徒然なるまま”僕の趣味と遊ぶ”

タイガース、水彩画、鉄道などの、僕の気ままな”独り言”

新型車両が続々登場・・・・

2013年11月29日 10時46分59秒 | 鉄道のよもやま話

最近、新しい車両が続々紹介されています。
今年、3月に近鉄の観光特急「しまかぜ}が、そして9月13日には、「ななつ星」が新しくデビューしました。

そして、昨日11月28日は、「阪急電車の新型車両」がデビューしました。
神戸線、宝塚線には、1000系が、来年の3月には、京都線に1300系が登場します。
現在の3000系、2300系などが順次置き換えられてゆきます。

阪急電車 新型車両は下記を・・・
 http://www.hankyu-hanshin.co.jp/kenkyusho/news_flash/201311-2/

   


新型車両としては、外観が注目されるのですが、この新型車両は、外観だけではなく、性能の向上が注目されています。
最大の特徴は、その静かさで、低騒音を追及された車両内は勿論のこと、沿道からもその騒音の少なさが実感出来るそうです。

低騒音だけではなく、最大50%の省エネもされ、節電と動力のリサイクル、すべての照明器具のLED化されています。


  

「青い森鉄道」は、青森ー八戸間を、来年3月に新型車両を運行すると発表されました。
新型車両「青い森703系」で、バリアフリー化や定員増をはかっているそうです。
特に、車内トイレも車イスがスムーズに移動できるそうです。

 

 

蒸気機関車で知られる大井川鉄道が来年7月~9月に英国の人気アニメにちなんだ「きかんしゃトーマス」を新金谷ー千頭間で1日1往復させます。
アニメでは、人間のような感情を持つという設定だけに「トーマス自身も絶景に見とれ、笑顔がさらに緩む」のではと期待されているそうです。
さて、その笑顔が乗客にも、そして大井川鉄道会社にも湧きあがるのを期待しているようです。

 
 


28日には、2015年春に開業予定の北陸新幹線の新車両 E7系が公開されました。
「和の未来」をコンセプトに掲げ、沿線の風景や伝統工芸品のデザインを内外装に施しました。

  
    グランクラス                         グリーン車     

  
    普通車                               運転台                 

  
    トイレ                             グランクラスのデッキ


紅葉の洛西路 ④ -二尊院 (にそんいん) -

2013年11月27日 10時44分50秒 | 旅行・観光

”そうだ 京都、行こう”のJR西日本の2012年のキャンペーンポスターになった二尊院を訪れました。
今回のもみじ狩りの最後を飾るのに相応しい”もみじ”を見ることが出来ました。

なお、”そうだ 京都、行こう”の今年の盛秋のポスターは、南禅寺天授庵です。
年代別ポスターは下記で、京都を訪れる際の参考にでもなれば・・・・・

   http://souda-kyoto.jp/campaign/archives.html

さて、二尊院は、本尊に釈迦如来と阿弥陀如来を祀ってあるところから、この名で呼ばれています。
「小倉山二尊教院華台寺」というのが本当の名前だそうで、天台宗延暦寺(比叡山)に属しているそうです。

 

  

  
 

 


紅葉の洛西路 ③ - 清凉寺 (せいりょうじ) -

2013年11月25日 16時43分08秒 | 旅行・観光

嵯峨釈迦堂とも呼ばれている五台山清凉寺の本尊釈迦如来は、国宝で三国伝来(インド~中国~日本)の生身のお釈迦様と言われています。
三国伝来というのは、インドからヒマラヤを越え中国に伝わり、中国にわたった奈良東大寺の僧が、寛和元年(985年)に模刻し、日本に持ち帰りました。

        
     国宝 釈迦如来像               内臓品 (レプリカ)      

              

この釈迦像の身体を包む衣文の流れも異国的であり、眼には黒水晶耳には水晶がが入れてあります。
そして、体内には絹で作られた五臓六腑が入っていました。
と言うことは、この時代に解剖があったのではないかと言われており、生身の仏さんであるとも云われています。

講堂でこのお寺のお坊さんから以上のようなお話を可笑しく興味深く話があり、なかなか弁が立っての案内でついつい引き込まれて聞き入りました。

  

秋の特別公開中ということで、胎内の納品(レプリカ)や阿弥陀三尊像など国宝が公開されています。

さて、紅葉は、このお寺の裏には、立派な庭園があり、そこには紅葉をも楽しむことが出来ました。 

  

  


紅葉の洛西路 ② - 神護寺(じんごじ) -

2013年11月23日 17時16分17秒 | 旅行・観光

高山寺の駐車場からマイクロバスで、昼食の会場である”もみじや”へ向かいました。
ここから昼食時間を含めて、2時間で、高雄・栂尾散策として、”神護寺”と”西明寺”のどちらか又は2寺を訪れる各自の自由散策となります。

  

神護寺には、25分以上の階段を登らなくてはならないようで、西明寺は比較的平らな道を20分程かかるということです。
往復時間とそこでの鑑賞時間を含めるとどうしても2つの寺を回るのは難しいと判断し、神護寺のみを重点的に参詣することにしました。
時間的制限があるのがバス旅行の欠点でもあるのですが、そこはある程度割り切っていかなくてはなりません。
なにしろ、集合時間というものがあり、他の方に迷惑をかけないと言うのが、このバス旅行の原則です。

なお、西明寺は、先に訪れた高山寺、これから訪れる高雄山神護寺、そして今回パスした槇尾山西明寺の3寺を三尾の名刹と言われています。

  

さて、これから訪れる神護寺は、昼食したもみじやの下に流れる清滝川に架かる高雄橋(通称 赤橋)を渡り、急な登りの階段を登らなくてはなりません。
満腹のお腹を抱え、休息しながら階段を登ったため、かなり時間がかかったように思います。

でも、そのしんどい目をした甲斐があって、山門をくぐると紅葉が目に飛び込んできました。

 
 

神護寺




この神護寺は、平安遷都の提唱者の和気清麻呂が天長元年(824年)に国家安泰を祈願して河内に建立した神願寺と山城に私寺として建てた高雄山寺を合併して、この高雄山神護寺としたと伝えられています。

特に弘法大師は14年も住持され、この神護寺は、後の東寺や高野山金剛峯寺と並ぶ霊刹であり、弘法大師を初代としています。

 


 

 


紅葉の洛西路 ① - 高山寺(こうさんじ) ー

2013年11月21日 18時57分19秒 | 旅行・観光

京都には、紅葉の名所は数々ありますが、今年は、京都の洛西に紅葉狩りに出かけました。

「京都定期観光バス」”高雄と嵯峨釈迦堂・二尊院”というコースで高山寺と高雄・栂尾散策、二尊院、嵯峨釈迦堂・清凉寺を回る予定です。

京都定期観光バスは、事前に予約し、当日、9時30分に京都駅烏丸口の案内所で手続きをします。
昨日は、平日にも拘わらず、3台のバスが出ました。

まず、最初の目的地”高山寺”に向かいました。
京都駅前から市街地を通り抜け北山杉が見える、最初の目的地の”高山寺”に約1時間をかけて到着しました。

正式には、栂尾山 高山寺 (とがのをさん こうさんじ)と言います。


  
   

歴史は古く、創建は奈良時代に遡るとも云われ、その後、神護寺の別院であったのが、建永元年(1206年) 明恵上人が後鳥羽上皇より、その寺を賜り、名を高山寺として再興しました。

この寺は、鳥獣人物戯画と日本最古の茶園として知られています。

 

 
  

  
   日本最古の茶園 栂尾山は、茶の発祥地と言われています。    石水院から金堂への道

  
   石水院は、国宝で明恵上人が後鳥羽院より学問所として賜った建物です。         
   石水院からの眺めの紅葉は、落ち着いた雰囲気を醸し出しています。           

  

  
   石水院には、鳥獣人物戯画4巻(国宝、鎌倉時代)ここに現在あるのはレプリカです。
 
  平成6年(1994年)に世界文化遺産に登録されました。
  
京都 定期観光バスは下記を参照してください。
  https://resv.kyototeikikanko.gr.jp/Teikan/Web/Default.aspx



江戸時代の庶民の生活 上方編 ② -食い倒れー

2013年11月18日 19時57分19秒 | 江戸時代とは・・・・・

今まで、江戸時代の庶民の生活として書いてきた庶民とは、江戸に住む庶民が対象でした。
このシリーズでは、上方に住む庶民の生活について書いてゆきます。

江戸が武士の町であったのに対して、上方は庶民の町といえます。

そこには、「天下の台所」とも云われた大阪(そのころは大坂ですが、このシリーズでは大阪と記載します)には商才たけた商人や今も残る文学をつくり上げた文化人、そして京都には天皇を中心とする独自の文化が育っていました。

「今日の着倒れ、大阪の食い倒れ、神戸の履き倒れ」と言われていますが、これは何時ごろから言われたのでしょうか?

神戸の町が世に広まったのは、幕末以降であり、江戸時代には神戸と言う町は認識されていませんでした。
と言うことは、神戸を含めてのこれらの言葉は、少なくとも明治以降に言われたようです。
では、神戸の・・・以外は、何時から言われたのでしょうか?

江戸時代の書物(1856年)には 「諺に京の着倒れ、江戸の食い倒れといふ如く、浪花の地も京師(京都)と同様に衣服をば殊に貯ふる風俗なり」 とあり、これによれば、食い倒れの町は江戸で、大阪は、京都と同様着倒れだと言っています。

その着倒れも、京都と大阪では、様子が違うようです。
京都は、西陣織に代表されるように豪華さが売りですが、大阪の着倒れとは「金々めかす」と言われていたようです
江戸の町で「金々めかす」というのは、垢ぬけした粋(いき)と言われるのに対して、大阪での「金々めかす」とは、キラキラとした着こなしを言ったようです。

インドの綿の縞織物とか羅紗(オランダや中国からの輸入品)などの高級品が出回っていたとか・・・

又、江戸後期には、下記の戯文が描かれているものもあります。

      

「京の着倒れ、大坂の喰い倒れ、江戸の呑み倒れ」と書かれています。
と言うことは、江戸の後期には、大坂の食い倒れということも言われており、神戸の履き倒れ以外は、
江戸時代の後期には、云われていたようです。


江戸時代の上方 庶民の生活とは・・・①

2013年11月16日 19時32分35秒 | 江戸時代とは・・・・・

なぜ、関西特に大阪を 上方 と言うのでしょうか?
上方漫才、上方歌舞伎など、関東に比べて関西方面のものをわざわざ「上方」と称しています。
でも、もっと広範囲に 上方 とも言っていますが・・・・本当のところはどうなのでしょうか?

これは、当然のことながら、関東と違うところがあるからこそ、上方を強調しているのです。
では、その関東とどのように違うのか、なぜ違うのかを、このシリーズで考えて見たいと思います。

では、何時から上方と言われるようになったのでしょうか?

通説では、鎌倉時代の狂言の中に、
「上方を見学致さぬによって、この旅 都へ上りここかしこ見学致し・・云々」
とあり、ここに出てくる「上方」が日本で、初めて使われたと言われています。

鎌倉に武士政権が成立したことによって、日本は、天皇の治める西武士の治める東の二つに分かれてしまい、京都の朝廷と鎌倉の幕府による二重統治の時代が始まりました。

そこで、当時の人は、特に鎌倉周辺の人にとって、京都方面の呼び方を”お上”のおわす土地として敬称を付けて”上方”と称したものと一般的には考えています。

では、その”上方”の範囲はどこまでを指すのでしょうか?
始めは都のある京都だけだったのですが、段々とその範囲は広がっていったようです。

 畿内と7道
    律令制の基本行政単位である国の地方行政区分。
    畿内を”上方”の範囲とする時もありました。

 

江戸時代の書物によると「上方とは、五畿内三州」と書かれています。
五畿内とは、大和(奈良県)、山城(京都府の南部)、摂津(大阪府と兵庫県の一部)、河内(大阪府東部)、和泉(大阪府の南西部)。
三州とは、近江(滋賀県)、丹波(京都府と兵庫県の一部)、播磨(兵庫県の南西部)。

もっと広範囲に言う場合もありました。
江戸時代の代官管轄で関東と上方とに分けているが、上方代官とは、三河(愛知県東部)以西をいい、又、関ヶ原の戦において、東軍に加わった豊臣系大名を関東から見て、上方の東海以西にあったため上方衆と呼んだこともありました。

つまり、関東から見て、京都・大阪を含む愛知以西を広範囲に言っているようです。
でも、このシリーズでは、大阪、京都を中心に調べていきたいと思います。


映画 「清須会議」

2013年11月15日 12時06分50秒 | 映画・社会

映画「清須会議」を見てきました。

”清須”には違和感があり、”清州”ではないかと不思議に思っていたのですが・・・・
昔から、清州と清須は混同して使われていたようです。

2005年に西枇杷島町と新川町と清州町が合併して、清須市が誕生しました。
この時、清州市にしなかったのは、清州町に吸収合併されたような印象を残したくないということで、清須市にしたとも云われています。

東海道本線の駅も学校も今なお、清州なのです。
今でも清須市には、清州駅があり、清州城があり、清州小学校、清州中学校があります。
どちらでも良いようですが、どちらも本によってバラバラに載っており、紛らわく統一出来ないものなのでしょうか?

 

さて、映画「清須会議」ですが、三谷幸喜原作、脚本、監督ということで、史実とどれだけ逸脱したコメデイになったのかを楽しみにしていたのですが・・・・

歴史上有名な会議だけに、結果は兎も角、その経緯については、本当のところの史実は分かりません。
その分からないところを、コミカルに、多分こうだろうと言うことで、映画は進みます。

日本史上初めての会議といわれ、それが歴史を動かしたとも云われています。
本能寺の変で織田信長、信忠親子が、明智光秀に討たれ、跡を継ぐのを誰にするのか、それと領地の再配分をどうするかが議題の会議でした。

後見に名乗りを上げたのは、筆頭家老の柴田勝家(役所広司)と仇を討った羽柴秀吉(大泉洋)でした。
勝家は、武勇に秀で且つ聡明な信長の三男信孝(坂東己之助)を、秀吉は、次男であるが大うつけの信雄(妻夫木聡)を後継者として推します。

ここに勝家と秀吉が思いを寄せるお市(鈴木京香)が絡みますが、そのお市は、夫や息子を殺された秀吉への恨みから、勝家に嫁ぐ決心をします。

秀吉は、信雄では勝ち目がないと考え、そこで信忠の長男、信長の孫である三法師を、正当な後継者として推します。

会議には、勝家、秀吉の他に、勝家の盟友の丹羽長秀(小日向文世)、それに会議に遅れて来ない滝川一益(阿南健治)の代わりに野心家の池田恒興(佐藤浩市)の4名。

ここで、一進一退の駆け引き、騙し欺かれ、取り巻く人の思惑が絡み合い、会議は進行します。

  

この映画では、最後に秀吉が勝家を見送り、その際に恩を売ります。
秀吉の狡猾さと勝家のお人よしさが表れており、
それが、これからの歴史を変えるのですが・・・・・

この会議の議題の一つに領土の再配分があったのですが、この映画ではそれがありません。
この領土の再配分にこそ、後継者を決める決めての一つであり、秀吉の巧みな思惑があったのですが・・・・

ちなみに、領土再配分は、次のように決まったとされています。
秀吉が勝家を懐柔したのには、勝家の領地の越前国は雪で閉ざされた期間がながく、近江に出たい思いがあり、そこを見越して、秀吉の領地である長浜と北近江3郡を勝家に与えました。
これが勝家を喜ばせました。

秀吉自身は、山城国を、三法師の後見人としての信孝には美濃国を領し、岐阜城に入り信雄は尾張を領し、清州城に入りました。

これらすべてとは言いませんが、秀吉の天下取りの布石となったのに違いないのですが・・・・ 


ディズニー - エレクトリカルパレード・ドリームライツ

2013年11月14日 16時43分15秒 | 独り言・社会・ニュース

10月31日~に訪れたディズニーリゾートで行われているパレードの一つ、エレクトリカルパレードをご紹介します。
いわゆる、ナイターのパレードで、電球、光ファイバー、発光ダイオート、等を用いて装飾したフロートに乗った出演者の踊りやパフオーマンスを行いながら進む夜間パレードです。

東京ディズニーでのエレクトリカルパレードは、1985年3月9日に開催されたのが始めで、当時は「光の中で夢見ませんか!」というキャッチフレーズで先頭から最後尾まで900mあり、100万個のライトで彩られた33台のフロートが使用されました。

当時の日本人の感覚からすれば、パレードは昼のものと認識されていたのですが、それが覆されました。

東京ディズニーランドでは1985年からですが、カリフオルニア・ディズニーランドで1972年が、初めてでその後、ウォルトディズニー・ワールドでは1977年から、またディズニーランド・パリでは1992年から開催されていたのですが、現在は、カリフォルニア・アドベンチャーと東京ディズニーランドのみでしか開催されていないそうです。


 エレクトリカルパレード


  

  

 


日本の城 もう一つの名前 ⑭ -郡上八幡城=積翠城=

2013年11月12日 19時20分35秒 | 城郭への展望

別名は、積翠城、または虞城とも云われています

青々とした空に山にある城と言うことから積翠城と言われているのではと推測出来のですが・・・・
虞城とは、はっきり分かりません。
虞は、畏怖する意味であり、また虞城とは中国の河南省にある地名であるのですが、なぜそのように言われるのでしょうか?

  

2008年11月に訪れた郡上八幡城は、紅葉がすばらしく、今年も多分、これから紅葉がすばらしいものでしょう。

山内一豊の妻、千代の故郷でもあるこの郡上八幡城は、永禄2年(1559年)に、鎌倉幕府以来の名門 東家の血を引く初代の城主遠藤盛数が築城しました。

 

現在の天守は、大垣城を参考に昭和8年(1933年)に模擬天守として全国的に珍しい木造で造られたものです。

郡上おどりは、郡上八幡で開催される伝統的な盆おどりで、日本三大盆踊りの一つです。
秋田の西馬内の盆踊りと阿波踊りとここ郡上おどりが日本三大踊りと言われています。

この踊りは、諸説ありますが、江戸中期、藩主の青山氏の時代(1758~)に百姓一揆(宝暦騒動)後、四民融和を計るため奨励されたのが発祥の元だそうです。



城自体は、小規模だが、城下から眺める城、そして城から見下す城下のたたずまいは、大変美しく、素晴らしいものでした。