人は、ふるさとびと

お帰りなさい と迎えて
下さる神様は、私達の
ふるさとなんです。

(記事はリンクフリーです♪)

ゆるされている生命(1)

2022-12-31 09:04:03 | スピリチュアル
我々の生命(いのち)といいますか、生命
と言ってしまうと、皆さんの想像が何処へ
行ってしまうか、いろんな所へ行ってしまうと
また面倒なんですけれども。
我々自身ですね。
このいろんな性格を持ってる我々自身
というものを、そのままに、神様というのは
抱き取って、そして、ゆるして下さってる。

特に我々のまわりですとね、日本など、そんな
事をすると罰が当たるよとか、それも微風を
残すために穏やかに、そんな事をしちゃいけないよ
と言うのならいいけれども、そうじゃなくて、
この頃ずうっと世の中を見ておりますと、それは
先祖の祟りなんだとか、おまえの心がけが悪いから
だとかそういう何か、責めるといいますかね、
苛めると申しますか、そういう形で強制しようと
する。
正していこうとする。
自分の説いてる道が一番正しいんだと言って、
これを信じなければ駄目だという形で、
我々の生命というか心を向けさせようとする。

だけれども、何か強制されてですね、強いられて
心をそこへ向けたとしても、果たして人間の気持ち
というものが素直に、その人たちの言う、何だか
分かりませんけれど、その絶対者に向いていくか
というと、そういうふうには人間の心というのは
造られていないんですね。
            (つづく)

宇宙神と同格ということについて(5)

2022-12-30 09:58:51 | スピリチュアル
    (前日からの続き)
父子御霊とキリスト教でいいますよね、
三位一体。
あれは、父子御霊というふうに分けることが
出来ないんです。
あれは本当に一体なんです。

たとえば、愛とゆるしと平和というものが
それぞれ違うもんですかといったら、これは
みんな一つらなりに連らなってるというのと
一緒なんです。
我々は神から分かれてきた生命である
というのは、じゃあ神様と人間の生命とは
どんなふうに違うんですかというのは、それは
正解じゃないんです。
一緒なんです。
一緒なんだけれども、ただ今のこの世の中の
いろいろな現われでもって、自分の状況でもって、
その言葉なりを測ってしまうと、自分の想像
でもって測ってしまうと、とてつもなく
おかしな事になるわけね。

そうではない。
本体において神体において本来心において、
我々は一時(とき)も神様から離れたことはない。
宇宙神から離れたことはないし、宇宙神も離した
ことはない。
そういう意味において、不即不離なんだ
ということね。
これが、我々は宇宙神と同格なんだということの
本当の意味なんです。
       昭和63年6月13日
          五井 昌久

宇宙神と同格ということについて(4)

2022-12-29 11:26:20 | スピリチュアル
      (前日からの続き)
今は、魂というか、そういう本来心が
どんどんどんどん磨かれていって、どんな
時にもみ心の中へ入るようにやって
いかないと、この地球の汚れというものは、
なかなか大変なんですね。
今ずい分掃除が出来てるけれども、でも
根っこの所もまだまだ一杯大変なものが
あるから。
それで宇宙神と同格だというのは、それも
本来本当の意味だけれども、あなた方を
励ます、ね。
萎縮(いしゅく)するんじゃなくって、
縮むんじゃなくって、そうだそうだ
生命の本当の本当の底のところで我々は
そうなんだと宇宙神のみ心の中を見てみると、
自分がまわりを平和にしたい、ゆるして
いきたい、自分もゆるしていきたい、健やかに
育っていきたい、生きていきたい、というのと、
宇宙神の方からこちらを見て、いい人間
一人一人を本当に愛してゆきたい、ゆるして
いきたいというのと、一緒なんですからね。
何にも変わるところがないんですよ。

ただこの世の中ではいろんな煩(わずら)いが
あるから、そういう気持ちになるところが
少ないけれども。
しかし、先ほど申しましたように、神様が
生かしている間というのは、悟ってる本体、
あなた方の神体、霊体というのは、常に祈りを
捧げている訳、宇宙神と一緒になって捧げて
いる訳、共に捧げている訳なんです。
目には見えないけれどもね。
ですから、分かれるも分かれないもね、
ずーっと一緒なんですよね。
そういう意味で同格なんです。

ですから生命のすべてを造った創造主としての
宇宙神というものをへんに想像してしまうと、
そこでおかしなことになるけれども、そうでは
なくて、つまり本当の心の底のところで、
現われも何も超越したところで、我々は
一本につながっているんだ。
そこで我々は抱きとられてるんだ。
愛されてるんだ。
ゆるされているんだ。
だから我々もささやかでもゆるして、愛して
できるだけ平和にというふうに努力をして
やっていったら、その時に自分の中の霊性が
目覚めて、喜んで高まっていってね、自分の
愛の光がゆるしの光がまわりに飛び交って、
そうして、皆の中にその光の輪が広がっていく
というかね。
祈りというものはそういうものなんですね。

だから、祈ってる時だけがただ光明心が
出てくる訳じゃない。
その時だけが同格というのも、それも正確
じゃない。
常に常に自分の中で自分の知らないところで、
自分の本体は本心は宇宙神と同じような働きを
しているんです。
          (つづく)

宇宙神と同格ということについて(3)

2022-12-28 08:19:36 | スピリチュアル
     (前日からの続き)
普段は、自分が光明体であるということを
皆忘れて生きているんです。
何故かというと、この世の中というのは、
忙しいんですね。
仕事しなきゃなんない、連絡しなきゃ
なんない、子供の面倒はみなきゃなんない、
夫婦の中で解決しなきゃいけない問題がある、
親子の中で解決しなきゃいけない問題がある、
家庭はある・・・。
そのことで自分が光明身だとか、そういう
体を持ってるとかということは、なかなか
肉体のこの意識からはのぼって来ない
訳なんです。

で、心を鎮めて、皆で統一して
さあ祈りましょうという時には、それは
スーッと出て来やすい訳ね。
それは、何も祈ったと同時に自分自身が
変わるんじゃないんです。
自分自身というものは本人が意識するしない、
あなた自身が意識するしないに関わらず、
光なんです。
何故かというと、神様から分かれて来ている
生命だから、分生命(わけいのち)だから
光なんです。
それはどんなにその人が何を表面的に
どうしようと、奥にその光明があって、その
光明が出たがってる。
そして、その人本人のその余分なものを
取っ払っていったら、その人自身も光になる。
で、その光は愛とゆるしと平和である。
ということにおいて皆平等なんです。
同じなんです。

その愛とゆるしと平等の元の元、平和の
元、それが宇宙神なんですね。
だから、あなた方は宇宙神と同格である
というのは、そういうもともとあなた方の
中の生命を生かしめている想いだけじゃ
なくて、肉体も全部含めてね、我々からすると
煩わしいものも全部含めて、この世の中に
生かしめられて働かしめられてるその元の元が
愛とゆるしと平和だから、その大元を
辿って行けば、何度も言うけれども、つまり
宇宙神だから、それは本人が意識するしない
じゃないんですね。

昌美があの時あれを言ったというのは、
もともと宇宙神と同格であるというのは、
そういう分かれてきた生命の末、元と末
ですから、で、その末というのは萎びるん
じゃなくて、これからもずっと続いていく
末だから、ずっと連らなってるものだから、
もうそろそろあなた方が光明なんですよ
ということを、あそこであの子は
言いたかった筈なんですね。
そうして、それぞれに分けられている光明身
というものをずっと繋いでいって、祈りに
していって、そうして、世界人類が─
とやっていけばね、そうしたらつまり、
それは宇宙神のみ心になる訳。
宇宙神のみ心と一つになる訳です。
そこに入っちゃう訳ね。
             (つづく)

宇宙神と同格ということについて(2)

2022-12-27 08:22:44 | スピリチュアル
    (前日からの続き)
同格だというのは、何において同格か
というと、皆さんの奥の奥の悟ってる本体、
神体ね、肉体じゃないですよ。
神体、本来心というものがね、何によって
できているかというと、宇宙神からの
光明と(光と)ですね、愛と、そういう
ものによって生きてる訳なんです。
宇宙神の愛というのは、これはもう極まりの
ない愛なんですね。
すべてのものを生かそう、すべてのものを
より良くもって行こう、敵も無いんです。
味方も無いんです。
あるがままなんですね。

そういうものが、我々のこの肉体、我の強い
肉体を通して光になって、そして、我々は
肉体の生命を養ってもらってる訳なんですね。
そして、自分の内の奥の奥にもそれと同じ
ものがある。
そういうことを考えますとね、つまり、
我々というのは意識するしないに関わらず、
愛したいと思う、仲良くやりたいと思う、
平和にやりたいと思う、喧嘩をしたくない
と思う、砕いて言えばですね、そういう
気持ちね。
つまり、世界人類が平和でありますように
という気持ち。
何処にも戦争がなくって無事に平穏に、
皆がそれぞれに、それぞれの家庭で
生きていけたらと思う。
その祈りの気持ち。

それは何かというと、ずっとつき詰めて
いくと、宇宙神があるがままの生命を認めて
そのままにありのままに生かしていく。
それが自分の望みであり願いであり祈り
であるんだと。
その本来心の祈りを受けて、世界人類が
平和でありますようにというあの文句が
出来た訳ですから。

ということは、自分の中にも、ものすごく
素朴だけれども、そういうふうに祈る、自分の
家族のこと自分のことまわりのこと、そこから
ずっといって世界人類のこと、本当に平和で
あればいいなと祈る。
そういう何ともしれない想いが湧き起こる。
湧き起こる時には、人間というのは、
その時には我には満たされてないんですね。
やっぱりその時には光になってるわけ。
その光というのは、祈る時にもちろん
強められるし深められるし、こっちから
見ていると光明そのものになるけれども、
祈る時だけが光明かというとそうじゃない。
          (つづく)