人は、ふるさとびと

お帰りなさい と迎えて
下さる神様は、私達の
ふるさとなんです。

(記事はリンクフリーです♪)

水子供養について

2020-05-31 12:21:02 | スピリチュアル
(問)水子供養とか水子地蔵とか
ありますが、最近のお寺のああいうものは、
あれでも浄まるんですか。
水子の形をかりた幽界の感情霊のような
ものでしょうか。


(答)あれはなかなか浄まらないんですが、
なかなかそんなものじゃないんですが、愛念
というものはね。
水子供養などが何で成り立ってゆくかというと、
ああ悪いことをした、生まれてくるべき生命を
自分が絶っちゃったという想いでしょう。
それがずっと自分の中にたまり過ぎちゃうと、
キリスト教の原罪みたいになって、自分を
責めることになるんだけれど。

でも、水子というものはないんだといって、
不感性になって、何をしてもいいんだ
ということになったら、これまた人間として
失格な訳です。
やっぱり思いやりというのか、生命に対する
極みのない想いというのか、それを失ったら
人間が人間でなくなる訳ですからね。
それが自分の生んだ生命を絶っちゃった、
子供たちへの素直な愛惜の想いというものが、
こっちから見ていると光の波になるん
ですよね。
神界から見ているとね。
それは必要なんです。

ただ、そういう親の素直なきれいな
気持ちを、この世の中で利用して儲けて
いる人はいる訳で、その人たちはその人たちで
またぶつかってどこかで修行しなくては
ならないということはある訳ですから、この
世の中で繁盛しているものが必ずしも真理か
というと、そうではない。
真理というものはもっと別のところにある。
そこのところは分けて考えてあげないと。
一所懸命そこで素直な気持ちで悪かったと
思って、どんなに商売だけのお寺にしても、
そこに祭ってもらおうと来ているお母さんたちの
気持ち、家族の気持ちが本当に澄んで、光の
ようなものであれば、それはお寺を突き抜けて、
守護霊さん守護神さんの手で、ずっと高い所
まで行って清められて光になって還ってます。

ですから、現象界と霊的なものとの世界の
結びつきというものは、全く違う世界の
有り様(よう)を示している訳で、世の中
こんな商売気だけのものが繁盛しておかしい
じゃないかといって、言ってしまうのも、
これも一刀両断過ぎるところも
あるんですよね。

水子の霊について

2020-05-30 11:57:56 | スピリチュアル
(問)水子の霊についてお聞きしたいんですが、
水子というのは菩薩行の魂なので、幽界みたいな
ものと違い、簡単に祟るというものにはならない
という話を聞いたことがありますが。
実際に水子の霊がついている方というのは、俗に
耳にするんですが、そういうものというのは、何が
そういう形になって、何を守護の神霊たちが
この本人に伝えたいのか、お伺い致します。


(答)水子の霊というのは、前にも言いました
ように、菩薩行なんで、自分は生まれない中途で
生命を絶たれてしまうんだということを分かっ
てる訳なんです。
分かっていますから、絶たれちゃっても、
そちらのところの子どもに生まれて、親なり
家族たちを栄えさせてゆく。
また、こちらが悪かったなと思って子どもの霊を
祈っていれば、その光が届いて、向こうからも
光が来て、両方良くなってゆくという霊体
ですけどね。

ところが、白光でも水子供養ということで
みたま祭りの中でやりますけれど、人間という
のは、神界にも霊界にも幽界にも肉体界にも
同時に存在していると言ってるでしょう。
幽界というのは、いろんな人間が、不調和の
想い、良くない暗い想いというのか、想いが
凝り固まって訳の分からない取りつく化物とか、
そういうものを生み出している世界、それが
幽界なんですね。
大体水子の霊、霊障といわれているものは、
だいたいこの幽界の、人間世界の方に何か隙が
あったら取り憑いてやろうという想いなのです。
想いというのは何処から来るかといったら、
これは神様が造ったのでもない、悪魔が造った
のでもない。
人間の中のいろいろな不安だとか、苛立ちとか
恐怖だとか。
はっきり言えば、人間の中で何が一番恐怖か
といったら、肉体の生命が70年80年で終わっ
ちゃったら、自分たちは一体何処に行くんだろうと。
何処から来て何処に流れて行くんだろうと。
もしかして肉体だけで終わりだったら、こんな
不安に満ちたものはないというので、いろんなものが
起きている訳ですね。
この不安を解消するために宗教があるんですが、
尚且つ家が火事になったとか、親が死んでいっちゃっ
たとか、子どもを流産したとか、そういうことが
続いてくると、何か神様、仏様というけれども、
そんな想いになれなくて、決してそんな良い光ばかり
受けているのではなくて、光をのみつくすような
闇があるんではないかという、そんな想いが
段々ふくれていって、それが例えば、幽界の
いろいろな生物たちの力を借りて、水子なんていう
想念の化物を生み出してしまっているんです。

そこのところが大事なんで、守護の神霊がそれを
もって何をするかというと、守護の神霊は何も関係
ないんです。
そういう想念には全く関係ないんです。
もし関係がありとしたら、そういう不幸とみえる
出来事に対して、じゃあどんなふうに生きてゆくべき
かという、一つの魂の鍛えとしての躓きの石を
わざと送っているのはありますよね。
そういう意味で、いろいろな世界を見回してみて、
ああこの人にとってここが一番弱いんだな、で、
このところでちょっと不幸とみえるようなものを
置いとかないと、この人は強くなってゆかない。
守護の神霊がそんなことを考えるのは、この世
だけの何十年の世界だけを考えているのでは
なくて、何十生何百生何千生後の、その人の天命の
入り具合、神様の懐への入り具合を考えて、
躓きの石を置く訳なんですよね。

だから、この世の中で、不幸続きで不幸続きで
それで死んじゃったという人があって、それだけ
見れば、神様は非常に不公平だということになって、
やっぱり水子もある霊障もあるということになって
しまうことになるんですが、そういう一生を送る
ことで、その人が前生の借りを払い落として、次の
生命の世の中で、全く明るい生命になって生まれ
変わるということは、いくらでもある訳ですね。
そういう意味で言うと、生命というのは決して
障りというものはない訳で、生命というものは
どんなに闇にみえてもお先真暗にみえても、
家の中はひっくり返って、息子と嫁がうまく
ゆかないとかですね。
あるいは、いろいろな家族の中でくっついて
離れたとかね、子どもがいうことを聞かない
とかね、そんなことも皆悩みですよね。
別に水子だけでなくても、それだけで闇に
見えちゃう。
でもそれがその人の一生というか、何十生何千生
生き通しの生命を、障りなくずっと輝かすために、
何千年先のために今必要なんだと。

そういうところから見てゆかないと、生命
というものは途方もなく大きいもんですからね。
そういう意味で言えば、水子というものは
全く存在しないんです。
想念の障りだと思っている部分、人間が不幸
だと思って見れば見るほど不幸の固まりに見える。
そこのところを利用して存在させられているという
だけの話なんです。
ただ、守護の神霊がそういうものを置く場合には、
ただその想念を利用するんじゃなく、必ずその
抜け道というものがある。
私が前に天が空いているよと言ったけれど、必ず
絶対に援軍があるんですよね。
闇があるところには光があるから、想念という
ものは全部消えてなくなっちゃうものなんですから、
消えてゆく姿でもって見てゆけば、水子も何も粉砕
されちゃうんです。
だがその辺が、どこでどうという区切りが
非常につきにくいんです。
でも一切は全部光なんですから、全部が永遠の
生命に溶け込んでくる。
そのための過程なんですから。
それは全然心配することはない訳です。
悲しむこともない訳です。

問答集 序

2020-05-29 07:44:54 | スピリチュアル
     ──序──
              五井 昌久
質問にこたえるというかたちで一巻を
編んでみた。
しかし、やはり私の説いたものは、神の
愛であり、人間の無限である。
くわしくは内容をみられたい。
         平成2年3月31日

想いと言葉(14)

2020-05-28 07:15:42 | スピリチュアル
     (前日からの続き)
もう私どもの生きているこの時代は、
私が良ければ、私たちさえ良ければいい
という時代ではない。
たとえ白光真宏会に入っていない人たち
の中でも、この本心開発がなされて
いかなければ、この地球の浄化あるいは
大きく言えば宇宙全体の調和というものは
在り得ないんだと。
だから、白光に入れる入れないではなくて、
その本心開発の芽を我々がどれほど無になって、
それぞれの持ち場持ち場、立場立場でやって
いけるか、そのために自分をむなしくして
祈る。
祈って、そうして今かかえている課題や
悩みや嘆き、そういうものを全部私に預けて
下さる。
そういうことが今一番必要なのだと思います。
         昭和63年5月5日
            五井 昌久


想いと言葉(13)

2020-05-27 11:17:59 | スピリチュアル
     (前日からの続き)
祈りというものは、強制できるものでは
ございません。
それは、その国の人々の民族性や信条や、
あるいは宗教や習慣や風土、その違いが
ございますので、これは何も強制できる
ものではない。
ただ我々は、その人々の中に眠っている、
あるいは気付いてはいても弱い気付き方
である、世界人類が平和でありますように
という、元々の根元の祈りの芽を、あるいは
ピースポールによって、あるいはステッカー
によって、あるいは白光誌を手渡すこと
によって、それを呼び醒(さ)ます。
その役割りをするのであります。
ですから、その手渡すということは、すでに
私がそこで働いて、その人を通して一番いい、
その人が生き易いやり易い方法で、
この祈り言がその人の生命の中に生活の中に
生き方の中に入っていく様に、守護霊守護神
さんと倶(とも)に私が働いていくという
ことでありまして、その点で皆さんは、
本当の意味において繋(つな)ぎの役を、
後は五井先生がしてくれるから大丈夫だ
というそのくらいの軽い気持ちで、しかし、
本心開発のためにこの祈り言が絶対に
人類のために必要なんだという、そういう
自信と覚悟をもってこの運動を広めていって
いただきたい。

そうすることによって実は、想いとか言葉
とかいうものが、その想念の汚れという
ものが浄められていくのであります。
想いとか言葉とかいうものがどうしようも
ないやり切れない暗いものだという歴史が、
そこで段々段々縮められていくのであります。
実は、言葉の光明化、想いの光明化という
ことをやっていかなければ、我々本心本体の
一体化というのは出来ないのでありまして、
この身さながらに神様の生命である、
神様から流れ来たっている真理、愛と一体
なんであるという、その遠大な目的という
ものを達成するためには、やはり、この
世界人類が平和でありますように、日本が
平和でありますように、私達の天命が完う
されますように、守護霊様守護神様
ありがとうございます。
というこの完全な愛と平和のお祈りを唱える
ことによって、我も他人(ひと)も一体に
なる。
そうして、神様の生命とすこやかに一つになる。
ということを信じていくことによって、我々
個人の想いも苦しみも、また救いとられていく
訳であります。
            (つづく)