人は、ふるさとびと

お帰りなさい と迎えて
下さる神様は、私達の
ふるさとなんです。

(記事はリンクフリーです♪)

すなおになるということ

2018-10-31 11:16:58 | スピリチュアル
すなおになるということ
すなおになるってことは
りくつじゃないんです
おのずからよろこびが湧き上がってくる
生かされているとおもえて
うれしくなる
思わず
天地自然に
ありがとうございます

いいたくなる

本当にすなおなこころに
なってくると
こうしなきゃ
こう思わなきゃ
と思わなくても
思えるようになるんです

だけどそれは
業想念の渦がいっぱいある
肉体の
ゆれ動く感情に
スイッチを合わせちゃうと
もう滅茶苦茶になってしまう
感情にアンテナを合わせて
スイッチを入れちゃ駄目なんです

じゃあ
どうするかというと
祈りでもって
この肉体のまま
光の自分自身というものを
だんだん自覚してゆくわけです
祈りによってしか
これはできないんです

法然さんが出て
南無阿弥陀仏を説き
イエスが出て
主の祈りを説いた
そして今
私がきて
世界平和の祈りを説き
伝えるんです

南無阿弥陀仏も
主の祈りも
ともに
光明の祈りですけれど
世界人類のすべてが
心を一つにして
祈る祈り
祈れる祈りっていうのは
世界平和の祈り以外ないんです

この祈りを知って
祈ってゆくうちに
みんな本当に自由自在に
なってゆく
明るくなってゆく
朗らかになってゆく
心がおちついてくる
何故か

それは
神の大愛が
この祈りをつらぬいているからです
神の
分霊(わけみたま)
分生命(わけいのち)
である人間を
神が捨てる筈がないんです
捨てるどころじゃない
迷って苦しんで
自分というものがわからなく
なってしまっている
我々に
みんなの帰る所は
ここなんだ
と道をさししめしたのが
世界平和の祈りなんです

元々
神様とともにあった
私達が
この地上にくらす内に
肉体だけを
自分自身だとおもい
地上だけを
唯一の世界だと
考えた
そこから
さまざまな
不安や
恐怖や
とらわれが
出てきたんです

自分を守りたい
守らなければという
想いもでてきた
そうすると
一番恐いものは
死になるんです
今こうして生きて
動いている私たちだけど
死ねばどうなるんだろう
すべてが
無に帰してしまうんじゃないか
とおもうわけ

すっかり私たちが
現世は勿論
三界をつらぬいて
それぞれの世界に
生きているんだという事実
しかも神の無限の愛に抱かれて
ずっとずっとすなおになってゆく
光一元のいのちに帰ってゆく
それが私たちなんだって
いうことを
忘れ果ててしまって
どうしようどうしようと思ってる
わけですね

その忘れてる記憶
本当の自分自身のすがたを
呼び覚まして
それぞれの朗らかないのちのすがた
天命を祈るのが
世界平和の祈りなんです
そして
世界人類それぞれに
わけられた天命が
元は
ひとつのもので
神の愛と溶け合った
ものなんだ
ということを
思いおこして
神様ありがとうございます
と感謝せずにはいられなく
なるのが
世界平和の祈りなんです

私たちはこの祈りの
ひびきにのって
自分をすなおにしてゆけば
それだけで自分もまわりも
そして世界も平和になってゆくのです
    平成2年1月13日

生命のながれ

2018-10-30 07:46:13 | スピリチュアル
生命のながれというものは、実に悠々
とした、それでいて穏やかな流れであります。

それは、我々のいのちの源である大生命が、
全く愛とゆるしにみちた寛やかさそのもので
あるからであります。

この寛やかさのなかに入ること、それが
信仰でありまして、信仰とは、大生命の流れに
入り切って、神様の愛の光を浴びるということ
なのであります。

愛というものは、これはもう理屈では
ありません。抱きしめて抱きしめて、そうして、
その一人びとりのいのちの流れを見守っている。
これが神様の愛、宇宙の大元を保っている
調和の源なのであります。

で、この愛の光と申しますものは、すべて
我々のいのちの中に入っている。我々は肉体で
生きている、身体が動いて心臓が動いて生きて
いると思うけれども、実は、その奥底は、
神様の愛の光によって生かされている生命
なのであります。

神様の愛念が、私どもに及ばなければ、
この指の一本だって動きはしない。神様に
隷属する生命だというのではなく、
とてつもなく寛やかなほがらかな神の愛の
光が、私どもを生かしめ、動かせている
ということなのであります。

何故なら、私どもは、神様の子ども
なんだから。分生命(わけいのち)であり、
分御霊(わけみたま)なんだから。
分かりますか?私どもは、神様の光の
ひとすじなの。私たちのふるさとは神様
なんです。私たちの親、両親は神様なんだ。
で、この神様という方はね、人間が、
地上で暮らすために身につけた肉体を、
自分自身だと思いまちがえて、そのために、
いくつもの苦しみや、あやまちを何億回
くり返して来たことをようく知って
いるんですよ。
だから、何とか、お前たちの帰る所はここだよ、
こっちこっちとまねいてまねいて、導いて、
本体は決して迷いも疑いも何にもない
ひかり輝く生命だということを知らせるためにね、
そのために、わたくしが来たんです。
そのために世界平和の祈りを下さったんです。

世界人類が平和でありますようにって
祈りましょう。あの世界人類が・・・の祈り言をね、
口にしますと、それはそのまんま、我々の本心、
本体、我々の持っている、宇宙までずっと
しみとおって、その奥のからだ(悟っている、
分かっているからだ)と、我々の肉体が
唱和する。そうすると、肉体は、普段は
我にとり囲まれて、がんじがらめになって
いるものですけれども、世界平和の祈り
のような、すべてをずーっと浄めてゆく、
そういう祈り言にすっぽり包まれることによって、
その肉体をおおっている我が浄まるんです。

そうしますとね、この我ってものはですね、
我々が何十回、何百回、何千回
生まれかわって身につけて来た、いうなら、
現世にいたるまでの魂のアカですわね、
それが浄まるってことは、それは、過去世が
浄まるってことなんですよ、分かります?
皆さんは、五井昌久っていう、私という人間に
ここでこうして会って、世界平和の祈りに出合う
そのために、ずーっと今まで苦労を
して来たんですよね。御苦労様でした。
だけどね、過去世を浄めて、そうして、今、
皆さんはここにこうして現在生きてる
訳でしょ。それじゃ、何のために過去世を
浄めるかというとですね、それは、神様の
受け器として、皆さん一人ひとりが、
持ち場持ち場で十分に働いていただく
そのためなんです。

だから、世界平和の祈りというのは、過去世
ばかりじゃなく、現在につながって、我々を
本当に生かしめてゆく祈りなんです。

じゃあ、現在、現在が過ぎればどうなるんだ
ということですけれども、私がいつも申して
おりますようにね、生きかわり死にかわりじゃ
ないけれど、我々のこのいのちというのは、
永遠でしょ。生き通しのいのちですよね。

だから、向こうへ行っても修行がある。何の
ための修行かというと、素になるための
修行ですよね。そのまんま、ありのままに
自分のいのちをよろこび、他人(ひと)の
いのちをよろこび、自然にとけ入り、草木に
とけ入り、空にとけ入り、ね、神様のいのちの
一部なんだということをよろこぶ。よろこべる、
そうなるための修行がありますよね。人間
というのは、ずっとずっと進化してゆく
わけだから、そして、向こうへ行ってもね、
その進化した分、光が強くなって、それが愛
となって、地上にふりそそぐわけ。その愛の
エレベーターが世界平和の祈りですよ。

ですから、世界平和の祈りは、過去現在
未来をつらぬいている大きな深い祈りなんです。
そして、決してうばわれることのない
本心本体の光明は、宇宙の兄弟たち、そうして、
大神様につながっていますから、我々が、今
ここで唱える祈りは、宇宙に鳴りひびいて、
この身このままで、生命のながれのなかに
もう抱きとられているわけです。
よろしゅうございますか?

それではどうもありがとうございました。
  昭和63年1月14日 午前
        五井 昌久

神を 信ずる

2018-10-29 11:24:41 | スピリチュアル
神を信ずる者にとって、神がいるという
ことは、 ごく自然なあたり前な事実であります。
私どもは、そこに神の愛の姿をみるので
あります。この信ずるというところから、すべてが
生まれ出てくるのであります。信ずるということ
なしに、我々の生命は発現致しません。

今、私がここで、生命と申しましたのは、目に
見える肉体の生命だけのことではない
のであります。肉体を支え、さらに、我々自身を
ありのままに動かしめているもの、奥の奥の
朗らかな生命をいうのであります。

この生命を覚知する時、人は信仰に入って
ゆくのである。目に見える世界が、実は目に
見えないさまざまの力、愛情によって支えられて
いるということを知る時、人は信仰に入るので
あります。

これを私は、神の愛と呼ぶのであります。信仰
とは、神の愛に抱きとられていることを知った
人間が、もはや、引き返すことなく、すなおにその
ふところの中に抱かれることをいうのであります。

こういうふうに申しますと、我々の心は、
しょっちゅう迷っているではないかといわれる
かも知れません。実際、我々の心は迷いに迷って
いる。迷っているという状況だけを見ますと
その通りであります。

しかし、それは、心というもののごく入口の
ところを指して、悲しんでいるとか迷っている
とかいうのでありまして、真実の心は、迷いも
疑いもないのだ。人間はみな、神の分霊(わけ
みたま)である。光の子なのであります。
私どもの奥の奥にある内蔵されている
本来心は、実は、少しも迷っていない。
ひかり輝いて、光そのものとなっている
のであります。

祈りというものは、この奥深く内臓されている
光明そのものの自分自身、法身を引き出して
ゆく為にあるのであります。南無阿弥陀仏も、
主の祈りも、すべて、神に仏に呼びかけてゆく
祈りは、この自らのうちにある光を自覚し、顕現
するためのものなのであります。

私どもの、世界人類が平和でありますように
という祈りは、その光明の大親玉と申します、
大親分なのであります。これ以上純一な祈りは
ない。自他を愛し、ゆるし、祈るところに
大光明が輝く、その易行の頂きの祈りであります。
それは、神のこころが、自他などという
わけへだてなく、ただ、愛とゆるしと光とを
私どもにふり注いでいる。この宇宙にふり注いで
いる。この大調和を祈りにしたもの
でもあるのであります。
いわば、生命と生命の合唱、神と、神から
分かれて来たいのちであるところの
私どもの、合唱なのであります。

ですから、どのように我々の心が迷いましても、
真実のところは、しっかりと神の愛によって
結ばれ見定められているということを信じて
ゆきますと、明るくならざるを得ない
のであります。

我々の信仰は、神の愛の光によって、光明
によって結ばれている。この信仰は、我々の
いのちの大元が限りなく明るいものだ
ということを、体に心に刻んで、この世を
生活してゆくためのものなのであります。神の
みかお、みこころというものは、大愛そのもの
なのであります。
 我々は、その大愛に回帰してゆく一人びとり
なのであります。
 世界人類が平和でありますように
       昭和62年11月14日 朝
            五井 昌久