大阪市北区で行政書士・海事代理士・マンション管理士を営んでいる原田行政書士法務事務所の駅ブログ

主に学生時代から撮り続けている全国の駅の写真等をブログで毎日公開しています。

伊賀鉄道 西大手駅!

2020年07月30日 | 

三重県伊賀市上野西大手町にある西大手駅は、JR関西本線の伊賀上野駅と近鉄大阪線の伊賀神戸駅とを結んでいる全線単線の伊賀鉄道伊賀線(16.6km)の駅です。 もともとは伊賀軌道の駅として、1916(大正5)年8月8日に開業しました。

伊賀上野方面に向かって右側に配置された2両分の有効長をもつ単式ホーム1面1線のみを有する無人駅で、平屋の木造駅舎がホームの伊賀寄りにあります。

2018(平成30)年度の1日の平均乗車人員は71人で、これは伊賀鉄道伊賀線の全14駅中8位です。

かつては当駅と新居駅の間に鍵屋辻駅がありましたが、1945(昭和20)年6月の休止を経て1969(昭和44)年5月15日に廃止されました。

西大手駅が属する伊賀鉄道伊賀線は、上野盆地の城下町である伊賀市中心部と近鉄大阪線、JR関西本線を結ぶ路線で、全線が三重県伊賀市(旧上野市域)にあります。 そして赤字路線だったため、2007(平成19)年10月1日に近畿日本鉄道(近鉄)から伊賀鉄道に経営が移管されました。

  <西大手駅の年表>

 ・1916(大正5)年8月8日:伊賀軌道の駅として開業
 ・1917(大正6)年12月20日:社名が伊賀鉄道(初代)に変更され、同鉄道の駅となる
 ・1926(大正15)年12月19日:社名が伊賀電気鉄道に変更され、同鉄道の駅となる
 ・1929(昭和4)年3月31日:大阪電気軌道が伊賀電気鉄道を合併したことにより、同鉄道伊賀線の駅となる
 ・1931(昭和6)年9月30日:大阪電気軌道が伊賀線を参宮急行電鉄に譲渡したことにより、同鉄道の駅となる
 ・1941(昭和16)年3月15日:参宮急行電鉄が大阪電気軌道と合併して関西急行鉄道となり、同鉄道の駅となる
 ・1944(昭和19)年6月1日:戦時体制下の陸上交通事業調整法に基づく戦時統合により、関西急行鉄道と南海鉄道が合併して近畿日本鉄道となり、同鉄道の駅となる
 ・1973(昭和48)年10月1日:貨物取扱い廃止
 ・2000(平成12)年3月15日:駅の無人化
 ・2007(平成19)年10月1日:近畿日本鉄道(近鉄)から伊賀鉄道(2代目)に経営が移管されたことにより、同鉄道の駅となる
 ・2009(平成21)年9月  :ホームの改修工事が行われる
 ・2019(平成31)年2月22日:「忍者線」の愛称を使用開始

 
(駅 名 標)

 
(伊賀上野方面を望む)

 
(踏切上から伊賀神戸方面を望む)

 
(西大手駅駅舎)

 
(駅 舎 内)


 撮影年月日:2019(令和元)年9月1日


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今日はアマチュア無線の日!

2020年07月29日 | 今日は何の日

7月29日はアマチュア無線の日です。

アマチュア無線は、1941(昭和16)年12月8日の太平洋戦争の開始と同時に禁止されましたが、終戦後の1952(昭和27)年の今日(7月29日)、全国で局免許申請者30名に無線局予備免許が交付されました。

このことを記念して、日本アマチュア無線連盟(JARC)がアマチュア無線の健全な発展と知識の普及を目的として、1973(昭和48)年に7月29日を「アマチュア無線の日」と制定しました。

アマチュア無線は、金銭上の利益のためではなく、無線技術に対する個人的な興味により行う、自己訓練や技術的研究のための無線通信で、日本では、運用する為の無線従事者免許証と電波法に基づいた無線局免許状が必要です。

アマチュア無線の歴史については、1888(明治21)年にハインリヒ・ヘルツにより電波の存在が証明され、1890年代にクリエルモ・マルコーニによってそれが通信に応用された後に、アマチュア無線は誕生しました。
そして、電波の商業利用や軍事利用は、それぞれの国の電信に関する諸法令のもとで始まったものの、はやくも1903(明治26)年には国際調整が必要となり、8箇国[の電波主管庁の代表がベルリンに集まり、無線電信予備会議を開いています。しかし、先進国の中で唯一アメリカは法による電波監理を行わず、無線実験や商用利用を国民の自由に任せていましたが、これこそがアマチュア無線を生み出す素地となりました。

日本では、日本では1915(大正4)年11月1日に施行された無線電信法第2条第5号により、個人や法人が無線電信または無線電話の実験を目的とする無線施設を逓信大臣の許可を受けて開設できることになりました。これにより法的には個人による無線実験の道が拓かれたものの、当初許可されたのは無線機器メーカーや大学・専門学校による学術研究や機器に関する実験のための私設無線電信のみでした。
その後、個人による無線科学の学術研究や機器に関する実験のための施設、いわゆるアマチュア無線が法的に最初に許可されたのは1922(大正11)年です。
個人が開設する実験用私設無線電信無線電話の施設は、1941(昭和16)年12月時点で331局になっていましたが、前述のように同年12月8日の太平洋戦争開戦に伴い、同日をもって、電波の発射は禁止されたのでした。


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今日はスイカの日!

2020年07月27日 | 今日は何の日

7月27日はスイカの日です!

スイカは夏の果物を代表する「横綱」で、最も美味しくなる季節が7月から8月であることと、スイカの縦縞模様を綱にたとえ、「27=つ(2)な(7)」と読む語呂合わせから、7月27日が「スイカの日」という記念日に定められました。

スイカは、紀元前5000年頃には既にアフリカで栽培が行われていたという記録が残っており、10世紀に中国へ伝わり、16世紀後半の室町時代に日本へやってきました。 しかし、スイカが全国に広まったのは江戸時代の後期で、その頃のスイカは黒色で無地皮のものでした。 現在のような緑の地に黒い縦縞模様のスイカは、昭和の初期以降に広まりました。
スイカの果肉の成分は90%以上が水分で、このうち4~6%が糖分であり、夏の疲れを癒し、のどを潤す果実として愛されています。

ところでスイカといえば、海水浴場などの砂浜でよく『スイカ割り』が行われますが、この『スイカ割り』にも公式ルールがあるのを皆さんはご存知でしょうか?
農業協同組合(JA)がスイカの消費拡大を目的として行ったキャンペーンのために設立された「日本スイカ割り推進協会(JSWA)」が、1991(平成3)年にスイカ割りの公式ルールを定めました。

その公式ルールは第1条~第7条まであり、主なものは以下のとおりです。

第1条(競技場所)
1.競技場所は、どこでも楽しめるスポーツですが、できれば『砂浜』又は『芝生の広場』が最適である。
2.スイカと競技者(割る人)の間の距離は、5m以上7m以内とする。

第2条(用具)
1.棒は直径5m以内、長さ1m20cm以内とする。
2.目隠し用として、手拭いまたはタオルを準備する。
3.スイカは、『日本国産スイカ』を用いる。

第3条(競技者)
1.競技者はスイカを『割る人1名』と『サポーター複数』で1組とし、キャプテンを決める。 『サポーター』は人数制限はないが、『割る人』に対して『アッチだ』『ソッチだ』と的確なアドバイスを出さなければいけないので、事前に自分のサポーターの声を認識しておくこと。
2.審判員
 審判員となるには、スイカが大好きであることを条件とする。

第4条(競技の開始)
1.審判員は、距離と用具を確認する。
2.割る人の目隠しを確認する。 この時、相手チームのキャプテンを同席し了解を得る。
3.フォーメーションローリング(スタートする時の回転)を行う。 回転方向は右回りで、回転数は5回と2/3回転とする。

第5条(競技の進行)
1.競技者(割る人)の持ち時間は1分30秒とする。 審判員は、協議終了30秒前と10秒前に報告する。
2.サポーターからのアドバイスにおいて、以下の行為を禁止する。
 ①競技と関係のないアドバイス
 ②競技者を中傷するような言動
 ③スイカの真後ろに立って「私の声のする方へ」と言う指示

3.1人の競技者が終了したら、第6条により勝負の判定をおこなう。
4.勝負の判定が終わったら、次に、相手チームとスムーズに後退する。

第6条(勝負の判定)
1.スイカに当たらなかった場合、時間内であれば3回まで棒を振る事ができる。
2.以下の点数表を参考に審判員が点数をつける。
  ◆空振り……………………………0点
  ◆スイカに当たった………………1点
  ◆スイカにひび割れができた……2~4点(ひび割れの程度による)
  ◆スイカの赤い果肉が見えた……5~10点

第7条(後始末)
1.勝ったチームは、スイカを食べる権利があり、負けたチームは、残ったら食べることができる。
2.競技場所は、勝負の勝ち負けに関係なくきれいにし、ゴミは持ち帰ること。


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和歌山線 高野口駅!

2020年07月26日 | 

和歌山県橋本市高野口町名倉にあるJR西日本の高野口駅は、関西本線の王寺駅と和歌山駅とを結んでいる全線単線の和歌山線(87.5km)の駅です。
もともとは紀和鉄道の一般駅である名倉駅として1901(明治34)年3月29日に開業しましたが、その後、関西鉄道を経て国鉄和歌山線の駅となりました。

相対式ホーム2面2線を有していて、列車交換可能な業務委託駅(6時40分~9時00分のみ営業)です。
1912(明治45)年4月に建てられた木造駅舎が下りホーム(和歌山方面行きホーム)側にあり、上りホームへは跨線橋で連絡しています。

2018(平成30)年度の1日の平均乗降人員は1,252人で、これは起終点駅を除く和歌山線の全34駅中14位です。

この高野口駅はかつては高野山への参詣客で賑わい、駅のすぐ南隣にある以前旅館だった木造3階建ての「葛城館」は1900(明治33)年の建築で、2001(平成13)年に文化庁の登録有形文化財に指定されています。

高野口駅が属する和歌山線は現在、関西本線と接続する王寺駅から高田駅までの間は大阪方面からの直通列車が多く運転されていますが、高田駅~和歌山駅間は線内のみのローカル輸送に徹する形となっています。 また、和歌山線はかつて、東京駅に直通する急行「大和」の寝台車(和歌山線内では普通列車に連結して運転)や、1960年代から1980年代には紀勢本線の白浜方面に直通する急行「しらはま」、その後身の急行「紀ノ川」といった優等列車が運転されていましたが、いずれも国鉄分割民営化までに廃止されてしまい、現在は普通列車・快速列車のみ運転されています。

  <高野口駅の年表>

 ・1901(明治34)年3月29日:紀和鉄道の一般駅である名倉駅として開業
 ・1903(明治36)年1月1日:駅名が高野口駅に改称される
 ・1904(明治37)年8月27日:紀和鉄道が関西鉄道に譲渡され、同鉄道の駅となる
 ・1907(明治40)年10月1日:鉄道国有法により関西鉄道が国有化され、国鉄の駅となる
 ・1909(明治42)年10月12日:国鉄線路名称制定により国鉄和歌山線となり、同線の駅となる
 ・1912(明治45)年4月 :現在の木造駅舎が竣工
 ・1984(昭和59)年10月1日:五条駅~当駅~和歌山駅間が電化
 ・1987(昭和62)年4月1日:国鉄分割民営化により西日本旅客鉄道(JR西日本)の駅となる
 ・1991(平成3)年4月1日:和歌山支社の管轄から橋本鉄道部の管轄に変更される
 ・2003(平成15)年10月1日:コンコースの喫煙コーナーを廃止
 ・2009(平成21)年6月1日:橋本鉄道部が廃止され、和歌山支社の管轄になる
 ・2020(令和2)年3月14日:ICカード「ICOCA」の利用が可能になる

 
(駅 名 標)

 
(和歌山方面を望む)

 
(跨線橋から橋本方面を望む)

 
(駅舎・ホーム側)

 
(高野口駅駅舎)


(駅 舎 内)

 
(駅のすぐ隣にある以前は旅館だった「葛城館」)


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今日はかき氷の日!

2020年07月25日 | 今日は何の日

7月25日はかき氷の日です。

日本かき氷協会が7月25日を冷たいかき氷にふさわしい日として「かき氷の日」に制定しました。

日付は「7(な)2(つ)5(ごおり)」でかき氷のかつての名前である「なつごおり(夏氷)」の語呂合わせと、1933(昭和8)年7月25日にフェーン現象によって山形市で当時の日本最高気温である40.8度を記録したことにちなんでいます。

かき氷は、氷を細かく削るか、砕いてシロップ等をかけた氷菓で、餡やコンデンスミルクをかけたものもあります。氷については古くはかんな等で粒状に削りましたが、現在は専用の機械を用います。 
そして、日本では、かき氷を売っている店は氷旗(白地に赤い文字で「氷」と書かれた幟(のぼり))を掲げていることが多く、夏季に社寺の境内で催される祭礼や縁日などでは綿菓子・たこ焼き・焼きそばとともに代表的な縁日物の一つであり、夏の風物詩のひとつでもあります。

かき氷の歴史については、史実上の記録では平安時代に清少納言の『枕草子』「あてなるもの」(上品なもの、良いもの)の段に、金属製の器に氷を刃物で削った削り氷(けずりひ、文中では「けつりひ」)に蔓草の一種である甘葛(あまかづら・あまづら、蔦の樹液または甘茶蔓の茎の汁)をかけたとして「削り氷にあまづら入れて、新しき金鋺に入れたる」と記述されていて、当時のかき氷は小刀で削るもので特権階級しか口にできないものでした。


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