの光のいのちの源
だからであります。

宗教というもの、信仰というものは、
この無限の愛とやさしさとを、神にたずね、
また己れの裡にたずねつづける旅だと
申し上げてもよいでしょう。

人は、この旅路の間に、幾度か肉体を
脱ぎ、霊人となり、幾多の天地を住み家とし、
やがてそこをもはなれて、真実の
自由自在心を得てゆくのであります。
祈りは、この旅路を照らすともしびで
あります。

この世で、いかに辛く苦しいことが
ありましても、神様は、しっかりと、
あなたを抱きとめて、このともしびを
かかげ、迷うことのないように、真理への
道筋を踏みかため、一足一足の歩みを
みちびいて下さっているのであります。

私たちは、神の大愛に守られて歩いてゆく
のであります。
永遠のいのちの道を歩いてゆくのであります。

どうかこのことを覚えて、世界平和の
祈りに精進なさって下さいますように。
           合 掌
            昌 久

短 信(33)

2019-07-30 21:51:18 | スピリチュアル
光はどこまでを浄めるかということ
については、以前にも申し上げた
ことがありますが、その範囲は無制限
であります。

宇宙は、尽きることのない神の愛と
調和の気に満たされております。

その神様の愛と調和(光)は、どこ
までにもおよんで、闇(業想念)を
消し去るのであります。

さらに申しますなら、光は、どこにも、
みちていると同時に、私たちのこの
いのちの源であることも忘れては
ならないことであります。

神はわが裡にあり、我は光なり
なのであります。

これは何も、己れを高ぶらせる
おもいからの言葉ではありませんで、
いつも申しておりますように、
私どもは神のいのちからわかれてきた
分生命(わけいのち)、分霊(わけ
みたま)なのでありますから、光こそ
わがふるさとでありまして、肉体は、
この光を受ける器なのです。

光を遮(さえぎ)ることは出来ません。
そうして、みちみちている光を、
分けることも、全く不自然なこと
であります。

私たちが素直に神に祈りをささげ、
日常を送って参りますなら、私どもは、
神の朗らかないのちを受けた光として、
どこまでも、まわりを和らげ、浄めて
ゆくのであります。
否、神が浄めて下さるのであります。

世界人類が平和でありますように
       合 掌
        昌 久

短 信(32)

2019-07-29 15:40:32 | スピリチュアル
自分を役立たせたい、お役に立ちたいという
気持ちは、実に尊いものであります。
ありがたいことでありますが、あまりに、
この気持ちに熱をおびさせますと、
やはり我(が)の世界へと引き入れられる
のであります。

私たちは、余程ここのところを
しっかりと見極めねばなりません。

私たちが、お役に立ちたいとおもう時、
それは具体的には、私たちの知っている
誰かに対してーということが多い
のであります。
たとえば、友だちが病気で苦しんで
いる、どこかいい先生はいないか
と言う時に、一生懸命世話をする、
また、自分の知っているお医者さんに
連れてゆく、それでようやく治って
みると、自分が思った程には友だちが
感謝してくれない。
こういうことはよくある話であります。

これはなぜこうなるのかと申しますと、
苦しんでいる友たちをみて一生懸命に
動いたその時には、お役に立ちたい
という気持ちが、純粋に働いていた
わけであります。
むしろ、この気持ちによって、心が
もえたということがいえるかも知れません。

お役に立ちたいという心、愛念が、
その人を突き動かしたわけであります。
この時には、ただもう友だちの苦しみが
取れればという気持ちだけでありまして、
そのほかには何ものぞんでいないのです。

それで、いろいろ動いて、その結果、
元気になってきますと、本当によかった
と思う。
ところが、すっかり元気になって、
その友だちにお礼は言ったのでしょうが、
そのお礼の言い方が、動いた方としては、
何かあっさりしていて、物足りない。
そして、物足りなさを感じているうちに、
今度は、自分があれだけ動いてやったのに、
友だちはわかっているのかしらという
気持ちになってくる。

こうなると、もう「お役に立ちたい」は
どこかへ行ってしまっている。

お役に立ちたいという気持ちは、
汚されない、純なものであります。
この人も、そのはじめには、純な
気持ちから出発したのであります。
それがおかしくなったのは、自分が
目の前の友だちのために一生懸命動いた
という気持ちにとらわれたから
なのであります。

人間というものは、神様の光なのだ、
光の一筋なのだということは、つねづね
申し上げていることでありますが、
お役に立ちたいという気持ちを
じっとみていますと、それはただ、
光が光にむかって働きかけている
ということなのであります。
つまり、私たちは、具体的には、自分の
知っている誰かを通して、光として動く、
光明を発揮しているということに
なるのであります。

ですから、お役に立ちたいというのは、
本来、誰かのために動くとか何とか
というようなものではないのでありまして、
それでいいますなら、神様のために、
このいのちを、幾分かでも働かせて
いただいたということなのであります。

要は、あまり、お役に立ちたいと
思いつめず、ふんわりと、神様に
その気持ちを伝えていらっしゃれば、
一番いい方法で、神様が、あなたを
使って下さるということなのであります。

のんびりと、ふんわりと参りましょう。

世界人類が平和でありますように
         合 掌                        
           昌 久 

短 信(31)

2019-07-28 16:20:23 | スピリチュアル
何も心配なさることはありません。
泣くだけお泣きなさい。
人間の心の自然な動きを殺しては
いけません。

いのちに素直になるということは、
自分に素直になる、自分の気持ち、
心に素直になるということであります。

耐えるということと、自分を殺す
ということとは、全く別の世界なので
あります。
さながらにいのちを生かすということが
もっとも大事なことで、そのためにも、
まず、自分の心の声に耳をかたむける、
自分の心に素直になるということが
大事なことなのであります。

五井先生にも淋しい時がうんとあった。
けれども、どんな時にも、神様と二人
だと実感してここまで歩いてきたのです。

神様も、五井先生も、守護霊さんも、
守護神さんも、あなたの側にいます。
ですから、安心なさって、ありの
ままの素直なあなたを、神様の前に
投げ出して下さい。

涙がかれれば、あとは、心は明るく
なってゆきます。

元気を出して、ご一緒に祈って
参りましょう。
           合 掌
             昌 久

短 信(30)

2019-07-27 07:11:06 | スピリチュアル
祈りの生活のなかでどういうことに
気をつければよいかという、御手紙の
御趣旨かとおもいます。

祈りというものは、私たちを自由に
するものであります。
本来、肉体ではなく、光そのものである
人間の自由自在身であることをしらせて
くれるもの、それが祈りであります。
つまりは、すべてのとらわれから離れ、
また放たれるのであります。

祈っている私たちは、実は祈らせて
いただいているのであります。

神様が、守護霊守護神が、私たちが
眠っている間にも、一瞬もやすむこと
なく守りつづけて下さっているように、
私どもの本心本体は、ずっとずっと
祈っている。
祈らずにはいられない。
祈りを生命としているもの、それが、
人間であります。
私ども一人一人なのであります。

ところで、先ほど申しましたように、
祈りは、私どもを自在身にいたらせる
すこやかな光そのものでありますので、
祈って参りますうちに、祈っている
ことをも意識しない、朗らかな
自分自身に出合うことになるので
あります。
 
朝の九時と午後の三時、それに夜の
九時がお祈りの時間だからと
申しましても、日常のなかで、
どうしても出かけなければならない
とか、人がたずねてきて、統一の
テープがかけられなかったとか、
さまざまなことが起きるのが当然
でありまして、そうした時に、祈りの
時間が守れなかったと思ってイライラ
したり、クヨクヨしたりするのは間違い
なのであります。

実際、あなたが祈れない時には、
守護霊守護神が祈っているので
ありますし、守護霊守護神が辛い時
には、これまで申して参りましたように、
私が祈っているのであります。

現実生活というものを、馬鹿にしては
なりません。
大切なその場にその人がいなければ
みんなが困るという場を放たらかしにして、
統一会にかけつけるなどは、本末転倒
であります。

こういうかたよった、人の立場、また
自分の立場をかえりみないやり方で、
祈りに没入し、宗教に没入することは、
断じて間違っているのであります。
人を犠牲にした上での祈りは、光を放つ
筈がありません。

祈りは、神のみこころであります。
人間を愛し、人類の進化と、宇宙の
大調和とを実現させるという深い神の
みこころが、世界平和の祈りのなかには
こめられております。
否、このみこころそのものなのであります。

どうぞ、寛やかな、ゆたかな心で、祈りを
なさって下さいますように、神の愛、
神のこころは、森羅万象のなかに
みちみちているのであります。

素直に、のびやかに広く広く、
いのちを生きて下さいますように。
            合 掌 
              昌 久