大阪市北区で行政書士・海事代理士・マンション管理士を営んでいる原田行政書士法務事務所の駅ブログ

主に学生時代から撮り続けている全国の駅の写真等をブログで毎日公開しています。

今日は有田鉄道が廃止された日!

2019年12月31日 | 鉄道

有田鉄道は、紀勢本線の藤並駅と金屋口駅とを結んでいた全長5.6kmの全線単線非電化のローカル鉄道でした。

(藤並)-田殿口ー下津野ー御霊ー金屋口

和歌山県の有田市とその周辺の各町は全国的に有名な有田みかんの主産地であり、その出荷は主に海上輸送によっていましたが、産地で穫れたみかんを積出港である湯浅港まで運搬する目的で1913(大正2)年2月28日に有田鉄道が設立され、1916(大正5)年7月1日に全線開通しました。 全通後はみかん輸送と旅客輸送のほか、有田川流域で産出された木材の輸送なども行われていました。

有田鉄道が最も賑わっていたのは1965(昭和40)年前後で、旅客は年間160万人を、貨物は3万トンを超えていました。 しかし、それ以降、旅客数は減少し続け、みかんなどの輸送も次第にトラック輸送に切り替わっていき、貨物営業は国鉄の貨物縮小のあおりを受けて1984(昭和59)年2月1日で廃止されましたが、廃止前の貨物輸送量は年間2000トンでした。 
大きな収入源を失ったことで、人員の大幅削減、車両保守を近くの自動車整備工場に委託するなどの合理化が図られ、利用者も沿線の高校への通学生にほぼ限られるようになっていたため、1995(平成7)年3月6日から、第2・第4土曜日と日曜・休日(つまり学校の休日)は全列車運休して並行する道路を走る路線バスで代替するようになり、1日の運行本数も次第に減少しました。 2001(平成13)年11月1日からは運転本数が1日2往復(最終列車は藤波12:00発)に減らされ、利用者数は1日平均29人でした。 
そして有田鉄道が鉄道廃止の意向を示した時も、もともとバスの定期券で並行する同社鉄道線の利用が可能だったため、さほど本数の減少及び廃止による影響はなかったらしく、地元から廃止反対の声はほとんどなかったため、2002(平成14)年12月31日限りで廃止されました。

 
(金屋口駅)

 
(御 霊 駅)

 
(下津野駅)

 
(田殿口駅)

 
(藤並駅)

皆様、お正月まで秒読みです。

よいお年をお迎え下さい、ありがとうございました


今日は地下鉄記念日!

2019年12月30日 | 鉄道

12月30日は地下鉄記念日です。

1927(昭和2)年の今日(12月30日)、上野駅~浅草駅間(2.2km)に日本初の地下鉄(現在の東京メトロ)が開通しました。
そしてこれは日本だけでなくアジア・オセアニア地域でも初めての地下鉄路線だったことから、開通当時のポスターに「東洋唯一の地下鉄道」というキャッチコピーが使われていました。

この地下鉄の乗車時間は、距離が2.2kmと短かったことからわずか5分で、料金は均一10円でした。

ちなみに、1番切符を手にして1番初めに乗った乗客は、原鉄道模型博物館の館長・原信太朗だったそうです。

地下鉄とは、路線の大部分が地下空間に存在する鉄道のことで、主に都市高速鉄道として建設されます。 
地下を通る路線は地下を走行するため景色が存在せず観光用途には向きませんが、高架橋の上を通る路線と同様に踏切や交通信号などの存在を介した道路など他の輸送システムとの相互干渉がないため、市街地が密集している大都市の中心部など本来、定時運行が難しい場所でも定時運行が可能であり、踏切事故などの交通事故の危険性も地上の鉄道路線に比べて低い。また地上を走る路線と異なり強風あるいは雨・雪・霧などによる影響も受けることがなく、この点も定時性確保に寄与しています。

しかし、地震や水害、火災、人為的危険などには弱く、地下鉄の構造上、これらの被害にあった場合大惨事になる可能性が極めて高いため、安全に関する取り組みは開業以前から研究され続けています。


旧国鉄名寄本線 西興部駅!

2019年12月29日 | 

北海道(網走支庁)紋別郡西興部村にあった西興部駅は、宗谷本線の名寄駅から石北本線の遠軽駅に至る本線(138.1km)と中湧別駅から湧別駅に至る支線(4.9km)の2つの線からなっていた名寄本線(143.0km)の一般駅の瀬戸牛駅として、1921(大正10)年10月5日に開業しました(開業時は名寄線に所属)。
しかし、名寄本線が1989(平成元)年5月1日で廃止されたことに伴い、西興部駅も廃駅となりました。

かつては単式ホームと島式ホームの2面3線を有し列車交換も可能で、駅舎横の切欠き部分の貨物ホームへ積降線を1線有していましたが、廃止時は単式ホーム1面1線のみの無人駅でした。
1954(昭和29)年に建てられた駅舎は、無人駅化後もそのままの姿で廃止時まで健在でした。

この西興部駅は、1986(昭和61)年11月1日のダイヤ改正まで運行されていた急行「紋別」の停車駅でした。

西興部駅が属していた名寄本線は、1896(明治29)年5月14日に公布された北海道鉄道敷設法の規定により、道央とオホーツク沿岸方面とを結ぶ幹線鉄道として建設され、1921(大正10)年10月5日の全通後は札幌と北見・網走方面を結ぶメインルートとなりましたが、1932(昭和7)年10月1日に石北本線が開通すると、名寄本線は一転してローカル線に転落してしまい、以後はオホーツク沿岸の市町村を淡々と結ぶ生活路線に徹しました。

やがて名寄本線は、1980(昭和55)年12月27日の国鉄再建法(日本国有鉄道経営再建促進特別措置法)施行による特定地方交通線選定の際には第2次特定地方交通線に選定されますが、営業キロが143kmもある長大路線であったため地元の自治体が特別な配慮を求めたことや、沿線道路が未整備だったため、冬季の代替輸送に問題があるなどの理由により1984(昭和59)年6月22日に一時廃止承認が保留されたものの、その後、運輸省の調査結果を受けて1985(昭和60)年8月2日に追加廃止承認されてしまいます。

そして、1987(昭和62)年4月1日の国鉄分割民営化により北海道旅客鉄道(JR北海道)に承継された後、1989(平成元)年5月1日で廃止され、それに伴い西興部駅も廃駅となりました

  <西興部駅の年表>

 ・1921(大正10)年10月5日:旧国鉄名寄線の瀬戸牛駅として開業
 ・1923(大正12)年11月5日:線路名が名寄本線に改称されたのに伴い、同線の駅となる
 ・1954(昭和29)年   :木造駅舎が竣工
 ・1955(昭和30)年3月19日:木工所専用線敷設
 ・1961(昭和36)年3月20日:駅名が瀬戸牛駅から西興部駅に改称される
 ・1984(昭和59)年2月1日:貨物・荷物取扱い廃止
 ・1986(昭和61)年11月1日:駅の無人化
 ・1987(昭和62)年4月1日:国鉄分割民営化により北海道旅客鉄道(JR北海道)の駅となる
 ・1989(平成元)年5月1日:名寄本線の廃止に伴って廃駅となる 

 
(駅 名 標)

 
(駅舎・ホーム側)

 
(西興部駅駅舎)


伊賀鉄道 丸山駅!

2019年12月28日 | 

三重県伊賀市にある丸山駅は、JR関西本線の伊賀上野駅と近鉄大阪線の伊賀神戸駅とを結んでいる全線単線の伊賀鉄道(初代)の駅として、1922(大正11)年7月18日に開業しました。

2両分の有効長をもつ島式ホーム1面2線を有していて、列車交換可能な無人駅です。
古い木造駅舎がホームの西側にあり、島式ホームへは構内踏切で連絡しています。

丸山駅の利用客は少なく、2018(平成30)年度の1日の平均乗降人員は50人で、これは伊賀鉄道伊賀線の全14駅中12位です。

丸山駅が属する伊賀鉄道伊賀線は、上野盆地の城下町である伊賀市中心部と近鉄大阪線、JR関西本線を結ぶ路線で、全線が三重県伊賀市(旧上野市域)にあります。 そして赤字路線だったため、2007(平成19)年10月1日に近畿日本鉄道(近鉄)から伊賀鉄道に経営が移管されました。

  <丸山駅の年表>

 ・1922(大正11)年7月18日:伊賀鉄道(初代)の駅として開業
 ・1926(大正15)年12月19日:社名が伊賀電気鉄道に変更され、同鉄道の駅となる
 ・1929(昭和4)年3月31日:大阪電気軌道が伊賀電気鉄道を合併したことにより、同鉄道伊賀線の駅となる
 ・1931(昭和6)年9月30日:大阪電気軌道が伊賀線を参宮急行電鉄に譲渡したことにより、同鉄道の駅となる
 ・1941(昭和16)年3月15日:参宮急行電鉄が大阪電気軌道と合併して関西急行鉄道となり、同鉄道の駅となる
 ・1944(昭和19)年6月1日:戦時体制下の陸上交通事業調整法に基づく戦時企業統合政策により、関西急行鉄道と南海鉄道が合併して近畿日本鉄道となり、同鉄道の駅となる
 ・1973(昭和48)年10月1日:貨物取扱い廃止
 ・2000(平成12)年10月1日:駅の無人化
 ・2007(平成19)年10月1日:近畿日本鉄道(近鉄)から伊賀鉄道(2代目)に経営が移管されたことにより、同鉄道の駅となる
 ・2019(平成31)年2月22日:「忍者線」の愛称を使用開始

 
(駅 名 標)

 
(伊賀神戸方面を望む)

 
(伊賀上野方面を望む)

 
(駅舎・ホーム側)

 
(丸山駅駅舎)

 
(駅 舎 内)


 撮影年月日:2018(平成30)年9月2日


今日は世界初の空母「鳳翔」が竣工した日!

2019年12月27日 | 軍艦

1922(大正11)年の今日(12月27日)、横須賀海軍工廠で世界初となる日本海軍の航空母艦「鳳翔」が竣工しました。

「鳳翔」は、設計と開発段階から空母としての運航を目的として建造された艦(正規空母)として世界で最初に完成し、日本初の航空母艦として日本海軍機動部隊の創成期を担いました。

しかし、太平洋戦争時は既に艦そのものが旧式化していたし、日本海軍は艦載機用カタパルトを開発できなかったため小型空母であった鳳翔に最新機のゼロ戦や九九式艦上爆撃機などを運用することが不可能だったので、1942(昭和17)年6月5日から7日にかけて行われたミッドウェー海戦に、戦艦を基幹とする主力部隊に編入されて、梅谷 薫艦長指揮の下に複葉低速で発着艦の容易な九六式艦上攻撃機6機(補用2機)と固定脚の九六式艦上戦闘機9機(補用2機)の計19機を搭載して参加した(直接戦闘には参加せず)後は、主に練習空母として瀬戸内海で用いられ、空母艦載機搭乗員の着艦訓練及び潜水艦の標的空母として運用されました。
ちなみに、終戦時に問題なく航行可能な空母は鳳翔、龍鳳、葛城の3隻だけでした。

そして、終戦後は飛行甲板の前部を撤去したうえで復員輸送艦として使用され、1945年10月から1946(昭和21)年8月まで内地と南方の各地を9往復して約4万人の将兵と民間人を輸送した後、1946(昭和21)年8月31日から1947(昭和22)年5月1日にかけて、日立造船築港工場で解体されました。