橋本治の失われた近代を求めてをようやく読み終わった。長かった。
終盤に幸田露伴について書かれているところを読んで、ちょっと思うところがあったので書いてみる。幸田露伴の五重塔の最後で、大工の十兵衛が嵐の中で人になる(と橋本治は評した)。これは前近代から近代の達成に必要な通過儀礼のようなものだろうが、幸田露伴が後に”明治の”大作家として孤高の存在、孤立した存在になってしまっているのはすなわち、結局日本人はいまだ近代人になれていないということを示していると思う。
夏目漱石の三四郎の冒頭を引き合いに出して、橋本治は身に沁みない近代を無理やり着た男たちは確固とした前近代(女)に翻弄されていると書く。これって、今の日本でもずっと続いてると私は思う。
例えば、唐突に嵐のようにやってくる使途に対し戦うエヴァンゲリオンは、幸田露伴の五重塔のラストの嵐を延々と繰り返しているのではないか。そして、残念ながらその嵐(使途の襲来)は延々と終わらない。やっていくうちにエヴァンゲリオンは神経症的な世界に閉じていったが、それって後期夏目漱石の世界のようだ。明治から今まで、日本の男は身体に馴染まぬ近代を着て勝手に神経症に陥っていくのを繰り返しているのだろう。三四郎の冒頭で、名古屋の改札で別れ際に「あなたはよっぽど度胸のない方ですね」と言った女と葛城ミサトは同じだ。
21世紀になっても身に沁みない借り物の近代を無理やり着て神経症になってるとき、新型ウイルスの襲来を受けた。基礎ができていないのにいきなり応用問題を出されているようなものだから、日本の男はこれに対応できず子供がお漏らしをしたような状況になっている。例えば、人類的な危機に際しても日本人は「経済」を第一に置く姿勢を手放せないけど、これって借り物の資本主義・民主主義でやってきたからこうなっちゃうんだろうね。こういう掴み方をすると現状の理解と次の見通しが少しはつくだろうと思って書いてみた。
別に江戸以前に学ぼうと言うつもりはないが、不確実な状況が続くにあたっては、身に沁みないものよりは地に足の着いた視点(何千年と変わらず人の教育で変わらないものって何だろうとか、あとは歴史に学ぶだけでなく、このサイズの哺乳類が共存する前提ってなんだろうとか)で考えるのが、宮台真司が言う「引き受けて考える」のに有効と思う。