人は、ふるさとびと

お帰りなさい と迎えて
下さる神様は、私達の
ふるさとなんです。

(記事はリンクフリーです♪)

無 題(1)

2021-04-30 08:29:57 | スピリチュアル
私は一滴の水
小さな流れの中に入り
土をしめらせて
いつか一筋の河岸から
海へと雪(そそ)ぐ

生命という
永遠へつながる
大河にむかって
人はみな歩みをやめることなく
日々瞬々の光を受ける

人間というものは
本来 円光のように
やさしく
辺りを調和させているものなのだ

自分でそれと気付かずに光を
ふりまいている
それが本来の人間の相(すがた)

一筋の光も
一滴の水も
真理に照らされて
存在する

自由自在な
私のこころのなかに
一滴の水となり
一筋の光となる
よろこびが
あふれてくる


友への短信

2021-04-29 06:55:14 | スピリチュアル
神への道は
遠い道ではありません
ただ 心を素直に
悲しい時は悲しいままに
神を呼べば
神様はあなたの涙の中に
いるのです

流れる涙の一滴一滴に想いを入れて
それを生命(いのち)の河に流す・・・
だれも気付かない内に
ちゃんと道は備えられている
その人にふさわしい道を
神様はご存知です

涙の中で私を呼びなさいという
ささやきに心を留めて
道を歩く時
いつか 青空が自分に
ほほえみを投げている
ことに気付くでしょう

悲しみも
悲しみをいやす暖かな陽の光も
どれほど私たちの心と魂に
必要であるかを
神様は御存知です
なぜなら
すべてのものは
愛から生まれ出たものだから

悲しみだけを与えるなどという
不公平なことを神はしない
悲しみはその人が次に登るべき階段を
目の前にして実は上がりやすいように
備えられたものなのです
悲しみ 悩むことで人間は
次に進むための覚悟を与えられます
たとえその覚悟がふらついても
人間の弱さを神は御存知なのだから
全ては 完く計画されて
しかも一人一人をいつくしんでいる
愛なる神に私たちは
目をむけるべきなのです

不公平のように見えて
実は誰に対しても公平なのが
神の世界です
神界はすべて完成されている所だから
あなたが神界に来れば
このことがわかるはずですが
まずは 霊体をいろいろな場において
その進化のために修行させる
その中に
その想いも迷いも出てくるのだ
ということを
心にとめて
安心して
道を歩いていきたまえ


神のこころ 序

2021-04-28 12:16:27 | スピリチュアル
         序文
人間というものはやっ介なもので、一日の内
にでもさまざまな感情の波にとらわれます。
寂しい、切ない、かなしい、うれしい・・・。
うれしさはまだしも、切なさや寂しさの
波(想念波動)の中に入り切ってしまうと、
なかなか明るいことを思えないが、何百生、
何千生と過ごす内に、人間の心(本来心)の
中に喰い込み、いつの間にか主人の椅子に
すわってしまうのが、業想念波動のもと
であります。

それでは、さまざまな感情は意味なく
与えられているのかというと、これは実は、
(個々の)魂の発展のために与えられたもの
なのであります。
神の愛を証するこの書の序として、
まずこれだけのことを述べておきましょう。
          五井 昌久


統一ということ(4)

2021-04-27 23:10:48 | スピリチュアル
       (前日からの続き)
人というのはね、見える人も聞こえる人も
感じる人もいろいろあるけれども、いろいろな
能力をもってればもってる程、不自由ですよ、
逆にね。
ちょっと持っちゃうとね、把われちゃって、
大変なことになるんだけども、そういうものは
全部、必要があるからこそ見させる、聞こえ
させるものでね。
そんなものは、生命に全然関わりがない。
永世の生き通しの生命というものは、見える
とか聞こえるとか、どんな才能があるかないか
とか、お金も地位も、何にも役に立たない。
ただ素直な生命になる。
それだけでしょ。
神様に素直になる。
それだけですよ。

そこへ目指してゆくんですからね。
そこが大目的だから、そこへ向かって、我々
いろんな想いを抱いたままでいいから、
お願いしますといって統一に入っちゃうと、
いつの間にか気持ちが良くなって、何だか
訳わからなかったけど、先生の口笛にのって
気持ちよかったと。
ああ良かった良かった、それが一番いいんです。
そうやっていく内に、何だか憂さがとれる、
何だか憂うつな気持ちがちょっと明るい方へ
向いていくと。
それでいいんです。

人間の想い煩い、業というものはね、習慣の
もんですからねえ。
60年生きてりゃあ、60年の分があるんですよ。
前生の分から言えば、何百年の分がある訳ね。
その塵を払い落とす祈りではあるけれど、
その想い習慣というものもしっこいからね。
だから、自分の中に、ああ高められなかった
と思えば、それが業になる。
高められるかどうかというのは、神様の方で
ちゃんとして下さるもんでしょ。
だから、それはそれで任せておいて、
任せるというのは楽なんですよ。
任せるというのは、こんな楽なことはないのね。
神様に任せたら、いつ死のうが生きようが
いいんですよ。
もう任せちゃったんだから、何にも言うこと
ないでしょ。
ね、仕事の心配もいらない。
将来の心配もいらない。
お金の心配もいらない。
本当はそういうものなんですね。

だけど、世の中に生きている以上、そういう
訳にいかないから、いろんな煩いが出てくる。
本当はそうですね、だからそこを見透して、
神様というのは我々を愛して下さる。
聖書にあるけど、一日の煩いは一日で充分だ、
もうあんまりくよくよするなという、そういう
イエスの言葉があるけれど、あれと一緒なんです。
ずっと引きずっていけば、それが業になるの。
だから、業にならない内に消していただいてね、
ああ消えてゆく姿だと思ってね、ああ消えました、
ありがとうございますと言って、そういうおもいで
統一をふんわりなすってらっしゃれば、
そうすれば、いつの間にかあなた方の光が
益々輝いてね、そして、自分のためにも人の
ためにもなっていく。
そういう人にいつの間にかなっていただくように
なるんです。
分かりましたね。
それじゃあ。
           昭和63年8月26日

統一ということ(3)

2021-04-27 09:11:54 | スピリチュアル
     (前日からの続き)
キリスト教だろうと仏教だろうと、白光
真宏会だろうと何だろうとね、みんな
そうなんですけどね。
我々は、世界人類が平和であります
ようにという、神様のひびきから出た
この大光明の言葉によって、祈りによって、
愛深くならせたまえというその祈りを、
この言葉の中に深く感じとって、そして
祈っていく訳です。
我々はこれを梯子にする訳です。
エレベーターにする訳です。
だから、統一というのはね、何も難しいこと
じゃないんです。
有りのままの自分自身をそのまま持って
来られていいんですよ。
病んでいれば病んでいるまま、疲れて
いれば疲れているまま、言葉が出なきゃあ、
それでいいんです。
別に守護霊さんや守護神さんもいるんだしね。
あなた一人だったら大変だけど、その人たちが
助けてくれるんだし、五井先生もいるんだし、
皆いるんだから。
私がしなければと思っちゃうと、私が私がの我
になっちゃうから。
その時そのまんまの有りのままの、憂い辛い
そのままの気持ちでね。
ただ祈れる時には祈る。
それくらいのつもりで統一会に出て
いただけたらね、ふんわり出来ましょう。

やっぱり、ふんわりしなきゃあ駄目ですよ。
神様と向かい合うのにねえ、カチンコチン
になって緊張してね、もうどうしましょう
なんて思ってると、それだけでこっちは
くたびれるよね。
神様とはふんわりしたもんなのよね。
愛情も深いし、受けとめる器も深く大きいし、
これはもうたいしたもんなんですねえ。
神様自体がふんわりしてらっしゃるんだから、
神様の子どもである流れであるあなた方も、
ふんわりして下さらないと、神様の流れ
というものが、いやにしゃっちょこ張って
こっちに映ってくるんですよね。
こういうふうにいきなければならない
というように映ってしまっちゃあねえ、
統一も何もないんですよ。

だから、テープにあるでしょ。
私は統一できなかったとか、いろいろ
湧いたとかね、何か変なものが見えたり
聞こえたり、雑念が湧いたりすることだけに
皆把われちゃうけれども、そういうのは
みんな通過点なんですよね。
そこを通り過ぎて、その人が意識するしないに
かかわらず、皆それぞれの本心にたどり着く
ように、統一というものはもっていくもの
なんですよ。
それは、神様の側でもっていって下さる
もんなんです。
だから、どういうものが見えても聞こえても、
雑念が浮かんでも構わないんです。
それは本質そのものじゃない。
それは贋物か本物かといわれれば、本物じゃ
ない訳ですからね。
それが神様じゃない訳ですからねえ。
贋物だとは言わないけれど、そこを通り過ぎて
行った時に、やっとといいますかね、
神様のふるさとの、素晴らしい愛に抱かれる
ことが我々はできる。
            (つづく)