人は、ふるさとびと

お帰りなさい と迎えて
下さる神様は、私達の
ふるさとなんです。

(記事はリンクフリーです♪)

神への祈り

2011-01-13 13:38:31 | スピリチュアル
天地に徹るいのちよ
かしこみて
吾はささぐる
平和の祈り

世界平和
祈るいのちの
とこしえに
神のゆるしの
み光のなか

あくがなる
わらんべの如き
素直さよ
神に素直と
かしわ手を
打つ

黙しつつ
一人びとりの
かなしみを
受けとめて
吾光と為さむ

人はみな
光のいのち
天地の
光の柱
祈りゆく一人

こころしづかに
神にむかひて
祈る時
うちとにみつる
愛の光は

手を組みて
祈ればかなし
大神の
御愛の深さ
まことの
深さ

本心にかえる

2011-01-13 13:21:13 | スピリチュアル
本心と本心が
あいさつをかわして
光が
結ばれる
いのちと
いのちが
こもごもに
祈りを
かわして
神の
光を
あびる

私たちは
そのいのちを
本心を
この身に
おびているのだ

世界人類が平和でありますように
という
祈り言にのって
私たちは
かぎりなく
あたらしくされる

光の進軍
それは
人類の
高く
深い
進化のための
進軍である

宇宙の星々の
兄弟たちが
天使たちが
前後左右から
私たち
一人びとりのいのちを
ささえて
私たちを
宇宙神の
愛の
みふところへと
先立って
案内の
労を
執って下さるのだ

何も
わずらうことはない
何も
おそれることはない
赤児のように
純に
私たちは
私たち自身の奥にある
光を
世界平和の祈りのなかで
つよめて
ゆけば
いい

今こそ
地球は
平和に
なるべき
時が
きたのである
世界平和の祈り言が
宇宙にとよもし
我々一人びとりが
神の器として
用いられる時が
きたのである

ふんわりと
世界平和の祈りの
エレベーターにのって
光をむすび
いのちを
結んでゆこう
祈りの座
本心の座
神の愛へと
かえってゆこう

本心にかえるということは
ふるさとにかえるということです
ふるさとを
おもうことは
神を呼ぶことです


という
言葉のしたわしさ
なつかしさ
幾多の
詩人たちが
あなたへの
愛をうたった
郷愁をうたった
我しらず
人は
あなたをよび
あなたをしたう

神よ
わが愛のふるさとよ
わが愛のゆきつくところ
わがいのちの
いこうところ

私は
しずかに
本心の座へと
歩む
あなたの
愛へと
あゆむ
       平成元年12月26日

ゆるされている生命(いのち)

2011-01-13 12:40:17 | スピリチュアル
 我々の生命(いのち)といいますか、生命と言ってしまうと、

皆さんの想像が何処へ行ってしまうか、色んな所へ行ってしまうと

又面倒なんですけれども。我々自身ですね。この色んな性格を

持ってる我々自身というものを、そのままに、神様というのは

抱き取って、そして、ゆるして下さってる。


 特に我々のまわりですとね、日本など、そんな事をすると

罰が当たるよとか、それも微風を残す為に穏やかに、

そんな事をしちゃいけないよと言うのならいいけれども、

そうじゃなくて、この頃ずうっと世の中を見ておりますと、

それは先祖の祟りなんだとか、おまえの心がけが悪いからだ

とかそういう何か、責めるといいますかね、苛めると申しますか、

そういう形で強制しようとする。正していこうとする。

 自分の説いてる道が一番正しいんだと言って、これを

信じなければ駄目だという形で、我々の生命というか心を

向けさせようとする。だけれども、何か強制されてですね、

強いられて心をそこへ向けたとしても、果たして人間の気持ち

というものが素直に、その人達の言う、何だか分かりませんけれど、

その絶対者に向いていくかというと、そういう風には人間の心

というのは造られていないんですね。


 人間の心というのは、唯ひたすらに素直になりたいというか、

神様の方へ向いて行きたいというか、それが本来なんですけれども、

この世の中の憂さ、辛いこと苦しいこと悲しいこと色んなこと

によって、素直になりたいけれども素直になれない状況というものが

自分の中に生まれてきて、あるいはまわりに生まれてきて、

とてもじゃないけれどこの世の中は公平だとは思えない。とても

じゃないけれど、今自分が幸せな状態だとは言えない。という風な

ことが色々生まれて来ますとね、これをこちらへ向けば

こうなるんだというような、そういう強いられ方でその絶対者に

向けと言っても、向けられるもんじゃないんですね。

 で、簡単に申しますとね、人間の心というものは本来自由です。

 何故自由かというと、神様から来ている我々は分生命なんですね。

 そして、我々はどんな柵からも解き放たれて自由になりたいと

思うけれども、もっともっと我々の本体、本来の生命というものは、

何ものにも把われないものだから、この世の中は表面的に

何処かに属しているとか誰かを養っていかなきゃいけないとか、

色々な義務というものを負ってはおりますけれど、そうじゃ

なくって、自分の中で何ものも強いられるものがない、そして、

何ものからも自由である。

 それは何かというと、元々神様そのものが、人間を強いるとか

何かをしなければ生かしていかないとかですね、そういう類の方

ではないからなんですね。

 要するに、もう全くの無、無を突き抜けた朗らかな心、それが

神様の御心でありまして、その御心から分かれて来たのが我々

人間でありますから、そこで、何をしないといけないとか、

これをすると罰が当たるとか当たらないとか、そういうことは

ないんですよね。


 つまり、冥加(みょうが)という言葉がありますけれども、

生命冥加とか何だとか。

 冥加というのは何かというと、我々が自覚しないところの

神仏の加護なんですね。神仏の守りなんです。つまり、

自覚しないところのというのが、これが有り難い事なんでしてね。

 神様というのはそうなんです。こちらが眠ってる時でも

忙しくって神様の事を忘れている時でも、何でもずっと

守ってる。愛している。ゆるしている。神様の方からは、一度も

罰を当てようとしたことというのはない訳なんです。今まで。

どんな歴史の中でも。じゃあ、何故戦争が起ったか、何故人間と

人間が争(あらそ)うのか、ね、ノアの大洪水は先生あれは

何だったんですか、色々聞かれるでしょうけれど。それは、人間の

業というものが、何度も何度も掃除していかないといけないという、

その節目(ふしめ)節目というものがありまして、歴史の中で、

そして、じゃあ罰も何も無いんだったら、何の為に人間が

悩んで苦しむのか、全くずっと平穏に平和にやっていければ

いいのにと思うけれども。

 つまり、人間の、何といいますかしら、深さですね、神性。そういう

ものは何によって浄められるか高められるかというと、人間の

苦を通してのね、涙を通しての経験によってだけ高められるんですね。


 苦労が一概に全部いいかというとそうではないけれども、

そうじゃなくって、それは何かというと、自己ではない他己の生命、

その人の立場その人の気持ち、その人が何故そういうことを言ったか、

何故そんな風に怒ったか、自分に敵対したかあるいは協力を

してくれたか、何故あそこまで骨惜しみせずにあの人は生きることが

出来るんだろうかとか・・・。

 それはやっぱり、相手の立場というものを想いやるということが

ないとやれないんですね。で、その想いやるというのは、神様

でもない限り、自分の環境以外の事、自分の価値観以外の事を

分かる、理解してね寄り添ってそして生きて祈って、そうだなあ

と思いながら、共に生きるというのはなかなか難しいんです。


 それをやろうと思うとね、やっぱりどっかで苦しむ。例えば病気に

なる。父と息子がうまいこといかないとかですね。嫁と姑が駄目に

なってるとか。何か平和じゃない、そういう状況というものを

通して、ああ本当に大変だなあー、これは本当に一緒にやっていく

ということは大変だなあー、家族というものは重たいものだなあーとか、

色々なことを身に染みる訳ですね。そうすると、自分の身近で

そういう風な人を見ると、あああの人も大変だろうなあーと、

同じような経験を持てば、やっぱりその時に、我しらずその心が

分かって寄り添える訳なんですね。その時に、その人の為に、

ああ本当にあの人が幸せになりますように、天命が完う

されますように、宜敷くお願いしますという風に言えるようになる。


 ところが、悲しいことに人間というのは、自分の経験以外の事

というのは、そういう何か思い知らされる様な事がないと、

他の人の複雑な苦しい辛い気持ちというのは、なかなか

分からないように今なっている。

 で、それを曇らされてるのは、もちろん大きく言えば、肉体の我

だけれども、その人その人の環境や、お金があればあるで、お金が

無いなら無いで、あるにも無いにも何か不足が出てくる、欲が出てくる。

 色々なところで苦しむ。そういうものがある訳なんです。社会的な

状況もある訳なんです。それは霊の生命からいったら余分なもの

なんだけれども、だけれども、余分なものだといって、我々はそれを

捨て去ることは出来ない訳ですね。その中で生きて

いかなきゃいけないから。


 それではどうすれば良いかというと、やはり祈りの中でね、

祈りの時には、自分が何億持ってるとか何とかいう、それは

祈りの場所じゃないですね。祈りの時間というのは、神様と私の

時間なんですね。神様に私の心を開いていただく、そういう時間

なんです。そうして、自分の本来心を解き放って行って、そして、

自分はこの世の中にあっては、とてもじゃないけどたまらないような

状況にあるけれども、だんだん解き放って行くと。ああ自分の中にも

朗らかなものがあるなあー、静かなものがあるなあー、神様ありがとう

ございます、と言える時に思える時に、神様と一致することが出来る。

 だからそれは、「世界人類が平和でありますように」という

あの祈り言の中に全部入ってる訳ですね。教義にありますけれども、

個人も人類も真の救いを体得できるものであるというあの祈りですね。

 あの祈りを唱える時に、我々というのは目には見えませんけれども、

自分の中にある余分なものがその時パーッと掃除をされる訳なんですね。

 で掃除をしたところで、色々な経験を積んでいって、そして

色々な場所で、例えば、支部じゃなくったって集会じゃなくったって、

宗教的なものを離れたってね。色んな人に会って色んな立場の人の

話を聞くことがあるかもしれない。悩みを聞くことがあるかも知れない。

 そういう時に、どれだけ、祈りの場じゃない所で、そういうことを

無になって聞けるかということ、やっぱりそれが大事なんですね。


 祈りの場というものは、人間が作る様に思うけれども、本当は、

人間というのは見えないところで祈って祈って祈り抜いてる。自分が

意識しようとしまいと、本体というのはずっと祈りの座についていて、

自分というのは神界にいて、光になって祈ってる。神界にも自分自身が

いる訳ですから。そうして、御心と一体になって、こっちに光を

送ってる。こっちからも光を送ってる。光の呼びかけ合い、呼び合いを

やってる訳です。呼び返しの中で我々は生きてる訳なんですね。


 それは何の光かというと、ゆるしの光なんですね。だから罰も何も

無い。罰を当てるとか当てないとか、そんな狭苦しい、そんないい加減な

世界じゃなくって、その光のシャワーを浴びてる時というのは、人間は

本当に自由になってる。本当に神の御心の中に入っている自分自身に

なってる。それは、自分が意識しようとしまいとそうなんです。

 そうやって人間というのは生きているんですね。ちょうどこの我々の

肉体というものが、飲んだり食べたり眠ったり、ある程度動いたり

しないと、この肉体の生命を保っていけないように、我々の奥の複雑な

霊妙な体というものは、神様の光を受けていかないと生きていけない。


 これは随分と申し上げて来たことですけれども、その光というものは

何から出来ているかというと、ゆるしから出来てる訳ですね。あるいは

愛から出来てる訳です。愛とゆるしというのは何処から出てるか

というと、神様から分かれて来ている生命である人間に対する、

極まりの無い愛なんですね。


 それは、我々がこの地球に降りて来た時は、この地球を、神様の

御心に従って、神様の御心が顕現されるような、そういう方針に

するべく、我々はここに降りて来て、やってた訳なんだけれども、

それが、霊性が働いている間はよかったけれども、だんだん肉体を

被っていく内に、それを忘れちゃって、人が霊止にならなくなって、

つまり霊止まるという霊止(ひと)の方を忘れて、人間の人(にん)という、

そっちの方の肉体の方の人だけが残っちゃって。

 だけど消えてはいないんです。霊止というのはね。何故かというと、

霊が無ければ我々は生きていない訳ですから。ただそれが何か、

我(が)の世界の中に今はなっていて、それが押し込められてる感じ

なんですね。その押し込められてる、ちょっとしか顔を覗かして今は

生きていけない、息が出来ない、その状態を何とか解きほどいて、

解き放ってやっていかないと、今はもう地球も大変だし、自分自身も

大変だし、世界人類も大変だし、ひいては宇宙も大変だしね。人間だけ

じゃない宇宙生命そのものだって大変なんです。


 という時に、じゃあその全部の生命を健やかに柔らかに、

有るがままの有りのままの生命を宣り出そうというその祈りというのは、

「世界人類が平和でありますように、日本が平和でありますように、

私達の天命が完うされますように、守護霊さま守護神さま

ありがとうございます」というあれなんですね。あれで全部救われて

いく訳なんですね。だから、あの祈りというものは、大変な光明体

なんです。その光明体を我々は持ってるんです。それは唯単に、

白光の人があの祈りをするから救われるとかそういう事ではなくて、

元々の神様の御心を祈り言にしたらああいうことになる。

 そうして、その元々の神様の御心の光そのものというのは、

どんな人の中にも、例えば無神論者の人の中にも、物質主義者の

人の中にもね、皆入ってる訳なんです。


 この世の中でいえば、信仰しない人は救われないとか色々

言うけれども、そんなんじゃないんです。それだったらもう

小乗(しょうじょう)以下なんですね、大乗(だいじょう)と小乗とあって、

大乗というのは勝れた乗り物という意味だけれども、勝れた乗り物

というのは神様の大きな大きな大愛で、その愛とゆるしの光そのもの

なのです。その愛とゆるしからいうと、神様というのはついぞ人間を

責めた事がない。ついぞ人間を裁いたことがない。


 その裁いた事がない神様に、我々がこの生命をこの心を捧げて生きて

いくことが出来たら、その時に、神様の方の喜びも大きくなるし、

我々の方にいただいている光だってますますその輝きを増して、

この世の中で成してゆくべき仕事ですね、肉体の中で関わって

いかなきゃならないこと、悩まなければならないこと、苦しまなければ

ならないこと、あるいは喜(よろこ)び事、そういうものも、

何といいますか、スーッと来てスーッと通り過ぎるんです。


 決して私の申し上げてる事は、ご利益の宗教じゃないんです。人間が

果たしていかなきゃいけない務め、そうして、どうしても果たして

いかなきゃならない宿題というものはあるんです。その為に、

肉体の時間が随分くっちゃって、もうとてもじゃないけど五井先生

どうにもなりませんという人の嘆きを一杯聞きますけれども。どうにも

なりませんというのは、肉体の我の方の叫びなんでして、その我

というのを溶かして、そして祈りの中へ入り込んでしまうと、

まだまだ、自分の中に、永遠の生命としての人間の本来心が

そこに顔を覗かせてきまして、そうして、その切羽つまってどうにも

ならないというところから反転して、今度は、大生命の生命の道へ

スーッと入っていくんですね。


 そのスーッと入らせていく入らせていただく、それが「神様」

という素直な呼びかけであり、我々は一人として一度として、

罰っせられた事がない、責められたことがない、ずっとゆるされてる、

そういう存在なんだ生命なんだ、皆そうなんだ、白光の人であろうと

なかろうと、世界人類が全部、どんな人であっても、例えば、どんなに

罪を犯したとこの世で裁かれている人であっても、そうじゃない人

であってもね、皆光なんです。

 皆光明ですから、そこでお互いを礼拝する。尊敬する。そこで祈る、

一緒に祈る、共に祈る、一人で祈る。一人で祈っても共に祈っても、

そのひびきが世界中をかけ巡る。宇宙全体ひびき合う。


 そういう祈りですから、その祈りに乗って宇宙神の御心の中に

ふっと入っていくと、穏やかになって気が楽になって。そうして、

本当に余分なこと、思い煩い、そういうものはね、 肩の力を抜いて、

なるべくこう受けとめていったら、本当に重荷というものも

重くならないで軽くなっていくもんだというと、これは私の人間

としての経験からも申し上げることができると思うんですね。


 重荷を重くするのが神様じゃない。重荷を軽くするのが

神様なんです。ですから、今どんなに打ちひしがれてる人でも、

どんなにどうにもならないと思ってる人でも、どうにもならないと

思ってることが、それが消えてゆく姿なんですよね。


 どうにもならないというのは、だから、それを押し込めるんじゃ

なくて、自分は白光の教えを聞いてるのに何でこんなんだろうと

責めるんじゃなくて、あーそうなんだ、消えてゆく姿なんだ

と思って、そして、それを思いっきり出して、泣くなら泣く、

叫ぶなら叫ぶね、出して消していただいて、そして又生命を

いただいてね、ゆるし放しの愛と平和の元の神様というものに

礼拝をし直して、いただき直しの生命で、毎日を明るく生きていく

ということが、一番我々がこの困難の中から救われていく大元の

元になっていく訳なんです。


 そこを赤子のように信仰してゆきますと、絶対に神様というのは

我々をいやな所に変な所に導いていかない。必要なものは

下さる。絶対に下さる。この生命というものを使って下さる時がある。

 その使われ方というのはどういう使われ方をするか

分からないけれども、とに角、神様と私は一体の生命であって、

一筋の生命であって、その一筋の生命というのは、何の滞りもない

朗らかな、何の障りもないものなんだということを確認できる時に、

我々というのは解き放たれていくんです。

 その確認というか、それを肉体の我というものに染み込ませる。

 そうして、霊肉共に救われていく、その祈りが、世界人類が平和で

ありますようにという世界平和の祈りなのでありまして、この光の祈り

というものは、益々これから色々な人に覚えられていく祈りだと

思いますけれども、私共は益々謙虚になって、この祈りのもとに、

神様の愛を仰いですすんでまいりたいと思います。
    
                       五井昌久